1971年の決着、中国が国連安保常任理事国になった日(その三)
「中国人の知恵」
1972年初頭、周恩来からの指示が入った。「閉じこもってばかりで、情報不足になってはいけない」。以後、代表団は会議が終わったら即代表部に戻るという習慣を改めた。
黄華は、中国が寄贈した万里の長城の巨大タペストリーが飾られた代表団ラウンジに足を運び、他の国の代表らと大いに雑談を楽しむようになった。アフリカのある代表は「ここは国連の『第三世界』。中国人はやはりすぐにこの場所を摑んだ。当然ながら、ブッシュ氏やマリク氏がここでコーヒーを飲んでいる姿は見たことがない」と語った。
呉建民曰く、当初、国連に対する中国の認識は、中国の声を外部に伝えることのできる「演壇」であり、無意味なありふれた話ばかりを繰り返す「井戸端会議」であり、山のような文書を発布しながら強制力に欠ける「文書製造工場」だった。この頃、代表団は業務の重点を反覇権主義と途上国支援に置いており、他のことにはあまり関わろうとしなかった。当時のこうした姿勢を、代表団は耳当たりのよい言葉で「超脱」〔世俗の外に抜け出る〕と称していた。
国連のラウンジやカフェテリアは、さながら自由市場で、様々な情報が飛び交い、様々な議案が計画される場だった。呉建民は暇さえあればそこを訪れ、周囲の会話に聞き耳を立てたり、時にはさっと一周したりしていたが、得られる情報は少なくなかった。
国連にはもう1つ、格好の情報収集場所がある。それはダイニングルーム。国連のダイニングルームはいくつかのランクに分かれている。大使向けダイニングルームはやや高級で、事前予約制だ。ここは時に様々な交渉のテーブルにもなる。一般職員向けダイニングルームは比較的リーズナブルで、一般来訪者も利用できる。代表団のミドルクラスのメンバーも大体ここで食事をとっていた。職員向けダイニングルームでは、メイン料理、スープ、デザートがついたセットメニューを4ドルほどで食べることができた。中国代表団の食費は1日25ドルと定められていたが、これは当時の事情を鑑みればかなり高額な部類だった。
最初の2年間、中国国連代表団は、中米間の秘密の連絡ルートという特殊任務も担っていた。
1971年7月のキッシンジャー訪中以降、双方は中国駐フランス大使・とアメリカ駐フランス大使ウォルターズが直接連絡を取り合う「パリルート」を開設したが、いかんせんパリは遠すぎた。中国代表団が国連復帰すると、キッシンジャーは黄華との間に秘密連絡のためのニューヨークルートを開設しようともちかけ(黄華が不在の場合は代表団のナンバー2・陳楚が代理)、中国政府はこれに同意した。
当時、キッシンジャーはソ連駐米大使アナトリー・ドブルイニンとの間にも同様の直接連絡ルートを有していた。これは相手の動向を探り、深刻な膠着状態を避けるための手段であるとキッシンジャーは考えており、1回目の訪中時に、アメリカは引き続きソ連と接触を保つが、達する可能のある合意のうち中国の利益にもかかわるものは中国側にも詳細に報告すると周恩来に約束していた。
アメリカとの秘密会談の最初の数回は唐聞生が通訳を担当した。唐聞生が喬冠華と共に帰国してしまうと、施燕華が後を引き継ぎ、連絡員としてウィンストン・ロードと直接やり取りするようにもなった。ウィンストン・ロードはキッシンジャーの特別補佐官であり、腹心にして親友でもあった。
代表団の電話が盗聴されないよう、施燕華はいつも街中や国連の公衆電話を使った。アメリカ側は彼女にKayというコードネームをつけた。その理由は、施燕華が電話してきたとき、まず秘書が名前を聞き取りにくいということ。そして、常に特定の中国人から連絡があることで余計な注目を浴びないようにするためもあった。呉建民は後年、当時のことを振り返り、時々施燕華の姿が見えなくなることがあったが、何をしに行っているのかは聞けなかったし、彼女も話せなかったと語っている。
中国代表団の車はすべて黒のリンカーンのセダンで、CYで始まる外交官ナンバーをつけており、非常に目立った。そのため、密会するときはいつもCIAが普通の自家用車で迎えに来た。
車はひっそり静まりかえったマンハッタンのイースト43番街に滑り込み、2階建ての小さな建物の前で止まる。ここは誰も住んでいない空き家で、2階の小さな応接間には、ソファーとテーブルのほかは何もなかった。時間は毎回かなり正確に手配され、両者の到着時間は1、2分の差しかなかった。
秘密の会談の通訳者はいつも施燕華1人だった。これは彼女にとって初めての政治会談の通訳だった。党中央指導部はこの会談を極めて重視しており、外交部は彼女に対し、通訳するだけでなく、一字一句記録をとって報告するよう命じた。施燕華はプレッシャーのあまり、訳すスピードも知らず知らずのうちにゆっくりになった。
施燕華の記憶の中にあるキッシンジャーは、背は高くなく、大ぶりのメガネをかけ、自信に満ちた様子で、とらえどころのない微笑みを浮かべる人物だった。喉の奥から発する音を多用するドイツ語訛りの英語を話し、哲学博士だけに長文と大概念を好み、時折ラテン語を混ぜ込んだ。しかも、テーブルに置かれたお菓子を食べながら。ビスケット粉末にまみれた口蓋垂音〔口の中の物が実によく飛び出す〕を向けられるのだから、施燕華にとってはある意味災難だ。それでも燕京大学出身の黄華がいたため、心強かった。黄華は英語がよくでき、延安にいたときは毛沢東とエドガー・スノーとの通訳を担当していた。何か問題が起こったら、代わりに何とかしてくれるはずだ。
