中国では昔の皇帝もウインタースポーツ楽しんだ―専門家が「五輪つながり」で解説
近代スポーツに属する競技のほとんどが、西洋社会で成立したものだ。しかし、体を動かして腕前を競い合ったりする競技は世界各地で行われていた。河北省文物考古研究院の黄信副院長はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、北京冬季五輪・パラリンピックの予定地で確認された800年前以上の遺跡の紹介に絡めて、王朝時代における中国の「ウインタースポーツ」についても言及した。以下は、黄副院長の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成した文章だ。
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■五輪用地で着工直前に貴重な遺跡を確認
中国北部は1120年代から1234年まで、金という王朝に支配された。金朝には、皇帝が季節によって居住に適した地方に移動して過ごす習慣があった。河北省張家口市郊外にある太子城と呼ばれる遺跡が、金朝6代皇帝の章宗が夏に滞在したことのある宮殿であることが確認されたのは2017年9月だった。
太子城
太子城は1978年に調査されたことがあったが、その時には中国に数多く存在する小都市の遺跡と判断され、本格的な調査は行われなかった。2度目の調査が始まったのは2017年5月末だった。当初予定では調査隊は作業を早々に終えて、9月には引き上げることになっていた。しかし調査終了の間際に、太子城遺跡が金代に皇帝が滞在したこともある宮殿だったことが確認された。
ところが太子城遺跡一帯は、22年の北京冬季五輪・パラリンピックの施設建設予定地になっており、考古学調査隊が引き上げた直後の17年10月には工事が始まる予定だった。建設予定の変更を行う手続きに残された余裕は3日間しかなかったという。まず河北省政府が動き、文化財保護や責任を所管する国家文物局、北京五輪組織委員会などに遺跡の重要性を伝えた。その結果、現地の五輪関連施設の建設予定地から東に200メートル移動することになった。
北京冬季五輪・パラリンピックの施設
■「皇帝が滞在」と断定する決め手になった出土品とは
太子城遺跡は南北が約418メートル、東西は約343メートルで規模は大きくない。しかし皇帝や皇族が暮らす建物の配置は、金の首都だった中都(場所は現在の北京市市街地南西部分)の宮殿に非常に似ている。そして、底に「尚食局」の文字がある陶器が集中して見つかった場所があった。
このことから、陶器が見つかった場所は皇帝や皇族の食事をつかさどる「尚食局」が使用した建物跡と判断された。そして「尚食局」がそこで仕事をしていたことは、この遺跡にはかつて皇帝や皇族が滞在したことの有力な証拠となる。太子城遺跡からはそれ以外にも、皇室専用の文字があるレンガや皇帝を意味する銅製の竜などが見つかった。
銅製の竜
太子城遺跡は金代の建築を研究する上で極めて重要だ。空白を埋めた発見と言ってよい。例えば皇室が使う建物の序列制などを知ることができるだろう。
■かつての皇帝もウインタースポーツを大いに楽しんだ
現代のウインタースポーツは雪や氷を利用した運動競技だ。北京冬季五輪・パラリンピックがきっかけとなり、多くの中国人がスキーなどウインタースポーツを楽しむようになったが、中国人は古くから雪や氷を鑑賞し、雪や氷を利用した運動競技をしてきた。
特に皇帝一家は「中華ウインタースポーツ」を好んだ。清代の乾隆年間(1736-1795年)に宮廷画家が制作した「氷嬉図」には、皇帝が乗る氷上のそりが描かれている。そして周囲の人々は皇帝を中心にらせん状に配置され、スケートをしている。
当時、皇帝が喜んで鑑賞したスケート競技には3種目があったとされる。まず、速さを競う競技で、選手らは鉄の歯のついたスケート靴を履いて、電光石火のようにゴールを目指した。これは現在のスピードスケートと同じだ。
次に氷上で熊手を投げて受け止めたり、刀を振るったりさまざまなアクロバットを演じた。用具を使う点では異なるが、体のさまざまな動きを見せる点で、現代のフィギュアスケートに通じるものがある。さらに、氷上でボールを蹴(け)って相手陣地に入れる競技もあった。発想としてはアイスホッケーと同様だ。
北京冬季五輪・パラリンピックの施設
太子城遺跡は文献史料にある泰和宮と断定された。泰和宮は戦火によって焼け落ちたことが分かっている。それから長い歳月が流れ、現地ではまもなく北京五輪・パラリンピックという平和の祭典の聖火が灯されることになる。(翻訳・構成 /レコードチャイナ)