Author: aptpress

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新春企画!中国ドラマ『少林問道』『瑯琊榜<弐>~風雲来る長林軍~』『Burning Ice<バーニング・アイス>-無証之罪-』『最上のボクら with you』連日第1話特別無料公開決定!

中国ドラマ4作品がアジアエンタメ情報発信YouTubeチャンネル「WE LOVE K」にて連日第1話特別無料公開されることが決定した!今回公開されるのは、『少林問道』『瑯琊榜<弐>~風雲来る長林軍~』『Burning Ice<バーニング・アイス>-無証之罪-』『最上のボクら with you』の4作品となっている。 『少林問道』は、ビデオ屋さん大賞2019でアジアTVドラマ賞の銀賞を獲得した作品。『瑯琊榜<弐>~風雲来る長林軍~』は、中国版エミー賞で10冠に輝き日本でも大ヒットした『琅琊榜~麒麟の才子、風雲起こす~』待望の続編。『Burning Ice<バーニング・アイス>-無証之罪-』は、『レッドクリフ』のハン・サンピン製作総指揮で中国の東野圭吾と言われる紫金陳(ズ・ジンチェン) 原作の人気サスペンス。『最上のボクら with you』は今やヒット作の常連となったリウ・ハオランとタン・ソンユン主演作。と、4作品すべてが話題作となっている。 ポニーキャニオンの公式YouTubeチャンネル「WE LOVE K」では、ただいま『恋するレモネード』『マスター・ククスの神〜復讐の果てに〜』『記憶の森のシンデレラ〜STAY WITH ME~』『隋唐演義 ~集いし46人の英雄と滅びゆく帝国~』など複数の韓流・華流のヒットドラマをYouTubeで【特別全話無料公開】中。公式キャラクター「らぶくまちゃん」と共に、おウチ時間を楽しくするアジア・コンテンツが発信されていくのでご自身のペースで、お楽しみください! © 2015 Shanghai New Culture Media Group Co., Ltd. All Rights Reserved提供 : アジア・リパブリック11周年 ©2017 China International TV...

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東西問・西洋一元民主主義の神話をどう超えたか、全過程人民民主主義、張樹華政治学研究所長が論文

