再評価される熊式一 「中国のシェイクスピア」の数奇な人生(その2)

海外で咲き、海外で香る

「私たちは熊式一のことをあまりにも長く軽視してしまったために大きな負い目を背負ってしまった」。これは、陳子善(チェン・ズーシャン)華東師範大学教授が本書の序文に記した一節である。1991年に熊式一が世を去ったときには何のニュースにもならず、当時の『中国現代作家大辞典』にその名はなかった。海外で英語で創作した中国の作家としては一般的に林語堂しか知られておらず、熊式一は無名だった。それから15年あまりの歳月が過ぎ、熊式一の主要作品はようやく中国大陸でも相次いで紹介されるようになったが、その作品研究については現在なお埋めるべき空白が多い。

特殊な歴史的経緯のほか、熊式一の作品が中国大陸に伝わらなかったことには、もう一つの重要な要因がある。それは、熊式一は前半生の大部分を英語で執筆しており、言語的な障害のためにその紹介がスムーズにおこなわれなかったことである。鄭達の調査によれば、熊式一は1930年代に留学のためにイギリスに渡ってから、50年代中頃に香港で生活した期間まで、ほとんど中国語で作品を発表していない。一方この時代に、同じような背景を持つ作家の林語堂は早くから中国語で作品を発表していたため、中国での名声は自然に熊式一より大きなものとなった。実際は、熊式一が中国の文壇から「消えた」ことは、彼が自ら意図したことではない。中国語の文壇で活躍することを決して望まなかったわけではなかった。1930年代、中国本土ではすでに白話運動が日増しに定着していく段階にあり、文壇は「左翼」「京派」〔北京派〕「海派」〔上海派〕の作家がそれぞれの特色を持ち、世界の文学界とも少なからぬ交流があった。当時、熊式一は翻訳・執筆を始め、将来の方向性も定まりつつあった。つまり、戯曲の翻訳と創作である。とりわけイギリス作家のジェームス・マシュー・バリーの戯曲を好み、その作品を十数篇も次々と翻訳した。
当時の若き熊式一は、将来の文壇で一席を占めることができればと野心に燃えていた。幼少から勉学を好み、12歳で北京の清華学校〔清華大学の前身〕に進み、後に国立高等師範学校の英語部(現在の北京師範大学)に入った。上海・北京で働いていた時期には、胡適(フー・シー)・梁実秋(リアン・シーチウ)・林紓(リン・シュー)・陳寅恪(チェン・インコー)ら年上の学者と交流を続けた。将来については常に自信があった。だが、変化は常に将来設計を追い越していく。1930年前後に北京で教職にあった当時、胡適がジェームス・マシュー・バリーの作品を翻訳出版するらしいと聞きつけ、手元にあったバリー作品の訳稿十数篇を、自作の戯曲「財神」とともに胡適に提出した。だがその後、胡適はその訳稿を評価せず、自宅に放置したままだった。

ようやく転機が訪れたのは、詩人の徐志摩(シュー・ジーモー)が胡適の家でそれを読んでからだった。徐志摩は熊式一のユーモラスで華麗な筆致を好み、褒めちぎった。徐志摩の賞賛により、そのころ武漢大学文学院の院長であった陳源も、熊式一を欧米演劇の教員として招聘しようとした。だが、当時の「教育部」の規定により、そのときまだ海外留学経験がなかった熊式一は関連学科を教えることができず、ついに武漢大学で教壇に立つことはできなかった。この偶然の出来事は、熊式一を大いに発奮させた。国内のすべてを捨て、イギリスで博士課程に進むことを選んだのである。すでに5人の子供の父親であり、妻の蔡岱梅も北京大学に在学中であったため家庭の負担は大きかったが、それでも海外に出てみようと決心した。

熊式一が活躍の舞台を海外に求め始めたのは、このときからである。「王宝川」の大ヒットの後、熊式一はしばらく博士号のための研究をやめ、この作品の世界的進出のための演出に専念した。その過程で、外部の環境も熊式一の選択をさらに後押しすることとなった。1935年、「王宝川」は上海公演で好評を受けたものの、一部の批評家がこの作品を大々的に批判し、このような脚本は外国人の歓心を買うための手段に過ぎないと貶めた。1937年に日中戦争が全面的に勃発すると、戦火の中で南昌に戻って親族を頼ろうとした熊式一は困窮し、最終的に妻と3人の子供を連れてイギリスに定住することに決めた。こうして、かつて憧れた中国の文壇での活躍は、あり得たかもしれない一つの可能性として、熊式一とは永遠にすれ違うこととなったのである。

鄭達著:熊式一 消失的「中國莎士比亞」(ー消えた「中国のシェイクスピア」)

