【東西文明比較互鑑】戦国時代とギリシャ(4)東西の相違こそ対話の基礎
「分」と「合」に分かれた政治観念
中国の古代にも多くの国が乱立し、一つの都市が一つの国になる局面がかつてあったが、最終的にはこれらの都市国家は長期にわたっては分立せず、地域的な王国を形成し、さらに一歩進んで統一王朝に発展した。
どのように争うかにかかわりなく、戦国七雄は一つの秩序しか持てず、分割した統治は長期的ではないはずだと考えていた。同時代のギリシャ都市国家の世界には宗主国は存在せず、異なる連盟による闘争があるだけで、「共通の秩序」が存在するとは考えられていなかった。
国家間の関係から見ると、周代の礼式では、一国で疫病や凶作が起こったら、他国は食料を提供し、被災者を救済しなければならないと定めていた。また、一国に冠婚葬祭があれば、各国は祝賀と哀悼に出向かなければならないとも定めていた。これらの責務は強制的なもので、天子によって擁護されていた。諸侯の覇者もこれらのしきたりを擁護することでようやく覇を唱えられた。これにより、国家間で「華夏〔中国の古称〕世界」に共に属しているという一体感が強化された。一方、ギリシャの都市国家間には責任関係が確立されなかった。母市からの植民でできた新しい都市国家であっても、母市に対して責務はなく、しばしば矛先を向けて攻撃さえした。ギリシャ・ペルシャ戦争の際にも、ギリシャ人という共通の立場はわずかな効果しか発揮しなかった。
二つの文明の本質的な性質は二つの異なる道をつくった。
西洋は絶えず「分」に向かった。地域で分割され、民族で分割され、言語で分割された。ローマとキリスト教の努力のように、その中にも統一の努力はあったが、分割のすう勢が主流を占め、最終的に個人主義と自由主義に帰結した。
中国は絶えず「合」に向かった。地域で統一され、民族で統一され、言語で統一された。王朝交代や遊牧民族の衝撃のように、その中にも離散の時期はあったが、統一のすう勢が主流を占め、それによって中華文明の集団主義が育まれた。
決して中華文明に「分」の概念がないわけではない。しかし、それは決して「分割した統治」ではなく、「分担」だった。人がひ弱なのに鳥獣を超えて生き延びられるのは、集団を組織できるからだと荀子は言った。集団をつくる鍵は異なる社会的役割を確定し、かつ相応の社会的責任を引き受けることにある。分担が「礼儀・道義」に合致しさえすれば、社会を統合できる。このため「分」は「和」のためのものであり、「和」は統一のためのものだ。統一すれば強大になり、強大になれば自然を改造できる。
アリストテレスにも「合」の思想があった。彼は「絶対王政」の概念を打ち出した。つまり「君主1人が氏族全体や都市全体を代表し、家庭に対する家長の管理のように、全ての人々の事柄を全権的に支配する」ということだ。彼は「全体は常に一部を超越するが、このようにずば抜けて優秀な人物はそれ自身が一つの全体であり、ほかの人々は彼の一部のようなものだ。唯一の可能なやり方は皆が彼の支配に服従し、他人と交代させずに無期限で支配権を握らせることだ」と考えた。アリストテレスを批判する人はこれに対し、アレクサンドロス大王のためにつくられた政治理論で、彼が真理よりも権力を愛していることを示していると述べた。
アレクサンドロス大王の死後、アリストテレスはすぐ反撃に遭い、アテネ公民大会の裁判に直面した。前回こうして裁判にかけられて毒を飲んだのは、彼の大師匠ソクラテスだった。アリストテレスは二の舞いを演じないようマケドニアのエヴィア島に隠れた。彼の逃亡はアテネ人にあざ笑われた。1年後、アリストテレスはわだかまりを抱えて死去し、アレクサンドロス大王の帝国もすぐに分裂した。
マケドニア王国の拡張方式は、到達地におけるギリシャ式自治都市の建設だ。こうした「自治」はその都市に居留するギリシャの植民者に対するものであって、征服された土着の社会を含まない。アレクサンドロス大王は新たに征服した一つ一つのアジアの都市に自らの側近を派遣し、総督を務めさせた。彼らは軍事と税収だけを管理し、民政には構わなかった。こうしたやり方は中央が強大な時には許されたが、いったん中央の権力が衰えると、逸脱した行動が生まれ、都市は次々と支配から抜け出した。アレクサンドロス大王の帝国の瓦解は必然だった。
中国の戦国時代における末端政権の組織方式は完全に異なる。出土した秦代の竹簡によると、秦国は併合のたびに県から郷までの末端政権組織を確立するようにしていた。県と郷の官吏は全ての民政を処理しなければならなかった。開墾を組織し、戸籍の統計を取り、税金を徴収し、物産を記録し、それらの情報を都の咸陽に伝えて保存していた。秦の官吏は一つの土地に長くとどまらず、数年で交代していた。
自由と秩序の相互参考を
人類社会の歩みの中には、全てを説明できる理論は存在せず、普遍的な絶対的原則は存在しない。現今の東西文明の観念で最大のもつれは、「自由優先」なのか「秩序優先」なのかということだ。これはそれぞれギリシャ文明と中華文明の中心的な価値観だ。
「ギリシャ人」という言葉は自由に対するギリシャ人の強い愛情により、人種の名前から「知恵」の代名詞に変わった。中華文明は秩序に対する中国人の強い愛により、同源で一つの文字を使い、かつ国家の形態によって現在まで持続している唯一の文明になった。
秩序優先のもたらす安定と自由優先のもたらす革新では、どちらがより追求する価値を持つのか?これは哲学、政治学、宗教学、倫理学の限りない論争を含んでおり、私たちは定説を必要としない。これら異なるものを残すこと自体が、ちょうど将来の文明の相互参考と融合に可能性を残す。多元と矛盾の併存は人類文明の遺伝子バンクにより多くの種を残すだろう。自由優先と秩序優先という相違は東西文明の交流の障害になるべきではなく、むしろ東西文明の交流と対話の基礎になるべきだ。一方では、技術の発展が爆発的な革新の前夜に進んだことで、私たちは自由のもたらす創造力を深く認識した。もう一方では、非伝統的安全保障の危機が頻繁に勃発したことで、私たちはあらためて秩序の大切さも認識した。自由についていえば、どのように秩序を強化し、それによって崩壊を防ぐかを検討しなければならない。秩序についていえば、どのように自由を強化し、それによって革新を呼び起こすかを検討しなければならない。問題は自由と秩序の二者択一ではなく、どの部分で自由を強化し、どの部分で秩序を強化するかということだ。
過去、一つの理念の検証には、数百年をかけて何代もの人々が繰り返し試行錯誤することが必要だった。今日においては技術革新の下、数年間で原因と結果がはっきりと理解できる。省察、絶え間ない包容、調和と共生、相互参考と融合を理解できる文明だけが、真に持続的に発展できる文明なのだ。そのために東洋と西洋はしっかりと語り合うべきだ。(魏巍・田潔・四谷寛訳)
※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「戦国時代とギリシャ(4)東西の相違こそ対話の基礎」から転載したものです。
■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら