福建省漳州にて林語堂に逢う
「私は漳州府平和県出身で、正真正銘の田舎者である」「私に健全な観念と素朴な思想があるとすれば、それは閩南坂仔の美しい山のおかげだ」。大文学者・林語堂の書いた文の行間からは、彼の故郷に対する愛情と思慕が感じられる。林語堂は福建省漳州出身で、有名な中国現代文学作家であり学者、翻訳家、言語学者。ノーベル文学賞に3回ノミネートされた。先日、漳州市平和県坂仔鎮にある林語堂の旧居と文学館、漳州市薌城区天宝鎮の林語堂記念館を訪れた。彼の名を慕ってやって来る人々と林語堂の足跡を尋ね、その文化を肌で感じることができた。
「山里の子」、坂仔から世界へ
坂仔鎮にある林語堂の旧居は白い壁と黒い瓦屋根が青々とした木々に映え、ことのほか静かだった。1895年10月10日、林語堂はここで生まれた。
この家から遠くない場所に、作品に描かれた西溪と美しい自然がある。閩南の自然は、少年の林語堂に強い印象を残した。彼は自身の「無邪気で、率直で、生まれたまま」の性格は山からもらったものだと言い、自分を「山里の子」と言っていた。
この「山里の子」はここから世界へ飛び出したのである。「『両脚で東西の文化をまたいで立ち、宇宙を論じる文を一心に書く』というのが林語堂の大きな志でした」。林語堂文学館の林秋輝(リン・チウフイ)館長は林語堂について、博学で、中国と西洋の学問に通じ、英語で書いた文章によって海外で有名になった初の中国人作家である話す。孔子・孟子・老子・庄子の哲学や陶渊明・李白・蘇東坡・曹雪芹などの文学作品を英訳して海外に紹介し、東西文化交流の使者となった。
林語堂旧居には、彼の様々な時代の写真、書道の名家が贈った作品や、さらに子ども時代の食卓、米びつ、簔、笠などの生活用品、彼が学んだ銘新小学校の教壇・机・椅子などが展示されている。
「銘新小学校は1890年に設立され、林語堂は6歳から10歳までこの学校で初等教育を受けました」。林館長は旧居を紹介しながら、林語堂の父親は牧師であり、この小学校の教師でもあったと話した。「林語堂の席は一番いい場所で、2列目の2番目でした。彼の一生は『2』と縁があります。上海の聖ヨハネ大学に2位の成績で入学して英語を学び、卒業時の成績も2位でした」と林秋輝館長は笑う。
林語堂は大学を卒業するとすぐに清華大学で教鞭を執り、結婚後は夫人を連れて米国とドイツに留学した。主に比較言語・文学を研究し、ハーバード大学で修士号、ライプツィヒ大学で博士号を取得。1923年に学業を終えて帰国し、北京大学教授兼北京師範大学講師となった。
閩南語を話す:台湾で快いこと24
林語堂が生まれたのは平和県坂仔であるが、本籍は薌城区天宝鎮五里沙村である。そのため林語堂記念館は天宝鎮に作られ、2001年10月8日に開館した。これは中国大陸では最初の林語堂記念館で、メイン展示室と2棟の付属円楼で構成されている。
「記念館の外観は西洋建築の特徴がありますが、屋根には中国の瑠璃瓦を使って、中国と西洋の融合を象徴しています」。記念館前の広場で鍾芸泓(ジョン・イーホン)副館長は一方の壁を指さしながら、林語堂の「両脚で東西の文化をまたいで立ち、宇宙を論じる文を一心に書く」という理念を映す本として作られているのだと説明した。
「ここにある林語堂の像は、背中を台湾側に、顔を祖国である大陸に向けており、台湾にいても大陸を想う気持ちを表しています。中国式の長い上着を着て西洋の革靴をはいていますが、これは中国と西洋のスタイルの融合です」。さらに鍾副館長は、足元の蓮の葉は「ゆっくり流れて彼を故郷へ送り届ける」という寓意だと説明した。
1966年に台湾に移住しても、林語堂は故郷のこと、故郷の言葉を忘れなかった。「台湾で近所の人が閩南語を話していると、北方の人はわからないけれど、彼にはわかりました」。『台湾で快いこと24』で彼は故郷の言葉を聴くことを挙げている。これは彼にとって最大のなぐさめであり、楽しみの1つだった。晩年、彼は閩南語の発音で故郷の風情を歌った五言詩を書いた。「故郷の風情がどんなにいいか、教えよう。気風の純朴さ、それは昔からのことだ……」
林語堂の文の多くに閩南語、閩南文化の要素が含まれている。それが最も現れているのが1963年の自伝的小説『賴柏英』である。鍾副館長によると、この作品には林語堂の初恋の女性の思い出だけでなく、閩南文化を広める気持ちが書かれているという。
郷愁を求める:台北の旧居が里帰り
漳州には林語堂の旧居が2カ所ある。1つは生まれた場所・坂仔、もう1つは本籍地・天宝だ。天宝鎮五里沙村珠里社にある旧居は林語堂記念館から300mほど離れ、台北にあった林語堂の家を模しており、その名を取って「有不為斎」と名づけられている。
「屋敷に庭があり、庭に建物があり、建物に中庭があり、中庭に木があり、木の上で空を見ると、空に月がかかる。なんと快いことか」。林語堂の描く台北の旧居は陽明山のふもとにあり、自らの設計で1966年に建てられた。
「台北の陽明山にある林語堂の旧居は、四合院作りで、西洋のアーチ、スペイン式螺旋柱があり、中国式に窓に切り紙が貼られていて、中国と西洋の融合スタイルになっています」。鍾副館長によれば、台北の家のベランダは西から南へ30度、故郷漳州の方向を向いている。晩年の故郷に対する思いが垣間見える。
晩年の記述によれば、故郷を懐かしんで漳州に移り住みたいと考えていたが、様々な理由で帰ることができず、台湾に居を構え、海を隔てて故郷を望むしかなかった。「台湾に住むことにしたのは、陽明山の景色が福建省の山に似ていたことと、親しんだ閩南語が聞けることで、美しい漳州の家にいるように思われたからでしょう」と鍾副館長は言う。
故郷に帰りたいという林語堂の夢を叶えるため、漳州市薌城区では故郷に台北にある家と同じものを建て、訪れる人が台北の旧居を見たり、晩年の暮らしの足跡をたどったり、彼の郷愁を探し求めたりできるようにした。
天宝にある林語堂の旧居は2017年に建設され、2018年初めに開館した。赤い瓦と白い壁の2階建てで、中は書斎、生活シーン、展示室の3つに分かれており、設計から展示品まで、みな台北の家を再現している。人々は設置されている林語堂の蝋人形と「夢回館」によって、林語堂に逢うと同時に彼の郷愁を知ることができる。
「最も深く印象に残っているのは、漳州の『虎渡橋(江東橋)』である。石灰岩で作られた橋脚には、三尺四方で二丈の長さの石の梁がきちんと組み合わされ、幅数十丈の河の両岸をつないでいる。こんなに大きな石をどうやって橋脚に載せたものか、私はいまだにわからない」。この文には、懐かしい故郷の雰囲気の中に彼の郷愁がにじみ出ている。林語堂は坂仔で子ども時代を過ごした。彼の著作には、坂仔に関する文章が少なくとも1万字近くある。
いま漳州へ行き、坂仔を流れる澄んだ花山渓に沿って、あるいは天宝の広々としたバナナ畑を抜けていく語堂の小径を歩くと、ふと林語堂に逢える気がする。
※月刊中国ニュースより