Category: 論説・主張

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中国で「山と人の関係」はどのように推移してきたのか―黄山の生態専門家が説明

昨今の中国では自然や生態系の保護が極めて強く意識されている。山岳についても観光資源などとして活用はするが、「持続可能」な範囲にとどめて環境の悪化を阻止することが大前提だ。南京大学黄山生態システム野外科学観測研究ステーションのステーション長も務める章錦河教授はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、中国独自の山岳観や山岳の自然保護と利用の状況を紹介した。以下は、章教授の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。 【その他の写真】 ■中国は文明が発達しても山と信仰が結びついていた 国連は2002年を「国際山岳年」として、03年には毎年12月11日を「国際山岳デー」とした。実施されてきた活動は、山岳部の生態システムの重視、山岳部の自然保護の緊迫性、山岳部における経済発展の停滞、山岳部住民の幸せなどに関連するものだ。 人と山岳の関係は、さまざまな段階を経て変化してきた。まずは山岳崇拝や山岳信仰の段階だ。人々は自然の超越的な力に接して、自然現象を象徴するさまざまな神を作り出した。西洋の山岳地帯でも住人が自然の神霊を崇拝したことはあった。しかし中国では自然と宗教を結び付ける傾向がはるかに強く、山東省の泰山、湖南省の衡山、河南省の嵩山、陝西省の華山、山西省の恒山が「五岳」と呼ばれ聖地とされるなどの現象が発生した。 山岳5カ所が選ばれたのは、五行説という思想にも関係している。文化文明が酢相当に発達した段階になっても山岳が強く崇拝されていた点で、中国は西洋とは異なる。中国では現在でも「山岳」という言葉が人の独特な感情を刺激するが、欧州人にとっては単なる地理上の用語だ。 ■中国人にとって「自然との融合」は伝統の復興 次に山岳に美を見出した段階だ。中国がこの段階に入ったのは16世紀半ばで、欧州では18世紀末から19世紀初頭にかけてだった。次は山岳文明の段階だ。先進国がこの段階に入ったのは20世紀半ばで、背景には、極度な工業化に対する反省などがあった。スイスの世界遺産ユングフラウ ただし、先進国では山岳文化の新たな前進があまりなかった。中国には、伝統的な自然との付き合い方の知恵や、工業化が後発だったという強みがあり、「エコ文明」という新たな考え方が登場し、「人と自然の生命共同体」、「地球生命共同体」という新たな概念が提出された。 中国と西洋で、山岳に対する考え方が違うことには、文明における自然観全体が関係している。伝統的な西洋哲学は、思惟の主体である自分自身と他者を分離して対峙させる。人は自然を主導するとの考え方であり「山を征服」といった言葉も出現した。 中国では儒家が「天人合一(天と人との合一)」を主張したように、己と万物とが溶け合うことを求める。中国仏教も「衆生、皆仏性あり」などとして、万物の平等性を唱えた。中国人にとって、新たな時代に発生した「人と自然の調和ある共存」は、伝統的な文明の復興、すなわち古典に回帰するルネサンスだが、西洋人にとっては、ルネサンス以来進められてきた「物化文明」に対する反省だった。 ■黄山は姉妹山のスイス・ユングフラウなり、学習と協力を実施中 私は南京大学の黄山研究観測ステーションの責任者を務めているが、黄山は2002年に、スイスのユングフラウと「姉妹山」の協定を結んだ。また、ユングフラウ以外にも世界の多くの名山と提携してきた。それらを通じて、黄山側は多くのことを学ぶことができた。例えば地元経済を発展させる計画づくりや、施設建設にあたっての環境保護、自然が受ける負担を限度内に管理すること、経済活動の許可制、観光客に対する教育、地域としてのブランド戦略などだ。黄山 一方で、20年5月には黄山側がユングフラウに「感染防止の条件を満たすための観光スポット開放ガイドライン」という情報を提供する協力をした。また同年9月にはユングフラウ側と提携して、中国スイス国交樹立70周年を記念して実施された「スイス国家ブランドデー」の活動に参加した。 中華民国時代の1934年に設立された黄山建設委員会も、当初から「資源保護、名勝を輝かせる、旅人に奉仕、住民に利益をもたらす」とのスローガンを掲げていたと伝えられる。これらの理念に加えて2011年には国際的な「持続可能な観光目的地準則」の起草に参加して「観光体験の質を絶えず向上、資源と関係をより大切にする、観光産業の広範な融合、社会の幸せの増進に努力」などの提案をするなど、時代の流れに沿った取り組みを行っている。(構成 / 如月隼人)

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儒家も老子も重視した「民」、現代にどのように生かすべきか―中華孔子学会会長が答える

