高原のシルクロードがチベットを文化の「要」にした―専門家が歴史の実情をひもとく
「チベット」と聞くと、外界から隔絶された歴史を持つようにも思えてしまうが、そうではない。世界の多くの地域と同様に、古くから他の社会との交流を通じて、みずからの文化をはぐくみ、他の文化圏に影響を与えてきた地域だった。
「チベット」と聞くと、外界から隔絶された歴史を持つようにも思えてしまうが、そうではない。世界の多くの地域と同様に、古くから他の社会との交流を通じて、みずからの文化をはぐくみ、他の文化圏に影響を与えてきた地域だった。
東洋思想と西洋思想の発想の違いは大きい。しかし西洋思想にも、中国思想に近い部分がある。
2021年12月19日、香港特別行政区第7期立法会の選挙が成功裏に行われた。実践が証明しているように、新しい選挙制度は香港の実情にかなった良い制度であり、3組の「真」を用いて今回の選挙の特徴を詳しく説明することができる。
日本で「今年の漢字」の発表が始まったのは1995年だった。現在では、その年の漢字を選出する動きは東アジアや東南アジアだけでなく欧米にも広まり始めた。中国辞書学会の会長などを務める李宇明氏はこのほど中国メディアの中国新聞社の取材に応じ、「今年の漢字」が広がる状況や各国における漢字文化や中国語の受け入れについて解説した。
中国はすでに、世界の「橋梁(きょうりょう)大国」だ。橋梁建設の第一人者である徐恭義氏は、苦労話を交えながら、中国における橋づくりの“進化”を語った。
一体多元の「大一統」 中国の前漢王朝と共和政ローマは同時代に存在した。新王朝の初期、文帝・景帝と続いたわずか40年の間に、漢朝は「皇帝が同じ毛色の馬を4頭揃えられない〔皇帝用の四頭立て馬車を用意できないという意味、それほど困窮していたということ〕」(7)状態から食糧があり余っている状態になった。これだけ急速に豊かになったのはなぜか。朝廷が同一の文字、貨幣、度量衡を利用して巨大な市場を創出し、商取引を通じて各地方の経済を全国的に結び付けたからだと司馬遷はいう。分業は商品交換を生み出し、この「交換価値」が社会全体の富を増やし、同時に農業生産性の飛躍的向上を促したのである。このプロセスを通じて土台となり前提となったのが天下の「大一統」だった(8)。 漢朝の体制が最終的に固まるのは武帝〔劉徹〕の時代である。武帝は二つの大事業で中国に貢献した。一つは、地方諸侯の勢力を弱体化させ中央権力を郡県に直通させたこと、そしてこれを土台に「大一統」の儒家政治を確立したことである。もう一つは、国家の版図の基礎を築いたことである。 儒家政治の主な基礎は魯の国の年代記に孔子が筆削した『春秋』である。後世に流布している多くの版のなかで、前漢の儒学者・董仲舒が高く評価した『春秋公羊伝』、すなわち公羊学派が最大の影響力をもっていた。 公羊学の核心は「大一統」である。その最もユニークなところは、皇帝の権力を完成させると同時にそれに制限を加えたことだろう。中国の「天に奉じて運を承る〔天の意に従い天命を受ける〕」は西洋の「王権神授」説とは違う。ローマの「皇帝神格化」は民意と無関係だった。しかし、古代中国では天の意思は民意を通じて体現されねばならなかった。人民にとって良き天子であってはじめて「天」は皇帝を「天子」と認める。人民にとって好ましくなければ天は皇位を別の人間に賦与する。こうして天子、天命、民意の三つは抑制と均衡の関係を形づくる。つまり、天子は天下を司り、その天子は天命に従うが、天命はすなわち民意ということだ。権力には責任がともない、責務を尽くさなければその権力は合法性を失うということがここで強調されている。 漢の武帝は董仲舒の政治理論を受け入れ、手始めに次のことを官衙に命じた。時勢に明るく孝〔父母への孝順〕であり廉〔清廉潔白〕である寒門〔身分の低い貧しい家柄〕の儒者を民間から探すこと、そしてこれを側近として皇帝に推挙することである。このため、武帝の時代には平民出身の名臣が数多く輩出した。また、これ以降、官途に入り栄達するには儒家倫理の修得が不可欠になった。 文官政治の察挙制度〔推薦を主とする官吏登用制度〕もこの時期に始まった。