東西問|趙琛 なぜ「長城の両側が故郷」なのか

2022年10月31日 出典:中国新聞網

執筆者 趙琛(ジャオ・チェン)中国長城研究院院長、中国東北大学教授

人類史上最も古く最も巨大な建造物で、中国に現存する規模が最も大きく最も広く分布する世界遺産として長城は、2000年以上、縦横に10万里(50,000キロ)にわたり、広範で奥深い文化的内包と時空を超えた精神的価値を形成した。長城は、中華民族の精神の絶えることのない根源として、中華民族の多元的一体構造の形成と発展の促進、世界文明の進歩の過程においてかけがえのない重要な役割を果たした。

なぜ、「長城の両側が故郷」と言われるのか。なぜ、長城が中華民族の共同創造の産物なのか。なぜ、長城が中華民族の多元一体化と統一の象徴になったのか。新しい時代に再び長城に焦点を当て、長城に文化的な新たな意味合いを持たせることは、非常に重要で特別な意味がある。

「万里の長城」の概念

長城は、中国の歴史上それぞれの王朝により呼び方が異なる。西周では列城、春秋戦国時代の楚では方城、斉では長城、戦国時代は塹、漢と唐では塞、金では界壕、元ではチンギス・ハーン辺牆、明では辺牆と呼ばれた。

中国の歴史上秦、漢、明代の3回にわたって万里の長城が建設された。秦と漢の間には88年、漢と明の間には1575年の隔たりがある。

秦による中国統一後、国内で孤立していた長城を放棄し、秦、趙、燕の北の国境に沿った長城が連結、延長、修復された。これにより初めて西の臨洮から東の遼東まで1万余里に及ぶ長城、すなわち万里の長城が誕生したのです。この時、中国には万里の長城という概念が初めてできたのである。

漢は、元の秦の長城を放棄し、燕、趙の長城を基に西進を続け、秦の長城の燕、趙の部分をつなぎ、敦煌、陽関、玉門関を経て西域に至る漢の長城を築いたのである。甘粛省河西回廊にある漢の長城は「西域開拓」であり、漢の西側に窓を開き西洋を理解するためのものだったのである。

それから千数百年後、明の長城は、東は鴨緑江畔の虎山から西は居庸関まで、北斉、北魏、秦、漢、隋の長城を基に、祁連山の東麓から嘉峪関まで追加建設されたものである。

秦の長城の強固な要害である東峪河関。戦国時代の秦の長城は中国最古の長城遺跡の一つである=趙琛撮影


 

「長城」という名称は、春秋戦国時代の斉で登場し、唐代の歴史書でも使われていたが、「長城」という概念が統一されたのは近代になってからである。

2019年12月、中国共産党中央弁公庁、国務院弁公庁は「長城、大運河、長征文化公園建設計画」を発表し、長城の概念を再び統一した。「戦国時代、秦、漢の長城、長城の特徴を持つ北魏、北斉、隋、唐、五代、宋、西夏、遼の防衛システム、金の界壕、明の長城を含む」と明確に定義された。この計画では、長城の特徴を持つそれぞれの民族の祖先が築いた防御システムのすべてが長城の概念に初めて明確に組み込まれた。狼煙台、砦、宿駅、関所、長い城壁、敵楼および関連する遺跡を長城と総称することが明確になり、長城のもつ意味合いが大きくふくらんだ。

長城の概念に対する認識は体系的かつ包括的でなければならない。歴代の王朝が築いて踏襲されてきた長城は、重層的な歴史的建造物であり、全体として切り離すことができないのである。その昔、長城は単体であると考えられた。長い城壁のみが長城であるとされ、一連の砦や狼煙台は無視された。長城は帯状の建造物であるため、時間的、空間的にも単体での評価をすべきではない。重層的に建造され使用されてきた長城を全体として見ることによってのみ、万里の長城が中国の人々にとって長期的な価値と重要性を深く理解できるのである。

八達嶺長城(北京市延慶区関溝古道北口)=趙琛撮影

「兄弟間の庭の壁」

長城は、「兄弟間の庭の壁」であって、国境線ではない。

東周の国々によって築かれた長城は、いずれも周の天子の領土であり、同じ一族の兄弟によって築かれた庭の壁とみなすべきだ。秦の長城は、戦国時代の秦、趙、燕の長城を基に築かれた。漢の長城は、秦の長城の燕と趙の部分をつなぎ、内モンゴルから甘粛、敦煌の西域の至る区間に建設されたのであった。

明の長城は、漢の長城の西域部分の放棄により、西の嘉峪関から東の遼寧省虎山まで、北斉、北魏、秦、漢、隋時代の長城を基礎にして、北方民族を防御するために築かれた北の辺牆は、明北長城と呼ばれた。ミャオ族の地域では、統制力を強化するために南西の辺牆が築かれ、明南長城と呼ばれた。