連絡員である施燕華には、伝言を伝える任務もあった。時にはキッシンジャー自身ではなく、ウィンストン・ロードが伝言を持って来た。中国側も伝えたいことがあるとき、ロードにご足労願うことがあった。
ロードが来るのはいつも遅い時間で、時に深夜になることもあった。ロードが来る前、施燕華は当直の職員に呼び鈴に留意するよう伝えておき、到着したら、上質の茶を出してもてなした。アメリカ人はみなジャスミン茶を好んだ。
1972年4月に入ると、ベトナム情勢が悪化した。この間、中国とアメリカは頻繁に接触し、激しくも複雑な外交ゲームを繰り広げた。
4月3日、キッシンジャーはロードをNYに送り、「各大国はこの問題を緩和させるべく影響力を発揮する責任があり、情勢を悪化させてはならない」と中国側に伝えた。伝言の名目はアメリカ艦船の西沙諸島〔パラセル諸島〕海域侵入に中国側が抗議してきたことに対する回答だったが、真の目的は、中国政府に対し、アメリカにとってのベトナム問題の重要性を伝えることだった。中国側は4月12日これに返答し、ベトナム人民を応援する旨を伝え、また、アメリカが泥沼にはまり込んでいる旨を警告した。ただ、最後に、中国はアメリカと協力して関係正常化の実現を望むと繰り返した。
5月8日の夜9時、ニクソンは全国ネットでテレビ演説をおこない、北ベトナムのすべての港湾に機雷を仕掛けると宣言した。談話発表の1時間前、キッシンジャーはニクソンが周恩来に当てて書いた手紙を黄華に届けるため、ピーター・W・ロッドマンをNYに送った。手紙の様式は毎回同じで、署名も差出機関の名前もなく、便箋には透かしすら入っていなかった。手紙は周恩来に対し「インドシナ半島に長期駐留を望んでいるのはアメリカではない」(ソ連を暗示)と伝え、「過去3年間、中華人民共和国とアメリカは、両国の深い利益の上に立った新たな関係を辛抱強く構築してきた」と振り返り、「一時的な感情の高ぶりが治まれば、長期的利益に精力を集中させることができるだろう」と締めくくった。黄華は沈鬱な表情で手紙を読み終えると、何も言わずロッドマンにジャスミン茶を勧めた。
周恩来はこの手紙と同時に、ソビエト連邦閣僚会議議長〔首相〕のコスイギンからの手紙も受け取っていた。コスイギンはソ連の救援物資を中国の陸路経由で運ばせるよう求めていた。中国側は、ベトナムに共鳴し、アメリカ帝国主義を糾弾する政府声明を発表したが、同時にコスイギンの手紙も「却下」していた。中国はさらにこの間、パリルートを通じ、アメリカ下院で力を持っていたヘイル・ボッグスとジェラルド・R・フォードの訪中に関する段取りについてアメリカ側に問い合わせてもいた。事実、訪中は6月末におこなうことで決定しており、まだ時間はあった。
キッシンジャーは後に、当時を振り返ってこう語っていた。それまで、中国政府は民間レベルの往来を除く両国間の一切の関係を凍結するだろうとの予測が専門家の間で出ており、CIAも、中国は1968年以前に援軍を派遣したとき同様、ベトナムに直接支援をおこない、ソ連からの救援物資も中国の陸路経由で輸送することに同意する可能性が高いと分析していた。アメリカ側はここにきてようやく、米中関係正常化のプロセスがなおも継続中であることを理解したのだった。「中国人のすることに偶然はない。事ここに至り、我々はそのことをようやく痛感した」
「勢力均衡」により、アメリカが長年求めて止まなかった「名誉ある平和」、つまり1973年1月23日に締結された「ベトナムにおける戦争終結と平和回復に関する協定〔パリ和平協定〕」がようやく現実のものとなった。それより重要なのは、戦後の二極化世界がようやく終わりを迎えたことだ。
ベトナム問題が解決した1973年2月、キッシンジャーは再び中国を訪問した。その際に双方が発表した共同コミュニケでは、いまこそが関係正常化を加速させる絶好のチャンスであるとし、「双方は、アメリカと中華人民共和国との関係正常化は、アジアひいては世界全体の緊張緩和に貢献し得るとの認識で一致した」と述べられている。
1973年5月、双方は互いの首都に連絡事務所を開設した。中国側の内部通達には次のように記されている。「双方が開設予定の連絡事務所は在外公館ではないが、暗黙の了解として互いに外交特権を与える」
キッシンジャーは後にこう語っている。米中間には、何年もかけて丹精込めて育まれた「助け合い」の関係が存在する。それは、地政学的利益の上に成立した極めて稀なパートナーシップであり、正式に明文化された規定がないからこそ、より有効に働く。
こうして、中国国連代表団は秘密連絡ルートとしての使命を終えた。しかし、国連における中国代表団の使命や、中国の国際社会への仲間入り、それに中国に対する国際社会の理解は、まだ始まったばかりだった。(翻訳編集/月刊中国ニュース)