儒家などによる中国の伝統思想は「民意」、「民心」、「民本」などを強調してきた。そのような考えは現代にどのように生かすべきなのだろうか。中華孔子学会の会長も務める、北京大学哲学科の王中江教授はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて「民」の重視と政治理念の関係について語った。以下は、王教授の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。 【その他の写真】 ■儒家の孟子も老子も「根本は民」と説いた 中国において「民本」や「民心」の概念は極めて早い時期に出現した。早い時期から儒教の最も大切な経典の一つとされた尚書(書経)には、君主の姿勢として「民に近づかねばならない。民を下の存在と見なしてはならない。民は国の根本である。根本がしっかりしていれば、国は安泰である」との記述がある。孟子も「民を貴(たっと)しとなす。社稷(しゃしょく、国家)は民に次ぐ。君主は軽い」と説いた。 儒家以外にも、例えば老子は「聖人は常に心無く、百姓の心を以って心と為す(聖人は自らの心、すなわち願望を持ち合わせていない。庶民の心を自らの心とする)」と説いている。写真は孟子出身地の山東省鄒城市にある孟廟 ■天意は民意を反映し、君主は天意に従う 中国では、天が君主を定めると考えられた。その目的は民衆の利益と幸せの向上だ。また、易経は「天地が存在して万物が生じる。万物が生じて男女が生じる。男女が生じて夫婦が生じる。夫婦が生じて親子が生じる。親子が生じて君臣が生じる。君臣が生じて上下が生じる」などと説いている。つまり「天と地」を人の世界の出発点とした。 中国では世界の統治者を「天子」とも呼んだ。すなわち、天の子として、天の意向を実現させる存在だ。その背景には、天意にかなうことは正義であるから、民意にもかなうとの考え方がある。さらには、天意は民意により生じるとの考え方がある。尚書には「民の欲するところ、天、かならずこれに従う」との記述もある。写真は孟子出身地の山東省鄒城市にある孟廟 ■考えの筋道は違っても「民意最優先」は古今東西の政治の大原則 西洋では18世紀、社会の起源についての重要な考え方として「契約論」が登場した。思想家により考え方は異なるが、一般には、人類は原初の「自然」の状態から離脱して国家を樹立したと考える。そして国家の樹立にともない、個人はある種の権利を獲得する一方で、別の種類の権利を手放し、国家に譲った。国家はそのようにして権力を獲得し、社会を統治するようになった、と考える。 中国の伝統思想と西洋の契約論には共通する点もある。それは、国家の目的を、民衆の願いと民衆自身の利益を満足させるためとする考え方だ。異なるのは、国家権力が発生する際のメカニズムについてだ。西洋の契約論では、人々は自ら、安全や平和、利益を確保するために、「暴力的手段」といった権利を国家に譲り渡したとされる。中国では、聖人が君主になると考え、君主は民衆の基本的な願望と必要を満たす存在と考えられた。写真は孟子出身地の山東省鄒城市にある孟廟 現在の政治哲学では、国家や政府は目的ではなく「道具」と考えられる。国家や政府は民衆の願望や利益を満たすために樹立されたものであり、大衆の願望や利益をよりよく満たすために、発展し変化していくことが求められる。 中国の古典的な思想にある「民心」を重視する理念は、現代の政治にもあてはまる。政治とは、民衆の求めるところに向かっていかねばならない。政権は民意に応じて整備され、統治は民意に耳を傾けて改善され、制度は民意を受けて健全化されていかねばならない。民意や民心に従うことは、あらゆる政治統治の出発点であり、民意や民心に合致しているかどうかが、あらゆる政治統治を評価する上での基準であらねばならない。(翻訳・構成 /レコードチャイナ)

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中国では昔の皇帝もウインタースポーツ楽しんだ―専門家が「五輪つながり」で解説

