「孫子」の“直接翻訳”にはどのような意義があるのか―当事者が状況を解説 

 日本のような漢字圏にある国ならば、漢字を頼りに中国の古典を読み解いていくことが可能だ。しかし漢字圏以外の国の場合には、本格的な翻訳作業がどうしても必要だ。まずは英語やフランス語などの欧州語への翻訳が行われたが、最近ではそれ以外の言語への翻訳事例も増えてきた。トルコのアンカラ・ハジ・バイラム・ベリ大学に勤務するゲライ・フィダン氏は中国学の専門家であり、中国の「孫子」をトルコ語に翻訳した。中国の古典がトルコ語に直接翻訳されたのは初めてだった。フィダン氏はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、現代社会にとって「孫子」が持つ意義や翻訳作業について説明した。以下はフィダン氏の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

 ■「孫子」の真の価値は戦いの技術ではなく、戦わずにすむ知恵

 「孫子」は「兵書」だが、、戦いを奨励する書ではない。例えば「百戦百勝は善の善たるものにあらず」と明記している。つまり「全ての戦いに勝利したとしても、『戦い』という状況を発生させてしまった以上、最善の解決策を取れたわけではない」という考え方だ。

 「孫子」は知恵を用いた勝利が最善であり、その次によいのは外交を用いた勝利と説く。会戦して敵軍を打ち負かすのはよくない方法であり、敵の都市を攻めるのは最も下策、すなわち本当にやむをえない場合以外には、すべきでないと論じた。

 「孫子」は「彼を知り己を知れば、百戦もあやうからず」などの名言がちりばめられた文学価値がある作品でもある。さらに「勝つは知るべくしてなすべからざる(勝てるかどうかを知ることはできるが、勝てる条件がないのに人為的に勝利をもたらすことはできない)」といった処世術も含まれている。中国の古典文化遺産の中の輝かしい宝だ。

 「孫子」は中国の古典として、西洋の国でもベストセラーだ。多くの西洋人読者は「2500年の歴史がある書物が多くの原理を明らかにしている。技術が進歩した現在でも、その原理は実用価値を失っていない」と驚嘆している。

 欧米の学者は「孫子」について、軍事戦略にも、人生哲学にも、ビジネスにも、スポーツの競技にも、人材開発にも、日常生活にも、あらゆる分野で利用できるとして、その現代的意義を極めて高く評価している。「孫子」はもはや、中国だけの古典ではなく、人類全体にとっての古典だ。

 ■直接翻訳をしてこそ、中国古典の神髄を伝えることができる

 私は2014年に「孫子」のトルコ語訳を始めた。もともとは私の指導教官でトルコの第4世代の中国学者であるプラト・オクタン教授が翻訳を始めたのだが、健康上の理由で止まってしまった。そこで出版社が私に、翻訳の継続を依頼した。私はオクタン教授に「一緒に翻訳してほしい」とお願いした。教授は「うれしい事だ」と言ってくれた。

 私は毎週、オクタン教授のご自宅にお邪魔することになった。毎回、何時間もかけて資料を調べて十分に議論することになった。

 私たちがこだわったのは、中国語からトルコ語に直接に訳出することだ。翻訳の作業は、他の言語を経由して訳したのでは、原文からの意味のずれが大きくなってしまう場合があるからだ。

 トルコ語版「孫子」は6月に21刷に達するなどで、販売部数は30万部以上に達した。私は戦国期に書かれた、遊説術を説く「鬼谷子」も翻訳した。「鬼谷子」も2刷に達した。中国学者として私ができる最大の貢献は、中国の古典を多く翻訳することだ。

 「孫子」が書かれた春秋戦国時代は、中国における思索や思想の絶頂期でもあった。道家や法家などの諸子百家が出現した。「孫子」はその中の一つに過ぎない。私は将来、「墨子」や「韓非子」を翻訳したいと願っている。

 中国の古典を翻訳する際には、例えば「論語」ならば孔子が生きていた時代に自分の身を置かねばならない。「紅楼夢」だったら明代の世界を体感せねばならない。過去の“現場”にタイムスリップして、それを現代の人に語るために、再びタイムスリップをして戻ってこねばならない。

 また翻訳をする際には、評価が定まった注釈書を選択することも重要だ。例えば、私が「論語」を翻訳する際には、中国で発表された楊伯峻先生(1909-1992年)による「論語訳注」などを参考にした。楊先生は2500年にわたる歴史的を通じて創作されたさまざまな著作を知らべ、生涯をかけて儒家の古典を研究した。先生の観点は私にとって大きな助けとなる。

 より多くの中国の古典がトルコ語に翻訳されれば、トルコの人々が中国をよりよく理解し、中国の知恵を知るために役立つ。例えば西洋には「道」、「君子」、「小人」といった概念がない。それらを理解すれば、「新たな窓」が開けられるに違いない。

 ■中国の古典によって「自らと異なる知恵」と「共通する感情」を知ることができる

 人類史を振り返れば、集団間や集団内の競争は避けられない。極めて過酷な競争だ。近代以前にこの種の競争、あるいは戦いは、地球で生命が登場して以来の「弱肉強食」の生存本能を踏襲していた。生産能力が不足していたので、「よい状況」を獲得せねば生き残れなくなるといった事情もあった。

 しかし、大きな苦難をもたらす戦争についての反省が常に存在したのも事実だ。現在のグローバル化は、国際社会における生産活動をより密接に結びつけ、貿易を促し、文化の際を縮小して、「寛容」という価値観を育成した。戦争は以前よりも、さらにいとわれるようになった。

 洋の東西を問わず、古典は全人類にとって役立つ宝だ。そして中国文学には西洋とは異なる文化的背景、西洋とは異なる言語表現法があり、また西洋とは異なる人間関係の構築法がある。だからこそ、中国人以外が中国の古典に接した場合、心が啓発されるわけだ。

 しかし一方では、中国の古典や中国文学を読んでみれば、中国以外の文化圏に属する人と共通する感情が存在することが分かる。全人類に共通する感情と言ってよい。世界には多くの複雑な問題や紛争が存在する。しかしこの人類に共通する感情を出発点にすれば、人類は基本的に理解し合い、互いに打ち解けた関係を構築できるはずだ。

(構成 / 如月隼人)

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