東南アジアは中国伝統医学の影響受け、中国は東南アジアの影響受けた―専門家が紹介

日本では中国の伝統医学に由来する医学体系が「漢方」と呼ばれる。実は「漢方」という言葉は、比較的新しく出現した。江戸時代に日本にオランダ流の西洋医学が伝わると、オランダ医学を指す「蘭方」という言葉が登場した。後になり、西洋医学と区別するために改めて「漢方」という言葉が発生したという順番だ。西洋医学が伝わる前の日本の「医の体系」はすべて中国医学に由来したので「漢方」といった言葉は必要なかったわけだ。また、「日本の漢方」は“本家”中国の伝統医学と全く同じではない。まず、日本で入手しやすい生薬などを多用するようになった。中国では人の体の本来のあり方や現状を分析したり、薬材の性格分類などの理論面を極めて重視するのに対して、日本の「漢方」は、「この症状にはこの処方が有効」という現象面に注目する傾向があるという。

中国医学は東南アジア諸地域でも受け入れられた。東南アジアでの状況はどのようなものだったのか。中国華僑歴史博物館の寧一副館長は、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、そのあたりを説き明かした。以下は寧副館長の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

中国医学を最も早く受け入れたのはベトナム中北部

東南アジアで中国医学の影響を最も早く受けたのは、ベトナムの北部から中部にかけての地域だ。ベトナムの歴史書によると、崔偉という中国から来た医師が、紀元前257年にはベトナムで病気治療をしていた。秦朝(紀元前221年-同206年)と漢朝(紀元前202年-紀元220年)は勢力を南に伸ばし、現在のベトナム北部に郡を設けた。そのため中国医学の影響が一層強まった。

ベトナムを含む東南アジアで、中国医学はまず王侯貴族などに受け入れられた。その後、中国からの移民が東南アジアに定住するようになると、改めて中国医学が持ち込まれた。その結果、さまざまな階層の現地人が、中国医学を歓迎するようになった。

ベトナムでは、中国から伝わった医学体系を「北の医術」、現地にそれ以前からあった医学を「南の医術」と呼ぶようになった。「北の医術」と言っても、中国本土の医学と全く同じではなく、自然条件や多発する病気などの治療により適するように、中国医学は現地化していった。

名医として名を残すベトナム人医師の黎有晫(レ・ヒウ・チャ、1720-1791年)は「新鐫海上醫宗心領全帙」という著作で、中国医学の理論体系とベトナムにおける医療の実際を融合させた。この書物は内容が多岐にわたっており、その後のベトナムの医学に大きな影響を与えた。

中国医学も東南アジアからの影響を受けた

中国医学の東南アジアとの交流に大きな影響を与えた政治の出来事と言えば、鄭和(1371-1434年)の大航海もある。鄭和の艦隊には医官も乗り組んでいた。医官には、到着した土地での生薬の調査や鑑定、採取、購入などの任務が課せられていた。逆に、医官は現地に持ち込んだ中国の薬用植物の種子を持ち込んだので、条件が合致する薬用植物は現地で栽培されるようになった。また、病気の治療や医学知識を改めて教えた。

インドネシアのバタビア(現、ジャカルタ)の華僑の歴史を記した「開吧歴代史紀」によれば、現地のオランダ人総督のエクロフ・ファン・ゴーンスは1681年に病気のために退任して帰国した。その際には華僑医師の周美爺がゴーンスに付き添った。周美爺は翌年にインドネシアに戻った。その後は、現地の高級官僚が病気になると、周美爺に治療を求めた。周美爺は「バタビア一の神医」と呼ばれるようになった。

東南アジアは動植物資源が豊富で、中国では珍しい鉱物も産出する。そのため、東南アジアから多くの動植物、あるいは鉱物由来の薬材が中国にもたらされた。また、道教の道士や中国人の僧侶が中国と東南アジアを行き来するようになった。彼らは薬材資源について新たな認識を得、また交流を促進する役割りを果たした。

唐代(618-907年)中期以降は、海のシルクロードが中国と外国を結ぶ重要なルートになっていった。このことで、中国と東南アジアの交易はますます盛んになった。香料や中国医学で用いられる薬材は、東南アジアから中国への重要な輸出品になった。

東南アジアで「医食同源」の影響を受けた料理が登場

明末から清初にかけて(おおむね14世紀)、東南アジアではかなり大規模な華僑社会が形成されていった。その結果、中国医学が東南アジア各地にさらに浸透した。

また、19世紀中葉以降には、中国南東部沿岸部の人々が「契約労働者」として東南アジアに大量に渡った。彼らは重労働や東南アジアの高温高湿な風土などに直面した。そのため、中国医学による医療に対する需要が急増した。その結果、中国から多くの医師が東南アジアに赴いて治療に当たることになった。

東南アジアの華僑は互いに助け合った。中国医学による病院や慈善組織、薬局、薬剤工房が作られた。高齢になり貧困と病気に苦しむ華僑のための公益事業が、現地の華僑の手によって進められた。

慈善事業としての医療の多くは、中国系の宗教施設で提供された。中国医学に携わる医師には定期的に出向いて診療にあたる義務が課せられた。つまり宗教施設は人々にとっての心のよりどころであるだけでなく、医療を求める場所にもなった。そして、華僑ではない一般住民も、このような場所で医療の恩恵にあずかることになった。

海上交通の要所だったマレーシアでは、マレー語に中国医学に由来する言葉が取り込まれた。例えばジンセン(高麗人参)、コヤック(膏薬)、ボンメフ(摸脈=脈をとる)などだ。

中国医学とは、病人を治療するだけではない。日常生活を通じて病気などになりにくい体質を作ることを重視する。いわゆる「医食同源」もその一環だ。東南アジアに渡った華僑もこの考えを守った。そのため、現地の食材や食の好みなどを反映して、しかも「医食同源」の考えを取り入れた独特の飲食物が登場した。マレーシアのスープ料理のバクテー(肉骨茶)や、ベトナムで盛んに飲まれるハス茶がそうだ。

マレーシアではニョニャ料理というものも出現した。ニョニャは漢字で書けば「娘惹」だ。この言葉は、まずは中国から渡って来た女性を指し、次に華僑男性とマレーシア人女性の間に生まれた女性を指すようになった。ニョニャ料理はマレー料理と中国料理の融合だ。そのことで、やはり「医食同源」の影響を受けている。

東南アジアでも、近代以降は西洋医学の影響力が極めて強くなった。しかし現在でも中国医学は強い影響力を持っている。ベトナム、シンガポール、フィリピンなどでは、国家の承認を得ている「漢方薬」がある。ベトナム、フィリピン、タイでは中国伝統医学の地位が承認されている。中国と東南アジア諸国の医学界の交流も盛んになっている。

多くの中国人が海外に移住した歴史は、中国伝統医学の海外での発展の歴史でもある。中国医学界は今も中国と世界各国との交流を推進している。これは、東西の文明が互いに参照し合う重要な動きだ。外国の人々に中国医学を認めてもらい、受け入れてもらえれば、中国医学の発展の余地がそれだけ拡大することになる。現代的な論理を用いて中国医学がもつ文化上の理念を説明し、外国の人々に中国医薬の背後にある中国の伝統的な哲学思想と価値観をしっかりと説明することも必要だ。そうすれば、より多くの海外の人々に中国医学を理解し、受け入れてもらうことができるだろう。(構成 / 如月隼人

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