北京12月11日発中国新聞社電は「全過程人民民主主義はどのようにして西洋式一元民主主義の神話を超越したか」と題する政協全国委員で中国社会科学院政治学研究所所長の張樹華氏の次のような論文を配信した。  30年余り前、フランシス・フクヤマ氏らの学者が「歴史終焉論」、「西洋式民主主義一元論」などの論調を唱え、「民主主義・自由・人権」などの西側の観念に基づく制度モデルが天下を統一すると考えた。これと同時に、西側の政治屋も「民主主義・自由・人権」などを絶対化・道具化・ロゴ化・外交政策化した。長年にわたり、西側は民主主義の定義権・判定権を独占し、思想・制度と発言権における霸権を守り、他国はこれに従えば友とされ、そうでなければ敵とされた。従わない者には政治的・経済的に封じ込めるか、和平演変(平和的転覆)・カラー革命をたくらみ、その思想の西洋化・制度の同質化・発言権の弱体化をはかった。  だが、30年余りが過ぎて、西洋式民主主義モデルは人類の歴史の終焉をもたらさず、世界の平和と発展ももたらさず、まして公平と正義、民主主義と自由などもたらさなかった。逆に、西側陣営が冷戦後に西洋式民主主義を押し売りして、世界にもたらしたのは動乱、衰退、分裂、離散、血涙だった。西側社会自身も政治の過激化、社会のポピュリズム化、アイデンティティーの分裂化などの苦境に陥っている。「金権政治」、「エリート政治」、「アイデンティティー政治」が横行し、新しい資本と古い寡頭が権力を奪い合い、財閥集団が選挙を操作した。米国の政治学者ラリー・ダイアモンド氏は、米国が歴史的に自負してきた西洋式民主主義は2006年から衰退し始めたと認めている。フクヤマ氏は著書「政治の衰退:フランス革命から民主主義の未来へ」の中で、米国式民主主義が衰退期に入っており、天下を統一するのは難しいことを認めざるを得なかった。  ここ数年、一部の政治学者らは視点を変え、西側の政治的混乱と病的な民主主義の脈をとり始めている。複数の学者は、変質した「民主主義」が社会の分断、人種・民族間の矛盾、貧富の分化をもたらし、ポピュリズムなどの過激な思想を生み出し、民主主義の破綻と人権状況の悪化をひどくしたことに注目している。民主主義の変化と変質は一部の国に内部の意思決定の混乱、相互の掣肘、動員力不足をもたらし、政治を悪循環に陥らせている。以下の視点から西洋式民主主義の神話を打破すべきだ。  第一に、西洋式民主主義はどこにでも当てはまる共通ソフトウェアではない。民主主義の生成と発展には経済的基礎、法治精神など一連の条件が揃っている必要があり、やみくもに他国に移植しても水が合わず、南橘北枳(なんきつほくき)となる。西洋式民主主義も千篇一律ではなく、米国式の大統領共和制、ドイツ式の議会共和制、英国式の立憲君主制などさまざまなモデルがある。世界各国の国情はそれぞれに異なるため、多様な民主政治のモデルがより必要であり、無理に西洋式民主主義が持ち込まれれば、政治的エコシステムの混乱や拒否反応は避けられない。2003年にブッシュ政権がイラクに米国式民主主義を移植したことについてフクヤマ氏は、ブッシュ政権は民主政府と市場経済が複雑な要因(政党・法治・財産権・共通のアイデンティティー)の相互作用に由来し、これらの要因が民主主義の先進国では長い年月をかけて獲得されたことを理解していないと批判している。(中国通信=東京)  第二に、西側の政治屋は安全で適正な民主主義の完成品を無料でプレゼントするのではなく、「民主主義」を西洋化、弱体化、他国の改造、自身の霸権の擁護のための道具と手段にしてきた。西洋式「民主主義生産ライン」の製品には常に地政学的な私利が織り込まれている。まさに中国外務省の「米国の民主主義状況」報告が言うように、米国はいわゆる民主主義を輸出して悪い結果をもたらし、「カラー革命」で地域と国家の安定に危害を与え、いわゆる民主主義の押し売りで人道的な悲劇を引き起こし、制裁を乱用して国際ルールを破壊し、「民主主義の灯台」は全世界から批判されている。  第三に、西洋式民主主義の先天的欠陥と後天的不足が民主主義のゆがみ・疎外・変質をもたらし、「西洋式民主主義老化シンドローム」が現れている。西洋式民主主義は過去にポジティブな歴史的役割を果たしたが、その後現状に甘んじて進歩を求めず、絶え間ない改革と改善を図れなかったため、ネガティブな弊害が日ましに顕在化している。西洋式自由思想は徐々に「絶対自由」へと変化し、西洋式民主主義の価値は徐々に一枚の投票用紙に単純化され、西洋式民主主義の人権理念は徐々に「有名なダブルスタンダード」へと変質した。100年ぶりの変局と歴史的な新型コロナの流行が重なる中、政治的混乱、経済的危機、人種・民族間の衝突、難民問題などが「西洋式民主主義老化シンドローム」の現れとなっている。  ◇全面的政治発展観を堅持する  西洋式民主主義の弊害を克服し、民主化のパラドックスを打破するには、新しい民主主義観を提唱し、全面的な政治発展の理念を打ち立て、政治の協調と全面的発展を推し進める必要がある。  新しい民主主義観と全面的政治発展観では、西洋式民主主義は決して歴史の終点ではなく、民主主義は決して西洋式が最も完璧ではないと考える。民主主義は歴史的、具体的で、発展するものであり、その国の文化と現実の土壌に根差したものでなければならない。全面的政治発展には、民主主義的価値(公平・権利・自由など)、法治の要素(安定・規則・秩序など)、効果の目標(業績・責任・廉潔など)という、相互に依存し合い、弁証法的に統一された三組の要素と価値の追求が含まれる。政治的民主主義と政治的効果は全面的な政治発展の動因であり、法治・安定・政治的秩序は政治的民主主義と政治的効果の条件と保障であって、共同で政治の全面的発展の価値と目標を構成している。政治改革と政治発展の任務はこれら三組の要素の「均衡点」を正しくおさえることにほかならない。  民主主義を発展させることは全面的政治発展の重要な一環であり、適当な道筋、合理的な速度、有效な方法を選んではじめて民主政治をより高効率でより良質なものにすることができる。民主化の「単騎突撃」は政治の発展を後押しするとは限らず、むしろ民主主義が制御不能や政治の衰退を招き、「政治対立と民主主義劣化」の泥沼に陥ることになる。全面的政治発展観では全局的視野、戦略的定力、持続的協同を提唱し、「民主化」のプロセスを穏やかに乗り切り、民主化のプロセスを政治発展の全般的目標に組み込むとともに、経済の建設・社会の建設・文化の建設・法治の建設などのプロセスと調和させる。  中国の政治改革と政治発展のプロセスは全面的政治発展の理念に則り、全面的協調性・動態的発展性・主権の歴史性の弁証法的統一を体現している。中国は民主観・人権観・自由観を刷新し、全面的政治発展観を提唱・堅持し、西側の発展モデルと論理的枠組みを突き破り、政治の発展力と国家の統治〈ガバナンス〉能力を高め、民主主義の新たな道を踏み出して、中国社会の全面的で調和した発展を思想と価値の面から保証している。  ◇全過程人民民主主義を発展させる  まったく新しい民主主義観、まったく新しい全面的な政治発展の道は、一種の真実と広範な人民民主主義を代表している。全過程人民民主主義は中国の人民民主主義の最新の成果と成功した実践であり、社会主義民主政治の鮮明な特徴であり、西側のブルジョア民主主義と区別する顕著な特徴である。全過程人民民主主義は一連の法律と制度手配により、民主的選挙、民主的協議、民主的意思決定、民主的管理、民主的監督の各段階を互いに結び付けた全チェーン・全方位・フルカバーの民主主義である。  全過程人民民主主義は随時オンライン状態を保ち、短期間の投票後に休眠期に入る間歇的民主主義を超越している。全過程人民民主主義には多様化した民衆の利益要求表現のチャンネルと公平な利益調和の仕組みがあり、多数の人々の真実の意思が少数の利益集団によって封じ込められる局部的民主主義を超越している。全過程人民民主主義は民主集中制の原則に従い、最大限の政治的合力を形成し、国家統治の高效率の統一を効果的に保障することができ、徒党を組んで異論を排する、互いに否決し合う、長々と議論する、なかなか決められないといった低效率の民主主義を超越している。  全過程人民民主主義は直接と間接、民主と集中、過程と結果、形式と実質などの段階の優位性を総合し、全過程的、開放的な政治参加と民主主義表現の仕組みを有している。例えば多党協力、政治協商、国是の共同協議などは、政党がたらい回しで国務を独占し、利益集団が国事の意思決定権を握り抑える寡頭式統治を超越している。中国の民族区域自治制度は各民族人民が主人公になることを保障し、民族の平等・団結・互助・調和を促進することによって、排外主義を吹聴し、制度的な人種差別があり、難民と移民を虐げる偽物の民主主義を超越している。全過程人民民主主義を発展させ、的確貧困脱却と郷村振興を推し進め、質の高い発展の中で共同富裕〈共に豊かになる〉を実現し、民生を発展させ、民心を守ることは、貧富の格差を野放しにし、金権政治に依存した寄生的民主主義を超越している。全過程人民民主主義は他国の内政に干渉せず、民主主義を広めるという名目で地政学的な私利をはかる覇権的民主主義を超越している。  全過程人民民主主義を発展させることで国家の安定・人民の団結・社会の進歩が保障され、「中国の治」の制度的優位性が示されて、発展目的の人民性、発展方式の多様性、発展プロセスの持続性、発展結果の有效性が体現されている。  中国の治の実践的価値と概念的含意は幅広く奥深い。新しい民主主義観と全面的発展観を理念とする中国の治は、世界の近代化発展の新しい道を切り開き、人類の政治文明の新しい姿を生み出し、世界の政治文明の花園の中で燦然と輝き、光を放っている。

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東西問・なぜ「中国5000年の歴史」と言えるのか?―「最古の国の痕跡」発見した学者が解説

