ゲノム編集 「悪魔のハサミ」への憂慮(その2)
※本記事は2019年4月号の月刊中国ニュースより転載
乳児のエイズ予防にはより安全で効果的な方法がある
2018年11月27日午前、世界の華人HIV研究者100人が、賀建奎の進めている「HIV耐性を持つデザイナーベビー」の臨床試験に反対する声明を共同で発表した。音頭を取った清華大学HIV総合研究センター主任でアフリカ科学院院士の張林琦は、「HIVウイルスが人体に侵入するルートは多数あり、CCR5はその中で非常に重要な受容体であるに過ぎない。HIVウイルスはこれを素通りし、他の方法で細胞に侵入する可能性もある。よって、仮にCCR5遺伝子を徹底的に除去したとしても、HIVウイルスの侵入を完全に防ぐことはできない」と指摘する。
張林琦氏によると、科学界は、CCR5という遺伝子の機能について、まだ完全かつ徹底的に理解しているわけではないため、CCR5を除去するリスクはかなり大きい。現在入手可能な文献を見ると、この分子には非常に重要な働きがあり、抗ウイルスだけでなく抗腫瘍の機能を持つ。正常な人体におけるCCR5の重要性を考えると、これを除去することで免疫機能に大きな影響が生じることは確実だ。
さらに、現在は新生児のHIV感染を予防する極めて効果的な方法が確立されており、体外受精であるならば、精子と卵子のHIVウイルスを完全に除去することができる。妊婦がHIVに感染した場合でも、妊娠及び出産の過程で効果の高い薬を使用することにより、胎児が感染する確率を1%以下に抑えることが可能だ。それゆえ張林琦は、両親が本当にHIV患者だとしても、ゲノム編集以外の方法を用いて感染を予防することは可能であり、なぜわざわざタブーを犯そうとするのか分からない、と疑問を呈す。賀建奎はゲノム編集を理解していないためこの件はフェイクではないかとの疑惑について、張林琦は、CRISPRによるゲノム編集技術は海外ではある程度実績があり、現在では最適化・簡略化され、比較的扱いやすい技術になっている、と指摘する。ただ、この技術そのものにまだ限界があり、オフターゲット効果という副作用以外にも、効果や長期的安全性に関して十分な確証が得られていないという側面がある。賀建奎は成果を急ぐあまりヒトの受精卵で研究を展開するという禁じ手に出てしまった。これは科学の発展ルールを無視すると当時に、道徳・倫理にも背くものだ。
ゲノム編集の倫理原則
体細胞であれ受精卵であれ、ゲノム編集は人体に対する実験であるため、人体実験に関する一連の原則と規定を遵守しなければならない。国際社会では、世界医師会の「ヘルシンキ宣言」、国際医学団体協議会(CIOMS)の「人を対象とする生物医学研究の国際的倫理指針」など、早くから厳密な規約も制定されている。
受精卵のゲノム編集については、ヒトゲノム計画(1990年~2003年)の段階で、善行・無危害、インフォームド・コンセント、差別防止、プライバシー保護、ヒトゲノムの多様性保護、生物兵器の防止など関連する倫理原則が打ち出された。その核となる原則は、ヒトへの安全保証だ。
中国でも、ヒト受精卵の操作を伴う科学研究に対して、詳細かつ厳格な規定や規範が定められている。たとえば2003年の「ヒトES細胞研究倫理指導原則」では、「取得し、すでに研究に用いられたヒトの初期胚(受精卵)を、ヒトまたはその他の動物の生殖系に着床させてはならない」と規定され、2017年の「生物技術研究開発安全管理弁法」では、「重大なリスクが存在するヒトゲノム編集等の遺伝子工学研究開発活動」をハイリスク研究に指定し、各科学研究機関に対し、厳しく管理するよう求めている。中国のゲノム編集関連分野の研究者らも、「現段階で生殖を目的とするゲノム編集の臨床実験をおこなうことには断固反対する」という認識を共有している。
2015年12月初頭、全米科学アカデミー、全米医学アカデミー、中国科学院、英国王立協会はワシントンDCで第1回ヒトゲノム編集に関する国際会議を開催した。この会議では、ヒト受精卵のゲノム編集に関する基礎研究の実施を認めるというコンセンサスに達し、適切な法規範と倫理基準による規制の下、ヒト細胞のDNAシーケンス技術の研究や、臨床応用がもたらす潜在的利益とリスクに関する研究などの面から基礎及び前臨床研究を掘り下げることが可能になった。