門閥富豪にだけ頼っていては天下を治めることはできず、むしろ道理をわきまえ、道徳心にあふれ、知識と責任感に秀でた下層の人物に権力を分与することではじめて民心を束ね政権基盤を拡充することができる―武帝にとってこれは自明のことだった。武帝は儒者に官吏を兼ねさせることで「統治」と「教化」の抱合を実現した。このときから地方官吏は行政に責任を負うだけでなく、教育にも責任を負わなければならなくなった。 さらに、武帝は文官を統制するために「刺史制度」を設けた。中下級官吏の一定数を刺史とし、不定期に地方行政の督察にあたらせたのである(9)。地方豪族の大土地所有をけん制することと、地方官吏の職業的モラルを維持することが目的だった。これは歴代中央監察制度の端緒である。 劉徹〔武帝〕の「百家を罷黜し、独り儒術のみを尊ぶ〔諸子百家を排斥して儒家思想だけを尊ぶ〕」は実際には間違って理解されている。武帝は董仲舒だけではなく、法家の張湯、商人の桑弘羊、牧畜業主の卜式、ひいては匈奴の太子・金日磾をも登用している(10)。みな『春秋』を読んでいたとはいえ儒者ではない。前漢政治は思想から実践にいたるまですべてが多元的である。多元的だというのなら、なぜ儒家思想で縛りをかける必要があるのか。それは、一体性がなく多元的な勢力均衡論のみに頼っていると最後は必ず分裂するからだ。逆に「大一統」さえあれば、多元的な思想を一つの共同体内に共存させることができる。 多元一体の「大一統」こそ漢の精神なのである。 「天下人心」を映し出す鏡―史官制度 中華文明は「公権力」から「絶対的自由」を保った西洋型の知識人を生み出すことができなかったという説がある。その際、司馬遷が西洋型に近い唯一の例外だともいわれる。曰く、司馬遷は董仲舒を師と仰ぎ儒学を学んだが、むしろ道家の「無為をして治める〔人為によらず天下を治める〕に敬服しており、自由放任の商業社会のほうを好んだ。『史記』では刺客、侠客、商人に王侯将相と同じ「列伝」の待遇が与えられている。勇気をもって武帝を批判し(11)、自ら名乗り出て濡れ衣を着せられた大臣を擁護し、それが原因で刑罰に処せられた、と。 中国最初の紀伝体通史『史記』を書き上げた司馬遷(CNS Photo) しかし、結局のところ司馬遷は世俗を超越したギリシャの学者と同じではない。司馬遷は武帝の政治流儀を好まなかったけれども、地方勢力弱体化には賛辞を惜しまず、国家騒乱をなくす抜本的措置だと考えた(12)。生涯を通じて貧しかったが金持ちに不平不満を抱いたことがなく、商人の富はほとんどが経済法則を把握し懸命に働いたおかげで得たものだと考えた(13)。酷吏〔法に威をかりて人を罪に陥れ、容赦なく処罰した役人〕に痛めつけられても法家に遺恨を抱かず、それどころか法家の政策がうまく実行されれば社会の長期安定を維持できるとさえ考えた(14)。 司馬遷は体制に対して合理的な批判を展開したが、それらはすべて個人的苦痛から出たものではない。「個人の得失」は眼中になく、全体の利益だけを重視したからである。ことさらに自由を追い求めたが故に公権力を批判したのではなく、それが天下にとって有害と考えたから批判したのである。称賛もそうだ。公権力の暴威に屈したからではなく、それが天下にとって有益だと考えたから称賛したのである。個人の自由と集団の責任は司馬遷のなかで弁証法的に統一されていた。これは、中国知識人が西洋知識人と区別される際立った特徴である。 司馬遷は『史記』で武帝を批判しただけではなく、漢朝を開いた皇帝・劉邦の邪推や呂后による政治の乱れ、功臣名将の欠点も書き、漢朝成立を少しも神聖視するところがなかった。にもかかわらず、漢朝は『史記』を公式に集成した国史として後世に伝えていった。すべてを積極的に受け入れる意思と自己批判の精神がなければできないことである。漢朝は皇帝を評価する権限を史官に与えた。歴史は中国人の「宗教」に相当し、歴史の評価は宗教裁判に相当する。この原則は歴代の王朝に引き継がれていった。 華夏の正統は中華の道統〔本来、儒学の道を正統とする考え方を指すが、ここでは広く倫理的、政治的規範の意〕である。大規模政治体が長期にわたって安定するには、社会の各集団、各階層がこの道統を価値観として共有しなければならない。中華の道統の核心は中道、寛容、平和であり、それはある種の原則、境地、法則、価値を体現したものだ。