再評価される熊式一 「中国のシェイクスピア」の数奇な人生(その1)

1935年、ロンドンでの熊式一。

1991年9月15日の夕方、北京大学第三医院のベッドに、小柄で痩せ細った老人が横たわっていた。すでに医師からは病状が深刻なことを告げられていたが、なお一縷の生命力を留めているように見える。時たま南方訛りのある普通話〔標準語〕で、モゴモゴと「くそったれ」といった悪態を口にした。だが、微かな生命の灯もついに死神の力には逆らえず、まもなく世を去った。北京に親族を訪ねて戻った折のことで、まさかここで命を落とすとは自分でも思いもよらなかっただろう。

事情に通じていない人は、この老人の名前も、まして輝かしい過去があったことなど知る由もない。実は彼は1930年代、海外で最も名を馳せた中国人作家・熊式一だった。その名前は著名作家の林語堂(リン・ユータン)とともに「林熊」と並び称されたこともある。1934年、熊式一の手による英語現代劇「王宝川」は世界的なヒット作となり、ロンドンの小劇場からアメリカのパラマウント劇場まで数百公演に至るロングランとなった。このため『ニューヨーク・タイムズ』は熊式一を「中国のシェイクスピア」と称したほどである。その小説「天橋」も複数の外国語に翻訳され、欧米各国でベストセラーとなった。

様々な理由から、この「中国のシェイクスピア」は中国大陸で大きな名声を博すことはなかった。ところが2023年、『熊式一:消失的“中国莎士比亜”』〔『熊式一――消えた「中国のシェイクスピア」』、生活・読書・新知三聯書店、2023年7月〕と題した伝記が出版され、この伝説的な劇作家の生涯の物語が、ようやく中国の多くの読者の目に触れることとなったのである。本書の著者である鄭達(ジョン・ダー)によれば、熊式一は「非凡な才能を持つ、豪快で洒脱」な人物だった。歴史の塵埃に埋もれた重要作家であり、その名は現代中国の文化交流史においても欠かすことのできないものである。

 

「中国のシェイクスピア」を探して

鄭達はボストンのサフォーク大学名誉教授で、長年にわたってアジア系文学と華人移民文化の歴史を研究してきた。十数年前、熊式一の档案資料をじかに見たときのことを、いまでも覚えている。熊式一の末娘である熊德荑(シオン・ドーティー)の家で、箱いっぱいに詰まった新聞やノート、手紙を目にしたのである。これらの資料は、保存状態はよいものの乱雑に放り込まれ、日用品と混ざったものもあった。熊德荑によれば、長いあいだ誰も整理しなかったという。鄭達と熊式一との縁は、他の作家研究をしていたときに始まる。30数年前、鄭達が北京から故郷の上海に戻って大学院生となった際に、友人から民国時代の著名な書家・画家である蒋彝(ジアン・イー)の『中国画』を送られ、興味を持った。それをきっかけに鄭達は蒋彝の研究を始め、蒋彝の過去の経歴を調査するなかで、蒋彝の知人の多くが熊式一やその作品である現代劇「王宝川」に触れていることに気づいた。その当時、熊式一がどんな人物かはよく知らなかったものの、これほど交友範囲が広い人物は、相当の文化人だったに違いないと考えていた。

実際のところ、熊一式と蒋彝の関係はかなり親しく、中国では同郷の友人であり、イギリスでは一緒に部屋を借りたこともある。熊一式が1934年に出版した「王宝川」の脚本の挿画は蒋彝の手になるものである。また、熊一式は知人たちによればかなり個性的な人物だったようで、当時の保守的なイメージのある中国人とは違い、雄弁で自信に溢れ、友人には中国内外の有名人が多かった。直感的に、熊一式の背負ったストーリはきっと面白く、詳しく研究する価値があると考えた。蒋彝の伝記を書くなかで、鄭達は熊一式の末娘である熊徳荑と知り合い、しだいに親しくなった。蒋彝の伝記出版の後、熊徳荑は父の伝記を書いてほしいと鄭達に正式に依頼し、こうして鄭達は熊一式の人生の歩みを辿る旅に踏み出したのである。数年の時間をかけ、熊徳荑の家に積み上げられている資料を分類して整理し、同時にすべての内容に真剣に目を通した。その結果、熊一式は1932年に中国大陸を離れた後、イギリス・シンガポール・香港・台湾・アメリカなどで暮らしたことが分かった。それらの資料に書かれている事実をきちんと整理しようと思えば、各地に赴いて資料を調査するとともに、熊一式とじかに接触した人々を探し出して取材し、裏を取るしかなかった。だが、このような考証は容易なことではなかった。

1902年生まれの熊式一の大部分の友人や、後の世代の一部はすでに世を去り、本人に関する資料も世界各地に散らばっている。鄭達は学術会議に出かける機会を利用して、各地の図書館や档案館で熊式一が残した足跡を辿りはじめた。2010年前後からは考察と執筆を並行して進め、8~9年の時間を費やしてようやくこの伝記の英語版を完成した。2022年には、同様に鄭達の手による中国語版の伝記が香港で出版され、今年は中国大陸で出版の運びとなった。こうして、長年放置されていたこれらの資料を通じて、読者は熊式一の手で生み出された舞台と、彼がそこで繰り広げた伝説的エピソードにようやく出会うこととなったのである。

