多種多様な文化の存在が「共同体意識」を強化、少数民族地域の雲南の専門家が解説
中国では人口の9割以上を占める漢族以外にも、55の少数民族が認定されている。そして、それぞれの民族が固有の文化や芸術を伝承している。しかし、伝統文化の“衝突”は発生しないのだろうか。
中国では人口の9割以上を占める漢族以外にも、55の少数民族が認定されている。そして、それぞれの民族が固有の文化や芸術を伝承している。しかし、伝統文化の“衝突”は発生しないのだろうか。
中国では、近代的なビルでも「中国的要素」が取り入れられている場合が多い。長い歴史を通じて巨大建築を作る経験も豊富だった中国が西洋建築と出会った際には、どのようなことが発生したのか。そして今は何を目指しているのか。
東南アジア諸国連合(ASEAN)10カ国と日本、中国、オーストラリア、ニュージーランド、韓国の計15カ国が参加する「地域的な包括的経済連携協定(RCEP」が1月1日に発効した。
中国における「考古学の始まり」は、1921年に河南省の仰韶村で実施された発掘作業とされる。それから100年余り、中国考古学はどのような変遷をたどってきたのだろうか。
かつては「内陸部にあるので経済発展には不利」と言われていた新疆が、「一帯一路」構想の追い風を受け、今や「経済発展の中枢の地」と見なされるようになった。
ロシア軍がウクライナに攻め込んだ。日本及び西側諸国ではロシアのプーチン大統領を非難する声が極めて強い。ただ、ロシアを非難するだけでは解決策も浮かばないし、同様の事態の再発防止にも結び付きにくい。
政治経済を専門とするローレンス・ブラーム氏が、東西文化の違いの根底を語った。
『老子』は東西を問わず高い評価を得ており、最も多く翻訳されている中国の古典である。『老子』が影響力を持っているのはなぜなのか。
統治の上層と末端 ローマ皇帝オクタヴィアヌスと漢の武帝・劉徹には共通点が多い。 2人とも青年時代から卓越した才能に恵まれていた。劉徹は17歳で即位し、49歳になる前に漢王朝隆盛の時代を切り開いた。一方、オクタヴィアヌスは19歳で挙兵、47歳になる前にローマ帝国の制度建設を終えていた(18)。 また、どちらも一面的には理解できない人物である。儒家でありながらその為業は法家に近く、法家といっても秦制に後退することはなく、道家を敬愛しながら儒家を登用して国を建てた人物、それが劉徹である。オクタヴィアヌスも矛盾に満ちている。時の有力者と手を組んで元老院を形骸化するかと思えば、元老院と協力して有力者を抹殺することもした。形式的には共和政を保ちながら実質的には帝政をしいた。複数の文官職を兼任していたが、軍隊こそが彼の力の源泉だった。 2人がこれだけ複雑な人物だったのは、ローマと秦漢というあまりにもスケールの大きな政治体を統率しようとしたら、いかなる理論、制度、措置であってもどれか一つだけに依拠することはできなかったからである。 国家イデオロギーを重視したという点でも、両者はまさに「英雄は考えることが同じ」である。劉徹がちょうど「百家を罷黜し、独り儒術のみを尊ぶ」の号令一下、民心の統一を図ったのと同じように、オクタヴィアヌスも全力で「ローマ民族」アイデンティティの構築に取り組み、分裂主義を批判して国家への責務を果たすよう社会によびかけた。 しかし、国家統治という点で、両者の採用した道筋、到達点は大きく異なる。 オクタヴィアヌスは財閥が政治に与えるダメージを克服するために財閥を文官体制のなかに取り込んだ。つまり「貴族と財閥が天下を共にする」状態をつくったのである。他方、下層から人材を抜擢・育成し、「平民精神」をもった王朝をつくり出すことが漢朝の文官路線だった(19)。 ローマ帝国の文官は属州の首都に集中しており、末端にまで届いていなかった。属州の下には自治権をもつ王国、都市、部落が存在した。ローマから派遣された総督と財務官は軍事、司法、徴税に責任をもつのみで、公共サービスと文化教育にはノータッチだった。彼らは常に地方の有力者の意向に従って実務的決定を下していた。例えば、ユダヤ属州総督ピラトはイエスの処刑を望んでいなかったにもかかわらず、ユダヤ人有力者たちがそれを強固に主張したため、泣く泣くイエスを十字架に磔にした。