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多種多彩な中国ドラマと 多種多彩な「お楽しみの流儀」

一口に「中国ドラマ」と言っても多種多彩だ。そして、日本人としての「お楽しみの流儀」も多種多彩であるようだ。ドラマの世界にどっぷり浸って満足する人もいれば、歴史を調べたり、さらに「ドラマの世界をもっとよく理解したい」と思って中国語の勉強に力を入れ始めた人もいる。それぞれが「自分流」で楽しんでいる状況だ。

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25年以上中国映画・ドラマの配給に 携わる「華流」のプロフェッショナル【株式会社フォーカスピクチャーズ代表取締役・仲偉江氏インタビュー】

 1989年に日本へ留学し経済学を学んだ仲氏は、日本に残りコンピュータ関係の上場企業に就職してマーケティング関連業務を担当した。90年代に入り、日本市場で取り扱われる中国映画の数が非常に少ないことに気づいた仲氏は、市場参入の可能性を感じ、社内で配給など関連業務の立ち上げを提案した。

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華流の繋ぎ手-中国語字幕 翻訳家の見る中国ドラマ・映画とは?【中国語字幕翻訳家・水野衛子氏インタビュー】

『活きる』『初恋のきた道』『妻への家路』など数多くのチャン・イーモウ監督作品をはじめ、最近では『THE CROSSING~香港と大陸をまたぐ少女~』や『薬の神じゃない!』、『白蛇:縁起』といった話題作を翻訳されている字幕翻訳家の水野衛子先生。監督との交流や中国映画・ドラマ、字幕についてたっぷりお話をうかがった。

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<日中100人 生の声>人間到る処青山有り―高島正人 元『地球の歩き方』プロデューサー