よく「中国5000年の歴史」などと言う。どうして「5000年」と言えるのか。中国最古の都市遺跡とされる「良渚古城」を発見した浙江大学芸術および考古学院の劉斌教授はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて同遺跡や中国における「国の成り立ち」について解説した。以下の文章は、劉教授の言葉に若干の説明内容を追加して再構成したものだ。 【その他の写真】 ■社会組織と権力構造が確立した国が5000年前に存在した 浙江省杭州市内の良渚を中心とした地域に、古い文化が存在したことは1930年代から判明していた。劉斌教授が率いるチームは2007年の調査で、三重の城壁などが存在する都市を持つ国家が存在したことを確認した。 都市遺跡の王宮は面積が300万平方メートル以上ある。外殻城が囲む面積は631万平方メートルで、北京にある故宮の8倍だ。また良渚古城の周囲には世界最古と考えてよい巨大水利施設が存在し、水利の恩恵を受ける地域は100平方キロに達したと考えられる。良渚古城遺跡は整備されて遺跡公園として公開されている さらに良渚古城は、長期間にわたる成り行きで大きくなったのではなく、計画に基づいて短期間に建設されたことも分かった。つまり、当時の現地社会には都市計画を練る能力や大量の人員の動員力、必要とする資材や機器の調達能力、労働者の衣食住を確保維持する能力、さらには建造物の品質を維持し確認する能力などがあった。 また、ごく少数の墓だけから玉(ぎょく)製の副葬品が発見された。玉原石の産地は特定されていないが、採掘や加工について分業が成立しており、完成品は最高権力者だけが手にすることができた。つまり階級社会が成立し、権力者だけが貴重品を手にすることができた。これらから、5000年前に「国」としての組織がすでに成立していたと考えられる。ごく少数の権力者の墓だけから見つかった玉(ぎょく)の装飾品 ■何をもって「古代文明が成立した」と見なせばよいのか 中国において、考古学により実在が確認された最も古い国は、河南省などを勢力圏とした殷だった。そのため長年にわたって、約3500年前の殷の登場をもって中国文明が成立したと見なされていた。 中国文明の発生を約3500年前と見なすのには、別の理由もあった。西洋の学界では長く、文字・都市・冶金技術の「3点セット」をもって、文明成立の条件とする考え方があった。エジプト文明やメソポタミア文明はたしかに、この条件を満たしている。 一方の「良渚遺跡」では、青銅器など金属器が使われたことは確認されていない。遺跡から「簡単な記号」は発見されたが、文字と認定するには無理がある。そのため、文明の成立と見なせるかどうかについては議論があった。何らかの記号の役割を果たしたと考えられる絵も発見されている。ただし文字が存在したとは言い難い しかし英国人で考古学の権威的存在であるコリン・レンフルー氏は、「文明の評価基準は場所によって違う。必ずしも、青銅器・文字・都市の3要素が必要とは決めつけられない。国の存在こそが、文明の成立を判断する主要部分だ」と論じていた。だとすれば、「良渚遺跡」の存在は、中国で5000年前に文明が成立していた証拠と考えてよい。レンフルー氏はその後、「良渚遺跡」を訪問して「すでに文明の段階に入っていた」と断言した。 5000年前の中国では「良渚文明」だけでなく、それこそ「満天の星」のように各地に文明が存在していたと考えられる。ただし、「良渚文明」のように総合的な遺跡は見つかっていない。従って中国で確認された最古の文明は良渚文明と考えるのが、現状では妥当だ。 ■「良渚文明」では稲作栽培も盛ん、日本という国の成り立ちにも深く関係 中国では地方により主食が異なっていた。北部では小麦が主食になっていった。南部では米が主食だった。「良渚」という国で生きた当時の人は米を主食にしていた。まず、「良渚古城」では米の貯蔵庫跡が見つかっている。大量の炭化米があったので、この貯蔵庫は火災で焼失したと考えられるが、使用当時は200トンのコメを貯蔵できたと見積もられている。このような倉庫は、国としての食糧備蓄施設の「氷山の一角」と考えるのが自然だ。食糧貯蔵庫跡から見つかった炭化米 また、浙江省寧波余姚市では良渚文明期に使われていた5000平方メートル以上の規模の水田が見つかっている。これらから、「良渚古城」における食糧事情は良好だったと考えられる。良渚古城で発見された木造船。良渚古城周辺には現在も大小さまざまの川や湖がある なお最近の研究によると、日本では縄文時代後期(4400~3200年前)には稲作が始まっていた可能性が高い。そして日本の稲作技術は「良渚文明」などが存在した長江下流域から伝えられたとされている。日本でその後、稲作が産業の中心となり米文化が日本を特徴づけるようになったことを考えれば、「良渚文明」を考えることは、日本という国の成り立ちを考えることにもつながってくる。(翻訳/RecoedChina)

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【東西文明比較互鑑】秦漢とローマ(1)東西政治文明の基礎

