「青銅史書」の異名を持つ逨盤が解く周王朝の謎 ——宝鶏青銅器博物院 王竑・副研究館員インタビュー
2003年、陝西省宝鶏市楊家村の村民5人が、青銅器が収められた穴蔵を発見した。2700年以上も眠っていた27点の青銅器が再び人々の前に現れたのである。青銅器にはみな銘文が刻まれ、最も文字数が多い逨盤(らいばん)には372字あり、単逨(ぜんらい)の言葉によって単氏が8代にわたり、西周の天子12人の下で出征し、政治をおこない、領地を守ってきた長い歴史が記述されている。このほど、宝鶏青銅器博物院の王竑(ワン・ホン)副研究館員がインタビューに応え、「中国最高の盤」と称される逨盤から、周王朝の数々の謎を解き明かした。
記者:「中国最高の盤」と称される逨盤が「青銅史書」とも言われるのはなぜですか。
王竑:逨盤は高さ20.4cm、直径53.6 cm、重さ18.5kgの重厚な器です。環を咥えた獣頭、獣をかたどった足には荒々しさがあります。本体には窃曲紋(せっきょくもん)〔動物をかたどった抽象的な模様〕が装飾されており、簡素で上品、全体が緑青で覆われ、古びてはいますが威厳を感じさせます。内側の底には21行、計372文字の銘文があります。
逨盤は単逨が先人を偲ぶために作らせたもので、銘文は主に単氏8代が西周の王12人に仕えて、出征し、政治をおこない、領地を守ってきた長い歴史が記述されています。12人の周王とは文王、武王、成王、康王、昭王、穆王、共王、懿王、孝王、夷王、厲王、宣王で、最後の幽王には触れられていません。これは最も多く西周の王を記載した青銅器銘文であり、孝王について書かれた最初のものでもあります。古代文献には西周王の家系が詳細に記載されていますが、考古学によって科学的に証明されてはいませんでした。逨盤の銘文は初めて考古学による一次資料から西周王の家系を実証し、「夏商周年表プロジェクト」で推定された西周年表を検証できるもので、歴史を証明し、空白を埋める役割を果たしました。逨盤銘文に書かれた史実、たとえば文王・武王の商討伐、成王・康王の開墾による領土確定、昭王の楚への遠征、穆王と周辺国との戦いなど、『史記』などの記載と基本的に一致しています。また、逨盤は西周晩期の青銅器の系譜研究、年表研究に基準を提供しており、まぎれもない「青銅史書」です。
記者:宝鶏で出土した青銅器は銘文が多いことで有名ですが、周や秦の歴史を研究するうえで、これらの銘文はどのような役割を果たしますか。
王竑:中国の青銅器文明は紀元前2000年頃から始まり、夏、商、周と約15世紀続きました。なかでも商・周の青銅器の価値が高く、商ですでに銘文が出現していました。
商の銘文は比較的短く、ほぼひと言ふた言で、50字を超えるものは多くありません。内容は一族の印である家徽や場所などが一般的です。西周では長い銘文が増え、戦争の記録、報奨、土地の譲渡、契約文書、家族史など、内容も広がりました。宝鶏は西周の頃、都に近い重要な場所でした。
宝鶏で出土した青銅器の多くが穴蔵からのもので、全国の穴蔵から出土した青銅器の78%を占めています。これらの多くは宝鶏で代々続く家系の廟で使われた重要な器で、ほとんどに長い銘文があります。これらの青銅器銘文は周王朝の勃興と衰退、墓に眠る人の身分や地位などを記録しており、西周の重要な歴史が凝縮されています。
青銅器は、銘文によって様々な角度から西周の政治経済、社会生活をも記録しています。それは政治的陰謀、戦争や討伐、祭祀の言葉や命令、報奨や宴会、土地の譲渡、刑事訴訟、誓約・契約、結婚の式典など多方面にわたり、政治文化、宗教信仰、美意識などについても書かれています。古代の文献のこうした内容は散逸してしまっているものが多く、青銅器銘文は史料の不足を補っています。
記者:東洋と西洋の青銅器文明の違いは何ですか。宝鶏で出土した青銅器で東西交流の跡が残っているものはありますか。
王竑:東西の青銅器文明はある程度共通しています。たとえば武器、日用品、道具などが見つかっていることは、古代人が祭祀や戦争を重視していたことを示します。
同時に、東洋と西洋では違いもあります。青銅器銘文について言えば、銘文のある商・周の青銅器はすでに2万点以上発見されており、様々な史実が記載されて高い歴史的価値があります。ヨーロッパの青銅器時代や鉄器時代初期の銘文はペロポネソス半島とイタリア半島で紀元前8世紀以降のものが見つかっていますが、多くは石や陶器に刻まれ、字数も少なく、内容も多くありません。
中国で出土した大型青銅器は容器が主で、貴族の身分や地位を表すものでした。主に祖先の祭祀に使われ、墓に副葬されるか、穴蔵に保存されました。ヨーロッパの青銅器による祭祀の対象は神で、ほとんどが祭祀の場所に捧げられ、墓に副葬されたものは少数です。
青銅器の制作技術にも違いがあります。中国の青銅器は泥範法〔陶製の鋳型を使う〕で鋳造されていますが、西洋は鍛造または失蠟法〔臘の原型を使う〕で作られました。ところが、宝鶏で出土した一部の青銅器には東西交流の跡がありました。石鼓山墓地で出土した西周時代の青銅の鎧は1枚成型で作られており、甲片をうろこ状につなぎあわせた中国の伝統的なものとは違います。科学分析によると、この鎧はまず中国の泥範法で鋳造し、鎧の甲片よりやや厚い銅片を作った後、人体各部の形に合わせて鍛造されたものでした。鎧の構造にも制作技術にも、東西文化の交流と融合が現れています。
王竑(ワン・ホン)
宝鶏青銅器博物院副研究館員、陝西省文物鑑定委員会委員、宝鶏市文化財認定チームメンバー。『考古』『文博』『文物天地』『栄宝斎』など国家レベルの雑誌に論文を10本以上掲載。「肥沃なる周原」「繁と簡の間」「天下一統」「琢磨」「中国に居す」など、10以上の展覧会を企画。また『中国出土青銅器全集・陝西』編、『文物陝西・青銅器』編の編纂に携わった。
※月刊中国ニュースより