会社がなくなった。 2020年11月16日15時、『地球の歩き方』を制作、発行していたダイヤモンド・ビッグ社は事業譲渡を発表、同年12月をもって社員全員を解雇し、清算することとなった。 第一報は出先の武蔵浦和駅で受けたメールだった。「【重要】社員説明会の開催について」と題されたメールには「15時より大会議室にて、当社の重要事項に関する社員説明会を開催いたします」と簡素な文章が綴られていた。15時まであと4分という間際の時間に送られてきたこのメールを見た瞬間、わたしは「潰れたか、売られたか」と直感した。 思い起こせば、2020年の1月下旬に、『地球の歩き方D08チベット』の打ち合わせを行って取材航空券を押さえたものの、現地観光局がすべての観光事業の停止を決定、都市間の移動制限や施設の閉鎖を発表したことを受けてキャンセル。『D08チベット』改訂版の発行は見送りとなった。続いて、既に制作を始めていた『D01中国』の改訂も延期。数日内には中国関連の歩き方すべての発行を無期延期とする会社の判断が下された。 同年3月にモンゴルとミャンマーの改訂作業を終えたわたしは、担当する中国全土と、ここ10年以上政情不安定で塩漬けになっているパキスタンを含めてすべてのガイドブック改訂業務を失ったため、4月に編集部から編集部付けの管理部門へと異動になった。編集部全体を改組せずわたしだけを外したのは、会社はまだこのときダメなのは中国だけで、それ以外のエリアへの渡航までがすべて不可能になるとは考えていなかったからだろう。しかしその見立ては甘く、先進国と呼ばれる国々が思いのほか感染症に脆いことがはっきりしたときには、もう出版部門全体の売上は激減し、毎年改訂を重ねていくために必要な取材へ出ることもできなくなっていた。 再販制度に守られる出版業界は、本を取次に預ければ、預けた時点で現金が入ってくる仕組みになっている。売れずに戻ってきたら返金するにせよ、本を刷り続けてさえいれば当面の現金は入ってくる。この業界が自転車操業と言われる所以だが、取材に行けず改訂版を出せないとなると、ペダルを漕ごうにも漕ぐ自転車が存在しない。現金がショートすれば即倒産なので、そうなる前に買い手を見つけて売ったのだ。 売られてしまったものは致し方ない。これまでビッグ社を支えてくださっていた外部スタッフのみなさんに対する申し訳ないという思いはあるものの、自分自身はもう隠居でいいと思った。落語に出てくる長屋のご隠居、あれいいじゃないの。根が楽観的で助かった。 ただ、このときのわたしには、簡単に手を離すわけにはいかない請負仕事が残っていた。北海道の人気旅番組をガイドブック風に編み直した小冊子を2冊作る約束で動いていたのだ。1冊目が出たところで会社がなくなり、事業の買い取り先である新会社に2冊目をやる気があるのかないのか判然としないため、不透明になってしまったのだ。コラボ先には迷惑をかけたくない。滞りなく出してから手を離さないと寝覚めが悪い。わたしは新会社の「新入社員」募集の場へ赴き、2冊目の面倒を見させてほしいと依頼した。結果、業務委託として無事に納品を済ませることができた。意を汲んで関わらせてくれた関係者のみなさまには、この場を借りて感謝を申し上げたい。 このように、中国をきっかけとして自らを取り巻く環境が一変したのは、わたしが初めて中国の地を踏んだ1995年からちょうど25年目だった。その当時は25年にわたってなんらかの形で関わるとは思っていなかったたわけで、縁を感じざるを得ない。これからもおそらく関わりは続くだろう。そのとおり今も、以前より親交のあったイベント運営事務局からはポストコロナを睨んだ中国大陸での日中文化交流イベントの、中国からのインバウンド旅行をおもに手がけていた会社の社長からはオンラインによる越境医療サービスやツアー造成の、それぞれお手伝いをするお話しをいただいて関わりが続いている。 並行して、かつてガイドブック制作でお世話になった編集プロダクションさんからは新しく立ち上げるウェブ事業、フリーペーパーを作り続けている友人からは誌面の校正、とあるイベント会場で会った広告会社の社長からは自社の営業や進行管理、制作全般となぜかポップコーンの移動販売、さらに今話題のワクチン接種について集団接種会場の運営――とそれぞれのお手伝いをさせていただき、就職活動も合わせてなかなか多岐にわたる日々を送るようになった。 無職になったら長らく積んでいた本でも読んで、久しぶりにギターでも触って、親の実家の片付けでもしながら、昨年秋に颯爽と登場した孫と戯れつつのんびり過ごすものと思っていたのだが、むしろ自分のことに割く時間はほとんどない。 会社がなくなったときには、定年まであと数年を残して急にリタイアが前倒しになった気分だったが、実際にはそうでもなかった。今は、お声掛けをいただける間、それをありがたく受け取って、もう少しこの地での「出稼ぎ」を続けようという気持ちでいる。 環境に言うことはない。何ができるか、何をするか、ただそれだけなのだ。 ※本記事は、『和華』第31号「日中100人 生の声」から転載したものです。また掲載内容は発刊当時のものとなります。 ■筆者プロフィール:高島正人(たかしままさと) 元『地球の歩き方』プロデューサー。1964年、大阪生まれ。1987年株式会社ダイヤモンド・ビッグ社大阪支社に入社、1997年東京本社へ異動、『地球の歩き方』編集部に配属。2020年12月31日をもって離職。2021年7月現在、ワクチン接種の予約が取れないまま人生2回目の東京オリンピック・パラリンピック(初回記憶なし)を傍観中。

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<日中100人 生の声>分断の時代に自分の力で世界を思い描く―竹田武史 写真家

