東西文明交流に「先史時代の交流圏」が存在する理由、考古学研究員が語る

高江涛氏 中国社会科学院考古学研究所研究員
  

4、5千年前かそれ以前から、中国の異なる地域間での文化交流が盛んになり、少なくとも4000年前にはこの中国の先史時代の交流圏は北、中央アジアの交流圏とも結びついた。先史時代にタイムスリップすると、文化交流が多様な文化を形成する重要な要因であり、中国文明と中央アジア、北アジアとの大陸を跨いだ交流がユーラシア草原を交流回廊へと変えたことがわかる。このような国を超えた「文明相互学習」は中国文明の特徴であり、さらにその起源、形成、発展の原動力の一つである。


地域文化交流―中国先史時代の社会の「普遍的現象」


現在の中国における、先史時代の燕遼地域、海岱地域、長江中流域、長江下流域、中原地域などそれぞれの地理的単位や地域が、比較的独立した文化や社会の発展プロセスを持っていた。さらに重要なことには、これらの地域間に相互交流があり、その結果は、直接的には周辺諸文化の先進的要素が絶え間なく流れ込み融合するという形で表れている。
 
約5000年前、長江下流域の良渚文化で約2000キロ離れた西遼河流域の紅山文化の特徴を持つ玉器が発見されたことは学界で認知されている。約4300年前、山西省南部の陶寺遺跡に代表される陶寺文化で発見された青銅器と両耳付き壺は甘粛および青海地域の斉家文化と密接に関係していることは明らかであり、陶寺文化の祭礼に用いたワニ皮の太鼓、水玉模様の彩色陶片、玉の武器およびブタの下あごを副葬品とした習わしなどは海岱地域の大汶口―竜山文化系統にルーツがある。また陶寺文化の青銅器酒器は江漢平原の石家河文化の同様の器と非常によく似ており、王級墓から出土した玉の獣面は後期石家河文化のものと同様の形態と技術であることがわかっている。ほぼ同時代の晋陜高原の石峁(シーマオ)文化と陶寺文化との間では陶器、玉器、銅器および建築技術などの分野で交流があった。石峁遺跡の中核である皇城台で新たに発見された石刻は東北地域の石刻の伝統が明確に吸収されており、石刻の獣面と人面には遠く離れた江漢平原の後期石家河文化に類似したものが多くある。

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中国故宮博物院武英殿で開催された「良渚文化と古代中国〜玉器にみる5000年文明展」=2019年7月 中新社提供 杜洋撮影

同時代の文化に広範に深く入り込んだ交流が存在するだけでなく、異なる文化の間にも継承、吸収や発揚が明らかに存在する。このような文化の伝承や記憶もやはり一種の相互交流である。良渚文化で最も特徴的ですぐれた技巧をもつ玉器は、そのルーツをたどると、それ以前の江淮地域の凌家灘文化の玉器工芸を吸収したことが明らかで、凌家灘文化から良渚文化への移行は一種の「再構築」と「統合」である。良渚文化以降に玉によって贅沢や宗教的威信を表現するという文化的遺産や概念は、海岱地域に近い淮河流域の大汶口晩期の文化との融合により、「礼」の意味合いを強めて、中原地域から広大な竜山文化の社会へと広がっていった。さらにほぼ同時に西方から南下してきた冶金技術、新しい種、新しい知識と融合し、陶寺文化や石峁文化の社会のようなより高度な政治文明および社会が形成された。


中国の先史時代において、陶器には、「陶鼎(てい)」に代表される「鼎系統」文化と「陶鬲(れき)」に象徴される「鬲系統」文化が伝統的に存在した。この二つの異なる文化と技術体系は、長い交流を経て夏王朝の二里頭文化において融合したのである。注目すべきことは、二里頭文化の時期はまさしく早期中国文明の中核が形成された時期と重なることだ。