秦漢とローマはともに農業社会を土台に築かれた大規模な政治体であり、同じ時代にあって人口規模や領土の広さもほとんど変わらない。しかし、大土地所有と小農民没落の関係、中央と地方の関係、政権と軍閥の関係、上層と末端の関係、固有文化と外来宗教の関係―これらを処理していくうちに両者はまったく異なる結果にたどりついた。ローマ後の欧州では、キリスト教を信仰する封建国家が全域で生まれたが、他方、秦漢後の中国では引き続き大一統の隋唐王朝が興ったのである。 秦漢の末端統治 2002年、湖南省西部の里耶鎮〔湘西トゥチャ族ミャオ族自治州龍山県〕で秦代の小都城遺跡「里耶古城」が発掘された。城内の古井戸からは「里耶秦簡」とよばれる秦代行政文書の簡牘〔文字を記した竹や木の札〕が数万枚出土し、いまから2000年以上前の秦代末端統治の様相が現代人の目に明らかになった。 考証によると、当時の里耶古城の人口はせいぜい3000人から4000人、険しい山間地で農地に恵まれず、租税徴収高は全国平均をはるかに下回っていた。それでも秦朝は総勢103人(1)で構成される十全な官僚機構をここに設置した。経済的観点からみれば、これだけの官吏を置くに値しない土地である。しかし、秦帝国にとって田賦は二の次だった。 簡牘を丹念に整理していくと、「枝枸」とよばれる植物の性状、分布、産出量を詳しく書いた官吏の「メモ」が出てきた。ここから見て取れるのは、山や川に眠る物産品を全力で掘り起こす秦代官吏の使命感だ。彼らは土地開拓、戸籍編纂、地図作成を地道に進め、のちに結果をすべて上級の「郡」に報告した。「郡」は各県の地図をあわせて「輿地図〔全国地図〕」をつくり朝廷に献上、公文書として保管され閲覧に供された。秦の官吏は経済振興だけでなく、煩瑣な行政・司法実務もこなさなければならなかった。秦は完備された法体系を有し、法律や判例にとどまらず上訴制度も有していた。下級官吏は厳格に法に従って仕事をしなければならなかった。例えば、文書はすべて同じタイミングで控えを複数部門に送りチェックを受けねばならなかったし、罪に比して軽い判決またはその逆といった「不正」が発生したとき、あるいは法律が相互に抵触したときもやはり上級部門に順次報告し、仲裁を受けねばならなかった。2000年以上前にここまで綿密に末端行政がおこなわれていた例はまず存在しない。 里耶秦簡の死傷者名簿には在任中に過労や病気で亡くなった下級官吏の名前が多く含まれている(2)。定員103人で長期欠員は49人である。秦朝は、官吏が命を削って働くような「過酷な政治」でわずか14年の間に「車は軌を同じくし、書は文を同じくし、行いは倫を同じくす〔車軌と文字の統一、倫理道徳と行動の一致、『中庸』〕」を実現、国土保全や道路網建設などの大規模建設工事を完遂したのである。 貴族出身の項羽は秦を滅ぼしたあと分封制を復活させ、自身は一地方の諸侯におさまって勝手知ったる生活を送ることを望んだ。他方、項羽と天下を争った劉邦は昔に戻ることを拒否し、項羽に勝ったあと秦の大一統を引き継いだ。劉邦自身もそうだが、その集団〔劉邦集団〕幹部もほとんどが下級官吏出身だったので、帝国の下層基盤と中央の結びつきをよく理解していたし、郡県制の運用にも通じ、庶民のニーズにも敏感で、大一統を維持する極意を熟知していたのである。だからこそ、秦の都・咸陽に攻め入った際も、劉邦集団は金銀財宝には目もくれず、律令、地図、戸籍簿だけを奪った。劉邦が後にこれらの資料を拠り所にして大漢王朝の中央集権郡県制を打ち立てたのは間違いない。 中国の制度は「強大な国家能力」を備えており、中国は世界史上もっとも早い「近代国家」を欧州に先んじること1800年、すでに秦漢の時代から構築していた―『歴史の終わり』の著者フランシス・フクヤマの文章に近年たびたび登場する指摘だ。フクヤマのいう「近代」の基準は、血縁に依らず、法の原理に則り、組織体制が明確で、権限と責任の関係が明瞭な理性的官僚体制を有しているかどうかである。秦漢流にいいかえれば、これは「天下は末端行政から生まれる」ということだ。 ローマの国家統治 秦漢と同時期、ローマは地中海の覇者として勃興した。 中国は黄土平原の農業文明、ギリシャ・ローマは地中海の交易文明、そもそもの出自からして水と油に等しいと考える人は多い。しかし、実際はそうではない。紀元前500年から紀元後1000年までのギリシャ・ローマは農業社会で、商業〔交易〕は些細なオプションに過ぎないというのが1960年代以降、西洋史学会の定説になっている。英国の著名な歴史学者モーゼス・フィンリー(Moses Finley)は著書『Politics in the ancient world〔古代世界の政治〕』で次のように書いている。「土地は最も重要な財産で、家族が社会組織の最上位に位置し、ほとんどの人は自給自足を目指していた。財産の大部分は土地の賃貸料と地租に由来した」。これは秦漢と酷似している。 夕日の下、かつての帝国の輝きを放つ古代ローマの遺跡(写真提供:潘岳) ギリシャは哲学者を、ローマは「農民+戦士〔農民兼兵士〕」を生み出した。地中海のいたる所で戦ったローマの兵士は、退役後に土地を手にしてオリーブやブドウを栽培できればそれで十分だった。最後は「解甲帰田〔退役して故郷へ帰り農業に従事すること〕」を切望した秦漢の兵卒と同じである。 ローマ市民は商業を軽蔑し、交易や金融は被征服民族の生業だと考えていた。共和国の黄金時代、商人は元老院議員になれなかった。貴族は出征で得た財産をすべて土地の購入と大荘園の経営にあてた。農業は生計の手段ではなく、田園生活の賛歌だったのである。この点、秦漢はさらにその上を行き、ローマ以上に農業が本、商業が末だった。 土木工事、戦争、国家統治に長けていたローマ人は凱旋門、闘技場、浴場を残した。秦漢も同じである。現実への関心が高く、国家を運営し、長城を建設し、火薬を発明したが、論理学や科学を得意としたわけではなかった。 ローマは西洋文明に政治的遺伝子を注入した。憲制官僚体制と私法体系をつくり、西洋市民社会の原型を生み出した。共和政にせよ帝政にせよ、思想でも制度でも法律でもローマは西洋政治体の源流である。イギリス革命時の青写真「オセアナ共和国」には共和政ローマの痕跡がある。フランス革命期のロベスピエールとその盟友にも同じく共和政ローマの英雄の面影がある。米国の上院と大統領制は元老院と執政官制度を想起させる。20世紀になっても、米国の保守的学術界では建国の原則をめぐってローマ式の古典的共和政にあくまで従うのか、それとも啓蒙思想の民主主義と自然権にこだわるのかという議論がおこなわれている。ローマの魅惑的な面影が西洋政治文明から消え去ったことはない。 (1)以下の文献を参照。湖南省文物考古研究所他「湖南龍山里耶戦国―秦代古代一号井発掘簡報」『文物』2003年第1期、P4~P35。同「湘西里耶秦代簡牘選釈」『中国歴史文物』2003年第1期、P8~P25。湖南省文物考古研究所『里耶発掘報告』長沙・岳麓書社、2007年、P179~P217。(2)『里耶秦簡・吏物故名籍』簡8―809、簡8―1610、簡8―938、簡8―1144。※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「秦漢とローマ(1)東西政治文明の基礎」から転載したものです。 ■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら

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OKAMOTO’Sのオカモトレイジがキュレーションする激情の夜YAGI EXHIBITIONがオカモトレイジ誕生祭と新年会のダブルで祝祭を開催!

レイヴチームSPEEDクルーやYAGI必須メンバー、さらにはクルーと軌道を重ねていくだろう初登場アーティスト総出で繰り広げる。 ■ Contact event HP: https://www.contacttokyo.com/schedule/new-year-yagi/ オカモトレイジ (OKAMOTO’S)1991年生まれ、東京都出身。中学校の同級生で結成された4人組ロックバンドOKAMOTO’Sのドラマー。2010年CDデビュー。デビュー当時は年間平均100本を超えるライヴを展開し、海外公演等も積極的に実施。幅広い音楽的素養を生かし、DJとしても活動中。さらにファッションモデルとしての活動やMVのプロデュース、また、自身でエキシビジョンを手がけるなど、クロスジャンルな活躍で現代のカルチャーシーンを牽引。2019年には10周年イヤーを迎え、全国20か所21公演を廻る全国ツアー OKAMOTO’S 10th ANNIVERSARY LIVE TOUR 2019 “BOY”を行い、6月27日のファイナルは初の日本武道館公演を敢行し大成功を収める。その後、初の中国ワンマンツアーを北京と上海で行い両会場ともソールドアウト。2021年は、1月配信シングル「Young Japanese」を皮切りに、「Complication」「M」「Band Music」「Picasso」と怒涛の勢いで新曲を発表。その活動の勢いは止まることを知らない。 Flow Machines feat. Qiezi Mabo – Midnight Calling ▼ BBY NABE x SKLR – remember? (Official Music Video) Marimekko’s 70th...