新型コロナウイルス感染症が世界中にまん延して、もうすぐ2年が経とうとしています。その間、私たちの暮らしで大きく変化したことといえば、マスク越しにしか人と会話しなくなった、海外旅行へ行けなくなった、楽しみにしていた盆や正月の里帰りすら億劫になった…。コロナ禍の行動制限によって変わってしまった生活習慣や生活様式を挙げれば、きりがありません。ですが今、私が強く感じているのは、ウイルスと共に世の中にまん延しつつある、すべてを〝分断〟しようとする力そのものについてです。コロナ禍がもたらしたこの奇妙な現象を薄気味悪く感じているのは、きっと私だけではないでしょう。 思えば、この謎のウイルスへの対応を巡っては、火事場の対立が余りに目立ちました。ダイヤモンド・プリンセス号の乗客への対応、PCR検査の拡充、全国小学校の休校措置、緊急事態宣言の発令など、すべての施策に賛否両論、さまざまな意見が飛び交いました。今年に入ってからは、政府と一部の利権者たちが、ごり押しで東京オリンピック・パラリンピック開催に漕ぎつけようとしたために、「緊急事態宣言」と「まん延防止等重点措置」の連発、休業補償、ワクチン接種のあり方を巡っても様々な対立が生じました。政府の場当たり的な対応が、今まで明るみに出なかったいびつな社会構造を浮き彫りにし、異なる境遇、価値観に生きる人々の対立をかえって煽る結果となってしまっているようです。 ところで、私は東京在住の写真家です。ライフワークとして中国への旅を20年以上続けてきました。そんな私が、昨年以来のコロナ禍で最も思い悩んだこと、それは中国との関係を今後どうするか、という問題でした。都市封鎖された武漢市の病院から送られてくる生々しいニュース映像を初めて目にしたのは、昨年1月に中国・杭州市での撮影取材から帰国した1週間後のことでした。その直後には、謎のウイルスの危険性をSNS上で注意喚起しようとした医師・李文亮さんがクローズアップされました。政府当局者たちが李さんを処分し、隠蔽している間にウイルスはどんどん広まり、李さん本人も感染し、亡くなられたとのことでした。中国政府はいつまでたってもWHOの現地査察を受け入れず、ウイルスに関する情報を提供しませんでした。中国の一部の人たちが防疫対策と世界との協調を怠ったために世界中にウイルスがまん延してしまった、というのが一連の報道から私が理解したことでした。 いったい、なんという傲慢な国だろう…。私は、こんな国に、これまで20年以上も魅了され、夢を追い続けてきたのかと思うと、とても悲しく、恥ずかしい気持ちになりました。もちろん、中国という国のあり様が、日本や欧米諸国と大きく異なることは肌身で感じてきましたが、20年以上も付き合っていると、どちらが良い悪いとは、そう簡単には結論できなくなるものです。とりわけ近年、世界を席巻する新自由主義的な政治・経済のあり方に憂鬱を感じていた私は、曲がりなりにも共産主義思想に基づく政策が実施されていて、地方へ行けばアジア的共同体ともいえる営みがまだまだ健在する中国のような国に、学ぶべきこと、一緒に取り組めることは多々あると考えていたほどでした。ところが、今回のコロナ禍を巡る一連の報道は、これまでの中国への憧憬と親しみをいっきに失望へと変えました。日本人として、これ以上、中国に深く関わることはできない。私的な未練は残しても、社会人としてけじめをつけなければならない。当初、私はそこまで思い詰めていました。 夏頃まで仕事は完全にストップしていて、その間はテレビやネットで情報を収集し、親しい友人たちとも情報交換をしながら、自分なりに今後の対応策を真剣に考えている〝つもり〟でいました。ところが、しばらく経つと、テレビやネットに溢れる断片的な情報にはどこかリアリティが欠如していると感じるようになりました。謎のウイルスについても、専門家と呼ばれる人たちは、実は何も確かなことは分かっていないらしく、結局のところ、おしゃべり好きな人たちが、場当たり的に適当なことをしゃべり続けているとしか思えません。そのような情報から何かを判断し、自分の意思を持つことなどできるはずがありません。以来、テレビやネットで情報収集するのをきっぱりと止めることにしました。 では、自分にとってよりリアルな真実の世界とは…。そう考えた時、これまで20年以上、自分の足で歩き、身体で感じてきた中国に思いを馳せました。そして、次の日から、これまで撮り続けてきた中国の旅の写真の整理を始めました。一枚、一枚の写真と静かに向き合っていると、山や川や田畑や市場の匂い、出会った人たちとの会話、食べ物の味、当時考えていたことまでが鮮明に蘇ってきました。そこには、私自身が体験した、ありのままの中国が息づいていました。どうやら私は、謎のウイルスへの恐怖から平常心を失い、情報の洪水に押し流されて、自分の力で世界を思い描くことをすっかり忘れてしまっていたようです。これでは写真家=真実を写し出す者として失格です…。私は自分を深く反省することで、ようやく心の落ち着きを取り戻しました。 そして今冬、初めてのモノクローム写真作品集『長江六千三百公里をゆく』が完成します。目に見えないウイルスへの恐怖と、情報の洪水によって、人と人、国と国との〝分断〟が加速する時代に、一石を投じることができれば幸いです。2021年12月に発売した写真作品集 ※本記事は、『和華』第31号「日中100人 生の声」から転載したものです。また掲載内容は発刊当時のものとなります。 ■筆者プロフィール:竹田武史(たけだたけし) 写真家。1974年、京都生まれ。1996年に初訪中。翌年から5年間、日中共同研究プロジェクト「長江文明の探求」(国際日本文化研究センター主催)の記録カメラマンとして中国各地を取材。以来、20年以上にわたり中国各地の生活文化を記録する。『大長江~アジアの原風景を求めて』『茶馬古道~中国のティーロードを訪ねて』など著書多数。