運命の起伏と零落

活躍しなかったのは、その当時の特殊な歴史的状況と大きな関係があると考えている。「王宝川」がアメリカでヒットして間もなく第二次世界大戦が勃発し、社会的秩序と生活のリズムが乱された。戦争中には劇場は一旦閉鎖され、出版業も制限を受けた。このほか、テレビや映画といった娯楽が現れたことも、演劇にとって打撃となった。このようなすべての外在的要因は、後の熊式一の生涯に災難をもたらし、伏線を敷くこととなった。だが1944年のこの時点では、熊式一はそこまで考えてはいなかった。当時「王宝川」がヒット中の彼は、小説「天橋」もベストセラーとなり、印税によってまずまずの生活を送っていた。子供たちの教育環境のため一家をあげてオックスフォードに移って家を借りた。親切で客好きの熊式一の家にはたちまち華人社会の著名な文化人が集まり、オックスフォードを訪れる中国人はほぼ例外なく彼の家を訪れた。このときはいまだ社交界の中心であった自分が、人生の舞台では辛い後半生を生きることになろうとは予想していなかっただろう。イギリスで暮らしたこの時期、金遣いが大雑把で出費に計画性のない熊式一の生活は、早くも少なからぬトラブルをはらんでいた。ベストセラー作品があるとはいえ、後の出版契約を適切におこなっておらず、印税生活のため収入は不安定で、熊家の経済状況はしだいに苦しくなっていった。妻の蔡岱梅も収入を増やす手立てを考え、早くからBBCでニュース原稿を書いたり、のちにはケンブリッジ大学で短期の教職に就いたりもした。多才な彼女は自ら小説『海外花実』を書き、売れ行きも悪くなかった。だがこういった収入も、いわば焼石に水だった。金銭問題のため、夫婦の関係にも溝が生まれていた。
熊式一の性格からいって努力をやめたとは考えられないが、過去の幸運はいよいよ底を尽きつつあるようだった。1954年、シンガポールでは近く南洋大学(現在の南洋理工大学)の設立が予定されていた。招かれて校長となった林語堂は熊式一の能力を評価し、シンガポールでこの大学の文学院の院長にならないかと誘ってきた。これは生活の問題を解決できる安定した仕事だと、熊式一はシンガポールへ旅立った。だが期待とはうらはらに、複雑な学内状況や人事問題などの理由から、林語堂と熊式一は相次いで学校を去り、シンガポールに留まることは叶わなかった。その当時、世界各地の文化界の才能が香港に集結していた。熊式一も香港の発展を見据えてシンガポールを離れ、香港で生計の道を探ることを選んで、現地で「王宝川」の中国語版映画を企画した。だが舞台版がヒットした時代はすでに去り、映画版は往年のような成功を再現することはできなかった。それでも熊式一は香港に留まり、後の30年以上にわたり、中国語で脚本や小説を執筆した。これまでのように中国文化の紹介に情熱を注ぎ、さらに香港・台湾では清花書院を設立し、多くの文科系の人材を養成した。ただ残念なことに、当時の中国大陸は特殊な時期にあって、熊式一の中国語作品はまたしても進出の機会を逸した。晩年の熊式一は生活と仕事に着実に取り組んだ。だが人生の舞台は、すでに華やかな大劇場から静かでひっそりとした小劇場に移っていた。シンガポールに旅立ったときから、妻や子供たちは各地に離ればなれになった。妻の蔡岱梅はイギリスに、子供たちは中国大陸に戻って仕事に就いたり、海外で生活したりと様々だった。かつての友人たちはしだいに衰えて世を去り、年ごとに寂しさは募った。自分でもやや弱気になり、晩年に妻に宛てた手紙では、「着るものは新しい方がいいが、人はやはり昔からのなじみがいい」と嘆いている。ただし幸いなことに、どのような境遇にあろうとも、熊式一の性格は常に変わることはなかった。旧友に対しては昔の恨みにこだわらず寛大に手助けし、新たな友人に対しても相変わらず親切で気前がよかった。鄭達は、熊式一の性格をよく伝える2つのエピソードを記している。1945年、胡適がオックスフォードで法学博士の学位を取得したとき、戦後の物資の供給が乏しい時期のことでアカデミック・ガウンが手に入らなかった。助けを求められた熊式一は、かつて自分の作品を無視されたことは水に流し、すぐに用意したという。また晩年には劇作家の楊世彭と親交を結んだ。初めて出会ったとき、熊式一は2つの高級ブランドの腕時計をしており、違うタイムゾーンの時刻を示して見せ、その後すぐに一つを外して楊世彭に贈ろうとした。年下の楊は断ることもできず、やむなく安い方の時計を受け取ったという。

このような性格は、順風満帆の時代には熊式一に輝きを添えたが、不遇の時代には零落を早めることともなった。負けず嫌いの熊式一は自分の不安定な身の上を隠して、晩年にも過去と同じような溌剌としたイメージで人に接し、香港・台湾・中国大陸・アメリカなどの地で足跡を残している。人生の終わりを安らかに過ごせる場所を探して、晩年もなお執筆や教職によって生計を立てる道を求め、中国人の物語を描き続けた。
熊式一の晩年の漂泊は、生命の終わりがその終着点ではなかった。世を去った後、その遺骨はまたしても子孫たちの海外の居住地を転々とし、2011年になって長女の熊徳蘭、長男の熊徳威の遺骨とともに北京に安置されることが一族によって決められ、ようやく安住の地を得た。北京は熊式一がかつて学問の道を求めた地であり、文学の夢のために戦った出発点であり、多くの親しい人々が眠る場所でもある。あるいは生命の旅の最後に、生涯をかけて弛まず努力し、各地を転々とした熊式一は、ゆかりの人々と団欒の時を過ごし、ついに故郷に帰った温かさを噛み締めたかったのかもしれない。
(資料出典:『熊式一:消失的 “中国莎士比亜”』、鄭達著、生活・読書・新知三聯書店)

月刊中国News 2023年12月号より転載

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