地方の都市建設や文化活動もまた、現地の富豪が積極的にスポンサーにならないと始まらなかった。英国の学者ファイナーはローマ帝国を指して「無数の自治都市で構成された巨大な持ち株会社」(20)といっている。 したがって、地中海をとりまく上層エリートの大連合だけがローマ帝国であって、下層大衆がそこに含まれたことはなかったのである。上下の融合や結びつきなどは論外である。西洋の学者がいうように、ローマ文明は豊かで複雑な上部構造を有していながら、経済基盤は貧弱な「ラティフンディア」だったのである(21)。文化基盤もそうだ。ローマでラテン語ができるのは貴族と官僚のみで、下層大衆はラテン語文章を読んでもまずわからなかった。ローマが下層の教育に消極的だったからだ。それ故、オクタヴィアヌスが望んだ「ローマ民族アイデンティティ」は一度も人民の琴線に触れることがなかった。上部構造がひとたび崩壊すると、下層大衆は各々独自の道を突き進み、ローマをはるか彼方に投げ捨てた。他方、秦漢は上層と末端を直接結びつけ、中央から県郷までを貫通する文官体制をつくりあげた。官衙の責任で末端から集められた人材は、厳格な考査をパスしてから地方に派遣され、徴税、民政、司法、教育を全面的に管轄した。漢朝は地方に学校をつくり、経学者に典籍〔経書〕を教えさせた。こうすることで別々の地方の人々を同じ一つの文化共同体にまとめあげたのである。中央政権が崩壊しても人々はどこでも同じ文字を書き、同じモラルに従い、共通の文化をもつ。このような社会的基盤のおかげで大一統の王朝が長く続いたのである。 政治権力と軍事権力の関係 ローマと秦漢のもう一つの違いは軍隊と政府の関係である。 両者の関係を処理するためにオクタヴィアヌスがとった方法は軍閥方式だった。当時もっとも潤沢だったエジプトの財政をまず「フィスクス〔帝室財庫〕」に回収し、それを軍隊に払う給料の財源にした。結果的にこれはある種のインタラクティブなルールをもたらすことになった。たしかに軍隊は給料を一番たくさん出せる人物の配下に収まることになった。しかし裏を返せば、皇帝が給料を出せなくなったらすぐに別の給料を出せる皇帝に変えなければならないということでもある。こういうルールのもとでの平和は、オクタヴィアヌス以降たった50年しか続かなかった。オクタヴィアヌスからコンスタンティヌスまでの364年間で、帝位の交代は平均6年に1回生じている。そのうち軍隊に暗殺された皇帝は39人、全体の7割を占めた。 ローマ帝国末期の経済の崩壊は、十分な給料を軍隊に出せない事態を招いた。したがって、ローマ人は誰も軍人になりたがらず、ゲルマン蛮族を護衛に雇うしかなかった。最終的にローマを陥落させたのはこうした傭兵の軍隊である。タキトゥスは「皇帝の運命が事実上、軍隊の手に握られていたところにローマ帝国の秘密がある」といった。まさにその通りである。 ローマが軍の政治介入を制御できなかったのはなぜか。一つの重要な要因は末端行政機構を持たなかったからである。総督は治安維持と徴税を軍隊に頼らざるを得ず、徴収した税も軍隊への手当に変わった。こうして、本来は中央を代表すべき総督が地方の軍閥を代表する存在になってしまった。一方、秦漢の軍隊は徴税もできないし、民政に関わることもできなかった。文官制度下にあって、戦時は兵となる軍隊も戦後は農民となり、ローマ軍のように利益集団に変わることはなかった。 もう一つの重要な要因は、ローマ軍人の「国家意識〔国家の一員としての帰属意識〕」に問題があったことだ。モンテスキューは、ローマからはるか遠く離れてしまったため軍団は故国を忘れてしまったというが、事はそれほど単純ではない。漢朝と西域は、遥か彼方といってもいいぐらい隔たっていた。しかし漢の将軍・班超は、頼れる兵とてわずか1000名余り、自らの傑出した外交手腕と軍事的知略を頼みにしつつ、西域諸国の軍隊数十万に囲まれながら漢朝の西域支配を再建し、シルクロードを切り開いた。モンテスキューの考えに従えば、班超は独立して一国一城の主になることもできた。