Category: 論説・主張

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中国式「統一戦線」とはどのような仕組みなのか―理論研究の専門家が解説

中国では政治や社会の安定や団結などを語る際に、しばしば「統一戦線」という言葉が使われる。そして中国では、西側諸国では中国式の「統一戦線」が理解されていないとの声が強い。中国統一戦線理論研究会統一戦線基礎理論上海基地の副秘書長なども務める復旦大学マルクス主義学院の肖存良副院長は、このほど中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、中国の「統一戦線」について解説した。以下は肖副院長の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。 ■現代国家の大きな課題は、国家の一体性と整合性を保つこと 現代社会では分化が進行しており、必然的に多元化という現象が出現している。一方で、現代国家は分化した社会を統合し、国家全体の一体性と整合性を保たねばならない。西側国家の基本は国内の諸勢力や諸権力の分立であり、この分立により巨大な遠心力が発生する。この遠心力のために、国家の一体性と整合性を維持することには大きな困難が生じる。 中国の政治において、統一戦線は社会の整合性を実現する重要な方式だ。統一戦線は中国共産党を中心とする政治の同心円として構築される。社会における共産党以外の政治の力を共産党の周囲に凝縮させる方法だ。共産党以外の勢力は共産党の指導を受ける一方で、自らの相対的な独立性を維持し、自らの発展の規律に従って独立して発展する。 中国共産党は21世紀になってから、統一戦線が推進する「調和させる五つの関係」を明示した。すなわち、政党関係、民族関係、宗教関係、階層関係、さらに海外同胞との関係だ。 ■本質的に統一戦線を形成できない西側国家、中国の発展を目にして焦燥 一部の西側国家では、ある政党が選挙に勝利すれば与党となり、敗北すれば野党になることを繰り返している。従って、中国共産党のように長期にわたり統一戦線を維持してきたわけではない。西側諸国の政党も協議や協力をすることがあるが、厳密な意味での統一戦線ではない。 西側国家の政党に統一戦線を形成する機能は備わっていない。そのため、中国の統一戦線方式については、極端な見方が存在する。まず西側国家では長らく、統一戦線は中国共産党の「自己満足」であり、中国共産党による内部統制の手段と見られてきた。 そして2008年に世界的な金融危機が勃発して以来、西側国家は中国の経済や社会の急発展に焦燥を感じるようになった。そして、中国共産党による統一戦線の推進、特に海外での推進を自国の安全上の脅威とみなし、悪意ある攻撃を加えるようになった。 ■かつては中国の統一戦線を正しく理解したが、現状ではほぼ不可能 中国共産党は1935年、抗日戦を戦うために内戦を停止して、社会のあらゆる勢力が結集して日本軍と戦うべきという、抗日民族統一戦線の提案を行った。そして1936年12月の西安事件を転機に、翌1937年の第二次国共合作が成立した。多くの西側のジャーナリストや政府関係者が、この時期には中国の「統一戦線」を比較的客観的に理解し、報じていた。中国共産党が抗日民族統一戦線の旗印を高く掲げて日本による侵略と戦っていることは、歴史的事実と理解された。 そして西側研究者は中華人民共和国が成立して以降、特に改革開放の開始後は、中国共産党による統一戦線を次々に研究するようになった。それは、中国共産党史や中国近現代史の視点による学術研究だった。 一方で、西側国家や西側のメディアは、中国の統一戦線について事情をよくしらず、現在は中国の国力が日増しに強まっていることを焦ってもいる。従って、西側が早期に、イデオロギーの偏見を捨て、中国の統一戦線の仕事に対して正しい見方をすることは、ありえない。(構成 / RecordChina 如月隼人)

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「歴史の終わり」の終わり 中国モデルとは何か 中央党学校の蔡之兵氏に聞く

