【バンドン会議70周年記念】周恩来の記録

バンドン会議中、中国代表団の宿泊ホテルにて。
1955年4月18日から24日にかけて、周恩来総理は中国の代表団を率いて、インドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議に出席した。アジアとアフリカの29カ国が参加した。開発途上国による最初の大規模な国際会議だ。周恩来が主張した「求同存異」(違いを留保しながら共通点を求める)という原則に沿って、中国代表団は他の参加国とともに会議の成功に貢献した。この会議を通じて、中国はアジア・アフリカ諸国との普遍的な交流の扉を開いた。そのために周恩来は睡眠時間すら惜しみバンドン会議の7日間で、約13時間しか眠らなかったという伝説を残した。
バンドン会議から70周年を迎えた記念の年になるが、後世、会議の主役とも言われた当時の周恩来の記録写真(撮影 劉晨君)を見ていただきたい、途上国のリーダーとして活動した史実があらためて新鮮に思い出される。
参照:[Brother Qiang’s column] Zhou Enlai Premier Zhou Enlai under the lens of Qian Sijie
1、1955年2月10日、周恩来は開催呼びかけのインドネシアのスカルノ大統領に返信し、中国政府はアジア・アフリカ会議に参加すると、決定を伝えた。
2、1955年4月4日、周恩来は中国共産党中央委員会に「アジア・アフリカ会議への参加計画(草案)」を提出した。
3、1955年4月10日、毛沢東は周恩来に信任状を授与し、周恩来をアジア・アフリカ会議への中国代表団の首席代表に任命した。
4、1955年4月11日、カシミール・プリンセス号(中国政府がチャーターしたインド航空機。英語: Kashmir Princess、中国語: 克什米爾公主號)が空中爆発、墜落した。周恩来を狙った航空テロとされる事件とされる。
5、1955年4月16日、周恩来の乗った飛行機は無事ジャカルタに到着した。
6、1955年4月17日、周恩来はバンドンのアンディ空港に到着した。
7、1955年4月18日、中国代表団として着席した周恩来。
8、1955年4月18日、レセプションに出席した周恩来とインドネシアの大統領。
9、1955年4月19日、周恩来はバンドン会議場の前に集まった民衆に手を挙げ挨拶した。
10,1955年4月19日、周恩来はバンドン会議で演説を行い、「求同存異」を提唱した。
11、会議場で記念書に署名した周恩来。
12、1955年4月24日、閉幕式でアジア・アフリカ会議の最終投票結果を見守った周恩来。
13、アジア・アフリカ会議の最終ミュニケで採択された10原則に、中国が提唱した平和共存5原則の主要内容を吸収したものである。

(日本語)
14、周恩来は「Nanyang Pictorial – Special Issue of the Asian-African Conference」のために揮毫。
15、インドネシアの華僑新聞「ライフ」の記者であるZheng Maoxiangが撮影した「バンドン会議中の周恩来」。
16、1955年4月25日、バンドンの広肇会館で開催された華僑のレセプションに出席した周恩来。
17、日本代表団と記念撮影をした周恩来。
18、周恩来とサウジアラビアの王子、ホーマンホテルでの宴会にて。
19、晩餐会の後、カンボジアのシアヌーク王子に別れを告げていた周恩来。 20、インドとミャンマーの代表団の団長と挨拶を交わした周恩来。
21、バンドン会議中(周恩来の右側は中国の黄鎮駐インドネシア大使)。
22、バンドン会議中(右は黄鎮インドネシア大使、左は陳毅外相)。
23、「アジアアフリカ会議参加者の遭難烈士墓碑」。
24、バンドン会議10周年を記念して中国郵政が発行した記念切手。
(以上)
筆者:
周恩来平和研究所所長 王敏
周恩来資料研究家 陳翠栄