皇帝から臣民にいたるまで、社会階層のすべてが各々の道に従わなければならない。「公」のためか「私」のためか、「大一統」の維持か分裂か、正しい道は高々と掲げられており、だれもその「道」というものから逃れることはできない。 (7)韓兆琦訳注『史記・平準書』中華書局、2010年、P2344。(8)前漢王朝が成立した年、中央が直接統治していたのは15の郡にすぎず、これは全国のわずか3分の1だった。他方、斉、楚、呉のような大諸侯は5~6の郡と数十の都市を擁していた。景帝の時代には呉楚七国の乱が起こり、武帝の時代にも淮南王、衡山王の乱があった。(9)「一条,強宗豪右,田宅踰制,以強凌弱,以衆暴寡。二条,二千石不奉詔書,遵承典制,倍公向私,旁詔守利,侵漁百姓,聚斂為姦。三条,二千石不恤疑獄,風厲殺人,怒則任刑,喜則任賞,煩擾苛暴,剥戮黎元,為百姓所疾,山崩石裂,妖祥訛言。四条,二千石選置不平,苟阿所愛,蔽賢寵頑。五条,二千石子弟恃怙栄勢,請託所監。六条,二千石違公下比,阿附豪強,通行貨賂,割損政令」顔師古注『漢書』中華書局、1999年、P623~P624。〔百官公卿表第七上「武帝元封五年初置部刺史,掌奉詔条察州」につけられた顔師古の注で、「六条問事」といわれる。一条で強宗豪右すなわち豪族の、二条以下は二千石すなわち郡太守の不法行為を列挙しており、これを監察対象とした〕(10)「卜式拔於芻牧,弘羊擢於賈豎,衛青奮於奴僕,日磾出於降虜,漢之得人,於茲為盛。儒雅則公孫弘、董仲舒、兒寬,篤行則石建、石慶。質直則汲黯、卜式。推賢則韓安國、鄭當時。定令則趙禹、張湯,文章則司馬遷、相如,滑稽則東方朔、枚皋,應對則嚴助、朱買臣,曆數則唐都、洛下閎,協律則李延年,運籌則桑弘羊,奉使則張騫、蘇武,將率則衛青、霍去病,受遺則霍光、金日磾,其餘不可勝紀」顔師古注『漢書』中華書局、1999年、P1998~P1999。〔公孫弘卜式兒寬伝第二十八からの引用、傍線は人物名でいずれも武帝が登用した官吏。それぞれの出自や業績が書かれている〕(11)韓兆琦訳注『史記・汲鄭列伝』中華書局、2010年、P7100。(12)韓兆琦訳注『史記・漢興以来諸侯王年表』中華書局、2010年、P1492。(13)韓兆琦訳注『史記・貨殖列伝』中華書局、2010年、P7662。(14)韓兆琦訳注『史記・秦楚之際月表』中華書局、2010年、P1437。 ※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「秦漢とローマ(3)中華道統の礎を築いた前漢王朝」から転載したものです。 ■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら
一神教が思想を支配した西洋やイスラム圏、極度に抽象的な哲学が発達したインドなどと異なり、中国の文化文明には「現実の人と社会」を中心に考える発想が強かったとされる。中国国家イノベーションと発展戦略研究会の下部組織である「中国文明と中国の道研究センター」の謝茂松主任はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、中国文化を理解するキーワードは「民本と天下」などと説明した。以下は、謝主任の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。 【その他の写真】 ■西洋中世とは異なり、中国では社会階層に流動性が存在した 文明史の観点からは、中国は孔子の出現以来、平民の時代に入ったと言える。唐代(618-907年)までは名家一族、すなわち貴族と称することができる家柄があったが、宋代(960-1279年)にはほぼ消滅した。社会は士大夫及び農・工・商で構成されるようになった。士大夫は科挙に合格することで社会の支配層に加われた。そして農・工・商、特に農民が生産を担った。しかし、エリート層だった士大夫も元をたどれば農民の家の出身であることが大多数だった。2020年、遼寧博物館で開催された唐宋八大家文物展 そして中国では「民をもって本位となす」との考えが出現した。この考えかたには二つの意味が込められている。まず士大夫には、国を治め管理し「社会を優先」することが望まれた。