  北京1月16日発中国新聞社電は、中国共産党中央党学校(国家行政学院)経済学教育研究部の蔡之兵副教授の「『歴史の終わり』の終わり 中国モデルとは何か」と題する次のような論文を配信した。  1989年夏、米国の学者フランシス・フクヤマ氏が「歴史の終わり」と題する論文を発表し、人類の歴史の進歩とイデオロギー間の闘争が終わりに向かおうとしており、西側の自由民主制度が人類にとって政府の最終的な形式になると公言し、その後ベルリンの壁崩壊やソ連解体といった事件によって多くの人がこうした論断を正論であると信奉した。しかし、その後の中国の数十年におよぶ輝かしい発展の成果は「歴史の終わり」という論断をはっきりと終わらせたとともに、100年間なかった変局を背景として、あらためて全世界に中国と西側の発展モデルに関する比較研究ブームを巻き起こしている。  ◇発展モデルに高低と優劣はない  必ず一貫して冷静に意識するべきなのは、中西の発展モデルの比較にせよ、あるいはその他のいかなる国家間の発展モデルの比較にせよ、その目的は異なる発展モデルの間の長所をとり短所を補うことを実現することにあり、異なる国家発展モデルに対し高低や優劣をつけるためではないということだ。直観的なロジックから見れば、どの国の発展モデルもそれぞれの国の地理・歴史・気候・環境などの属性から生まれたものである。これは現実に存在する国家発展モデルはどのようなものであってもそれが存在するだけの理由があるということを意味している。そのため、この世界にはただ一つの「最も優れた国家発展モデル」があるという謬論はなんとしても打破しなければならないし、それ以上にあるモデルに依拠して軽々しく他の国家発展モデルをあれこれ論ってはならない。  実際のところ、どのようなタイプの発展モデルであっても自身の問題を抱えており、合理的な発展モデルであれば発展のプロセスの中でこれらの難題を解決し、国家の長期的安寧、人民の幸福と健康、民族の自立自彊という最終的な目標を実現できる。一方、不合理な発展モデルはこれらの難題を解決することができないため、徐々に衰退し、さらには消え去っていく。そのため、ある国家の発展モデルを評価するには、必ずその発展モデルがその国の発展プロセスにおけるさまざまな問題を絶えず解決できるのかどうかという視点に立脚しなければならない。  ◇中西の発展モデルの本質は何か  表面的に見ると、中西の発展モデルの比較とは、中国の特色ある社会主義市場経済制度と資本主義市場経済制度の違いに要約できる。  西洋経済学の基礎を築いた人物の一人であるアダム・スミスは「国富論」の中で、資本主義市場経済制度の輪郭を「政府と市場がそれぞれの役割を分担する二元構造のイメージ」として描き出した。しかし一見境界がはっきりと分かれたこうした二元構造は一種の虚像に過ぎず、こうした二元構造の背後にある絶対的支配者、すなわち資本は市場という広大な経済学の概念の中に完全に隠されていた。言い換えれば、資本主義市場経済制度は一見政府と市場の二元構造のように見えるが、実際には資本が絶対的に主導する一元構造であり、政府と市場とを問わず、どちらも資本の絶対的支配を受けているのだ。  資本の利潤追求という天性は、資本が市場の規模を絶えず創造し拡大することを決定づけている。これは市場に関してはもとより言うまでもないことだが、相対的に隠れているのは資本が絶え間ない利潤規模拡大の目標を実現するために、政府の意思決定にも深く参入し、深く影響を与え、ひいては直接的にこれを支配しているということだ。これは西側の政党がさまざまな資本集団の利潤を代表することしかできず、金権政治現象の出現をもたらす根本的な原因にもなっている。  そのため、資本主義市場経済制度は実際のところは資本が利潤最大化の原則に基づいて構築した制度であり、資本はその中で絶対的な統治権を有している。一方、マルクスの「資本論」、あるいはピケティの「21世紀の資本」では、資本要素の利潤追求性と資本要素の無制約性により、資本主義市場経済制度においては生産・分配・交換・消費などのすべての段階で解決できない内生的難題が出現する可能性があることを明らかにしている。例えば、生産手段の社会化の程度が高まるとともに生産財の個人占有度が高まる矛盾、消費の成長と供給の成長のアンバランスの矛盾、労働要素と資本要素の所得格差の絶え間ない拡大の矛盾などだ。そのため、資本は資本主義市場経済制度下ではあらゆることを統治し、ひいてはそれを改造することができるが、こうした制度そのものに埋め込まれた先天的矛盾により、資本は最終的にすべてを破壊することになる。  さらに分析を進めよう。資本主義市場経済制度が続いているのは、第一に、資本主義先進国が過去数百年の発展の蓄積によって形成された産業技術の先発優位性をたのみに、グローバル産業分業体系の中でその他の後発国の余剰価値を継続的にかすめ取っているからだ。第二に、これらの国の内部のさまざまな資本集団の間でも一定の相互けん制が形成される。