基礎研究の実施は認めたものの、出席者らはこれまで同様、ゲノム編集をおこなった初期ヒト受精卵及び生殖細胞を妊娠に用いてはならず、現段階でこの技術を臨床に用いるのは「無責任」であるとの認識で一致した。これはまた、受精卵のゲノム編集研究における超えてはならない「デッドライン」を初めて国際的に規定するものでもあった。生殖技術で世界のトップを走るイギリスは事あるごとに研究の制限を取り払おうと試み、研究に用いるヒト受精卵は14日以内のものに限るというそれまでの規定を、全段階の受精卵の研究及びゲノム編集が可能になるよう変更することを求めていた。2018年7月、英ナフィールド生命倫理評議会は報告書で、科学技術とそれが与える社会的影響を十分考慮した上で、ゲノム編集技術によりヒトの受精卵、精子、卵細胞の細胞核中の遺伝子(デオキシリボ核酸)を改変することは「倫理的に受け入れられる」と発表した。だが、この団体ですら、ゲノム編集をおこなった受精卵を子宮に着床させ成長させてはならないと認識している。英国保健省とヒトの受精及び胚研究認可局〔HFEA〕も、受精卵遺伝子の研究及び編集は認めているが、ヒト受精卵にゲノム編集をおこなった後、子宮に着床させることは認めておらず、ましてやデザイナーベビーを誕生させることは禁じており、法的にも当然違法だ。しかも14日目になったら、編集及び研究をおこなった受精卵は必ず廃棄しなければならない。
こうした限定条件を設けるのも、他ならぬ安全のためである。だが、最高とされるゲノム編集ツールCRISPR–Cas9ですら、オフターゲットというかなり大きな不確定性が存在している。
研究者たちは、「悪魔のハサミ」の異名を持つCRISPR–Cas9が実は精度に欠け、オフターゲット率が高いことに早くから気づいていた。2018年7月16日、英科学誌『ネイチャー・バイオテクノロジー』オンラインに発表された英遺伝子研究機関ウェルカム・サンガー研究所のアラン・ブラッドリーらは、CRISPR–Cas9はターゲット付近でDNAの欠失や再配列などを引き起こすとし、その結果はこれまで考えられていたより深刻で、細胞の機能を変えてしまう可能性があると指摘した。
ゲノム編集技術に100%の精度がないのであれば、臨床で「人間製造」をするべきではない。
このことは、HIVに耐性を持たせるためCRISPR–Cas9でCCR5遺伝子を改変したとしても、オフターゲット効果が生じ、胎児が深刻な遺伝病を患ったり、映画『ハルク』のような「超人」を作り出したりしてしまう可能性があることを意味している。それゆえ、ゲノム編集技術に100%の精度がないのであれば、臨床で「人間製造」をするべきではない。では、CRISPR–Cas9で改変されたCCR5遺伝子を持ってこの世に生を受けた露露と娜娜には、将来何らかの危険が生じる可能性があるのだろうか。この点は誰にも予測できないし、万一危険が生じたとして、それが次世代に遺伝するかどうかはもっと分からない。ただ、1つ言えることは、遺伝子の改変により、オフターゲット効果や遺伝子再配列、遺伝子欠失といった問題が生じた場合、最善の結果はそれが次世代に受け継がれないことであり、最悪の結果は、生まれた次世代がフランケンシュタインより奇怪で恐ろしい、ギリシャ神話に出てくるキメラ(Chimera)のような怪物になってしまうこと、つまり、ゲノム編集により異なる遺伝子が混在し、「ヒトでもウマでもなく、ウシでもブタでもない」嵌合体が誕生してしまうことだ。
もちろん、デザイナーベビーは遺伝子改変により、後世に期せずしてより強靭な体と高い知能を持つ可能性だってある。しかも、将来受精卵にゲノム編集を施すのは、病気の治療ではなく、超人を作り出して一般人を支配することが目的になるかもしれない。ホーキング博士が生前懸念していたのはまさにこの問題だった。張林琦は言う。現在、科学界は、倫理道徳やヒトという種の生存と発展に関する問題で議論が止まっているが、実際問題として、ヒト遺伝子、特にヒト胚・受精卵遺伝子に施した編集は、その個体及び子孫の体に永遠に残り、元に戻すことはできない。これは、個体保護というよりは、遺伝子地図を著しく踏みにじる行為だ。ヒトの遺伝子地図は、数十万年から百万年以上もかけて進化・最適化された結果であり、ほぼ完璧な状態になっている。いかなるゲノム編集も、命に対する理解と畏敬の念を持っておこなわれなければならず、さもなくば、こうしたあまりに軽率で論理性に欠けるゲノム編集は、将来ヒトへの計り知れない損失を生むことだろう。