ゲノム編集 「悪魔のハサミ」への憂慮(その1)
体細胞へのゲノム編集よりもリスクの高いヒト受精卵へのゲノム編集に対しては厳格な倫理およびガバナンス規定が設けられている。遺伝子の「ハサミ」CRISPR-Cas9の不確定性が指摘される中、
倫理上の問題や社会的な影響など議論が噴出している。
※本記事は2019年4月号の月刊中国ニュースより転載
世界エイズデーを目前にしたその日、南方科技大学准教授の賀建奎は、露露と娜娜と名付けられたデザイナーベビーが11月に中国で誕生していたことを明らかにした。この双子の遺伝子を改変し、先天的にHIVに対する抵抗力を持たせたという。双子は、世界初のHIV耐性を持つデザイナーベビーとなった。その直後、賀建奎に協力した深圳和美婦児科医院は報道に答える形でこう回答した。「この件は事実ではなく、当院は関連情報も把握していない。なぜこの件がネットで騒がれているのか、現在調査中だ」ネット上に流出した「深圳和美婦児科医院医学倫理委員会審査申請書」によると、実験の期間は2017年3月から2019年3月まで。CRISPR–Cas9という技術を利用してヒト受精卵のゲノム編集をおこなったCCR5遺伝子除去済みの個体に対し、母親の子宮に戻す前からコレラや天然痘、HIVに対する耐性を持たせることを目的としていた。
この臨床試験的治療のプロセス及び結果の真偽はさておき、「デザイナーベビー」は突如として人々に現実を突きつけ、またたく間に全世界で大論争を巻き起こすに至った。
生殖細胞のゲノム編集技術は確立されているのか
ゲノム編集は生物医学における先端技術で、ヒトや生物の標的遺伝子を除去、転位、挿入、改変など、文字通り「編集」するものだ。ゲノム編集には遺伝子の「ハサミ」が必要だが、目下最高とされている編集ツールが、上述のCRISPR–Cas9だ。ゲノム編集技術を用いてヒトの遺伝子を改変することは遺伝子治療と呼ばれ、現時点では、体細胞を対象としたものと、精子や卵子、受精卵を含む生殖細胞を対象としたものの2つに大きく分けられる。従来の遺伝子治療、即ち体細胞を対象とした遺伝子治療は、正常な外来遺伝子を標的細胞に導入し、欠陥や異常のある遺伝子が原因となる疾患を治したり補ったりして、治療目的を果たすというものだった。現在はこの方法を用いて、血友病、嚢胞性線維症、家族性高コレステロール血症などの遺伝子疾患や、悪性腫瘍、心臓血管疾患、HIV、リウマチといった疾患を治療することができる。
今回誕生した双子の露露と娜娜の場合は、受精卵にゲノム編集をおこなったため、一般的な体細胞の遺伝子治療ではなく、生殖細胞に対する遺伝子治療となる。CCR5遺伝子の改変により、HIVウイルスが人体の免疫系のT細胞に侵入するのを阻止することが可能になるとされていることから、理論上は、露露と娜娜が今後HIVウイルスに感染することはない。実際、露露と娜娜が誕生する前から、世界各国の科学者は似たような実験を試みていた。中国でも突出した研究がおこなわれており、その筆頭が、2015年に中山大学准教授の黄軍就のチームがおこなったヒト受精卵のゲノム編集だった。彼らが使用したのは、流産して廃棄予定の受精卵だったが、当事者の同意を得て寄贈を受けており、受精卵を必要以上に成長させたり、ましてや女性の子宮に着床させ、分娩に至らせたりなどはしていない。
黄軍就のチームの実験では、86個の廃棄受精卵のうち、最終的にゲノム編集に成功したのはわずか28個で、成功率は約33%だった。この数字では、ゲノム編集が安全に成功する保証は到底得られず、この技術に対する不信感もぬぐえない。そして賀建奎のチームは、発表によれば、44%の受精卵に対するゲノム編集が有効だったとのことで、成功率50%にも達していない。つまり、ゲノム編集ツールCRISPR–Cas9にはかなりの不確定性が存在し、意図せず標的以外の遺伝子を編集してしまう「オフターゲット」が生じる可能性も否めず、人体を著しく損なう危険性もあるということだ。だが、受精卵中の病原遺伝子を改変したり、正常な遺伝子を直接受精卵に導入して欠陥遺伝子を修正したりできれば、今生きている人の遺伝性疾患を治療できるだけでなく、新しい遺伝子を患者の子孫が受け継がせ、後世で遺伝性疾患を根絶させることもできる。まさにこの一点を根拠に、研究者たちは、生殖細胞に対する遺伝子治療が今後さらに重要になり、現在の人々のみならず、修復された健康な遺伝子を子孫が受け継がせることで後世にも幸福をもたらすことができると信じているのだ。
現時点では4000種を超える遺伝性の単一遺伝子疾患が知られており、全世界の1%を超える新生児がその影響を受けて生まれる。理論的には、生殖細胞のゲノム編集をおこなうことで、こうした疾患を予防する助けになり、すべての家庭で健康な赤ちゃんを迎えることが可能になる。これは新型出生前診断よりも明らかに先進的な方法だ。新型出生前診断の場合、胎児の遺伝子に異常が見つかれば、できることは中絶以外にないが、ゲノム編集ならば、見つかった病原遺伝子を改変したり、あらかじめ精子と卵子の病原遺伝子を編集し、健康な子孫が生まれるようにしたりすることも可能になる。
ただし、受精卵のゲノム編集は体細胞のゲノム編集よりリスクも副作用も大きいため、いったん問題が生じた場合、患者本人だけでなく、それが遺伝することで後世にも危険が及ぶ可能性がある。そこで、国際社会でも中国国内でも、受精卵のゲノム編集に対しては厳格な倫理及びガバナンス規定が設けられている。北京大学生命科学学院教授の饒毅氏は次のように指摘する。「体細胞遺伝子の編集は患者及び家族への影響のみを考えればよいが、生殖細胞遺伝子の編集は、他者、ひいては全人類への影響を議論しなければならない、体細胞遺伝子の編集は各家庭が決めればよいことだが、生殖細胞の場合は家庭に決めさせてはならない」
実際には、体細胞遺伝子の治療であっても、独自の倫理原則がある。それは、どんな治療法を試しても効果が得られなかった場合にのみ、遺伝子治療を考えるというものだ。過去に、遺伝子治療技術が未成熟な段階で患者を死亡に至らせてしまったケースがあったことから、米FDA(アメリカ食品医薬品局)は非常に慎重な対応を取っている。