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孔子の教えは現代人類社会にも有効か?中国人学者が理解のポイントを説く

中国で今、盛んに議論されている問題がある。それは、孔子などに始まり歴代の先賢が説き続けてきた理念が、現代にも通用するかということだ。さらには「中国式の理念」と「西洋の発想」に共通点があるのかも議論の対象だ。浙江大学人文高等研究院の講座教授などを務める劉東氏はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、自らの考えを披露した。以下は、劉教授の言葉に若干の説明内容を追加して再構成したものだ。 ■孔子が強調した「理性的認識」は、今も世界に通用する 孔子は、「之(これ)を知るを之を知ると為(な)し、知らざるを知らざると為す。これ、知るなり」と述べている。論語には「子、怪力乱神を語らず」とも書かれている。つまり、孔子は「認識すること」とは何かを、深く考えていた。孔子の肖像 この「認識本位」という原点を持つのが、中華文明の最大の特徴だ。一方で西洋ではキリスト教を「信じる」伝統が長いた。しかし、例えば北欧のいくつかの国では「神なき社会」が事実上、出現している。代表的な啓蒙思想家の一人であるボルテール(1694-1778年)も、中国思想の影響を受けて、理性を呼び覚ます必要があると説いた。つまり「宗教なき道徳」を構築できることは、人類共通だ。 孔子の考え方では、我々の「理性」や「人生観」は虚妄の上に構築されたものでない。また、中国では近代になってから、両者を切り離す主張が発生したが、それは間違っている。「理性」と「人生観」はつながっているものだ。 一方で、孔子以降の多くの儒家の思想は、改めて点検する必要がある。その後の歴史の過程で儒学の「ピーク」が何度も発生し、歴史に貢献したのは事実だが、「理性の自覚」の点ではいずれも、孔子に遠く及ばない。時代が下ると、孔子とは大きく異なる主張も発生した。それらは道教や仏教、さらにキリスト教の影響を受けており、しかも完全に時代遅れの形而上学だ。今の時代に世界に向けてそんな思想を説いたら、馬鹿にされるだけだ。 ■孔子の「寛容な精神」に始まり「天下大同」を目指す 中国の儒家は「天下大同」に情熱を傾けた。つまり、完全に平等で、争いや悪行が存在しない理想社会だ。そして「天下為公(天下は公のもの)」という考え方も強まった。孫文の書。孫文も「天下為公」の言葉を重視した 儒家が「天下大同」重視したのは、民を救うことが目的だった。そして彼らは、社会は徐々に変えていけると期待した。「最後の審判」のような終末論は受け入れず、「物事は一挙に解決できる」といった非理性的な考えも採用しなかった。 孔子本人は「天下大同」を性急に求めることをしなかった。孔子自身が強調したのは「和して同ぜず」だ。つまり「他者と争うことはしないが、理念については妥協しない」だ。言い方を変えれば、自分とは異なる考え方の人がいても、寛容に共存することだ。 ■「民族主義」は必要だが、その上にある「人類全体」を見失ってはならない しかし中国は近代になると西洋による、続いて日本による強烈な打撃を受け、「民族国家」の概念を受け入れざるを得なくなった。この「民族主義」は、古代から受け継がれて来た「天下大同」とは対立する概念だ。中国近代の思想家や社会活動家、政治家は、この矛盾の解決を迫られた。 清朝末期から政治改革を目指した梁啓超(1873-1929年)は、国という存在は必要と論じた上で、「国の保護の下で、各人が天に与えられた能力を発揮することに尽力して、人類全体の文明に大きな貢献をする」と説いた。 民族主義とはしょせん、視野に限界のある立場だ。理性を持っているはずの人も、互いが互いを「邪推」することになる。現在は、全世界的な危機が山積している。互いに邪推すれば、核戦争の危機から脱却することは難しくなる。環境や気候変動などの危機も、克服できなくなる。 そのような状況にあるからこそ、我々は改めて紀元前の孔子の思想に戻るべきではないだろうか。まず「理性の共有」を実現させ、次に改めて「天下大同」を目指す。あらゆる国の上に、人類と言う存在があることを意識せねばならない。個別の人物だけが視野に入り、人類という考え方がないようでは、このホモサピエンスという種は、もちろん中国人を含めて、奈落の底に落ち込んでしまうのではないだろうか。(翻訳/RecordChina)

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【東西文明比較互鑑】戦国時代とギリシャ(4)東西の相違こそ対話の基礎