そして一般大衆は、「道徳を自覚する」ことが求められた。 「道徳」は本来、士大夫に求められたものだったが、明代(1368-1644年)ごろからは民衆にも強く求められるようになった。例えば、王陽明(1472-1529年)が樹立した心学は、人として「良知に至る」ことを主張した。そしてだれでも「良知に至る」ことは可能であり、それができた人は「聖賢」と説いた。 西洋では中世と呼ばれる時代、国王、領主、騎士といった身分はすべて世襲制だった。そして文化面は全てキリスト教の神職者が担った。庶民である農民や農奴は社会の最下層だった。中国のように、庶民の家から「聖賢」が出現する可能性が残される社会とは、本質的に異なっていた。2020年、遼寧博物館で開催された唐宋八大家文物展 ■「運命共同体」構想は西洋式の「勝者が総取り」を超越する試み 士大夫は順列がある官僚組織に組み込まれたわけだが、その上にはさらに天・君・臣・民という順列があった。君すなわち皇帝は「民を本位」に政治を行わねばならないが、君も臣も民も「天」の制約を受ける。そこで「天命」や「天の理」といった概念が重視されるようになった。「天下」という言葉で分かるように、天という上位の存在があって、全ての存在は天の摂理に従うという考え方だ。 現代中国社会において、かつての「天」と同様なのが、人や自然による「運命共同体」の考えだ。中国が世界に向けて提唱している「人類運命共同体」は、中国の伝統的な天下観と見事に合致している。また、社会主義国家である中国が人民全体の利益を優先することも、儒家などが説いてきた中華文明の特徴に合致する。 現在の「一帯一路」イニシアティブや「人と自然の共同体」は、中華の伝統精神の延長線にある。我々は「共同富裕(皆が共に裕福になる)」を目指し、それを全世界に拡大しようと考えている。これは西洋文化にある「勝者が総取り」の発想を最終的に超越しようとする試みでもある。2020年、遼寧博物館で開催された唐宋八大家文物展。 ■中国の伝統的発想で「国際関係のあるべき姿」が見えてくる 中国では世界で唯一の、「原初の文明」が現在まで連続して発展した国だ。中国文明の普遍性は極めて強い。西洋文明にも普遍性はあるが、中国文明には西洋文明をさらに内包できる普遍性がある。 中国文明の普遍性を知ることができる言葉として、例えば論語の「君子は人の美をなさしむ(君子は他人の美点に着目し、それを達成させる)」という、大きな器量を求めるとする言葉がある。同じ論語には「己の欲せざるところを、人に施すことなかれ」という言葉もある。これは、「他者と平等につき合い、謙虚さを忘れるな」との考え方による主張と理解できる。2020年、遼寧博物館で開催された唐宋八大家文物展 一方で、「君子は自ら強めてやまず」や「己が達せんと欲して人を達す」、つまり「自分自身は努力を怠らない」と同時に「自分が達成したいと願っていることは、他人も達成したいと願っているのだから協力の手を差し伸べよ」という言葉もある。これらの考えかたは、現在の国際関係を認識する上でも、極めて有益であるはずだ。(翻訳/ RecordChina)
米国や米国に近い立場の日本や西欧諸国では、新疆などについて「中国での人権問題は深刻だ」とする声が大きい。しかし中国側は「人権問題が深刻なのはむしろ米国」と主張している。西南政法大学人権研究院の張永和院長はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、人権問題についての中国側の考えを紹介した。
土地、内乱、帝政 紀元前206年、ちょうど中国で楚漢が争っていたころ、ローマはカルタゴとの第2次ポエニ戦争のただ中にあった。半世紀を費やしてついにカルタゴを滅ぼしたローマは、マケドニアを解体し、地中海の覇者になった。重要なのは、この間ローマはずっと共和政を維持していたことである。 古代ギリシャの歴史家ポリュビオスは、「混合政体」すなわち王政、貴族政、民主政を融合したことがローマ成功の要因だという。対外軍事権をもつ執政官は王政を、経済大権を握る元老院は貴族政を、採決権をもつ民会は民主政をそれぞれ体現しており、この三つの力が互いにけん制しつつ均衡を保っていた、ということだ。 