しかし、これらの資本は経済的利潤を獲得するという目標が高度に統一されているため、長期的に見るとこれらの資本がより多くの経済的利潤を獲得できなくなった場合や非経済分野でなんらかの打撃が突如出現した場合、資本間のけん制作用は顕著に弱まり、それが国家の安定と安全保障の発展に影響を与えることが決定づけられている。前者は一部の西側の先進国の周期的な経済危機ならびに2007年の米国のサブプライムローン危機勃発後に西側先進国内部で国家債務と信用危機、社会集団の分断、政党の悪性の競争などのさまざまな混乱が大規模に発生したことに表れており、後者は少なくない先進国の新型コロナへの対応の非効率性と無力さに表れている。  これに比べ、中国の特色ある社会主義市場経済制度も「政府と市場の二分構造」を有しているが、中国共産党が存在することにより、資本要素は資本主義市場経済制度下における市場と政府に対する影響力を持っておらず、それ以上に政府を支配・改造する能力を持っていない。これは中国共産党が一貫して人民の立場と人民の利益という単一の指向性を堅持しているからである。  またまさしくこうした特質により、中国共産党は政府と市場をリード・制約するとともに、より正しく、より有效な役割を果たすことができるのである。これは政府と市場という2大主体が中国共産党の指導下では実際のところ「二者合一」であることを意味している。  政府としての役割を発揮する面では、中国の特色ある社会主義市場経済制度の導きの下、政府はより低コスト・高效率により大規模な市場をつくることができる。例えば、中国は1980年代に最初の高速道路を建設してから、わずか30年余りの間に米国が80年余りかけて建設した高速道路よりも長い距離の高速道路網を築き、中国の地域経済の高度の接続と一体化発展を大きく促進した。これだけでなく、その他の鉄道、空港、国家送配電網、光ファイバーネットワーク、5G〈第5世代通信規格〉基地局の建設などにおいても、中国政府は巨大な「プラットフォーム」づくりの役割を発揮し、企業の高速成長のための堅実な基礎を築き、経済の飛躍と急速な追走を有効に促進した。  市場が正しい役割を発揮するようリードする面では、中国共産党の指導により、政府は資本の無秩序な拡大と悪意ある独占などの行為を主体的に抑制し、コレラの行為にもたらされた市場経済の盲目性、タイムラグ性、さらには自発性によって引き起こされる一連の経済危機勃発の可能性を除去することができるだけでなく、例えば、数年前にインターネットファイナンスの過度の拡大を抑制し、最近では少数のインターネットトップ企業による「二者択一」の悪意ある競争行為や国家の情報データセキュリティーに危害をもたらす行為を有效に監督管理するとともに、資本の生産要素としてのポジティブな役割を発揮させ、そのネガティブな役割を抑制すべきであることを明確に提起している。これと同時に、党の自己監督によって政府が「人民の立場」と「人民の利益至上」の原則に基づいて運営されるよう制約し、それによって資本の政府に対する侵食に有効に対処し、政府が資本のしもべとなることを回避している。  さらに重要なのは、中国共産党の絶対的な核心としての地位と人民の利益が直接的に関連しているため、中国の民衆の党と政府に対する信頼度が他国とは比べ物にならないことだ。これにより、中国の発展モデルは経済発展において巨大な優位性を有するだけでなく、非経済分野における打撃への対応においてもしばしば際立ったパフォーマンスを示している。例えばこのたびの新型コロナへの対応における中国の優れたパフォーマンスは人民の生命の安全を保障するという点における中国の発展モデルの巨大な優位性を疑問の余地なく証明している。  ◇中西の発展モデル、それぞれの進化のカギ  文明と国家間の開放と相互参照こそ文明と国家の繁栄と隆盛の前提であることはすでに歴史的に証明されている。近代において独走状態となった西洋文明は東洋文明の滋養や後押しと切り離せない関係にあり、また中国の発展モデルがここ数十年声高らかに勇ましく前進しているのも西洋の発展モデルの有益な経験を十分に吸収・導入したことと密接に関係している。  カギとなるのはやはり、中国が一貫して冷静さを保ち、自身の発展モデルの不足を意識することができるかどうかである。いかにして党の理論を刷新して現実の問題の変化に一貫して追いついていくか、いかにしてより多くのリーダーシップのある産業と技術を生み出すか、いかにして政府の市場に対する過度の影響を回避するか、いかにして政府の運営コストを引き下げるかなどの難題において、中国共産党は内部の改革の全面的深化と政党の自己革命によってこれを解決することを強調するとともに、対外開放の基本的国策を堅持しており、引き続き全世界の国と共に発展の道筋を模索し、ウィンウィンの発展の目標を実現しようとしている。  これに比べ、一部の西側先進国は正常な国家競争を恐れ、かたくなに「隣国を自国の洪水のはけ口にする」ような発展戦略を選択し、自身の問題の内的原因を顧みず、その咎を外部の要素に帰すことに固執し、内部の長期的な矛盾を解決する勇気と知恵を失い、シーソーゲーム式の茶番劇に陥っている。(中国通信=東京)