「分」と「合」に分かれた政治観念 中国の古代にも多くの国が乱立し、一つの都市が一つの国になる局面がかつてあったが、最終的にはこれらの都市国家は長期にわたっては分立せず、地域的な王国を形成し、さらに一歩進んで統一王朝に発展した。 どのように争うかにかかわりなく、戦国七雄は一つの秩序しか持てず、分割した統治は長期的ではないはずだと考えていた。同時代のギリシャ都市国家の世界には宗主国は存在せず、異なる連盟による闘争があるだけで、「共通の秩序」が存在するとは考えられていなかった。 国家間の関係から見ると、周代の礼式では、一国で疫病や凶作が起こったら、他国は食料を提供し、被災者を救済しなければならないと定めていた。また、一国に冠婚葬祭があれば、各国は祝賀と哀悼に出向かなければならないとも定めていた。これらの責務は強制的なもので、天子によって擁護されていた。諸侯の覇者もこれらのしきたりを擁護することでようやく覇を唱えられた。これにより、国家間で「華夏〔中国の古称〕世界」に共に属しているという一体感が強化された。一方、ギリシャの都市国家間には責任関係が確立されなかった。母市からの植民でできた新しい都市国家であっても、母市に対して責務はなく、しばしば矛先を向けて攻撃さえした。ギリシャ・ペルシャ戦争の際にも、ギリシャ人という共通の立場はわずかな効果しか発揮しなかった。 二つの文明の本質的な性質は二つの異なる道をつくった。 西洋は絶えず「分」に向かった。地域で分割され、民族で分割され、言語で分割された。ローマとキリスト教の努力のように、その中にも統一の努力はあったが、分割のすう勢が主流を占め、最終的に個人主義と自由主義に帰結した。 中国は絶えず「合」に向かった。地域で統一され、民族で統一され、言語で統一された。王朝交代や遊牧民族の衝撃のように、その中にも離散の時期はあったが、統一のすう勢が主流を占め、それによって中華文明の集団主義が育まれた。 決して中華文明に「分」の概念がないわけではない。しかし、それは決して「分割した統治」ではなく、「分担」だった。人がひ弱なのに鳥獣を超えて生き延びられるのは、集団を組織できるからだと荀子は言った。集団をつくる鍵は異なる社会的役割を確定し、かつ相応の社会的責任を引き受けることにある。分担が「礼儀・道義」に合致しさえすれば、社会を統合できる。このため「分」は「和」のためのものであり、「和」は統一のためのものだ。統一すれば強大になり、強大になれば自然を改造できる。 アリストテレスにも「合」の思想があった。彼は「絶対王政」の概念を打ち出した。つまり「君主1人が氏族全体や都市全体を代表し、家庭に対する家長の管理のように、全ての人々の事柄を全権的に支配する」ということだ。彼は「全体は常に一部を超越するが、このようにずば抜けて優秀な人物はそれ自身が一つの全体であり、ほかの人々は彼の一部のようなものだ。唯一の可能なやり方は皆が彼の支配に服従し、他人と交代させずに無期限で支配権を握らせることだ」と考えた。アリストテレスを批判する人はこれに対し、アレクサンドロス大王のためにつくられた政治理論で、彼が真理よりも権力を愛していることを示していると述べた。 アレクサンドロス大王の死後、アリストテレスはすぐ反撃に遭い、アテネ公民大会の裁判に直面した。前回こうして裁判にかけられて毒を飲んだのは、彼の大師匠ソクラテスだった。アリストテレスは二の舞いを演じないようマケドニアのエヴィア島に隠れた。彼の逃亡はアテネ人にあざ笑われた。1年後、アリストテレスはわだかまりを抱えて死去し、アレクサンドロス大王の帝国もすぐに分裂した。 マケドニア王国の拡張方式は、到達地におけるギリシャ式自治都市の建設だ。こうした「自治」はその都市に居留するギリシャの植民者に対するものであって、征服された土着の社会を含まない。アレクサンドロス大王は新たに征服した一つ一つのアジアの都市に自らの側近を派遣し、総督を務めさせた。彼らは軍事と税収だけを管理し、民政には構わなかった。こうしたやり方は中央が強大な時には許されたが、いったん中央の権力が衰えると、逸脱した行動が生まれ、都市は次々と支配から抜け出した。アレクサンドロス大王の帝国の瓦解は必然だった。 中国の戦国時代における末端政権の組織方式は完全に異なる。出土した秦代の竹簡によると、秦国は併合のたびに県から郷までの末端政権組織を確立するようにしていた。県と郷の官吏は全ての民政を処理しなければならなかった。開墾を組織し、戸籍の統計を取り、税金を徴収し、物産を記録し、それらの情報を都の咸陽に伝えて保存していた。秦の官吏は一つの土地に長くとどまらず、数年で交代していた。 自由と秩序の相互参考を 人類社会の歩みの中には、全てを説明できる理論は存在せず、普遍的な絶対的原則は存在しない。現今の東西文明の観念で最大のもつれは、「自由優先」なのか「秩序優先」なのかということだ。これはそれぞれギリシャ文明と中華文明の中心的な価値観だ。 「ギリシャ人」という言葉は自由に対するギリシャ人の強い愛情により、人種の名前から「知恵」の代名詞に変わった。中華文明は秩序に対する中国人の強い愛により、同源で一つの文字を使い、かつ国家の形態によって現在まで持続している唯一の文明になった。 秩序優先のもたらす安定と自由優先のもたらす革新では、どちらがより追求する価値を持つのか?これは哲学、政治学、宗教学、倫理学の限りない論争を含んでおり、私たちは定説を必要としない。これら異なるものを残すこと自体が、ちょうど将来の文明の相互参考と融合に可能性を残す。多元と矛盾の併存は人類文明の遺伝子バンクにより多くの種を残すだろう。自由優先と秩序優先という相違は東西文明の交流の障害になるべきではなく、むしろ東西文明の交流と対話の基礎になるべきだ。一方では、技術の発展が爆発的な革新の前夜に進んだことで、私たちは自由のもたらす創造力を深く認識した。もう一方では、非伝統的安全保障の危機が頻繁に勃発したことで、私たちはあらためて秩序の大切さも認識した。自由についていえば、どのように秩序を強化し、それによって崩壊を防ぐかを検討しなければならない。秩序についていえば、どのように自由を強化し、それによって革新を呼び起こすかを検討しなければならない。問題は自由と秩序の二者択一ではなく、どの部分で自由を強化し、どの部分で秩序を強化するかということだ。 過去、一つの理念の検証には、数百年をかけて何代もの人々が繰り返し試行錯誤することが必要だった。今日においては技術革新の下、数年間で原因と結果がはっきりと理解できる。省察、絶え間ない包容、調和と共生、相互参考と融合を理解できる文明だけが、真に持続的に発展できる文明なのだ。そのために東洋と西洋はしっかりと語り合うべきだ。(魏巍・田潔・四谷寛訳) ※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「戦国時代とギリシャ(4)東西の相違こそ対話の基礎」から転載したものです。 ■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら

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【東西文明比較互鑑】戦国時代とギリシャ(3)連合より自治重視の都市国家

