「氷嬉」から冬季五輪へ、中国ウインタースポーツの歴史

夏季オリンピックといえば陸上や球技が知られているが、冬のスポーツもやはり魅力的だ。冬季オリンピックは、ウインタースポーツ競演の舞台としてファンを大いに引きつける。現在のウインタースポーツ種目は西洋、特にヨーロッパを起源とするが、中国にも長い歴史を持つ氷上・雪上運動があり、「氷嬉」は中でも特に重要だ。古代の「氷嬉」から現在の冬季五輪まで、中国の冬のスポーツの歴史は冬の文化の発展と豊かさを示している。

2021年中国国際サービス貿易交易会国家コンベンションセンターの展示場にある故宮博物院のブースでデジタル技術を応用した『氷嬉図』を見る見学者。撮影/中国新聞社・記者 侯宇

「氷嬉」―― 清代の盛典から見る国の盛衰


 「氷嬉」は「氷戯」や「氷技」ともいい、様々な種目を含む伝統的な氷上スポーツである。古代に北方民族の冬の暮らしから生まれ、明の末期から清の初期にかけて完成した。
 『満文老檔』によると、1625年にヌルハチが遼陽の太子河で氷上運動会を開き、氷上の蹴鞠や氷上競走などに男女が参加したとある。
 1642年、ホンタイジは盛京〔現在の瀋陽〕の渾河べりで大規模な氷上蹴鞠大会を開き、朝鮮から皇太子たちを参観に招き、外交の場とした。


 国力が高まった康熙帝の時代にも、氷上蹴鞠大会が西苑太液池(現在の北海、中南海)で開かれたという史料があり、その頃にはすでに「氷床」もあった。「氷床」は氷上の交通手段であるが、趣味人は楽しみのために乗ったりもしていた。

様々な時代の国内外のスケート靴。写真/取材先提供

 乾隆帝は、「氷嬉」による軍事訓練をやろうとした。氷嬉大会の参加者には参加賞が与えられ、成績が特によかった者はさらに表彰された。乾隆十年(1745年)、「氷嬉」は国の盛典に定められた。「氷嬉」と名づけたのは乾隆帝自身で、自ら『御制冰嬉賦(有序)』を書いている。家臣たちの考えを統一するため、それに応える賦を13人の大臣に書かせた。嵇璜の賦の中に「もとは水上戦の余技だったが、氷嬉との美名を賜った」とあり、この名前が乾隆帝によってつけられたことを示している。


 乾隆十年、正式に氷嬉制度ができてから、道光十九年臘月二十三日(1840年1月27日)の最 後の観閲まで、皇帝自ら提唱した氷の祭典は94年間続いた。乾隆帝は「氷嬉」を「国俗(国の風俗)」とし、毎年観閲する制度を定めたのである。「氷嬉」という名は宮廷から庶民にまで広く受け入れられ、中国の氷上スポーツの総称となった。


 乾隆帝は絵師たちに「氷嬉」の様子を描かせてもいる。故宮博物院には張為邦・姚文瀚の『氷嬉図』と金昆・程志道・福隆安による『氷嬉図』が収蔵されている。
 この2幅の『氷嬉図』の最大の違いは、画面中央の「転竜射球」という競技にある。張為邦はこの部分に人物や華やかな演技の様子を描き加えたが、氷上の八旗の順番は金昆の『氷嬉図』と同じである。

2014年ソチ冬季オリンピック女子スピードスケート1000m決勝、中国の張虹選手は1分14秒02で冬季オリンピックスピードスケート競技中国初の金メダルを獲得した。撮影/中国新聞社・記者 富田


 乾隆帝の『氷嬉賦』などの史料によれば、ほとんどの「氷嬉」では八旗を別々に観閲したが、一部の重要な種目の時だけ、八旗合同だったのである。また、倒立、畳羅漢〔組み体操〕、耍中幡〔長い竿の旗を頭上に載せる曲芸〕、刀や棍棒の演武など、民間に伝わる出し物が描かれているが、これは乾隆帝の理想であって、実際のシーンではなかったかもしれない。ここから、乾隆帝は金昆の『氷嬉図』では不十分だとして、張為邦等にも描かせたと推察される。


