世界遺産登録を目指す「北京の中心軸」、専門家が歴史と文化財保護の現状を紹介
中国の都市は、歴史上の極めて早い時期から高度な計画性をもって建設されてきた。その特徴の一つが都市全体が方形で東西対称であることだ。中国は北京市の「中心軸」をユネスコの世界遺産に登録すべく、準備を進めている。清華大学国家遺産センターの呂舟主任はこのほど中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、中国人が都市に込めた理念や北京の状況を紹介した。以下は呂主任の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。
■西洋とは出現の経緯が異なった中国の都市
北京の中軸線は中華文化の独特さを表す象徴の一つだ。このことが、世界遺産への登録を目指す土台となった。中国の古代都市の多くは「統治」を念頭に築かれた。そのため、明確な計画と配置という特徴がある。北京の中軸線は、中国の都市の特徴が最も明確に出現したものだ。
一方で西洋の都市は大部分が、商業や手工業を営む者の集落として出発し、自由に成長してきた。西洋では政治と宗教の関係が、都市における配置を決定した。教会や市場、市政庁が重視され、王侯貴族の館は特定の場所に集中させる程度の配置だった。
中国では西周(紀元前1100年頃―同771年)初期に都市造営が高まりを見せた。そして、階級による都市内の配置だけでなく、都市の格式も重視された。孔子が現実の政治から身を引くきっかけになった「三都を堕つ」の事態も、孔子が有力者が自らが治める都市を競って築くことを、国王をないがしろにする僭越な行為と見なしたことが背景にある。
■モンゴル族支配の元朝で初めて「理想との都市」が出現
中国の伝統文化は一貫して「中を尊ぶ」の観念を極めて重視してきた。この観念は、「天と人の関係」も含む。例えば秦の都であった咸陽は、星座に対応させて都市内の配置を決めた。これは、人の世にあって天界を模写するとの考えだ。古代中国人は礼制を通じて天界の秩序を地上で実現させようと考えた。
北京の中軸線とは天の秩序、あるいは天の道の理想を都に、さらには人の世全体の秩序として実現させる考えの反映だ。従って、中軸線は幾何学上の「中心軸」であるだけでなく、概念上の「中」でもある。
中国の漢代(紀元前206年-紀元220年)や唐代(618-907年)の都の多くは宮室を中心に構成された。このことは日本の奈良や京都、その他の東アジア地区の都市の形態に影響を与えた。元(1279-1368年)が都として大都、すなわち現在の北京の原型を築く際には、まず都市の中心点を定め、そこから方位を定めて宮殿などの位置を決めた。そして中軸線の上に重要な建築群を配置した。このような都市計画は、世界でも唯一無二だ。
元朝は大都の建設にあたって、西周の行政を記述した「周礼・考工記」にある都市形態を実現しようとした。元朝を支配したのはモンゴル族だったが、元の皇帝は大都を建設することで、自らが中華文明の正統な後継者であることを示そうとした。興味深いことに、元代以前に「周礼・考工記」の記述を完全に反映させて建設された都市は存在しなかった。
明代の嘉靖年間(1522-1566年)には、北京の中心軸が現在の7.8キロにまで延長された。清朝期にはさまざまな建物の配置などで中心軸と都市全体の関係がさらに強化された。
■中国は「文化遺産の扱い方」で世界に貢献できる
「世界遺産条約」が発効したのは1975年で、中国は1985年に加盟した。中国はそれ以来、大量の申告や保護、管理などの経験を蓄積してきた。中国は北京で「東アジア地区文化財建築保護の理念と実践の国際フォーラム」が開催された2007年ごろから、自らの歴史文化の伝統に基づき、国際的な文化遺産保護の原則にも合致し、中国の文化財や古跡の特性にも合致する保護思想と原則を形成してきた。
中国は2017年開催の世界遺産条約締結国会議で、委員国に選出された。任期は4年間で、中国が委員国に選出されたのは4回目だ。中国は世界遺産のルールを熟知し、豊富な経験を持つ委員会加盟国になった。
中国は世界遺産条約を専門的な活動の場と見なすだけでなく、国際的な対話や交流のプラットフォームと考えている。中国は地域住民コミュニティーの文化財保護への参画、保護を通じて文化を復興させること、地域における持続可能な発展の推進などの豊富な経験を持っている。実践が思考を深め、思考が実践を促すことを繰り返している中国は、自らの経験により世界に貢献することができると信じる。(翻訳:Record China)