アレクサンドロス大王による統一運動 紀元前325年、アレクサンドロス大王はエジプトとペルシャを征服したギリシャの精兵を率い、はるかインド・パンジャーブ地方のビアース河畔にたどり着いた。川を渡ればインド全域、ひいては中国だ。彼は前進を続けるようあふれるような思いで将兵を鼓舞したが、重い戦利品を運んでいた戦士たちはそれ以上東へ進もうとしなかった。アレクサンドロス大王は河畔の夕日に向かって激しく泣き、引き返すほかなかった。彼は2年後に病死した。 アレクサンドロス大王の東征はギリシャから出てきた統一運動だ。ギリシャの統一運動はポリス〔都市国家〕の危機から生まれた。今日、西洋が深く懐かしむギリシャ古代文明とは、実際のところ民主制度の最も偉大な成果を代表するアテネの歴史の短い期間、すなわちペリクレスが政治をおこなった黄金時代のことにすぎない。ごく短い数十年の黄金時代の後、ポリスは絶え間ない内部抗争に陥っていった。 100年続いたこの混乱した局面の中で、次のような声が次第に出てきた。各ポリスは限りある資源を奪い合わず、外部に向かって団結し、ペルシャを征服して植民すべきだ。そうすればギリシャは永遠の平和を獲得できる。 最も高らかに声を上げたのはアテネ最高の雄弁家イソクラテスとギリシャ最高の哲学者アリストテレスだ。 イソクラテスは紀元前380年に発表した「パネギュリコス〔オリンピア大祭演説〕」の中で、「同じ源泉から利益を得て同じ敵と戦うまで、ギリシャ人は仲良く暮らすことができない」「そのため、私たちは必ず全力で速やかに戦争をここからアジア大陸に移さなければならない」と述べた。 現代の歴史学者はこの考え方を「汎ギリシャ主義」あるいは「大ギリシャ主義」と呼ぶ。その根本的な原動力は土地不足や人口過剰の解決だ。ギリシャ文明の伝播は単なる副次的な結果だった。これは後世の西洋における帝国主義思想の原型になった。イソクラテスは帝国主義を打ち出した最初の人物だ。 しかし、彼が40年間呼び掛けても、アテネは終始全く耳を貸さず、むしろ引き続きスパルタやテーベ、マケドニアを攻撃しようとし、団結してペルシャと戦おうとはしなかった。 イソクラテスは最終的に諦め、マケドニア国王ピリッポス2世にギリシャ統一を公然と呼び掛けた。彼は有名な戦略をピリッポス2世に提案した。「ほかのペルシャ総督にペルシャ国王の束縛から抜け出すよう説得する必要があります。その前提は彼らに『自由』を与え、さらにそうした『自由』の恩恵をアジア地域に及ぼすことです。なぜなら、『自由』という言葉がギリシャ世界に入ってくれば、私たち〔アテネ〕の帝国とラケダイモン〔スパルタ〕人の帝国の瓦解を引き起こすからです」 これらの話は、自由と民主というアテネに対する後世の人々の印象とは大いに異なる。20年後、ピリッポス2世の息子アレクサンドロス大王はイソクラテスの戦略と考え方に基づき、エジプトとペルシャを征服し、大ギリシャ植民地帝国を打ち立てた。ただ、アレクサンドロス大王の師はイソクラテスではなく、アリストテレスだった。 帝国主義の起源はアリストテレス アリストテレスはマケドニアの支配下にあったエーゲ海北西の都市スタゲイロスに生まれた。そこはアテネ人から見ると蛮族の地域だった。 アリストテレスは蛮族の身であっても心はアテネにあった。彼はプラトンの最も優秀な弟子だったが、プラトンの死去に際して学園「アカデメイア」の後継者にはなれなかった。一番の理由はアリストテレスが外国人だったことだ。彼には「公民権」がなかったため、アテネで合法的な財産〔土地〕を所有できず、政治に参加できなかった。法律はギリシャの最も偉大な知者をアテネから切り離した。また、アテネ以外で生まれながらも喜んでアテネに忠誠を尽くす全ての有識者をアテネから切り離した。興味深いのは、この法律を発布したのが民主政治の模範であるペリクレスだということだ。 古代ギリシャの有名な思想家で、西洋哲学の開祖の1人アリストテレス(写真提供:潘岳) アリストテレスはアテネを離れてマケドニアに身を寄せ、王子だったアレクサンドロスの教師になった。彼はギリシャ文明の最高の基準でアレクサンドロス大王を育てた。彼の教育によって14歳の少年はギリシャ文学やホメーロスの叙事詩を愛好し、生物学や植物学、動物学などの知識を情熱的に学ぶようになった。それ以上に重要なのはやはり政治思想だ。アリストテレスはアレクサンドロス大王のために特に『王道論』『植民論』を書いた。アレクサンドロス大王の精神と事業の偉大さはアリストテレスの深い形而上学から来ているとヘーゲルは指摘した。 アレクサンドロス大王は容赦なく征服しながらギリシャ文明を広めた。競技場や神殿を備えた大量のギリシャ型都市をアフリカ、西アジア、中央アジア、南アジアに建設し、博物館と図書館で科学、文化、哲学、芸術の殿堂をつくり上げた。西洋の帝国主義の「暴力的征服+文明の伝播」という方式はまさにアリストテレスに起源する。 アリストテレスはアレクサンドロス大王に「アジア人の主人になり、ギリシャ人の指導者になる」よう提案した。イソクラテスもかつてピリッポス2世に「ギリシャ人には説得を用いてよい。蛮族には脅迫を用いてよい」と述べた。これこそ、内部が民主で外部が植民、上部が公民で下部が奴隷という「ギリシャ帝国」の精髄だ。こうしたダブルスタンダードのギリシャ式帝国は後日の欧州帝国の精神的な原型、政治的なひな型だ。 紀元前338年、マケドニアはアテネに大勝し、勝利に乗じてペルシャに進軍した。この知らせを受けたとき、イソクラテスはすでに98歳だった。送り返されてきたアテネ兵の遺体を見た後、彼は絶食による死を選んだ。マケドニアとの戦場で死亡した青年らによって、彼は自分の「大ギリシャ」思想に解決しようのない矛盾が存在することを理解した。彼は自由を尊重しただけでなく、統一を渇望した。統一がもたらす暴力は自由を破壊する可能性があった。ただ、自由が生む混乱もまた、統一を破壊する可能性があった。 イソクラテスの死後、ポリスは二度と団結しなかった。ギリシャの大軍の遠征前夜、ピリッポス2世が暗殺され、テーベは知らせを聞いてすぐに離反した。アレクサンドロス大王がバビロンで死ぬと、アテネは反乱を起こした。最後にマケドニアがローマの侵入者と決戦した際、ポリスはあろうことか背後からマケドニアに致命的な一撃を加えた。マケドニアがギリシャの半島文明を広めて世界文明にしたとはいえ、ポリスはむしろ共によそ者に破壊されようともその権威を認めなかった。 米国の歴史学者ファーガソンは次のように総括している。「ポリスは独特の内在的な構造を持つ単細胞の有機体で、再分割を進めない限り発展しようがなく、それらは無制限に同じような都市を複製できた。しかし、新旧を問わずそれらの細胞は全て、連合して一つの強大な民族国家を形成することができなかった」 なぜなら、ポリス政治の基礎は民主ではなく自治だったからだ。ポリス自身はいかなる政治制度も選択できたが、決して外来の権威に服従しなかった。ギリシャはローマに征服されるまで、大小のポリス全てが満足する「連邦制」には変化せず、ポリスの利益は終始一貫して共同体の利益の上にあった。 ※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「戦国時代とギリシャ(3)連合より自治重視の都市国家」から転載したものです。 ■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら

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歌で日中友好の架け橋を

 日本人が中国語の歌を歌い、中国人が日本語の歌を歌う「第24回日中カラオケコンクール決勝大会」が11月7日、東京で開催された。  新型コロナウイルスの感染症対策により、昨年に引き続き会場とオンラインを組み合わせた形で開かれ、観客は出場者のパフォーマンスをライブ配信で楽しんだ。  同コンクールの総合プロデューサーによると、2021年、日本では新型コロナの感染再拡大がみられたが、予選には中日両国の約100人が参加。最年少は8歳、最年長は75歳だった。2日間の予選を勝ち抜いた34組(38人)が決勝大会に出場した。参加者は東京や首都圏だけでなく、大阪府や三重県、広島県、岐阜県、長野県、新潟県などからも集まった。  熱戦の末、日本人部門では間島穂奈美さん、安永富裕美さん、堀由理さんの女性3人グループが、名曲「至少還有你」で最優秀賞を獲得。中国人部門ではさんが、おなじみの演歌「きよしのズンドコ節」で会場を湧かせ、最優秀賞を受賞した。  主催した日中通信社の会長は、コンクールの開催を続けることで、人々の心に安らぎを届けたいと述べ、中国と日本の友人たちが歌で友情を伝え、友好の橋を懸けてほしいと期待を寄せた。  日中カラオケコンクールは1998年に始まり、年1回開催されている。今年も在日本中国大使館文化部と日中友好協会、日本の外務省が後援した。 文・写真/日中通信社

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中国向けキャラクターグッズ展開を後押し。オープンキッズベースと中国漫画大手ファンファン漫画(翻翻動漫集団)が業務提携

キャラクターグッズメーカー、個人クリエイター向けの中国における販売・プロモーション一体型サービスを提供開始 中国翻翻動漫集団(総裁:沈浩、本社:中国浙江省杭州市、以下「ファンファン漫画」)と、オープンキッズベース株式会社(本社:東京都中野区、代表取締役 小縣拓馬、以下「OKB」)はキャラクターグッズやトイホビーメーカー、そしてIPを創作する個人クリエイター向けの中国展開支援、販売プロモーションにおいて協業します。上海・杭州における直営店舗での販売、イベントの実施、EC販売、SNSプロモーションなどを一体ソリューションとして提供開始いたします。 ■協業の背景 近年、中国ではアニメや漫画・ゲーム市場の成熟を背景に、 フィギュアやプラモデル、ブラインドボックスなどといったキャラクターグッズ市場が急速に発展しています。また、中国独自のプラットフォームを活用したSNSプロモーションやEC販売はもとより、実店舗における販売・プロモーションの重要性も高まってきています。一方で、新型コロナの影響により、日本からの中国への渡航、そして販売ルートの確保は容易ではありません。こうした背景のもと、両社は日本メーカー、個人クリエイターの中国展開進出支援を多数支援してまいりました。本提携により、トイホビーメーカーや個人クリエイターに特化してbilibiliやTiktok(抖音)、Weibo向けのコンテンツ制作・SNS運営に強みを持つOKBと、「ワンピース」「鬼滅の刃」などの人気日本漫画を多数中国へ導入した実績を持ち、近年は中国最大級のグッズ代理店として直営実店舗や展示会も展開するファンファン漫画の強みをかけあわせることで、中国市場におけるIPやキャラクターグッズの販売・プロモーション一体型支援を実現します。 ■協業の内容 本協業により大きく2つのパターンで、中国展開・販売プロモーション支援を行なってまいります。①中国リアル店舗販売(テストセールス含む)+SNSプロモーション(OKBが日本窓口) ファンファン漫画はバンダイナムコ、フリュー、セガなど、中国最大級の代理店として数多くの日本メーカー・ブランドの商品販売を展開しています。天猫モール、テンセント、bilibiliなどのオンラインプラットフォームはもとより、中国全土150以上のディーラーへの販売、リアル直営店舗(上海、杭州)の運営も手がけています。 本協業により、キャラクターグッズ等のファンファン直営店舗でのテストセールス、OKBによる動画制作やSNSプロモーション、展示会、中国全土における商品販売など、小規模から大規模プロジェクトまで日本にいながらして一気通貫で支援いたします。また、業界を熟知したOKBおよびファンファン漫画のプロデューサーにより、ニーズに即した戦略立案、分析フィードバックを実施いたします。 ②クリエイター・IP中国進出支援、展示会、商品化 ファンファン漫画は、日本の人気漫画を創業時から長きに渡り正規品としての輸入を手がけてきた実績から、ブランドやキャラクター・IPを長期的視点に立って育てる意識の高さ・ノウハウは中国随一を誇ります。 本協業により、日本の優れたIP、キャラクターを持つメーカー、個人クリエイターの中国展開支援を多面的にサポート。オフライン体験(展示会、イベント)、SNSプロモーション(bilibili、Tiktok、Weibo 等)、オンライン販売、ライセンス管理など、一気通貫でプロデュースいたします。また、中国におけるオリジナルグッズ企画・開発および販売も実施することが可能となります。 <ファンファン漫画について> ファンファン漫画は海外漫画輸入、中国国産漫画育成、キャラクターグッズの販売など、総合的IP事業を展開しています。集英社をはじめとする日本大手出版、メーカーの代理店業務を通して長年蓄積してきた「IP・版元様との信頼関係」「IP・漫画作りノウハウ」「グッズの企画と販路」「優秀な専門人材」をベースに、中国一の動漫IP企業を目指しています。 会社名: 中国翻翻動漫集団(日本通称:ファンファン漫画)代表者: 沈浩所在地: 中国浙江省杭州市日本向けコーポレートサイトhttps://www.fanfannet.jp/(中国コーポレートサイト)http://www.fanfannet.com/ <オープンキッズベース(OKB)について> オープンキッズベース(OKB)は「ものを面白く魅せること」に特化し、動画をはじめとするコンテンツ制作やSNS運営支援、EC販売サービスを、日本国内のみならずグローバル・アジア向けにワンストップで提供しています。「Be a builder ~つくるを、面白く。〜」をミッションに掲げ、つくり手の “つくる” がもっと楽しく、つかい手の楽しい時と出会いを “つくる”、新しい「遊び場」を世界中に創造することを目指しています。会社名: オープンキッズベース株式会社 代表者: 代表取締役 小縣拓馬所在地: 東京都中野区東中野4-2-18 ストークマンション東中野301コーポレートサイトhttps://www.openkidsbase.co.jp/