紀元前1世紀、この権力バランスが崩れ、「内乱の時代」に突入した(3)。そして紀元前27年(4)になってローマはついに共和政から帝政へと転換する(5)。それまで150年間内乱とは無縁だったローマ人を、一転して殺すか殺されるかの状況に追いやったものは何か。土地である。 1世紀半の海外遠征でローマの富豪は大量の奴隷と財宝を故土にもちかえり、「ラティフンディア〔奴隷制大農経営〕」を生み出し、これが自営小農民の大量没落と大土地所有の急発展を招いた。平民はしだいに貧民へと変わり、最後は「パンと見せ物」を求めてローマをさまよう無産市民にまで没落した。 君主〔執政官〕、貴族、平民のなかで最も強い力をもっていたのが貴族である。イタリアの政治思想家マキャベリの言葉を借りれば、ローマ貴族は名誉の点で平民に譲歩するのにやぶさかではなかったが、財産の点では1ミリたりとも譲歩しなかった。したがって、無産市民は最終的に軍閥に頼るしかなかった。戦争で土地を得ることができるのも、それを兵士に分配するよう元老院に強制できるのも軍閥だけだったからである。 こうして国家のために戦った市民は将軍たちの傭兵になった。政治家が支持を失った空白をついて軍閥が登場したのである。 内乱時代のローマに1人の哲学者・雄弁家が誕生した。「古代共和政の父」キケロである。 キケロは紀元前63年、ローマ初の貴族出身ではない執政官になると政界で大暴れし、彼のおかげで死んだ者、失脚した者もいれば、歴史に名を残した者もいる。カエサルの「養子」ブルトゥスはキケロを「精神上の父」とみなした。「暴君を殺害することは真の英雄的行為だ」というキケロの思想に感化されて、ブルトゥスはキケロの名を叫びながらカエサルに剣を振りかざした。 キケロはカエサルの死後、その後継者アントニウスに矛先を転じた。ただ、アントニウスはカエサルと同じ独裁の道を歩むつもりはまったくなく、むしろ元老院と共同でローマを治めたいと考えていた。にもかかわらず、キケロは共和派のリーダーとしてこれを黙殺し、軍隊の招集を共和派に指示すると同時に、オクタヴィアヌスに武装反乱をもちかけた。 このときオクタヴィアヌスは若干19歳、自身もアントニウスに取って代わりたいと思っていたので、すぐさま3000人の古参兵で私兵団を組織しローマに進軍した。このオクタヴィアヌスの反乱は、キケロの「フィリッピカ〔アントニウス弾劾演説〕」の後ろ盾もあって「共和政を防衛するもの」と位置付けられた。 こうしてオクタヴィアヌスは部隊を率い、元老院の大軍も味方につけてアントニウスを打倒、続いてキケロの協力を得て執政官に立候補した。このとき彼は喜んでキケロの露払いになるとも誓っている。 ところが、オクタヴィアヌスは執政官に当選するやいなやキケロを見捨て、一転してアントニウスとの和議に走った。アントニウス側の条件はキケロを殺すことだった。オクタヴィアヌスはなんのためらいもなく同意した。 ギリシャの作家プルタルコスはキケロの最後を次のように書き記している。「やみくもに逃げていたキケロは絶えず馬車の窓から首を出し追っ手をふりかえった。アントニウスの兵はこの首を切り落とし、いつもキケロが見識豊かな弁論をおこなっていた演壇につるした」(6) これは、ローマ史のなかでもとりわけ人々にショックを与えずにはおかない悲劇―帝政のカーテンコールに引きずり出された共和政の挽歌である。キケロの死から11年後、オクタヴィアヌスはローマ帝国の初代皇帝になった。 ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(CNS Photo) 自由の名のもとに 巨富を擁したローマが、その富をいくらかでも貧富の格差解消にまわし、国家の分裂を防ぐことができなかったのはなぜか。歴史書はローマ貴族の贅沢きわまりない生活にその罪をなすりつけるが、これは一面的である。平民は没落しても選挙権があった。執政官の選挙は年に一度、貴族が競って大規模なフェスティバルや格闘技大会、パーティーのスポンサーになったのは、ほかでもなく平民票の獲得のためである。 貴族がいくら裕福だといっても選挙費用をまかなうには十分ではなく、選挙のために破産する者も多かった。ここで財閥の出番となる。