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<日中100人 生の声>芸術の力で人々の心を結ぶ―何慧群 東京華楽坊芸術学校校長

私たち東京華楽坊芸術学校は、主に音楽や絵画の教室運営・イベント運営を行っています。東京近郊にある7つの教室でレッスンを行っていますが、これは華僑華人の生徒さんにとっては、ルーツである中国の文化を勉強する学び舎であり、日本人の方にとっても中国文化を知る場となっています。ただ、教室の全ては、人と人が対面してこそ成り立つもので、コロナ禍は、「波乱万丈」そのものでした。 2020年1月の児童春節イべントを終えて、2月になるとコロナの問題が日本でも深刻になってきたため、3月から5月はやむを得ずレッスンを全面休講としました。レッスン料は無条件で全額返金して、教室に来られない生徒さんや、レッスンに興味を持っている方達のために、無料オンライン授業を全90回実施しました。この期間は授業収入がない状態で、教室の家賃だけが発生しており、事務スタッフの給料も支払わなければなりませんでした。困窮の末に、もともと2フロアだった大久保教室を1フロア減らすほど…。この引越し作業は全て自分たちで行いました。手狭にはなってしまいましたが、スタッフたちが本当によく頑張ってくれたことに加えて、日本政府による補助金が利用できたことに救われました。 さて、既存教室を縮小するのは非常に苦しかったのですが、私たちはこのピンチの中でチャンスを見出そうとしました。コロナ禍の流れに「逆行」するようですが、6、7月に西川口・船橋で新しい教室を開こうと考えたのです。というのも、以前から物件を探していた場所で、普段では考えられないような費用で手に入れることができたため、1箇所縮小した分で、違うエリアでの認知度向上を図れると考え「運命に負けるな」と自分に言い聞かせ、この賭けに出ました。 同時期に全教室でレッスンが再開すると、やはりオンラインより対面で空気感や細かい部分が伝わる対面レッスンが好まれ、検温、手指消毒、全員マスク着用を徹底してレッスンを続けることになりました。 コロナ禍で最も異例だったのは中国中央音楽院の音楽検定試験の開催でした。その名の通り、中国・西洋楽器の学習者のレベルアップを図るもので、合格者は中央音楽院への入学が有利になる制度もあります。この日本地区の検定を年1回、私たち東京華楽坊芸術学校で運営しています。今年で第3回目でしたが、例年なら教授が審査のために来日して、直接受験者を見ていたところ、今年はそれが叶わず、試験会場の様子をオンライン中継して審査するというハイブリット形式になりました。そのため私たちは通常の会場運営に加え、手探りで感染対策、中国への配信を実施したのです。初めての形式に備え、事前にオンライン説明会を行ったため、なんとか成功させることができました。福岡会場は参加者1人のために、私ともう1人のスタッフが赴いて開催しました。約束を守ることによって、信頼感を得ることができ、いずれ必ず参加者が増えることを信じています。 また、2021年1月30日には、日本初の華僑華人系オーケストラ「多元交響楽団」の新年音楽会を実施しました。