このことから、4、5千年前あるいはそれ以前の、中国の先史時代には異なる地域間で広範囲な文化交流があったことがわかり、先史時代の複雑な社会間に遠距離の「上層部の交流ネットワーク」が存在したと推測する学者もいるほどだ。

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中国最古の夏王朝中晩期の出土品を展示する二里頭夏都遺跡博物館が中国河南省洛陽市に正式開館=2019年10月 中新社提供 曽憲平撮影

東西文明の広域的交流〜テーマは世界

 
100年にわたる中国および周辺諸国の考古学研究では、4、5千年以上前に、先史時代の中国国内の地域的な文化交流だけでなく、北アジアや中央アジアとの大陸を跨いだ交流の存在が明らかになった。

紀元前3000年紀の中晩期には、メソポタミア、イラン高原、インダス川流域、ペルシャ湾沿岸と中央アジアの各都市間との交易が盛んになり、中央アジア交流圏の形成を促進した。ほぼ同時期に、北アジアのユーラシア草原は、人の移動や持続的な文化の交流により、技術と文化的伝統が融合し、ユーラシア草原は交流回廊へと変化した。イラン北部のヒ素青銅は、中央アジアのオアシスや河谷地帯を通り新疆に入り、河西回廊を経て中原地域に伝わった。中国の竜山文化期と同時期の紀元前3000年紀の中晩期に北アジアの南シベリア地域では早期青銅器時代に突入し、その隆盛期には、オクネフ文化、オディノフ文化、クロトフ文化などの異なる早期青銅器文化圏をまたぐ「セイマ・トゥルビーノ現象」が出現した。鋳型や青銅器の鋳造に代表される独特な特徴をもったこの文化の風が新彊、青海、甘粛さらに汾渭平原に吹き込み、長江流域の丹淅一帯まで及んだ。このことは、現在、南の水を北へ送る南水北調プロジェクトの貯水池エリアにある下王崗遺跡から出土したセイマ・トゥルビーノ型の4本の青銅の矛(ほこ)が物語っている。
  
中央アジアと北アジアでは貝、トルコ石、銅器などに代表される文化および大麦、ヤギ、ヒツジ、ウシが天山山脈周辺の谷や川を通って、トルファン盆地、河西回廊を経て、中原、長江流域にまで至った。河西回廊張掖のオアシスにある西城驛遺跡からは約4000年前の鉱石、るつぼのかけら、ふいご、スラグ、石の鋳型などが出土しており、北アジアから伝わった伝統的な鋳造法が河西回廊でローカライズされ生産拠点を形成したことが示唆されている。このような赤胴、ヒ素青銅およびスズ青銅を用いた武器や道具の鋳造技術とその知識体系は、竜山文化晩期から夏、殷時代の輝かしい青銅器文明の比較的複雑な複合的鋳造法で製作された青銅の礼器に直接的なルーツをもつことが明らかである。

重要なことは、小麦や大麦およびその栽培方法が先史時代の中国文化圏に入ってからごく短期間に竜山社会に広まったということである。竜山文化晩期の新彊の古墳溝、小河、甘粛の東灰山など10数カ所の遺跡から明確な小麦の遺物が見つかっている。この中で、東灰山遺跡では4500〜5000年前まで遡り、小麦だけでなく、大麦や黒麦も見つかっている。黄河下流域では、山東省の日照市の両城鎮遺跡と聊城市の教場鋪遺跡から竜山文化期の炭化した小麦が発見されている。注目すべきことは、植物考古学と考古遺伝学の両面から、約8000年前に中国北部で普及していたアワが、4500年前に中央アジアへ、3500年前に東ヨーロッパに広まったことが示唆されていることである。

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中国甘粛省張掖市の西城驛遺跡=2013年11月 中新社提供 楊艶敏記者撮影