表立って資金援助を始めた彼らは貴族ばかりでなく軍閥にも投資した。財閥の金が絶えずローマの軍団に流れると党派闘争は内乱に転化した。50年間に大きな内乱が4回勃発すると、混乱と絶望に陥ったローマ市民は最終的にオクタヴィアヌスの共和制から帝政への移行を支持するようになった。 これはローマ市民が自由を嫌ったということではない。そうではなく、自由は彼らに平等と富と安寧をもたらさなかった、つまり、言葉だけの自由は彼らの切実な関心に報いることができなかった、ということである。貧富の格差問題がそうだ。血を流して戦っても生涯土地を手にすることができなかった兵士たちの不満もそうだ。官と財の構造的癒着と腐敗もそうだ。元老院はこれらの問題に解決策を考えたこともなかった。解決を試みたのはむしろ軍閥である。例えば、オクタヴィアヌスは退役兵士に土地と現金を集中的に支給する財源を設けた。カエサルも万単位の貧民に耕作地を提供するべくローマ近郊のポンティーネ湿原干拓を計画した。コリントス運河をつくってアジアとイタリアの経済を結びつけようとしたのもカエサルである。しかし、ローマ「共和政の父」キケロはこうした工事を批判した。自由を守ることに比べれば雀の涙ほどの価値しかなく専制君主の功名心の最たるものだ、「血と汗を流せ、甘んじて奴隷になれ」と人々に迫っている証拠だと。 「自由」を乱用したのはなにも雄弁家だけではなく、軍閥もそうだった。軍閥にとっての「自由」には、政治の制約を一切受けないという意味が含まれていた。ある派閥が元老院で優勢を占めると、対抗派閥は「自由が圧迫されている」と公言し、当然のように兵を挙げて反乱を起こした。ポンペイウスはマリウス派を暴政といいなし、私兵団を招集した。カエサルは、そのポンペイウス一味が自由を迫害しているとし、ガリア軍団を率いてルビコン川を渡った。オクタヴィアヌスは反乱に勝利すると貨幣を鋳造させ、そこに自身の像とともに「ローマ国民の自由の守護者」の銘を刻んだ。自由、それは利害を異にする集団が内紛を引き起こす口実になったのである。 結局のところ、共和政がコンセンサスを得るには選挙だけでは不十分で、構造的改革を断行する政治家の自己犠牲の精神が必要なのである。 「自由」それのみで自由が守られたことはいままで一度もない。 (3)Nic Fields『The Roman Army:the Civil Wars 88-31 BC』P53。(4)デニス・C・トゥウィチェット、マイケル・レーヴェ編、楊品泉等訳『剣橋中国秦漢史』中国社会科学出版社、1992年、P211。(5)H・F・ヨルヴィチ、バリー・ニコラス著、薛軍訳『羅馬法研究歴史導論』商務印書館、2013年、P4。(6)プルタルコス著、席代岳訳『希臘羅馬名人伝』(下)、吉林出版集団、2009年、P1581。 ※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「秦漢とローマ(2)共和政ローマの挽歌」から転載したものです。...
北京12月11日発中国新聞社電は「全過程人民民主主義はどのようにして西洋式一元民主主義の神話を超越したか」と題する政協全国委員で中国社会科学院政治学研究所所長の張樹華氏の次のような論文を配信した。 30年余り前、フランシス・フクヤマ氏らの学者が「歴史終焉論」、「西洋式民主主義一元論」などの論調を唱え、「民主主義・自由・人権」などの西側の観念に基づく制度モデルが天下を統一すると考えた。これと同時に、西側の政治屋も「民主主義・自由・人権」などを絶対化・道具化・ロゴ化・外交政策化した。長年にわたり、西側は民主主義の定義権・判定権を独占し、思想・制度と発言権における霸権を守り、他国はこれに従えば友とされ、そうでなければ敵とされた。従わない者には政治的・経済的に封じ込めるか、和平演変(平和的転覆)・カラー革命をたくらみ、その思想の西洋化・制度の同質化・発言権の弱体化をはかった。 だが、30年余りが過ぎて、西洋式民主主義モデルは人類の歴史の終焉をもたらさず、世界の平和と発展ももたらさず、まして公平と正義、民主主義と自由などもたらさなかった。逆に、西側陣営が冷戦後に西洋式民主主義を押し売りして、世界にもたらしたのは動乱、衰退、分裂、離散、血涙だった。