しかし、彼は漢朝のために30年にわたって西域経営に心をくだき、死んだら故郷に埋葬してほしいということだけを望んだ。班超のような将軍は漢朝に数多くいる。 ローマの軍人が政治に干渉することができたのは、ローマ皇帝の権力が「相対的専制」だったからであり、漢朝の皇帝権力は「絶対的専制」だったので軍人は逆らうことができなかったという人がいる。しかし、事実はそうではない。天下がおおいに乱れた後漢末期、名将・皇甫嵩が軍を率いて乱を平定、戦功をたてた。皇帝は無能軟弱で奸臣が権力を牛耳っていた当時、不測の事態に備えてこのまま兵を維持し自衛すべきだと皇甫嵩に勧める者がいた。しかし、皇甫嵩は躊躇なく軍の指揮権を返上した。 皇帝にそれを強制する力がなかったときでも、皇甫嵩ら軍人が規則を守ることができたのはなぜか。自ら進んで国家の秩序に服従する責任感があったからである。藩鎮の割拠や軍閥の混戦は中国にもあるにはあったが、それが主流になったことはない。中華文明の大一統精神は「儒将」の伝統を生んだ。法家の体制と儒家のイデオロギー、両者の相乗効果で古代中国は文民統制を完成させ、これが中華文明のいま一つの重要な特徴になった。「刀剣〔軍隊〕は長袍〔文官〕の命に従う」というキケロの理想は、ローマではなく中国で実現したのである。 (18)Nic Fields『The Roman Army:the Civil Wars 88-31 BC』P53。(19)銭穆『国史大綱』商務印書館、1991年、P128。(20)ファイナー著、馬百亮、王震訳『統治史』(巻一)華東師範大学出版社、2010年、P362。(21)ペリー・アンダーソン著、郭方・劉健訳『従古代到封建主義的過渡』上海人民出版社、2001年、P137。 ※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「秦漢とローマ(5)ローマ帝国と秦漢王朝、その共通点と相違点」から転載したものです。 ■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら
私は中国に住むドキュメンタリー監督だ。光栄にも中国で多くの作品が認められ、最近、雑誌『NEWSWEEK』の「世界に尊敬される日本人100」に選ばれた。 今回、私は東京オリンピックのドキュメンタリーを制作するため、6月に成田空港に降り立った。実に1年半ぶりの日本である。この作品を撮るためなら約1カ月半(日本で14日間、中国で28日間)に及ぶ隔離生活も厭わないと思えた。 まず驚かされたのは、空港でPCR検査を終えたあと、全くと言ってよいほど管理を受けなかったことだ。出発前にネット上で「公共交通機関には乗らないでください」という規定を見た。行動履歴をチェックするアプリもダウンロードしたが、海外から来た人全員の行動を24時間チェックすることは可能なのだろうか……。私は規定の通り、感染防止対策を施したタクシーで千葉の郷里に帰った。料金は2万円だった。神奈川や埼玉であれば、いったい幾らかかるのだろう。電車やバスなら数千円で済むものを、すべての人が数万円を支払い、規定に従っているのだろうか……。ちなみに中国では全員が専用バスに乗せられ、隔離ホテルに直行する。この時、痛切に感じたのは「日本の感染対策は、完全に個人任せである」という現実だった。 7月中旬に4回目となる「緊急事態宣言」が発令された時にも同じ事を感じた。「緊急事態宣言」という言葉の響きから大変な状況を想像していたが、蓋を開けてみると、言葉遊びとしか思えなかった。例えば8時以降も店を開き、酒を提供している店がたくさんあり、しかも、それらの店は大方繁盛していた。規定に従い8時に閉店する店は倒産の危機に陥り、従わない店は繁盛する。日本社会全体がコロナを巡って分裂しているように思えた。 一方、中国では「社会全体でコロナと戦おう」という意識が徹底している。厳しい隔離政策にも異を唱える人はほとんどいない。皆が医療従事者を応援し、医療従事者も社会のために自ら望んで第一線に立っている。ところが日本のメディアは相変わらず、〝中国政府は高圧的な命令により、個人の自由を奪っている〟という論調である。 