欧米人の目を開かせた「王宝川」

1935年10月30日、客船ベレンガリア号はロンドンからニューヨークに向かっていた。船上の乗客の中には、著名な映画スターやダンサー、演出家、脚本家などが多く、なかにひときわ目を引く中国人夫妻の姿があった。夫は褐色の中国式の長衫〔丈の長いひとえの中国服〕、妻は黒い緞子の旗袍に毛皮のコート。この2人こそ、熊式一とその妻の蔡岱梅(ツァイ・ダイメイ)だった。2人の装いはすこぶるクラシックかつファッショナブルで、流暢な英語と社交的な性格は乗船客たちに深い印象を残した。その日、彼らは船上の社交界のスターというに恥じない存在だった。このイギリスからアメリカへの旅行は、熊式一の人生の最も輝かしいときだったといえる。まもなく、自ら脚本・演出を手掛ける現代劇「王宝川」を携えてパラマウント劇場で公演をおこない、この劇場に進出する最初の中国人演出家となろうとしていた。1934年、「王宝川」はロンドンの小劇場でダーク・ホースから大ヒット作となり、演劇評論家たちにも絶賛され、英国王室メンバーご贔屓の作品ともなった。この作品のヒットにより、その頃赤字に苦しんでいたロンドンの小劇場は救われ、当時イギリスで博士課程にあった無名の熊式一は一夜にして名を挙げ、世界の文壇に躍り出たのである。

アメリカ版「王宝川」は選りすぐりの布陣を備え、アメリカの有名プロデューサーであるモリス・ゲストが中心となり、すべて本場の俳優を起用した。一方、衣装は熊式一が梅蘭芳(メイ・ランファン)に依頼して蘇州で手作業で作らせたもので、華美を極めたものだった。この輝かしい舞台で、熊式一は自らの歩みを振り返ったかもしれない。自分がいかにこの作品を生み出し、世界各地にその名を轟かせたかを。それは3年前の1932年のことだった。30歳の熊式一は、イースト・ロンドン大学で博士課程に進んだ。英国に来てすぐに、敬慕する作家のバーナード・ショーやジェームス・マシュー・バリーらと親交を結び、彼らから知識を得て学んだ。民国時代、ヨーロッパでは一時「中国ブーム」が巻き起こり、中国的な要素のある作品は好奇心の対象となっていた。バーナード・ショーから懇切に多くのアドバイスを受けた熊式一は、英語で伝統的な中国の戯曲を創作すべきだと考えた。これはイギリス初の試みになるはずだ。熊式一は中国の伝統的な戯曲「紅鬃烈馬」〔京劇の演目の1つ〕を改編した現代劇の脚本「王宝川」を書き上げた。英語専攻出身の熊式一は多くの英語作品を翻訳しており、中国語の文語についてもかなりしっかりとした教育を受けている。中英両国の文化を十分に理解しているため、この作品は決して伝統的な中国の戯曲の内容をそのままコピーするのでなく、ストーリーや形式の面で大胆に手を加えている。欧米の観客に理解しやすくする必要があることが分かっていたからだ。原作の主人公の名前「王宝釧」は言いやすく優雅で記憶しやすい「王宝川」とし、もともと従順で人の言いなりになるヒロイン像を、美しく機知に富み、誇り高いメージに作り替え、欧米の女性のように自らの幸福を積極的に追求する人物にしたてた。

ただし、「王玉川」の脚本は発表直後に挫折を味わい、当初はイギリスのどの劇場でもこの作品を舞台に載せようとはしなかった。当時の外国の観客の考える「中国風」とは、彼らが憧れる異国情緒を体現したものに過ぎず、決して本当の意味で中国人を理解したものではなかったからである。熊式一が中国人の物語をリアルに書き上げたとき、多くの人は無意識にそれを拒否し、皮肉や当てこすりを言ったりもした。だが、熊式一はなおも劇団や出版社に対して熱心にこの作品を売り込み、こうした粘り強い努力が功を奏して幸運が舞い降りる。1934年、「王宝川」の舞台化の目処が立つ一足先に脚本が順調に出版され、意外にも広く好評を博したのである。早くも同じ年、イギリスの現代劇の演出家であるナンシー・プライスが「王宝川」に興味を持ち、この作品の上演を決めた。2人の協力のもと、「王宝川」は瞬く間にロングランとなり、多くの観客に恵まれ、イギリスの王室メンバーのほぼ全員が見たといわれる。記録によれば、メアリー王女は「王宝川」を見るために足繁く小劇場に通い、合計8回も観劇したという。その後、この作品はロンドンのパラマウント劇場でヒットし、数カ月の上演を経て、1936年1月27日からはアメリカで連続3カ月以上上演し、105公演に達した。アメリカ大統領のルーズベルト夫人も自ら観劇し、「人を虜にし、面白くて含蓄があり、欧米人に大いに視野を開かせる」と賞賛した。

熊式一が当時これほどの規模で欧米の人々の注目を浴びていたとは想像しがたいが、これは本当に起こったことである。「彼の成功は偶然であり、ただ中国の戯曲に少し手を加えた結果に過ぎないと言う人もいるが、それは全くの的外れである。蒋彝が言ったように、熊式一は非常な努力家で、長年の尽力が実って成功したのである」。鄭達は熊式一と「王宝川」の海外での成功について本書でこのように記している。

舞台「王宝川」の一幕の劇中写真。

 

月刊中国News 12月号より転載

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