これはコロナ問題が現れる前から準備を進めていました。どんなに苦しい時期でも諦めず、言葉がなくても心に伝わる音楽のちからで、みんなが明るくなれるようなことをしたかったからです。メンバーは、華楽坊の講師を含む20数名の中国人と、日本人30名、韓国系の方もいて非常に多国籍なオーケストラとなりました。 オンライン配信も行いましたが、会場では集客よりも来てくれた方の安全を優先し、感染対策として、まだ普及していなかった自動検温機を入口用に2台購入しました。本番ではクラシックの定番曲や中国の曲を演奏しました。会場席数に対し来場者は半分ほどでしたが、中には日本人の方も多く、終演後には、コロナ禍で開催したことを労い、大勢のお客様の中から賛助会員として支援したいという方が現れ、とてもありがたかったです。イベント会場で徹底した感染防止対策を実施 その後は、音楽発表会、ダンス発表会も開催しました。こちらも会場は人数制限を行う代わりに、オンライン配信を行いました。ギリギリまで開催できるかわからなかった中、スタッフ一丸となって準備を進め、子どもたちの1年の練習の成果を披露して成長を実感する時間を作ることができました。子ども時代の1年は大人以上に長く感じられるものです。この逆境の中、どうにか健やかに育ってほしいと願っています。 それからコロナ禍での新しい取り組みとして、子ども向けの新聞をスタートしました。ネットが主流となった時代ですが、「温度感があるものを伝えたい」という思いから、印刷して紙面を作成することにしました。日本の主要な新聞には殆ど子ども向け版が存在しますが、華人華僑向けのものは他に例がなく、月1回発行で16ページにわたり、ニュース・自然・動物・芸術・子どもたちによる文章や絵・受験・保護者向けの情報など、私たちならではの内容を掲載しています。 ただ、やはり開催できなかったイベントも多く、特に国と国を行き来しての交流はやはり難しかったため、いくつも中止に追い込まれました。コロナ後には必ずまたこれらに取り組み、併せて講師たちの交流会も実施したいと考えています。 コロナに限らず辛いことも沢山ありますが、生徒や保護者の皆さん、スタッフや講師、応援してくださる方のことを思えば踏ん張ることができます。「笑っても笑わなくても人生、ならば笑って過ごしたい」と常に思って、これからもどんな困難があっても経営者としての責任を持って乗り越えてゆきます。 ※本記事は、『和華』第31号「日中100人 生の声」から転載したものです。また掲載内容は発刊当時のものとなります。 ■筆者プロフィール:何慧群(かえいぐん) 東京華楽坊芸術学校校長、チャイナリニア株式会社代表取締役。中国江西省九江市出身、2006年日本に留学し、早稲田大学大学院スポーツ研究科健康スポーツ専攻修士を卒業。2013 年にチャイナリニア株式会社を発足し、中国楽器や華僑児童向けの東京華楽坊芸術学校を設立。児童向けの新聞『少年華僑報』 社長、江西省日本商工会議所副会長、日中文化旅行促進協会会長、東京多元交響楽団運営総監督等を兼任。「華僑が心を寄せ、芸で知恵を合わせ、徳で人を育てる」という理念のもと、両国の文化活動に取り組んでいる。

