浙江省で発見の「世界最古の米粒」の意義とは?―専門家が「何が起こったか」を解く
中国メディアの中国新聞社はこのほど、さまざまな専門家の解説を総合して、浙江省で見つかった「最古の米粒」を切り口に、農業の起源の研究は農業の範囲をはるかに超えた当時の社会を解明する意義を持つと紹介する記事を発表した。以下は、記事内容の主要部分に若干の説明内容を追加して再構成した文章だ。
■「くすんだ褐色の米1粒」が教えてくれること
北京市内にある中国国家博物館で2021年末に開催された特別展「稻·源·啓明——浙江上山文化考古」では、ある米粒が展示された。くすんだ褐色の米粒は、約1万年前に収獲された「世界最古の米粒」という。
重要なのは、この米粒が野生の稲の種子ではなく、人が栽培した稲から採れた米粒だったことだ。発見されたのは浙江省内の上山遺跡群だ。
遺跡が初めて調査されたのは2000年9月だった。最初に調査されたのは今から5300年前に始まり4000年前ごろまで続いた良渚文化に属する墓だった。調査チームは翌年、長さ11メートル、幅6メートルの3列の柱が並ぶさらに古い建物の基礎を発見した。そして、大量の石包丁や土器も見つかった。土器の生地には稲もみが練り込まれていた。放射性炭素による測定により、この上山文化が始まったのは、1万年ほど前と結論づけられた。
研究の結果、見つかったのは世界最古の彩色土器であり、建物は中国最古の村落のものと判断された。現地は世界最古の水稲栽培の地との結論が出された。発見された稲穂の軸は、野生の品種と人が栽培する品種の両方の特徴を持っていた。そのため、栽培されていた稲は品種選択の初期段階にあったと判断された。
■そして人は「酒」を飲み始めた
また発見された墓の近くで出土した土器の壺からは糊化したでん粉が検出された。しかも、そのでん粉からは、低温での発酵が進行していたことも分かった。
米スタンフォード大学の東アジア言語文化科の劉莉教授は、上山文化で発見された細口で胴部が膨らんだ壺に注目する。劉教授によると上山文化に属する橋頭遺跡で発見された土器から麹を作るのに使えるカビや酵母が発見された。劉教授はそのため、麹を使った酒づくりが始まったのは上山文化だと考えている。
現在の中国において酒は「社交の道具」として極めて重要だ。宗教の儀式でも酒は大いに使われる。上山文化における酒づくりには、現在まで連綿と続く中国の酒文化をも連想させられてしまう。
■人類が「穀物」を主食にした意義とは
世界の三大主食とされるのは、西アジア原産の大麦と小麦、中南米原産のトウモロコシ、東アジア原産の稲だ。世界規模で見て、穀物の栽培が始まったのは今から1万年ほど前だった。
穀物が重要なのは、1年あるいはそれ以上の長期保存ができることだ。それまで小さなグループごとの狩猟採集の生活していた人類は、食べ物を求めて流浪の生活をする必要がなくなった。定住して集団で農業を行うことで、世界のさまざまな場所で都市も発生した。
英国ロンドン大学大学院考古学院のドリアン・Q・フラー教授によると、世界20カ所で、作物の栽培がおこなわれた最も古い証拠が見つかった。長江デルタ南部の上山文化は、その一つという。
中国には上山文化を含め、約1万年前に人々が米を食べていたことが判明した遺跡が4カ所ある。しかし上山文化以外の遺跡で利用されていたの野生の稲で、人々は洞窟に住んでいた。上山文化こそは、人が最初に洞窟を出て平地において定住あるいは半定住生活を行い、稲を「作物」として利用した最先端の文化だった。
中国社会科学院考古研究所の趙志軍研究員は、上山文化では石製の鎌や脱穀のための石器、石斧、さらには土器などのさまざまな道具が使われていたと指摘する。人々は作付け、収獲、加工といった、各段階に分かれる仕事をこなすようになった。
そして稲作が波及した太湖地区では人口が大幅に増加して、大規模な水利建設も行われた。このことは、当時の社会が「目の前の食べ物」を得ることに直接寄与しない労働力を大量に使えるようになっていたことを物語る。
中国の北部では上山文化とほぼ同時期に粟(あわ)の栽培が始まっていた。しかし米づくりは粟に比べて、水の利用や管理が著しく複雑だ。社会組織もより複雑になる。そして水稲栽培は社会に「新たな食の方式」をもたらしただけでなく、宗教や世界観、さらには美術などさまざまな分野に大変化をもたらしたはずだ。この大変化をさらに詳しく知るために、研究せねばならないことは、まだまだ多いという。(翻訳:Record China)