遠距離の交流は、より多くの技術と宗教をもたらし、その中でも宗教の伝播はとくに急速だったようだ。竜山文化期の山西省臨汾市の陶寺遺跡や下靳遺跡から出土したトルコ石や白玉をはめ込んだブレスレット、貝殻、銅の鈴は、審美的に美しいだけでなく、富と中央アジアや北アジアからの神秘的な宗教のパワーを感じさせる。
北アジア交流圏、中央アジア交流圏および中国先史時代の交流圏が4000年前には融合していたことは確かである。現在知られている「一帯一路」の「一帯」は、少なくともこの時期にはすでに基本的に存在していた。

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中国山西省襄汾県の陶寺遺跡を視察する海外の中国語メディア幹部一行=2015年8月 中新社提供 豊亮記者撮影


文化的交流が生んだ多元一体の独自文明


文化の相互交流によって、他の文化や社会的要素が主体文化に吸収されたうえで、それが放棄されたり、修正や新機軸を打ち出されたり、あるいは融合して新しい考古学的文化が形成されることがある。先史時代の異なる地域での多様な考古的な文化的相互交流は、一定の程度で、多元一体的な中国文明形成の重要な要因であった。陶寺文化のような特定の考古学文化によく見られる複雑で多様な周辺文化要素は、その社会の統治や儀礼に異なる地域集団が関与していたことを反映しているのかもしれない。

北アジア、中央アジアおよび東アジアの三つの交流圏の比較的密接な関わりあいが早期の中国社会に新しい技術的知識、新しい動植物そして新しい宗教的認識をもたらした。銅器、トルコ石および貝殻などのような交流の物的な証は、竜の形をした器、礼楽器および銅製の祭礼用具などの王権や文明を象徴する伝統的な存在に加え、新しい象徴として徐々に早期中国文明に受け入れられていったのである。
  
この広範で長期間にわたる深い文化交流の結果、文化的な「多面性」と「中心」の二つが直接的にもたらされたのである。前者は理解しやすく、後者は重ねて解説が必要である。文化的相互交流の結果、先進的な政治と科学技術文明がどこかの文明に必ず出現し、他の地域文明は次第にこの先進的な「実験」に同調し、地理的単位や文化さえも超えた思想的合意を形成し、文明の「中心」となっていくのである。地理空間の正統性に基づいて、この中心はさらに意識の上でも「正統」となり、「文化遺伝子」の系譜として受け継がれていくのである。

要するに、マルクスが語っているように「この発展過程において、相互に作用しあう個々の領域が拡大すればするほど、つまり個々の民族の原初的な閉鎖性が、より発達した生産様式や交通によって、またこれによって自然発生的にもたらされる諸国民間の分業によって、廃棄されればされるほど、それだけますます歴史は世界史になっていく」のである。文化交流の意義は、互いに学び合い、自己を超越し、あらゆる文明の成果をすべて共有することであり、文化交流の発展は、すべて文明への絶えざる歩みなのである。行動規範は文明的な観点に基づいている。ちょうど、数千年にわたる文化的遺伝子が「多元的、融合、温和、協力」という文明的観点をもたらしたからこそ、今日、世界の相互交流の体系において、「文明相互学習、運命共同体」という国家の行動規範がもたらされたように。文化は相互交流があるからこそ多様性が生まれ、文明は相互学習があるからこそ素晴らしいものになる。それぞれの美しさだけでなく、美しさと美しさの相互作用によってこそ、美しさを共有できる。(翻訳:李年古)

著者略歴

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高江涛氏
中国社会科学院考古学研究所研究員、考古学博士。2014年日本橿原考古学研究所訪問研究、2019年米国カリフォルニア大学ロサンゼル校(UCLA)訪問研究。中国の文明起源、秦以前の考古学、文化遺産の保存と活用に関する研究に従事。長期にわたり考古学発掘現場の第一線で活躍し、発表学術論文は約100篇、主な著書『中原地域の文明過程の考古学的研究』『淅川下王崗-考古学発掘報告2008〜2010年』『考古学隊長の現場から〜なぜ中華は5000年なのか』

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