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世代を超えて日中交流を語り合う 『和華』32号出版記念セミナー実施報告

3月5日、多元文化会館にて『和華』32号出版記念セミナーが開催された。日中文化交流誌『和華』は2013年に一留学生によって創刊された、日本と中国の文化的結びつきを紹介しながら両国の民間交流を促進する雑誌で、毎号ひとつのテーマを掘り下げて日中文化の魅力を再発見する。第32号では国交正常化50周年を記念して「知られざる日中交流の物語」を特集した。本セミナーはその出版記念セミナーとして開催された。 本セミナーは「日中これまでの歩みと今後の展望」をテーマに、第1部が特別講演、第2部がディスカッションの二部構成で、オンライン・オフライン両方で行われた。第1部では日中友好団体、関係団体の取り組みを紹介した32号特集の中でインタビューが掲載された、中国研究所会長・田中哲二氏と日中協会理事長・瀬野清水氏の特別講演が行われた。第2部では日中学生会議第41期委員長の今井美佑さんと一般財団法人日本アジア共同体文化協力機構の磯尚太郎さんが若者代表として登壇し、第1部講演者の田中氏、瀬野氏と共にディスカッションを行った。 田中氏は「日中文化・経済交流の歩みと今後の展望」と題し、日中国交正常化前後からの経済交流の歴史を振り返り、また1956年の京劇俳優・梅蘭芳来日の際に直接公演を見たこと、1972年の上野動物園にパンダ2頭が寄贈されたことなど、自身の記憶もまじえて文化交流の歴史についても紹介した。また周恩来元総理の存在の大きさと「日中関係の未来は深く歴史を学び相手の立場を理解できる若者の数とその双肩に懸かっている」という言葉を紹介し、今後の日中関係にはジェネラリストの育成や日中間の情報を的確に客観化できる能力の育成がよりいっそう求められること、日中交流を志す者は同時に真正の国際人でなければならないと、会場の若者に力強くメッセージを伝えた。 瀬野氏は「日中民間交流と国交正常化の歩み」と題し、通算25年間中国に駐在した外交官の経験を惜しみなく披露し、1943年のカイロ宣言から日中国交正常化の歩みを概観した。また1954年に当時の周恩来総理とインドのネルー首相との会談で核にされ日中共同声明でも謳われた外交原則「平和五原則」や1972年の日中共同声明で合意された「復交三原則」をわかりやすく解説し、日中国交正常化が大勢の人々の命がけとも言える苦労の末に実現したことを改めて認識してさらに今後の50年、100年へとグレードをあげて発展させていかなければ日本は進むべき道を誤るのではないかと話した。そして今後の日中関係は、共通の目的を目指して同じ方向を向いて共に努力することが大切だと締めくくった。 第2部は孫ぐらいに年の離れた若者二人が加わり、世代を超えて日中交流について話し合った。共に留学経験がある今井さんと磯さんは、それぞれの経験をもとに現代の日中交流について考えを述べた。今井さんは最初の頃はアニメなどの影響で日本人というだけで仲良くしてくれると思っていたが、交流を通じてやはりより深く知るためには相手を理解する必要があると感じるようになったという。磯さんは、現代はネットを通じて多くの情報に触れることができ、現地と同じリアリティを感じることができるようになった反面、たとえば中国語を学ぶなどして積極的に情報収集をしていくまでの壁が意外と高いのではないかと話した。 一方田中氏と瀬野氏は、情報量は膨大になっているが、それを選別するセンスを磨く必要があるのではないかということ、また等身大の中国を理解するためにはネットに勧められるままに記事を見るのではなく、正しい情報を見極める力が必要であると述べた。 これからの青少年の日中交流について、若者二人はお互いの違いを理解した上で共通点を見出すこと、多様性に富む中国を一括りで捉えるのではなく、ひとりひとりに目を向けた交流が大切ではないかと話した。田中氏は長年の経験を踏まえ、専門家としてのアプローチだけではなく、客観的に全体像を把握するジェネラリストを育てる必要があること、瀬野氏は平和五原則にある「平等互恵」は「平等互敬」、つまりお互いが違いを尊重しながら敬い合うことが大切であると話した。 最後は、コロナがあけたらぜひ直接中国を訪れて普通の人々と触れ合ってほしい、中国の古典に触れて中国の価値観を学んでほしい、など若者への期待が伝えられたのに応え、若者二人が抽象と具体を行き来しながら旅をして人に会っていきたい、いいときも悪いときも中国との交流を続け、接点を持つ場を作っていきたいと意欲を述べた。会場は満席で、セミナー終了後も登壇者とだけでなく参加者同士も活発に交流する様子が見られた。

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<日中100人 生の声>コロナ禍が教えてくれたもの―瀬野清水 日中協会理事長