  

明の南長城、または苗疆辺牆と呼ばれる=趙琛撮影

清の長城は明の長城の基礎をそのまま使用し、遼寧省の長城は取り壊された。山海関の軍事構造を逆に使用して、柳条辺牆が築かれた。新疆地区には、卡倫(歩哨所)が建設され、漢、唐の軍事施設を利用して新しい長城が築かれた。

長城は、長い年月をかけて築かれてきたものである。長城は、領土を守り平和を愛する中華民族のたゆまぬ追求を体現している。かつては戦火が絶えない激動の時代であったが、中原の農耕文化と草原の遊牧文化、山地の漁猟文化は、長城の南北で相互に影響しあい、交流融合の常に主流にあったのである。

いわば長城は、一種の国家統治秩序であった。各民族が戦争を通じて互いに略奪するのではなく、関所で自由に交易できるようにしたのである。たとえば、明の時代には東に馬市、西に茶市があり、清の時代には茶馬の国境交易があった。長城の建設は中華民族の繁栄と発展に重要な役割を果たし、中華民族の多元一体構造の形成と発展を証明し促進したのである。

「天下第一の雄関」と称される嘉峪関(甘粛省)=趙琛撮影

何度も行われた大規模移住の歴史的証拠

長城の両側はすべて故郷である。国土の空間的には、「長城の内と外」ではなく、「長城の南と北」あるいは「長城の東と西」と呼ぶのが適切であろう。

2,000年以上もの間、さまざまな民族の大移動と大規模な統合は中断されることはなかった。長城は、民族の移動と交流、融合の証しである。

漢の武帝の時代には、領土が拡大し、辺境の統治を強化するために辺境への移住が何度も行われた。最大で70万人以上が中原から辺境地域へ移住した。

明の時代も江南から長城を守るために何度も移住した。当初、長城を防備する人たちは長城の片側の土地だけを耕した。さらには、長城の両側のさまざまな民族間で結婚が盛んになり、次第に「長城の両側が故郷」という状況が生まれてきたのである。

遼寧省の長城を例にとると、明の時代に倭寇討伐の名将である戚継光(チー・ジーグアン)は浙江省の義烏から3,000人の兵を率いて長城の防備に赴き、村や町を建設した。多くの望楼は一族の姓にちなんで名付けられ、張家楼や李家楼などがある。清の康熙帝は、長城に沿った北方防備隊に長城の北側の土地を与えたが、その例として遼寧省綏中永安堡郷立根台村が挙げられる。

明代以降、長城に関連する大規模な移住は、山西省にある長城の関所や山海関より東への移住があり、関里家という言葉も生まれた。清代には、康熙帝が前王朝の長城防備の兵士や軍籍にある家の人々が定住するために長城の北側へ移動することを許可した。長城文化は民族大融合の血縁関係の現れであり、多民族統一国家の形成を促進したと言える。


何千年もの間、長城の北側には胡人化した漢民族が、南側には漢民族化した胡人がいるという状況が続いている。長城の北と南の文化や信仰を互いに認め合い、民族間の調和と共存が常に主流であった。長城を守るために関羽を祀り、長城を攻めるために孟姜女を祀るという根深い民間風習が早期に形成された。長城の要害では、儒教、仏教、道教が信仰されている。関帝廟は忠義を広め、孔子廟、魁星楼と文昌閣は国家秩序を説き、全体では友好平和を提唱した。長城の外側にある孟姜女廟も垣根を取り払おうという意図で建てられた。このような動きは、それぞれの民族が中華民族、中華文化に深く共感していることを表している。

山西省霍州市にある霍州白壁関遺跡、塹壕長城は北の白壁関、南の洪洞の大槐まで=趙琛撮影

中華民族の多元一体化と中国の偉大な統一の象徴

長城の建設の歴史を振り返ると、長城は、中国の各民族の共同創造の産物である。各民族の祖先は、それぞれ長城を築いて共に防備し、そして統一多民族国家の形成と揺るぎない発展に貢献してきた。

長城は、長い歳月をかけ、遼、金、元、清が中原を支配した時代も含めて、さまざまな民族の祖先たちが築いたものである。

北魏(386年〜534年)は、鮮卑による政権で、全長2,000里(1,000キロ)余りの大規模な長城を築いた。

北斉(550年〜577年)は、鮮卑による政権で、6回にわたり築かれた長城は、その全長が5,000里(2,500キロ)を超え、現在、山海関、黄崖関、山西呂梁等の遺跡がある。