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【観察眼】北京五輪が中日両国に新たな「雪の縁」をもたらすことを願う

日本五輪委員会(JOC)は20日、日本人選手122人を北京冬季オリンピックに出場させると発表した。その中には、多くの中国人にもなじみがある著名な男子フィギュアスケートの羽生結弦選手も含まれている。羽生選手は今回の冬季五輪で、オリンピック三連覇に挑戦する。  今回の冬季五輪に関連しては、多くの人を感動させた中日協力のよいエピソードがある。先ごろ開催されたスノーボードのワールドカップの男子ビッグエアで、蘇翊鳴選手の初優勝に貢献したのは、日本人コーチの佐藤康弘氏だった。佐藤氏は日本のトップ選手を何人も育ててきた。佐藤氏は、「中国人選手のコーチをすることで葛藤を感じたこともあったが、こういうことは国境を越えてよいのだと思うようになった」と語った。蘇選手は日本のナショナルチームのメンバーと共に練習してレベルを向上させ、北京冬季オリンピックではメダル獲得が期待されるようになった。佐藤氏の話は極めて実直であり、感動的だ。佐藤氏の話には、一人の日本人コーチ、一人の日本人が「さらに団結する」という、スポーツ精神への理解と実感がこもっている。  私は1998年に冬季オリンピックが開催された長野県で2年間近く仕事をし、生活したことがある。その時期に、現地の人々が何度も、北京冬季オリンピック組織委員会のメンバーを心を込めてもてなし、冬季五輪の開催に関連した経験と教訓を詳細に説明するのを見た。五輪に出場する中国人選手が現地で緊張して練習する姿と、日本人コーチが献身的にすべて伝授する様子も見た。長野の人々が北京市での冬季オリンピック開催を、情熱を込めて応援していることも感じた。日本の友人の友好と情誼、中国人の感動と感謝は、今も忘れがたい。  日本はウインタースポーツで、一定の強みがある。フィギュアスケート、スピードスケート、スキージャンプなどでは、相当な実力がある。そのことはかなりの程度、日本独特の冬の自然条件から得られた。北海道や長野など、世界でも雪質が一流のスキー場は、選手らによい練習条件を提供している。現地の子は幼いころから雪の上で腕試しをする機会がある。数多い優秀なスキー場やレベルの高い指導陣、完備された各種施設によって、ウインタースポーツの愛好者は取りつかれたように夢中になる。初心者もウインタースポーツが大好きになる。  1980年代の日本では、連続テレビドラマ「私をスキーに連れてって」が一世を風靡した。純白のスキー場で繰り広げられるロマンティックな愛の物語に魅了され、当時の日本では無数の若者が、朝の4時か5時には車を運転してスキー場に向かった。ゲレンデを颯爽と滑る快感と、氷雪に覆われた自然世界と調和して一体となる愉悦感を得るためだった。  北京冬季オリンピックの開催に伴って、当時の日本の全国民的なスキーブームが、中国で再現されている。中国人のウインタースポーツへの情熱が爆発した。関連統計によれば1月1日から3日までの元旦3連休期間中、スキー場周囲の宿泊施設の予約は連休前の2.4倍になり、スキー場入場予約は2.1倍になった。雪や氷を目玉にする観光スポットの入場予約は3.2倍になった。豊富で多彩な雪や氷に関連する活動はこの冬、中国で最も活気あるレジャーと観光のテーマになった。  北京オリンピックが契機となり、さらに中国政府が「3億人を氷と雪の上へ」と提唱したことが実は、得難い発展のチャンスを日本にもたらした。白馬や野沢温泉などのスキー場の条件は、アジアだけでなく世界的に見ても独自の吸引力と魅力を備えている。それらの場所で見かけるのは従来、日本人以外にはほとんど欧米人やオーストラリア人だったが、ここ数年は中国人の姿がしばしば見られるようになった。少子化現象により、日本におけるスキー関連産業の国内市場はどんどん縮小している。欧米やオーストラリアからの客の数はすでにピークに達しており、これ以上の伸びは期待できない。一方で日本のスキー場は中国人客をますますひきつけている。中国の莫大な数のスキー客と日本の数多い天然良質のスキー場の相乗効果で、今回のオリンピックが中日両国に新たな「雪の縁」をもたらすことを願う。(CRI日本語部論説員)