近代スポーツに属する競技のほとんどが、西洋社会で成立したものだ。しかし、体を動かして腕前を競い合ったりする競技は世界各地で行われていた。河北省文物考古研究院の黄信副院長はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、北京冬季五輪・パラリンピックの予定地で確認された800年前以上の遺跡の紹介に絡めて、王朝時代における中国の「ウインタースポーツ」についても言及した。以下は、黄副院長の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成した文章だ。 【その他の写真】 ■五輪用地で着工直前に貴重な遺跡を確認 中国北部は1120年代から1234年まで、金という王朝に支配された。金朝には、皇帝が季節によって居住に適した地方に移動して過ごす習慣があった。河北省張家口市郊外にある太子城と呼ばれる遺跡が、金朝6代皇帝の章宗が夏に滞在したことのある宮殿であることが確認されたのは2017年9月だった。太子城 太子城は1978年に調査されたことがあったが、その時には中国に数多く存在する小都市の遺跡と判断され、本格的な調査は行われなかった。2度目の調査が始まったのは2017年5月末だった。当初予定では調査隊は作業を早々に終えて、9月には引き上げることになっていた。しかし調査終了の間際に、太子城遺跡が金代に皇帝が滞在したこともある宮殿だったことが確認された。 ところが太子城遺跡一帯は、22年の北京冬季五輪・パラリンピックの施設建設予定地になっており、考古学調査隊が引き上げた直後の17年10月には工事が始まる予定だった。建設予定の変更を行う手続きに残された余裕は3日間しかなかったという。まず河北省政府が動き、文化財保護や責任を所管する国家文物局、北京五輪組織委員会などに遺跡の重要性を伝えた。その結果、現地の五輪関連施設の建設予定地から東に200メートル移動することになった。北京冬季五輪・パラリンピックの施設 ■「皇帝が滞在」と断定する決め手になった出土品とは 太子城遺跡は南北が約418メートル、東西は約343メートルで規模は大きくない。しかし皇帝や皇族が暮らす建物の配置は、金の首都だった中都(場所は現在の北京市市街地南西部分)の宮殿に非常に似ている。そして、底に「尚食局」の文字がある陶器が集中して見つかった場所があった。 このことから、陶器が見つかった場所は皇帝や皇族の食事をつかさどる「尚食局」が使用した建物跡と判断された。そして「尚食局」がそこで仕事をしていたことは、この遺跡にはかつて皇帝や皇族が滞在したことの有力な証拠となる。太子城遺跡からはそれ以外にも、皇室専用の文字があるレンガや皇帝を意味する銅製の竜などが見つかった。銅製の竜 太子城遺跡は金代の建築を研究する上で極めて重要だ。空白を埋めた発見と言ってよい。例えば皇室が使う建物の序列制などを知ることができるだろう。 ■かつての皇帝もウインタースポーツを大いに楽しんだ 現代のウインタースポーツは雪や氷を利用した運動競技だ。北京冬季五輪・パラリンピックがきっかけとなり、多くの中国人がスキーなどウインタースポーツを楽しむようになったが、中国人は古くから雪や氷を鑑賞し、雪や氷を利用した運動競技をしてきた。 特に皇帝一家は「中華ウインタースポーツ」を好んだ。清代の乾隆年間(1736-1795年)に宮廷画家が制作した「氷嬉図」には、皇帝が乗る氷上のそりが描かれている。そして周囲の人々は皇帝を中心にらせん状に配置され、スケートをしている。 当時、皇帝が喜んで鑑賞したスケート競技には3種目があったとされる。まず、速さを競う競技で、選手らは鉄の歯のついたスケート靴を履いて、電光石火のようにゴールを目指した。これは現在のスピードスケートと同じだ。 次に氷上で熊手を投げて受け止めたり、刀を振るったりさまざまなアクロバットを演じた。用具を使う点では異なるが、体のさまざまな動きを見せる点で、現代のフィギュアスケートに通じるものがある。さらに、氷上でボールを蹴(け)って相手陣地に入れる競技もあった。発想としてはアイスホッケーと同様だ。北京冬季五輪・パラリンピックの施設 太子城遺跡は文献史料にある泰和宮と断定された。泰和宮は戦火によって焼け落ちたことが分かっている。それから長い歳月が流れ、現地ではまもなく北京五輪・パラリンピックという平和の祭典の聖火が灯されることになる。(翻訳・構成 /レコードチャイナ)

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水中考古学の大成果「南海1号」を20年かけて引き上げ―すべてを知る専門家が証言