コロナ禍での開催を巡り日本の世論を大きく分けた2020東京オリンピックは予定通り開催された。東京では緊急事態宣言下という異例ずくめの幕開けになったが、開会式には世界205カ国・地域、団体から1万1000人が参加した。史上最多となる33競技339種目にゴールドメダリストが誕生することになる。大多数の会場は無観客競技となったが、それでも開会式の視聴率が56.4%と1964年の東京大会に次ぐ高さを記録したという。大手メディアにはオリンピック開催に強く反対したところもあったようだが、いざ始まってみると興奮と感動が日本列島を覆うようになった。お祭り騒ぎの気のゆるみとデルタ株という変異ウイルスの出現からか、コロナの感染者数も国内で1日1万人を超える最多記録を更新した。2021年7月末現在、世界ではコロナの感染者が2億人を超え、400万人以上が死亡している中でのオリンピック開催だった。 この感染の広がりは14世紀のヨーロッパを襲ったペストの流行やちょうど100年前のスペイン風邪のパンデミックを想起させる。ペストの流行はその後、教会の権威を失墜させ、人間の存在こそが最大の価値と考えるルネサンス運動がイタリアを中心に沸き起こった。スペイン風邪もその収束とともに、人々は個人の生命と自由を守るには国家の安全こそ最重要と考えるようになり、多くの国は軍事力と経済力の強化に取り組むようになった。そして軍事力競争の結果、人類は地球を何百回も破壊し尽くせるほどの核兵器を保有するに至り、恐怖の均衡の上に平和が築かれる世界が出現した。経済力の競争は、世界の上位26人が下位38億人分の富を保有し、富裕層があと0.5%でも多くの税金を払えば貧困問題は解決するとまでいわれるほどの欲望の拡大と富の偏在をもたらしている。武漢応援ブースに掲げられた幕 21世紀に入り、通信技術や人の移動手段が長足の進歩を遂げた結果、新型コロナウイルス感染症の蔓延は、人々に否応なく人類は運命共同体の中で生きているという事実を教えてくれた。仮に一国でゼロコロナを実現させたとしても、周辺の国々にコロナが蔓延していては、到底安心安全とは言えないからだ。人類が運命共同体の中で生きているとして、その構成員は何をなすべきであろうか。私には、新たな時代には新たな形態の競争が始まるべきことを今回のコロナ禍が教えてくれているように思われてならない。新たな競争とは、経済力と軍事力ではなく、欲望をコントロールし自他ともの幸福を築く競争であり、利己ではなく、利他の競争であり、悪意と敵意ではなく、善意と人道の競争である。 今回のコロナ禍は、中国の武漢を中心に急激な感染が広がり、マスクや防護服が不足し始めたと聞きつけた日本人が「武漢頑張れ!」の声援とともにマスクを贈ったり募金を始めたりした。逆に、中国が落ち着きを見せ、日本にマスクが足りなくなると、中国から大量のマスクが贈られて来るようになった。武漢 中国頑張れ」と書かれた募金箱 私は2020年の2月、池袋西口公園の野外劇場グローバルリングにて、多文化共生社会の理解を深めるために太陰暦の最初の満月を共に祝う趣旨で開催された「満月祭」に行った。そこで赤いチャイナドレスの少女が募金活動をしている様子を見かけた。私はてっきり中国の人だろうと思いながら声を掛けると、なんとその子は日本の中学生だった。中国に留学経験のある日本人の母親の後ろ姿を見ながら育った少女は、母親が作ったチャイナドレスを身にまとい、募金をしてくれた人に深々と頭を下げていたのだ。肌寒い北風の中を朝から日が暮れるまで、誰にいわれた訳でもなく、ただ中国のために自分にできる何かをしたいとの思いだけで、道行く人に90度のお辞儀をしている姿は感動的でさえあった。人道の競争というのはこういうことではないだろうか。 日中両国の友好団体がお互いに救済物資を寄贈 他人の痛みを対岸の火事と見て同情するのはたやすいが、今、目の前で起きていることを自分ごととして行動を起こすには、急にハードルが高くなる。大きな勇気を必要とするが故に、それを見る人にも共感と感動を与えるのであろう。 オリンピック選手の活躍に、それまで開催に反対していた人までが感動の渦に巻き込まれているのに似ている。かつて映画俳優の高倉健さんが山田洋次監督に「芸術というものは、どういったものと思われますか」と質問したエピソードが残っている。山田監督は「それに接した人が、自分も自分の世界で頑張らなきゃいけないと、励まされるようなもの」と答えている(『高倉健インタヴューズ』野地秩嘉著、小学館、2016年)。説得でも強制でもない。「それに接した人が、自分も自分の世界で頑張らなきゃいけないと、励まされるようなもの」は芸術・文化の世界に限るまい。オリンピックで活躍する選手の姿も、赤いチャイナドレスの少女も、スポーツや人道の世界には、それに接する人の魂を鼓舞し、感動と共鳴の連鎖反応を生み出す力があるのだと思う。 ポストコロナの時代は、米中両大国の間でも競争と協力が並行する時代といわれている。協力は素晴らしいが、競争は軍事力ではなく善意と人道の競争であってほしい。コロナ禍で肉親にさえも看取られる事なく死んでいった幾百万の感染者の死を無駄にしないためにも。 ※本記事は、『和華』第31号「日中100人 生の声」から転載したものです。また掲載内容は発刊当時のものとなります。 ■筆者プロフィール:瀬野清水(せのきよみ) (一社)日中協会理事長、成渝日本経済文化交流協会顧問。1949年、長崎県生まれ。元在重慶日本国総領事。1975年、外務省に入省。北京、上海、広州等、中国の大使館、総領事館で通算25年在勤。2012年、退職後、(独法)中小機構国際化支援アドバイザー、大阪電気通信大学客員教授、(一財)MarchingJ財団事務局長等を歴任。