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中国で「山と人の関係」はどのように推移してきたのか―黄山の生態専門家が説明

昨今の中国では自然や生態系の保護が極めて強く意識されている。山岳についても観光資源などとして活用はするが、「持続可能」な範囲にとどめて環境の悪化を阻止することが大前提だ。南京大学黄山生態システム野外科学観測研究ステーションのステーション長も務める章錦河教授はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、中国独自の山岳観や山岳の自然保護と利用の状況を紹介した。以下は、章教授の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。 【その他の写真】 ■中国は文明が発達しても山と信仰が結びついていた 国連は2002年を「国際山岳年」として、03年には毎年12月11日を「国際山岳デー」とした。実施されてきた活動は、山岳部の生態システムの重視、山岳部の自然保護の緊迫性、山岳部における経済発展の停滞、山岳部住民の幸せなどに関連するものだ。 人と山岳の関係は、さまざまな段階を経て変化してきた。まずは山岳崇拝や山岳信仰の段階だ。人々は自然の超越的な力に接して、自然現象を象徴するさまざまな神を作り出した。西洋の山岳地帯でも住人が自然の神霊を崇拝したことはあった。しかし中国では自然と宗教を結び付ける傾向がはるかに強く、山東省の泰山、湖南省の衡山、河南省の嵩山、陝西省の華山、山西省の恒山が「五岳」と呼ばれ聖地とされるなどの現象が発生した。 山岳5カ所が選ばれたのは、五行説という思想にも関係している。文化文明が酢相当に発達した段階になっても山岳が強く崇拝されていた点で、中国は西洋とは異なる。中国では現在でも「山岳」という言葉が人の独特な感情を刺激するが、欧州人にとっては単なる地理上の用語だ。 ■中国人にとって「自然との融合」は伝統の復興 次に山岳に美を見出した段階だ。中国がこの段階に入ったのは16世紀半ばで、欧州では18世紀末から19世紀初頭にかけてだった。次は山岳文明の段階だ。先進国がこの段階に入ったのは20世紀半ばで、背景には、極度な工業化に対する反省などがあった。スイスの世界遺産ユングフラウ ただし、先進国では山岳文化の新たな前進があまりなかった。中国には、伝統的な自然との付き合い方の知恵や、工業化が後発だったという強みがあり、「エコ文明」という新たな考え方が登場し、「人と自然の生命共同体」、「地球生命共同体」という新たな概念が提出された。 中国と西洋で、山岳に対する考え方が違うことには、文明における自然観全体が関係している。伝統的な西洋哲学は、思惟の主体である自分自身と他者を分離して対峙させる。人は自然を主導するとの考え方であり「山を征服」といった言葉も出現した。 中国では儒家が「天人合一(天と人との合一)」を主張したように、己と万物とが溶け合うことを求める。中国仏教も「衆生、皆仏性あり」などとして、万物の平等性を唱えた。中国人にとって、新たな時代に発生した「人と自然の調和ある共存」は、伝統的な文明の復興、すなわち古典に回帰するルネサンスだが、西洋人にとっては、ルネサンス以来進められてきた「物化文明」に対する反省だった。 ■黄山は姉妹山のスイス・ユングフラウなり、学習と協力を実施中 私は南京大学の黄山研究観測ステーションの責任者を務めているが、黄山は2002年に、スイスのユングフラウと「姉妹山」の協定を結んだ。また、ユングフラウ以外にも世界の多くの名山と提携してきた。それらを通じて、黄山側は多くのことを学ぶことができた。例えば地元経済を発展させる計画づくりや、施設建設にあたっての環境保護、自然が受ける負担を限度内に管理すること、経済活動の許可制、観光客に対する教育、地域としてのブランド戦略などだ。黄山 一方で、20年5月には黄山側がユングフラウに「感染防止の条件を満たすための観光スポット開放ガイドライン」という情報を提供する協力をした。また同年9月にはユングフラウ側と提携して、中国スイス国交樹立70周年を記念して実施された「スイス国家ブランドデー」の活動に参加した。 中華民国時代の1934年に設立された黄山建設委員会も、当初から「資源保護、名勝を輝かせる、旅人に奉仕、住民に利益をもたらす」とのスローガンを掲げていたと伝えられる。これらの理念に加えて2011年には国際的な「持続可能な観光目的地準則」の起草に参加して「観光体験の質を絶えず向上、資源と関係をより大切にする、観光産業の広範な融合、社会の幸せの増進に努力」などの提案をするなど、時代の流れに沿った取り組みを行っている。(構成 / 如月隼人)