海底や湖底に眠っていた文化財を引き上げて研究する水中考古学という学問分野がある。中国での水中考古学の最大級の成果とされるのが、1987年に発見されて約20年後の2007年に船体の引き上げに成功した宋代の沈没船「南海1号」だ。その全過程を知る広東省文物考古研究員の崔勇副院長がこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、「南海1号」にまつわるさまざまなエピソードを披露した。以下は、崔副院長の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。 【その他の写真】 ■「海の盗掘者」にしてやられたことが、水中考古学に取り組むきっかけに かつて、欧米人の「海の盗掘者」が南シナ海海域で沈没船から清代康熙年間(1661-1722年)の陶磁器を多く引き上げ、オークションにかけて飛び切りの高値で売りさばく事件があった。このことが中国の考古学界や政府を刺激した。 1987年には中国国家博物館水中考古学研究センターが発足した。ちょうどその時期に、英国の海洋探査・サルベージ会社と当時の広州サルベージ局が、広東省陽江市沖合いの南シナ海で沈船を発見した。その際に引き上げられた247点の中には、金のネックレスや銀塊もあった。 英国の会社は、その海域で沈没した東インド会社所属の商船を探していたのだが、海底から引き上げられたものはその商船の積み荷リストとは違っていた。そこで中国側は英国側に引き上げを中止させた。発見された大型商船は「南海1号」と名付けられた。広東海のシルクロード博物館 ■まずは日本に教えてもらった、次に小さなプロジェクトで実力錬成 「南海1号」を調査し引き上げるために、中国水中考古学界は多くを「学習」せねばならなかった。まず若手研究者をオランダと日本に派遣して水中考古学を学ばせた。日本からは専門家を招いて講義などをしていただいた。 1989年には国家文物局とオーストラリアのアデレード大学が共同で、中国初の水中考古学訓練班を組織した。全国から11人が選ばれて訓練を受けたが、私もその一人だ。 1989年11月には日本と共同調査隊を結成して南海1号の初の全面調査を行った。しかしその結果、「南海1号」の引き上げなどの条件はまだ整っていないと結論づけざるをえなかった。もっと小さなプロジェクトから始めるべきとの判断だった。 その後、遼寧省葫蘆島市の沖合いで元代(1279-1368年)の沈船が見つかったり、西沙諸島でも沈船が見つかった。それらの調査研究に取り組むことで、中国の水中考古学の実力は次第に向上していった。 ■困難を乗り越えて船体の引き上げに成功、発見した積み荷は18万点以上 改めて「南海1号」の引き上げに着手するまで、学習や経験のための約10年を費やしたことになる。調査再開の手始めに、まずGPSを利用して正確な位置を特定した。そして4年をかけて、調査と試掘を繰り返した。その結果、船全体の保存状態は良好で、積み荷も多いことが分かった。 しかし一方で、船体の上に泥が分厚く堆積していることが分かった。海底で活動すれば周囲の水はひどく濁る。水中考古学の調査にとってかなり劣悪な環境だ。 船の積み荷も文化財だが、それらを引き上げるだけではだめだ。それでは水中考古学の進歩の芽を摘んでしまう。南海1号が泥に半ば埋まった形で横たわる海底は、水深約25メートルだった。最終的に広州サルベージ局の技術者の呉建成氏が、ケーソンという巨大な箱を使って沈船全体を引き上げる方法を考案した。これが突破口だった。 しかし実際には大きな困難が伴った。ケーソンは長さが33メートル、幅は14メートルもあり、500トン以上の重量だ。正確な位置に沈めるのは実に難しかった。いったん水中に沈めたら、位置の調整はほとんど困難だ。とにかく正確な位置におろさねばならない。しかし最後には、一気に成功させることができた。 「南海1号」の船体引き揚げが行われたのは2007年だった。同時に、広東省陽江市内では広東海のシルクロード博物館が建設された。「南海1号」は同博物館の水晶宮と呼ばれる施設に安置された。広東海のシルクロード博物館 「南海1号」については3Dレーザーなど最新の技術を使って、大きさについてはミリ単位まで計測された。水中から発見された文化財は18万点を超えた。酒が入った大量の壺、アヒルの卵の塩漬け、羊の頭、ナッツ類、ヤマモモ、穀物類も見つかっている。これらは、水中でないと残らないものだ。 また、船室にあった泥からは、絹たんぱくが検出された。「南海1号」は量としてはあまり多くなかったかもしれないが、絹製品も積んでいたと考えられる。広東海のシルクロード博物館 さまざまな情報を総合して、「南海1号」が沈没したのは1183年前後と特定できた。考古学においては、文化財の年代を判断するには他の文化財との比較に頼る場合が多いが、正確な年代の判別が極めて難しい場合が多い。「南海1号」の積み荷は、他の出土品などにとって、年代判断の基準を与えてくれたことになる。(翻訳編集 /レコードチャイナ)

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高原のシルクロードがチベットを文化の「要」にした―専門家が歴史の実情をひもとく

「チベット」と聞くと、外界から隔絶された歴史を持つようにも思えてしまうが、そうではない。世界の多くの地域と同様に、古くから他の社会との交流を通じて、みずからの文化をはぐくみ、他の文化圏に影響を与えてきた地域だった。

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香港の新しい選挙制度に3組の「真」あり

2021年12月19日、香港特別行政区第7期立法会の選挙が成功裏に行われた。実践が証明しているように、新しい選挙制度は香港の実情にかなった良い制度であり、3組の「真」を用いて今回の選挙の特徴を詳しく説明することができる。

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日本発「今年の漢字」が各国に広まった理由とその背景は? 中国辞書学会会長が状況を解説 

日本で「今年の漢字」の発表が始まったのは1995年だった。現在では、その年の漢字を選出する動きは東アジアや東南アジアだけでなく欧米にも広まり始めた。中国辞書学会の会長などを務める李宇明氏はこのほど中国メディアの中国新聞社の取材に応じ、「今年の漢字」が広がる状況や各国における漢字文化や中国語の受け入れについて解説した。