辛育齢 中日友好病院の創始者

      

 (中国通信=東京)北京16日発中国新聞社電は「辛育齢 ベチューンのそばの衛生員、中日友好病院の創始者」と題する次のような記事を配信した。

 2022年6月7日、101歳の辛育齢氏は自らが参画・建設した中日友好病院で病逝した。辛氏は最後の日々、時おり身振り手振りを交えて犠牲になった戦友との思い出を語った。そして大きな声で「ベチューン先生、ベチューン先生」と話す時もあった。
 1939年5月、八路軍冀中軍区衛生部の18歳の若い衛生員だった辛氏はベチューン業務隊に派遣され、「司薬」を務めた。
 1984年10月、中日友好病院の開院記念式典が行われ、初代院長となった辛氏は正式な開院からわずか数カ月で院長職から退き、胸部外科に戻り、手術台で89歳まで働いた。

 いまようやく辛氏は戦友たちの元に帰っていった。

 ◇「黄金時代」

 1978年、中日両国は「中日平和友好条約」に調印した。翌年の12月、当時の日本首相・大平正芳氏が訪中した。訪中期間中、大平首相は中日科学技術協力協定の調印式に立ち会い、その際スピーチで、中国の近代化を実現するための努力に対し、日本は積極的に協力し、北京で病院1カ所の建設に援助する用意があると述べた。
 1981年、中日は建設援助取り決めを結び、日本が165億円(人民元換算で約2・8億元に相当)を寄付し、北京に医療、教学、科学研究が一体となった近代的な国際病院を設立することが決まり、これを「中日友好病院」と名付けた。
 1982年5月、中国共産党中央組織部は中央結核病研究所所長だった辛氏を中日友好病院の初代院長に任命した。辛氏は北京中医学院に臨時で設置された木造の小屋の中で2年余りにわたって創設準備に取り組んだ。辛氏は100歳の時にこのときを振り返り、「あれは黄金時代だった」と話した。

 取り決めに基づき、日本は中日友好病院に計165億円を投じることになっていたが、これはすべてが現金ではなく物資の換算額である。すなわち、建材は中国で調達し、医療機器は日本製品を使用することになっていた。辛氏は精密機器については欧米の新世代製品を購入するよう提案したが、日本は同意しなかった。日本での実地視察を経て、辛氏は日本の病院にあるハイエンド機器の80%が欧米の製品であることを知り、帰国後に日本が投資を200億円まで増やし、これを欧米のハイエンド設備の購入に充てることを提起した。辛氏は万里(副首相、当時)と谷牧(国務委員、当時)にもこれを報告し、谷牧は駐中国日本大使とこれについて協議した。
 最終的に日本は投資を20億円追加し、病院建設の取り決めを結んだ。この他に、辛氏は日本の民間のチャンネルを通じて10億円を募り、国内の各省庁・委員会から1000万元余りの予算を獲得して資金の不足分をほぼ埋め合わせた。
 取り決めに基づき、病院区のインフラ・医療設備は日本の無償援助、病室内の寝具は中国が用意することになった。病院建設の最終段階で、日本羽毛寝具株式会社が寝具などを無償援助すると表明したため、辛氏は衛生部に許可を取り、先に発注していた分をキャンセルし、支出を一部節約した。

1983年10月、日本支援建設専門家グループ責任者、井出源四郎(左から4番目)、鳥居有人(右から4番目)が中日友好病院院長辛育齢(左から3番目)に伴われて、建設中の病院を視察=中日友好病院提供

 ◇将来に目を向ける:中国西洋医結合の窓口

 中日友好病院はベッド数1000の医療部、ベッド数300のリハビリセンターおよび臨床医学研究所と高等看護学校が設置され、スタッフの総数が2640人で、そのうち衛生技術人員が1885人だった。当時、中日友好病院は中国で最も大きく、なおかつ設備も最もハイエンドな病院となった。

 当時、病院は独自に求人を出すことはできず、すべて衛生省が定員枠を割り当てていた。辛氏は周恩来の保健医師を務めていた卞志強氏を副院長に迎え、協和病院から盧延氏を招き放射線科の主任に据えた。また複数回の話し合いを経て、中央組織部に地方の人員が北京で働くための50の指標を特別に承認させ、各省・直轄市からトップレベルの専門的人材を呼び寄せた。辛氏は日本とも取り決めを結び、病院の全科・室の主任以上の人員が順番に日本で半年間の研修を行い、処〈部〉以上の事務スタッフが日本で3カ月の研修を行えるよう手配した。

 辛氏は中日友好病院が「より高い基準で始動し、より長期的な視点で運営される」よう堅持し、病院が「窓口としての役割」を持つべきだと考えた。すなわち、近代的管理の窓口、中国西洋医結合の窓口、国際医学交流の窓口、そして中日友好の窓口である。

 辛氏は胡耀邦(元中国共産党総書記)と鄧穎超(故・周恩来夫人)にそれぞれ病院の看板題字を揮毫してもらい、国章をデザインした周令釗に中日友好を象徴する病院の徽章をデザインしてもらい、施光南と喬羽に院歌の「白雲之歌」を制作してもらい、自ら中国西洋医の結合を表す病院旗をデザインした。

 辛氏はさらに中日友好病院に資金援助を行ったすべての中日の機関のために大理石の石碑を建て、これらの石碑は今でも南庭園に聳え立っている。

中日友好病院=中新社 九州撮影

 1984年10月23日、中日友好病院は開院式を行い、両国の指導者が出席した。この日、辛氏は中日友好病院の最初のカルテ番号を登録した。

 数カ月後、辛氏は院長の職務を辞し、胸部外科に戻った。

 2003年、中日友好病院は中央からSARS〈重症急性呼吸器症候群〉予防対策特別病院に指定され、80歳の辛氏は専門家チームのチーム長を務め、すべての重症患者の診察に参加した。以来、中日友好病院の影響力は高まり、対応に追われるほど外来診察の件数が急増し、現在では年間の手術件数が3000件に上っている。2021年の全国の肺移植成功患者200人余りのうち、同病院の胸部外科によるものが100件近くあった。

1972年、訪問団が辛育齢グループに迎えられ、針麻酔を用いた肺切除術を見学=中日友好病院提供

 2014年11月、かつて病院の日本側設計者を務めた浪川宏氏が辛氏の好きな蘭の花を持って辛氏の病室を見舞った。辛氏は非常に喜び、30年前の病院創設時代の話を語らい合った。

 中国共産党建党100周年の際、100歳の誕生日を過ぎていた辛氏は党内最高の栄誉である「七一勲章」を授与された。 (完)

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