西側社会自身も政治の過激化、社会のポピュリズム化、アイデンティティーの分裂化などの苦境に陥っている。「金権政治」、「エリート政治」、「アイデンティティー政治」が横行し、新しい資本と古い寡頭が権力を奪い合い、財閥集団が選挙を操作した。米国の政治学者ラリー・ダイアモンド氏は、米国が歴史的に自負してきた西洋式民主主義は2006年から衰退し始めたと認めている。フクヤマ氏は著書「政治の衰退:フランス革命から民主主義の未来へ」の中で、米国式民主主義が衰退期に入っており、天下を統一するのは難しいことを認めざるを得なかった。 ここ数年、一部の政治学者らは視点を変え、西側の政治的混乱と病的な民主主義の脈をとり始めている。複数の学者は、変質した「民主主義」が社会の分断、人種・民族間の矛盾、貧富の分化をもたらし、ポピュリズムなどの過激な思想を生み出し、民主主義の破綻と人権状況の悪化をひどくしたことに注目している。民主主義の変化と変質は一部の国に内部の意思決定の混乱、相互の掣肘、動員力不足をもたらし、政治を悪循環に陥らせている。以下の視点から西洋式民主主義の神話を打破すべきだ。 第一に、西洋式民主主義はどこにでも当てはまる共通ソフトウェアではない。民主主義の生成と発展には経済的基礎、法治精神など一連の条件が揃っている必要があり、やみくもに他国に移植しても水が合わず、南橘北枳(なんきつほくき)となる。西洋式民主主義も千篇一律ではなく、米国式の大統領共和制、ドイツ式の議会共和制、英国式の立憲君主制などさまざまなモデルがある。世界各国の国情はそれぞれに異なるため、多様な民主政治のモデルがより必要であり、無理に西洋式民主主義が持ち込まれれば、政治的エコシステムの混乱や拒否反応は避けられない。2003年にブッシュ政権がイラクに米国式民主主義を移植したことについてフクヤマ氏は、ブッシュ政権は民主政府と市場経済が複雑な要因(政党・法治・財産権・共通のアイデンティティー)の相互作用に由来し、これらの要因が民主主義の先進国では長い年月をかけて獲得されたことを理解していないと批判している。(中国通信=東京) 第二に、西側の政治屋は安全で適正な民主主義の完成品を無料でプレゼントするのではなく、「民主主義」を西洋化、弱体化、他国の改造、自身の霸権の擁護のための道具と手段にしてきた。西洋式「民主主義生産ライン」の製品には常に地政学的な私利が織り込まれている。まさに中国外務省の「米国の民主主義状況」報告が言うように、米国はいわゆる民主主義を輸出して悪い結果をもたらし、「カラー革命」で地域と国家の安定に危害を与え、いわゆる民主主義の押し売りで人道的な悲劇を引き起こし、制裁を乱用して国際ルールを破壊し、「民主主義の灯台」は全世界から批判されている。 第三に、西洋式民主主義の先天的欠陥と後天的不足が民主主義のゆがみ・疎外・変質をもたらし、「西洋式民主主義老化シンドローム」が現れている。西洋式民主主義は過去にポジティブな歴史的役割を果たしたが、その後現状に甘んじて進歩を求めず、絶え間ない改革と改善を図れなかったため、ネガティブな弊害が日ましに顕在化している。西洋式自由思想は徐々に「絶対自由」へと変化し、西洋式民主主義の価値は徐々に一枚の投票用紙に単純化され、西洋式民主主義の人権理念は徐々に「有名なダブルスタンダード」へと変質した。100年ぶりの変局と歴史的な新型コロナの流行が重なる中、政治的混乱、経済的危機、人種・民族間の衝突、難民問題などが「西洋式民主主義老化シンドローム」の現れとなっている。 ◇全面的政治発展観を堅持する 西洋式民主主義の弊害を克服し、民主化のパラドックスを打破するには、新しい民主主義観を提唱し、全面的な政治発展の理念を打ち立て、政治の協調と全面的発展を推し進める必要がある。 新しい民主主義観と全面的政治発展観では、西洋式民主主義は決して歴史の終点ではなく、民主主義は決して西洋式が最も完璧ではないと考える。民主主義は歴史的、具体的で、発展するものであり、その国の文化と現実の土壌に根差したものでなければならない。全面的政治発展には、民主主義的価値(公平・権利・自由など)、法治の要素(安定・規則・秩序など)、効果の目標(業績・責任・廉潔など)という、相互に依存し合い、弁証法的に統一された三組の要素と価値の追求が含まれる。