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儒家も老子も重視した「民」、現代にどのように生かすべきか―中華孔子学会会長が答える

儒家などによる中国の伝統思想は「民意」、「民心」、「民本」などを強調してきた。そのような考えは現代にどのように生かすべきなのだろうか。中華孔子学会の会長も務める、北京大学哲学科の王中江教授はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて「民」の重視と政治理念の関係について語った。以下は、王教授の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。 【その他の写真】 ■儒家の孟子も老子も「根本は民」と説いた 中国において「民本」や「民心」の概念は極めて早い時期に出現した。早い時期から儒教の最も大切な経典の一つとされた尚書(書経)には、君主の姿勢として「民に近づかねばならない。民を下の存在と見なしてはならない。民は国の根本である。根本がしっかりしていれば、国は安泰である」との記述がある。孟子も「民を貴(たっと)しとなす。社稷(しゃしょく、国家)は民に次ぐ。君主は軽い」と説いた。 儒家以外にも、例えば老子は「聖人は常に心無く、百姓の心を以って心と為す(聖人は自らの心、すなわち願望を持ち合わせていない。庶民の心を自らの心とする)」と説いている。写真は孟子出身地の山東省鄒城市にある孟廟 ■天意は民意を反映し、君主は天意に従う 中国では、天が君主を定めると考えられた。その目的は民衆の利益と幸せの向上だ。また、易経は「天地が存在して万物が生じる。万物が生じて男女が生じる。男女が生じて夫婦が生じる。夫婦が生じて親子が生じる。親子が生じて君臣が生じる。君臣が生じて上下が生じる」などと説いている。つまり「天と地」を人の世界の出発点とした。 中国では世界の統治者を「天子」とも呼んだ。すなわち、天の子として、天の意向を実現させる存在だ。その背景には、天意にかなうことは正義であるから、民意にもかなうとの考え方がある。さらには、天意は民意により生じるとの考え方がある。尚書には「民の欲するところ、天、かならずこれに従う」との記述もある。写真は孟子出身地の山東省鄒城市にある孟廟 ■考えの筋道は違っても「民意最優先」は古今東西の政治の大原則 西洋では18世紀、社会の起源についての重要な考え方として「契約論」が登場した。思想家により考え方は異なるが、一般には、人類は原初の「自然」の状態から離脱して国家を樹立したと考える。そして国家の樹立にともない、個人はある種の権利を獲得する一方で、別の種類の権利を手放し、国家に譲った。国家はそのようにして権力を獲得し、社会を統治するようになった、と考える。 中国の伝統思想と西洋の契約論には共通する点もある。それは、国家の目的を、民衆の願いと民衆自身の利益を満足させるためとする考え方だ。異なるのは、国家権力が発生する際のメカニズムについてだ。西洋の契約論では、人々は自ら、安全や平和、利益を確保するために、「暴力的手段」といった権利を国家に譲り渡したとされる。中国では、聖人が君主になると考え、君主は民衆の基本的な願望と必要を満たす存在と考えられた。写真は孟子出身地の山東省鄒城市にある孟廟 現在の政治哲学では、国家や政府は目的ではなく「道具」と考えられる。国家や政府は民衆の願望や利益を満たすために樹立されたものであり、大衆の願望や利益をよりよく満たすために、発展し変化していくことが求められる。 中国の古典的な思想にある「民心」を重視する理念は、現代の政治にもあてはまる。政治とは、民衆の求めるところに向かっていかねばならない。政権は民意に応じて整備され、統治は民意に耳を傾けて改善され、制度は民意を受けて健全化されていかねばならない。民意や民心に従うことは、あらゆる政治統治の出発点であり、民意や民心に合致しているかどうかが、あらゆる政治統治を評価する上での基準であらねばならない。(翻訳・構成 /レコードチャイナ)

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中国では昔の皇帝もウインタースポーツ楽しんだ―専門家が「五輪つながり」で解説

