内モンゴルの山に刻まれた大量の岩絵―専門家が「なぜ、それほど貴重なのか」を解説
中国・内モンゴル自治区の陰山山脈で岩に描かれた大量の絵、すなわち岩絵が発見されたのは1976年だった。当時の人々は岩絵にどのような思いを託したのか、岩絵の研究を通じて何が分かってきたのか。内モンゴル文物考古研究院の盖之庸副院長はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、陰山山脈の岩絵や研究状況などについて解説した。以下は、盖副院長の言葉に若干の説明内容を追加して再構成したものだ。
■岩絵とは、全人類にとって最大規模の文化遺産
岩絵とは古代人が岩を刻んだり彩色して作った絵だ。世界中に広く分布しており、その意味で世界最大規模の文化遺産と言える。中国の岩絵は多くが国境近くで見つかっている。北魏時代(西暦386-534年)に著された「水経注」には岩絵についての記述がある。つまり中国は岩絵を扱った最も古い文献記録のある国だ。
近代になると多くの国で岩絵の研究が盛んになった。しかし当時の中国は国力が衰えたこともあり、岩絵の研究はわずかに散発的に行われただけだった。
状況が一変したきっかけは1976年に陰山の岩絵が発見されたことだった。岩絵はおおむね内モンゴル自治区オラッド中旗やオラッド後旗、磴口県内の東西約300キロ、南北約70キロの地域に集中している(「旗」は内モンゴルなどで用いられる行政区画。「県」に相当。モンゴル語では「ホショー」)。描かれ始めたのは新石器時代初期で、制作は近代まで続いた。現在までに5万点あまりが見つかっている。
絵の題材には狩猟や乗馬、放牧、舞踊、戦争、呪術、さらに太陽や月や星、記号などもあり、点数の多さや内容の豊富さ、さらには描かれ続けた年月を考えれば、驚いてしまうばかりだ。
■そこは極めて多くの民族が存在した場所だった
人類は文字が発明されるまで、歌や唱え文句による口伝えで記録を残した。中国ではその後、甲骨文字が出現し、さらには金文、すなわち青銅器に刻まれた文字が残されることになった。しかしそれらは「記憶の断片」とでも言えるもので、そこから歴史の全貌を探ることは困難だ。岩絵は情報を補充するために実に適した素材だ。
陰山岩絵が存在するのは河套地区と呼ばれる地域だが、この地域では農耕文明と遊牧文明が入り交じって存在した。さらに、紀元前に存在した葷粥、土方、鬼方、林胡、楼煩、匈奴などに始まり、その後の鮮卑、突厥、ウイグル、タングート、契丹、モンゴルに至るまで、実に多くの民族が活動した地でもある。岩絵はこれらの民族が生存し発展していったことの生き証人だ。現在までに歴史学、考古学、芸術学、美学などさまざまな分野の専門家が陰山岩絵を研究してきた。出版された研究所は100点近く、論文は数千点に上る。
ただし、未解決の大きな問題がある。それは、岩絵が制作された正確な時代が分かっていないことと、絵の作者がどの民族に属するかが分からないことだ。この二大問題が解決できなければ、岩絵の学術的価値は大幅に低くなる。これまでに、一部の岩絵については考古学で用いられる類型学の手法を用いて描かれた時期を判断することができた。しかし時代的な特徴がはっきりとしない岩絵については、制作年代を知ることができない。一部の学者は先端科学の手法を用いて年代を特定しようとしているが、今も模索中の状況だ。
■研究と保護、どちらを優先するべきか
われわれがせねばならないのは、岩絵の研究と保護だ。そして、研究よりも保護する責任の方が大きい。岩絵を現状のままで後の世代に伝えることは、われわれの絶対的使命だ。
考慮せねばならないのは、自然による破壊と人的破壊の2種だ。岩絵とは長い人生を過ごしてきた老人のようなもので、少しでも傷つけてはならない。問題は岩絵がいずれも露天の状態であることで、風雨による浸食や気候変動はいずれも、岩絵の安全にとって大きな脅威だ。
喜ばしいことに、陰山岩絵は2006年に全国重点文物保護単位(文化財重点保護対象)に指定された。それ以来、保護の作業は大きな進歩を遂げた。当局は保護条例を制定し、法に基づきしっかりと管理できるようになった。岩絵が集中している場所には監視カメラが設置され、破壊行為を防止している。また、岩絵のデジタル化も進められている。人々の文化財保護の意識が強まるにつれ、陰山岩絵を最良の状態で未来に伝えていけると、十分に信じることができる。(翻訳:Record China)