政治的民主主義と政治的効果は全面的な政治発展の動因であり、法治・安定・政治的秩序は政治的民主主義と政治的効果の条件と保障であって、共同で政治の全面的発展の価値と目標を構成している。政治改革と政治発展の任務はこれら三組の要素の「均衡点」を正しくおさえることにほかならない。 民主主義を発展させることは全面的政治発展の重要な一環であり、適当な道筋、合理的な速度、有效な方法を選んではじめて民主政治をより高効率でより良質なものにすることができる。民主化の「単騎突撃」は政治の発展を後押しするとは限らず、むしろ民主主義が制御不能や政治の衰退を招き、「政治対立と民主主義劣化」の泥沼に陥ることになる。全面的政治発展観では全局的視野、戦略的定力、持続的協同を提唱し、「民主化」のプロセスを穏やかに乗り切り、民主化のプロセスを政治発展の全般的目標に組み込むとともに、経済の建設・社会の建設・文化の建設・法治の建設などのプロセスと調和させる。 中国の政治改革と政治発展のプロセスは全面的政治発展の理念に則り、全面的協調性・動態的発展性・主権の歴史性の弁証法的統一を体現している。中国は民主観・人権観・自由観を刷新し、全面的政治発展観を提唱・堅持し、西側の発展モデルと論理的枠組みを突き破り、政治の発展力と国家の統治〈ガバナンス〉能力を高め、民主主義の新たな道を踏み出して、中国社会の全面的で調和した発展を思想と価値の面から保証している。 ◇全過程人民民主主義を発展させる まったく新しい民主主義観、まったく新しい全面的な政治発展の道は、一種の真実と広範な人民民主主義を代表している。全過程人民民主主義は中国の人民民主主義の最新の成果と成功した実践であり、社会主義民主政治の鮮明な特徴であり、西側のブルジョア民主主義と区別する顕著な特徴である。全過程人民民主主義は一連の法律と制度手配により、民主的選挙、民主的協議、民主的意思決定、民主的管理、民主的監督の各段階を互いに結び付けた全チェーン・全方位・フルカバーの民主主義である。 全過程人民民主主義は随時オンライン状態を保ち、短期間の投票後に休眠期に入る間歇的民主主義を超越している。全過程人民民主主義には多様化した民衆の利益要求表現のチャンネルと公平な利益調和の仕組みがあり、多数の人々の真実の意思が少数の利益集団によって封じ込められる局部的民主主義を超越している。全過程人民民主主義は民主集中制の原則に従い、最大限の政治的合力を形成し、国家統治の高效率の統一を効果的に保障することができ、徒党を組んで異論を排する、互いに否決し合う、長々と議論する、なかなか決められないといった低效率の民主主義を超越している。 全過程人民民主主義は直接と間接、民主と集中、過程と結果、形式と実質などの段階の優位性を総合し、全過程的、開放的な政治参加と民主主義表現の仕組みを有している。例えば多党協力、政治協商、国是の共同協議などは、政党がたらい回しで国務を独占し、利益集団が国事の意思決定権を握り抑える寡頭式統治を超越している。中国の民族区域自治制度は各民族人民が主人公になることを保障し、民族の平等・団結・互助・調和を促進することによって、排外主義を吹聴し、制度的な人種差別があり、難民と移民を虐げる偽物の民主主義を超越している。全過程人民民主主義を発展させ、的確貧困脱却と郷村振興を推し進め、質の高い発展の中で共同富裕〈共に豊かになる〉を実現し、民生を発展させ、民心を守ることは、貧富の格差を野放しにし、金権政治に依存した寄生的民主主義を超越している。全過程人民民主主義は他国の内政に干渉せず、民主主義を広めるという名目で地政学的な私利をはかる覇権的民主主義を超越している。 全過程人民民主主義を発展させることで国家の安定・人民の団結・社会の進歩が保障され、「中国の治」の制度的優位性が示されて、発展目的の人民性、発展方式の多様性、発展プロセスの持続性、発展結果の有效性が体現されている。 中国の治の実践的価値と概念的含意は幅広く奥深い。新しい民主主義観と全面的発展観を理念とする中国の治は、世界の近代化発展の新しい道を切り開き、人類の政治文明の新しい姿を生み出し、世界の政治文明の花園の中で燦然と輝き、光を放っている。
多元ニュース