近代スポーツに属する競技のほとんどが、西洋社会で成立したものだ。しかし、体を動かして腕前を競い合ったりする競技は世界各地で行われていた。河北省文物考古研究院の黄信副院長はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、北京冬季五輪・パラリンピックの予定地で確認された800年前以上の遺跡の紹介に絡めて、王朝時代における中国の「ウインタースポーツ」についても言及した。以下は、黄副院長の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成した文章だ。 【その他の写真】 ■五輪用地で着工直前に貴重な遺跡を確認 中国北部は1120年代から1234年まで、金という王朝に支配された。金朝には、皇帝が季節によって居住に適した地方に移動して過ごす習慣があった。河北省張家口市郊外にある太子城と呼ばれる遺跡が、金朝6代皇帝の章宗が夏に滞在したことのある宮殿であることが確認されたのは2017年9月だった。太子城 太子城は1978年に調査されたことがあったが、その時には中国に数多く存在する小都市の遺跡と判断され、本格的な調査は行われなかった。2度目の調査が始まったのは2017年5月末だった。当初予定では調査隊は作業を早々に終えて、9月には引き上げることになっていた。しかし調査終了の間際に、太子城遺跡が金代に皇帝が滞在したこともある宮殿だったことが確認された。 ところが太子城遺跡一帯は、22年の北京冬季五輪・パラリンピックの施設建設予定地になっており、考古学調査隊が引き上げた直後の17年10月には工事が始まる予定だった。建設予定の変更を行う手続きに残された余裕は3日間しかなかったという。まず河北省政府が動き、文化財保護や責任を所管する国家文物局、北京五輪組織委員会などに遺跡の重要性を伝えた。その結果、現地の五輪関連施設の建設予定地から東に200メートル移動することになった。北京冬季五輪・パラリンピックの施設 ■「皇帝が滞在」と断定する決め手になった出土品とは 太子城遺跡は南北が約418メートル、東西は約343メートルで規模は大きくない。しかし皇帝や皇族が暮らす建物の配置は、金の首都だった中都(場所は現在の北京市市街地南西部分)の宮殿に非常に似ている。そして、底に「尚食局」の文字がある陶器が集中して見つかった場所があった。 このことから、陶器が見つかった場所は皇帝や皇族の食事をつかさどる「尚食局」が使用した建物跡と判断された。そして「尚食局」がそこで仕事をしていたことは、この遺跡にはかつて皇帝や皇族が滞在したことの有力な証拠となる。太子城遺跡からはそれ以外にも、皇室専用の文字があるレンガや皇帝を意味する銅製の竜などが見つかった。銅製の竜 太子城遺跡は金代の建築を研究する上で極めて重要だ。空白を埋めた発見と言ってよい。例えば皇室が使う建物の序列制などを知ることができるだろう。 ■かつての皇帝もウインタースポーツを大いに楽しんだ 現代のウインタースポーツは雪や氷を利用した運動競技だ。北京冬季五輪・パラリンピックがきっかけとなり、多くの中国人がスキーなどウインタースポーツを楽しむようになったが、中国人は古くから雪や氷を鑑賞し、雪や氷を利用した運動競技をしてきた。 特に皇帝一家は「中華ウインタースポーツ」を好んだ。清代の乾隆年間(1736-1795年)に宮廷画家が制作した「氷嬉図」には、皇帝が乗る氷上のそりが描かれている。そして周囲の人々は皇帝を中心にらせん状に配置され、スケートをしている。 当時、皇帝が喜んで鑑賞したスケート競技には3種目があったとされる。まず、速さを競う競技で、選手らは鉄の歯のついたスケート靴を履いて、電光石火のようにゴールを目指した。これは現在のスピードスケートと同じだ。 次に氷上で熊手を投げて受け止めたり、刀を振るったりさまざまなアクロバットを演じた。用具を使う点では異なるが、体のさまざまな動きを見せる点で、現代のフィギュアスケートに通じるものがある。さらに、氷上でボールを蹴(け)って相手陣地に入れる競技もあった。発想としてはアイスホッケーと同様だ。北京冬季五輪・パラリンピックの施設 太子城遺跡は文献史料にある泰和宮と断定された。泰和宮は戦火によって焼け落ちたことが分かっている。それから長い歳月が流れ、現地ではまもなく北京五輪・パラリンピックという平和の祭典の聖火が灯されることになる。(翻訳・構成 /レコードチャイナ)

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水中考古学の大成果「南海1号」を20年かけて引き上げ―すべてを知る専門家が証言