隋(581年〜618年)は、鮮卑族にルーツを持つ漢族の政権で、長城は5回にわたって築かれ、「東は黄河、西は綏州、南は勃出嶺に至るまで700里(350キロ)におよぶ」といわれる。

北宋(960年〜1127年)になると、中国の歴史では宋、遼、西夏、金の割拠の時代であり、宋は石と土で長城を築くことをやめた。代わりに保定から北の海河口まで水脈でつないで航行も歩いて渡ることもできない「水の長城」を建設し、沿線に砦を建設した。

金(1115年〜1234年)は、女真族が中国北部と東北部を統治するために建てた王朝だった。金界壕とも呼ばれる全長約5,500キロの長城を築いた。このとき、各民族の祖先の政権が築いた長城は1万キロに達した。

清(1636年〜1912年)は過去の王朝の築いた長城を引き続き使用し、康熙帝が「国境の壁を築かない」と命令を出したが、実際には清の長城もかなり規模が大きく、地理的な距離も前代未聞で、その建設範囲には、基本的にシルクロード沿いの利用可能なすべての施設と淮河以北のすべての省が含まれ、特に黄河以北に集中した。


したがって、長城は、中国の各民族が共同創造の産物であり、中国歴代の各民族の努力と智慧を結集したものである。その間、北魏、北斉、西夏、遼および金界壕は、各民族の政権によって築かれた長城であった。長城は、その長く継続的な建設の過程で、次第に中華民族の多元一体化と中国の偉大な統一の象徴になったのである。

明代に建設された金山嶺長城(河北省承徳市濼平県内)=趙琛撮影

中華民族が人類運命共同体を築いた歴史的な証拠

人類の運命共同体という考え方に最も合致する長城文化は、間違いなくシルクロードの長城である。中国の数ある長城の資源の中でも、シルクロードの長城は、長城の開放と包容、協力とウインウインの精神を最もよく体現している。長城とシルクロードは、東と西、古代と現代を結ぶ世界的な文化遺産であり、限りない気づきを与えてくれる。

シルクロードの長城は、シルクロードの安全な通行を保障し、世界平和を維持するための施設である。そのため、2,000年以上にもわたって建設が繰り返されてきたのである。甘粛省から新疆ウイグル自治区に至るシルクロードの北部、中部、南部のルートは、全長約8,700キロメートルの長城と高頻度で重なり、陸路のシルクロードが長城に依存していることがわかる。

シルクロードの長城の保護のもとで、各民族の文化および中国と西洋の文明が融合することができ、シルクロードは中国文明と世界文明を結ぶ架け橋となり、それとともにシルクロードの長城沿線は文化交流の「ホット」な地域となった。張騫の「西域開拓」、前漢の「武威、張掖、酒泉、敦煌の四郡と玉門関と陽関の二つの関を設置」以降、中国文明は、ヨーロッパ・アジアに広く伝播し、多元文化がここに調和し共存している。長城は、シルクロードを通じた中国と西洋の経済、文化交流の道を開いたと言えるだろう。長城に守られた敦煌の莫高窟、雲崗石窟、玄奘三蔵の道などの文化の旅は、中華民族が人類運命共同体を築いた歴史的な証拠である。

甘粛省敦煌市の莫高窟南山口にある5基の墪遺跡=趙琛撮影

長城は非常に歴史が長いが、長城を研究する長城学は歴史が浅い。新しい時代には、国際的視野で、人類は発展の観点から長城に再び焦点をあて、パートーナーシップ、安全保障枠組み、経済発展と文明の相互理解の面において、中国の智慧と解決策で継続的に貢献しなければならない。(完)

  

執筆者 趙琛氏プロフィール

中国長城研究院院長、博士課程指導教官、中国瀋陽市の東北大学教授。 中国古代建築文化遺産研究委員会主任、中国人類学民族学研究会古代村落研究専門委員会主任、中国民間文学・芸術家協会理事、国家精品課程、国家級精品課程リソース共有コース責任者、国家オンライン公開コース主任講師。『中国大百科全書』長城編の副編集長を務める。

万里の長城、古代建築、古代村落の研究に精力的に取り組む。 主な著作に第十三次五カ年計画の国家重点図書出版プロジェクトである『デジタル長城』、『大美村-鳳崗』『福陵』『昭陵』『百寿坊』『百獅坊』『文昌祖庭』『李白の故郷5・12』等。

重点プロジェクトは初のデジタル長城データベース「明の長城データーベース」、遼寧省社会科学計画基金重大委託プロジェクト「遼寧省における長城の精神と文化的意味合いに関する研究」。

【編集 叶攀】

You may also like...

Leave a Reply

Your email address will not be published.