 嘉慶初年に乾隆帝は太上皇となり、すべての「氷嬉」の盛典を観閲した。嘉慶帝はその影響を 受け、ほとんどこの盛典を中断しなかった。
 道光年間には国力の限界で次第に大きな氷上大会が開けなくなったが、安易にやめることもできなかった。道光帝は無理をして数年開催したが、その後は「春になって氷が薄い」という理由で中止し、道光十九年臘月二十三日(1840年1月27日)が最後の回となった。その後、第一次アヘン戦争が起こり、「氷嬉」は途絶えたのである。


 西太后が政権を握った時代、特に天津開港以降、西洋の現代氷上スポーツが中国に伝えられた。それらは天津と北京から入ったのである。光緒帝の時代には「氷鞋之戯」〔「氷鞋」はスケート靴〕がおこなわれたが、その規模も回数も乾隆帝の時代とは比較にならないものであった。


 1894年初め、西太后は太液池で「氷嬉」の盛典をおこなった。しかしこの年、甲午戦争が起こり、「氷嬉」の盛典は完全に歴史の舞台から姿を消した。こうした歴史から、「氷嬉」は中国の氷上スポーツの集大成であり、その発展が国力と深く結びついていたことがわかる。

2018年2月22日、ピョンチャン冬季オリンピック男子ショートトラック500m決勝、中国の武大靖選手(右端)が金メダルを獲得。撮影/中国新聞社・記者 宋吉河

氷と雪の豊かな文化で迎える冬季オリンピック


 世界のウインタースポーツの時間軸に「氷嬉」を置いてみると、中国のウインタースポーツの理解がより深まる。1742年、世界初のスケート団体「エディンバラスケートクラブ」がイングランドに設立されたが、これは乾隆七年であり、すでに太液池で「氷嬉」が試行されていた。1892年に「国際スケート連盟」がオランダで設立されたが、この頃、西太后が「氷嬉」を再開させていた。


 「氷嬉」が実施された時期を見ると、中国のスケートは世界の歴史から決して遅れてはいない。さらに、新疆ウイグル自治区アルタイ地区の壁画から、中国はスキー発祥地の1つであることがわかっている。中国は氷と雪の文化に自信を持っている。北京は昔から氷上スポーツがおこなわれ、現代氷上スポーツが最初に中国に入った場所であり、また民国時代には様々な氷上スポーツがおこなわれていた場所なのだ。


 中国で最初にオリンピックを紹介した本は1930年に出版された。1928年、宋如海(ソン・ルーハイ)は中国最初のオリンピック委員・王正廷(ワン・ジョンディン)の代わりにアムステルダムオリンピックを訪れ、その時の見聞と感想を『我能比呀(ウオノンビア)(私は戦えるか)―― 世界運動会の記録』として1930年に商務印書館から出版した。その冒頭では、1928年サンモリッツの第2回冬季オリンピックの写真も紹介されている。

1930年『我能比呀 ―― 世界運動会の記録』写真/取材先提供


 宋如海は「我能比呀」について「オリンピアードは古代ギリシャの運動会の名前であり、世界運動大会はこの名を踏襲している。『我能比呀』は音を写したものだが、重要な意味も込めた。表したかったのは、我々はみなこの試合に参加できるという意味だ。どんなことでも決心し、勇気を持てば、競技に参加することができる」と説明している。


 新中国になり、中国のウインタースポーツは競技として系統的に広まり始めた。1954年、北京百貨公司青年文化サービス部では1カ月にスケート靴2000足を販売し、北海、什刹海、中山公園、労働人民文化宮などにスケートリンク10万m²が作られたと記録にある。


 この年、国家体育委員会は、全国の条件が整った地域で氷上スポーツを普及するよう指示を出し、華北、東北、西北地方で様々な氷上スポーツ大会が開かれるようになった。一部の地方では天然の湖をスケートリンクにし、条件がない地域では空き地に水をまき、手作りのリンクでスケートを始めた。


 特に北方の学生は、冬にできる限りスケートをすることが奨励され、氷上スポーツが体育の一科目になった。1953年以降、全国で氷上スポーツ大会がおこなわれるようになり、小さな大会もしばしば開催されて、全国の氷上スポーツの発展を大きく後押しした。(翻訳:月刊中国ニュース)

【プロフィール】

郭磊(グオ・レイ)
オリンピック文化研究家、スポーツグッズコレクター。コレクターとしては「南の周、北の郭」と言われる。著作に『清代氷嬉考』『氷鑑・歳月の中の氷上運動』『激励中国:新中国スポーツポスター図鑑』等。中央電視台の番組「芸術の中のオリンピック」「栄誉ある殿堂」などのコメンテーターも務める。

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