30年前の「九二共識」はどのように成立したのか
中国新聞週刊 黄衛記者
「正直なところ、当時私たちには、欧米のような「世論戦」に対処した経験がまだなく、正確さだけを考えて書きました。当時、私自身は少なくとも、どんな風に印象的に書こうかなんて考えませんでした」と海峡両岸関係協会副会長で中国国務院台湾事務弁公室元副主任の孫亜夫氏が述べた。
今年は「九二共識」から30周年を迎える。今でも、孫亜夫氏は海峡両岸関係協会の「九二共識」に関する要約を即座に話すことができる。それは、両会(海峡両岸関係協会と台湾海峡交流基金会)が、「海峡両岸(大陸側と台湾側)は一つの中国の原則を堅持する」とそれぞれが口頭で表明することに合意したということである。
孫氏は次のような考えを示す。それを簡潔で印象的に要約をしなければならない場合、ひょっとしたら「それぞれが表明する一つの中国を堅持する」(「各表堅持一中」)ということができるかもしれない。「堅持」という2文字は省略することはできない。それは、「それぞれが表明する」(「各表」)がどのようなものであれ、一つの中国の原則の堅持は切り離すことができないからです。
「情勢は人より強い」
「九二共識」を理解するためには、1990年7月と8月に起こった2つの悲劇的な出来事から始めなければならない。
1990年7月22日早朝、台湾当局が送還した密航者25人が座礁した漁船で死亡。8月13日にも送還途中の「閩平漁5202号」に護衛中の軍艦が衝突し、送還者21人が死亡している。 1カ月足らずの間に2件の痛ましい事件が発生し、台湾では世間を騒がせた。 台湾当局は、大陸当局と交渉して解決する道を探すしかなく、開催地は金門に決定した。
9月12日、中国国務院台湾事務弁公室交流局副局長の楽美真氏は、中国赤十字本部理事として台湾赤十字会秘書長の陳長文氏と送還協力協定(「金門協定」)を結んだ。これは1949年以降、両岸がそれぞれ権限を授けた民間団体が結んだ最初の書面による合意である。
楽美真氏は台湾の記者の取材に応じ、「現在の台湾問題は『情勢は人より強い』」と述べた。確かに、海峡両岸では情勢の進展が非常に速い。
10月7日から1カ月余りの間に、台湾は大陸事務に関連する三つの新しい組織である「国家統一委員会」「大陸委員会」および民間団体として「海峡交流基金会」(略称 海基会)を相次いで設立し、意思決定から実行までを「一元的」に行う体制を構築した。
12月、中国共産党中央委員会は対台湾全国工作会議を開催した。これは、1949年以来初めての対台湾全国工作会議であった。この会議の後、中国共産党中央委員会対領導小組と中国国務院台湾事務弁公室が統合され、一つの機関に二つの看板となった。
中国国務院台湾事務弁公室は台湾海峡交流基金会の設立を重視した。海峡交流基金会に対応するため、国務院台湾事務弁公室に総合局が新設された。鄒哲開氏が局長に就任し、唐樹備氏が指導にあたった。
1991年4月、台湾海峡交流基金会副理事長兼秘書長は大陸訪問団を率いて「表敬」訪問した。
4月29日、唐樹備氏は北京釣魚台国賓館で陳長文氏一行と会見し、「一つの中国の原則を堅持する」を柱とする五原則を提案した。
それを聞いた陳長文氏は驚いて「台湾海峡交流基金会は事務的問題を話すために来たのであって、政治的問題を話す権限はない」と述べた。
同年11月、陳長文氏は第2次台湾海峡交流基金会訪問団を率いて北京を訪問した。海峡両岸の犯罪を共同で防止し取り締まりの手続きに関する交渉を行ったが、失敗に終わった。
1991年は海峡の突発事件のピークで、密輸、強盗、漁業紛争が頻発し、双方の意思疎通と交渉を強化する必要があった。台湾側は、大陸にも台湾海峡交流基金会に対応する民間団体が設立されるのを希望してきた。
12月16日、海峡両岸関係協会(略称「海協会」)が設立された。これにより、中国国務院台湾事務弁公室内に調整局が新設され、特に海峡両岸関係協会の業務を担当した。
台湾側は迅速に対応して海峡両岸関係協会の設立当日、「大陸委員会」副主任委員兼スポークスマンの馬英九氏が「海峡両岸関係協会の設立は現実的な動きであり、今後は一歩一歩順を追って進める原則に基づいて、解決できる問題から先に解決するべきだ」と述べ態度を明らかにした。
「彼らは『一つの中国を堅持する』ことを認めた」
台湾が優先的に解決したい急務は二つあり、一つは 両岸の公正証書の検証と使用、もう一つ書留書簡の照会と補償である。
1992年3月下旬、台湾海峡交流基金会法務サービス部の許惠祐部長が北京を訪れ、海峡両岸関係協会と実務会談を行った。海峡両岸関係協会側からは研究部の李亜飛主任と諮問部の周寧副主任が参加した。
双方が提供する公正証書の写しの種類や手数料など技術的な相違はあるが、肝心なのは一つの中国の原則をどう扱うかである。
海峡両岸関係協会は、一つの中国の原則を明確にすること、または「中国の内政」であることを明記することを要求した。海峡交流基金会はこの問題について議論する権限がなく、一つの中国の原則と話し合っている技術的事務問題と何も関係ないと述べた。
両者の間に合意が得られなかったため、大陸から台湾に渡った国民党退役軍人による大陸への家族訪問、両岸の同胞間の結婚、養子縁組、財産相続などに影響が出ており、退役軍人の不満が高まった。このような状況下で、李登輝氏は「国家統一委員会」に検討と提言を依頼した。
5月「国家統一委員会」が会議を開催し議論し、今は一つの中国の原則を両岸の実務協議に取り入れるべきではないという意見が大勢を占めた。しかし、台湾で策定中の『台湾地区及び大陸地区人民関係条例』は、台湾内での「一つの中国」に関する大きな議論を巻き起こした。
「国家統一委員会」が再び開催され、8月1日に「『一つの中国』の意味について」という決議を採択した。決議は三つあり、最も重要なのは一つ目で、海峡両岸はいずれも「一つの中国の原則」を堅持しているが、双方が付与した意味は異なる。
海峡両岸関係協会の顧問らを招き協議をした。台湾民主自治同盟中央主席の蔡子民氏が唐樹備氏に会ったときの第一声は「樹備よ!よし!彼らは『一つの中国』を堅持することを認めた」だった。
「8・1決議」を受けて、海峡両岸関係協会の責任者が談話を発表した。
談話ではまず、「海峡両岸が一つの中国の原則を堅持する」ことが決議で明確になったのは、海峡両岸の協議にとって大きな意義があることを確認した。実務協議では「一つの中国の原則を堅持」すべきであることが海峡両岸のコンセンサスとなっていることを表明した。同時に、当然、台湾側関係者による『一つの中国』の意味の理解には反対する」とし、双方がこのコンセンサスに基づいて早急に実務協議を再開して前進させることを示唆した。
「後日のために記録を残す」
10月28日、海峡両岸関係協会と台湾海峡交流基金会は香港で実務会談を再開した。それぞれ周寧氏と許惠祐氏が中心となって話した。台湾海峡交流基金会が提出した五つの対案は、両岸にまだ存在する政治的相違の内容が含まれていたため、海峡両岸関係協会に受け入れられなかった。
許惠祐はまた3種類の口頭表現案を提案した。その第3案(全部で8案)は次のとおりである。
海峡両岸が共同の努力で国家統一を求める過程で、双方が一つの中国の原則を堅持するが、一つの中国に含まれる意味の解釈はそれぞれ異なる。しかし、両岸の民間交流がますます盛んになるという見地から、海峡両岸の人々の人権を保護するために、文書を検証し、適切に解決しなければならない。
香港での会談後、海峡両岸関係協会内部の評価は台湾海峡交流基金会の案に同意した。
しかし、許惠祐氏が提出した「それぞれが口頭で述べる」という提案は入るのか。
11月3日午前、海峡両岸関係協会と台湾海峡交流基金会は電話で会談し、海峡両岸関係協会は海峡交流基金会が提案した一つの中国の原則を口頭で表現することを十分尊重し受け入れること、口頭表現の具体的内容については別途協議することを申し合わせた。
台湾海峡交流基金会は、同日プレスリリースを発表し、深夜、海峡両岸関係協会にファクスで送信された。プレスリリースによると、主管機関は同会が口頭声明方式でそれぞれ「一つの中国」の原則の意見を表現することに同意した。口頭声明の具体的内容については、「国家統一綱領」および「8・1決議」に基づいて表現する。