海底や湖底に眠っていた文化財を引き上げて研究する水中考古学という学問分野がある。中国での水中考古学の最大級の成果とされるのが、1987年に発見されて約20年後の2007年に船体の引き上げに成功した宋代の沈没船「南海1号」だ。その全過程を知る広東省文物考古研究員の崔勇副院長がこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、「南海1号」にまつわるさまざまなエピソードを披露した。以下は、崔副院長の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。 【その他の写真】 ■「海の盗掘者」にしてやられたことが、水中考古学に取り組むきっかけに かつて、欧米人の「海の盗掘者」が南シナ海海域で沈没船から清代康熙年間(1661-1722年)の陶磁器を多く引き上げ、オークションにかけて飛び切りの高値で売りさばく事件があった。このことが中国の考古学界や政府を刺激した。 1987年には中国国家博物館水中考古学研究センターが発足した。ちょうどその時期に、英国の海洋探査・サルベージ会社と当時の広州サルベージ局が、広東省陽江市沖合いの南シナ海で沈船を発見した。その際に引き上げられた247点の中には、金のネックレスや銀塊もあった。 英国の会社は、その海域で沈没した東インド会社所属の商船を探していたのだが、海底から引き上げられたものはその商船の積み荷リストとは違っていた。そこで中国側は英国側に引き上げを中止させた。発見された大型商船は「南海1号」と名付けられた。広東海のシルクロード博物館 ■まずは日本に教えてもらった、次に小さなプロジェクトで実力錬成 「南海1号」を調査し引き上げるために、中国水中考古学界は多くを「学習」せねばならなかった。まず若手研究者をオランダと日本に派遣して水中考古学を学ばせた。日本からは専門家を招いて講義などをしていただいた。 1989年には国家文物局とオーストラリアのアデレード大学が共同で、中国初の水中考古学訓練班を組織した。全国から11人が選ばれて訓練を受けたが、私もその一人だ。 1989年11月には日本と共同調査隊を結成して南海1号の初の全面調査を行った。しかしその結果、「南海1号」の引き上げなどの条件はまだ整っていないと結論づけざるをえなかった。もっと小さなプロジェクトから始めるべきとの判断だった。 その後、遼寧省葫蘆島市の沖合いで元代(1279-1368年)の沈船が見つかったり、西沙諸島でも沈船が見つかった。それらの調査研究に取り組むことで、中国の水中考古学の実力は次第に向上していった。 ■困難を乗り越えて船体の引き上げに成功、発見した積み荷は18万点以上 改めて「南海1号」の引き上げに着手するまで、学習や経験のための約10年を費やしたことになる。調査再開の手始めに、まずGPSを利用して正確な位置を特定した。そして4年をかけて、調査と試掘を繰り返した。その結果、船全体の保存状態は良好で、積み荷も多いことが分かった。 しかし一方で、船体の上に泥が分厚く堆積していることが分かった。海底で活動すれば周囲の水はひどく濁る。水中考古学の調査にとってかなり劣悪な環境だ。 船の積み荷も文化財だが、それらを引き上げるだけではだめだ。それでは水中考古学の進歩の芽を摘んでしまう。南海1号が泥に半ば埋まった形で横たわる海底は、水深約25メートルだった。最終的に広州サルベージ局の技術者の呉建成氏が、ケーソンという巨大な箱を使って沈船全体を引き上げる方法を考案した。これが突破口だった。 しかし実際には大きな困難が伴った。ケーソンは長さが33メートル、幅は14メートルもあり、500トン以上の重量だ。正確な位置に沈めるのは実に難しかった。いったん水中に沈めたら、位置の調整はほとんど困難だ。とにかく正確な位置におろさねばならない。しかし最後には、一気に成功させることができた。 「南海1号」の船体引き揚げが行われたのは2007年だった。同時に、広東省陽江市内では広東海のシルクロード博物館が建設された。「南海1号」は同博物館の水晶宮と呼ばれる施設に安置された。広東海のシルクロード博物館 「南海1号」については3Dレーザーなど最新の技術を使って、大きさについてはミリ単位まで計測された。水中から発見された文化財は18万点を超えた。酒が入った大量の壺、アヒルの卵の塩漬け、羊の頭、ナッツ類、ヤマモモ、穀物類も見つかっている。これらは、水中でないと残らないものだ。 また、船室にあった泥からは、絹たんぱくが検出された。「南海1号」は量としてはあまり多くなかったかもしれないが、絹製品も積んでいたと考えられる。広東海のシルクロード博物館 さまざまな情報を総合して、「南海1号」が沈没したのは1183年前後と特定できた。考古学においては、文化財の年代を判断するには他の文化財との比較に頼る場合が多いが、正確な年代の判別が極めて難しい場合が多い。「南海1号」の積み荷は、他の出土品などにとって、年代判断の基準を与えてくれたことになる。(翻訳編集 /レコードチャイナ)