6月末から8月上旬まで、私は1カ月半に渡って東京オリンピック関連の物語を撮影した。その現場では日本人が得意とする穏やかで優しい「おもてなしの心」よりも、心に余裕を失ったギスギスとした雰囲気ばかりが伝わってきた。 例えば、ボランティアの制服は、日本人のサイズでしか作られておらず、体型の大きな欧米人にはまったくフィットしない。私が取材したある大柄な中国人ボランティアは2枚支給された制服を半分ずつ切って縫い合わせて使っていた。 さらに酷かったのは、外国人ボランティアの中にはムスリムや菜食主義者もいたが、彼らに支給される弁当にも毎日、肉が入っていたことだ。毎日食べられるものがなく、自分で弁当を持ち込むこともできない(日中ずっと外にいるので、弁当を持参しても、夏の暑さで腐ってしまう)ボランティアたちは、数千人のボランティアと大会関係者が繋がるLINE上で、「ハラール弁当(ムスリムの戒律に沿って作られた食品)やベジタリアン弁当を用意してくれないか」と訴えた。この切実な訴えに、大会関係者と思われる日本人(私が見た会話履歴には各人の身分は書いておらず、責任者かどうかは確定できない)が放った一言は、「ワガママを言うのなら、ボランティアを辞めてください」というものだった。私は外国人ボランティアの友人からこのLINE会話履歴を見せられた時、言葉を失った。オリンピックは世界最大の〝国際交流〟イベントだ。世界中から集まる多様な文化背景を持つ人々の習慣を、「ワガママ」と言って無視する態度にはあきれる他なかった。 世界中のスポーツ記者が集まるメディアセンターは、ネット環境が最悪だった。共有WiFiのIDが一つしかなく、速度も致命的に遅かった。記者たちは仕方なく自分でWiFiカードを購入して使っていた。今回のオリンピックにかかった費用は史上最高額だというが、一体どこにお金が使われているのか不思議でならなかった。オリンピック委員会で働く友人は「上司たちは直ぐに〝コロナだから〟を言い訳にする。この都合の良い印籠がある限り、少々のことで彼らが責任に問われることはない」と話した。外国人記者が集うメディアセンター ある日、私は積もり積もった不満を友人の中国人記者に吐露した。すると、彼女は「愛之深責之切」と切り返して来た。「あなたは日本を愛しているから、怒りが湧いてくるのよ」私は日本人として中国に住み、日本の文化を中国人に伝えて来た。日本人の細かい気遣いやおもてなしの心を誇りに感じてもいた。しかし、今回のオリンピックでそれが全く見られなかったことが残念でならなかったのだ。 後日、日本の友人との会話では「君が言うように〝国際感覚に疎い人〟ばかりかというと、そんな事はない。不幸なのは、〝国際感覚に優れた人〟がオリンピック委員会にほとんどいなかった事だ」と言われ、確かにそうだと思った。一番の問題は、組織上層部が頭の古い高齢者ばかりだという事。それはオリンピック委員会に限らず、政治でも大手企業でも見られる日本全体の問題であり、この現状を変えないと、日本は今後ますます世界の潮流に乗り遅れていくだろう。私は中国に住む日本人として、今後も外から見た日本の現状を「愛之深責之切」の思いで伝えていこうと思う。 ちなみに、文章中のいくつかのシーンは、配信中のオリンピックドキュメンタリー「双面奥運」(日本語名「東京2020・B面日記」)に登場するので、是非ご覧になってください!https://youtu.be/eDGVicG-HeE(オプションで日本語字幕を選択できます) ※本記事は、『和華』第31号「日中100人 生の声」から転載したものです。また掲載内容は発刊当時のものとなります。 ■筆者プロフィール:竹内亮(たけうちりょう) ドキュメンタリー監督。テレビ東京「ガイアの夜明け」や、NHK「長江」等を制作。2013年、中国南京市に移住し映像制作会社「ワノユメ」を設立。『私がここに住む理由』、『お久しぶりです、武漢』、『ファーウェイ100面相』などを制作し、大ヒットとなる。中国SNSウェイボーのフォロワー数は469万人。
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