大陸側は、相手側の案と海峡両岸関係協会の案の両方を公開し、「後日のために記録を残す」必要があると考えた。
台湾海峡交流基金会の第8案は海峡両岸関係協会がもともと提案した第4案と類似しているため、海峡両岸関係協会は第4案に基づいて次のように修正することにした。
海峡両岸の双方は、一つの中国の原則を堅持し、国家統一を求め努力する。しかし、海峡両岸の実務交渉において「一つの中国」の政治的意味に言及しない。この精神で、両岸の公正証書の使用(またはその他の交渉事項)を適切に解決する必要がある。
11月16日、海峡両岸関係協会が台湾海峡交流基金会に書簡を送り、海峡両岸関係協会は上述の口頭表現の要旨を相手側に伝えるとともに、台湾海峡交流基金会の口頭表現の記録を別紙として添付した。この書簡は、同日、メディアによって公開された。
12月3日、台湾海峡交流基金会は海峡両岸関係協会に正式に返信し、海峡両岸関係協会の11月16日の書簡にある口頭表現の要旨に異議を唱えなかった。
その後、当事者双方はコンセンサスが得られたと考えた。これが両者間の交渉のために政治的基盤を築き、1993年4月にシンガポールで開催された有名な「汪辜会談」の成功にもつながった。会談では、『両岸公正証書の使用と検証に関する協定』および『両岸書留書簡の照会と補償に関する協定』を含む4つの協定に署名し、両岸の協議制度を確立した。
「両岸関係のメインスイッチ」
「九二共識」が誕生して以来、平坦な道ではなかったことは言うまでもなく、この言葉の誕生そのものが苦難の道だったことを物語っている。
2000年、陳水扁氏が(総統に)就任する「5.20」の前、両岸関係は低気圧に覆われていた。当時の「大陸委員会」主任委員の蘇起氏は問題の核心はやはり「一つの中国」問題にあると考えた。
蘇起氏は2000年4月28日に台北の淡江大学で開催された国際シンポジウムで、「1992年コンセンサス」あるいは「九二共識」、英語では「1992consensus」と呼ばれる新語を提案した。これはデタントの経験を指す言葉であり、基調は温和で善意に満ちている。同時に十分な包容力もあり、「『九二共識』に戻る」と言いさえすれば、みんなで乗りこえることができると考えた。
また、「九二共識」という形式は国際法上の観点からは条約や協定より低いが、手紙や電報のやり取りが依然として覚書の交換(exchange of notes or letters)の一種であり、国際間で頻繁に使われていることは否定できない。したがって、論者が単一の文書がないことを批判することはできるが、文書やコンセンサスがないことを批判することはできないと述べた。
台湾政治大学の趙建民教授によると、「九二共識」の微妙な点は、非常に論争的な政治的意味合いを中性的な言葉で表現していることである。この4つの文字は、海峡両岸の数十年にわたる政治的混乱の中で現れることはまれで、それに出合うことは容易ではない。
2008年、国民党が政権に復帰し再び「九二共識」路線に戻った。
2012年台湾地区指導者(総統)選挙の前夜、台湾の『聯合報』は次のような社説を掲載した。両岸経済協力枠組み協議(ECFA)による経済・貿易上の利益だけでなく、両岸の平和の配当と「九二共識」による友好関係が政治経済状況全体にもたらす総合的な効果を見なければならない。両岸関係を華やかなホールに例えるなら、「九二共識」は「両岸関係のメインスイッチ」である。このスイッチをONにすると華やかなライトが次々と点灯する。「九二共識」を否定するのは、メインスイッチをOFFにすることに等しい。ライトを明るく照らし続けたいのか。
現在、両岸の間にかかる浮き雲が見通しを遮っている。もしかすると再びこのスイッチを入れてこそ、台湾の政治学者張麟征氏の言ったように「行いては到る、水の窮まるところ。坐しては看る、雲の起こるとき」(流れが尽きるところまで行って、腰を下ろして見上げたら雲が湧き上がる瞬間を眺めることができる)のである(完)
【編集 于暁】