【東西文明比較互鑑】秦漢とローマ(1)東西政治文明の基礎

秦漢とローマはともに農業社会を土台に築かれた大規模な政治体であり、同じ時代にあって人口規模や領土の広さもほとんど変わらない。しかし、大土地所有と小農民没落の関係、中央と地方の関係、政権と軍閥の関係、上層と末端の関係、固有文化と外来宗教の関係―これらを処理していくうちに両者はまったく異なる結果にたどりついた。ローマ後の欧州では、キリスト教を信仰する封建国家が全域で生まれたが、他方、秦漢後の中国では引き続き大一統の隋唐王朝が興ったのである。

秦簡の複製品4280枚で作られた里耶鎮の壁の前で、秦代の文化に触れる観光客。(Asia News Photo)

秦漢の末端統治

2002年、湖南省西部の里耶鎮〔湘西トゥチャ族ミャオ族自治州龍山県〕で秦代の小都城遺跡「里耶古城」が発掘された。城内の古井戸からは「里耶秦簡」とよばれる秦代行政文書の簡牘〔文字を記した竹や木の札〕が数万枚出土し、いまから2000年以上前の秦代末端統治の様相が現代人の目に明らかになった。

考証によると、当時の里耶古城の人口はせいぜい3000人から4000人、険しい山間地で農地に恵まれず、租税徴収高は全国平均をはるかに下回っていた。それでも秦朝は総勢103人(1)で構成される十全な官僚機構をここに設置した。経済的観点からみれば、これだけの官吏を置くに値しない土地である。しかし、秦帝国にとって田賦は二の次だった。

簡牘を丹念に整理していくと、「枝枸」とよばれる植物の性状、分布、産出量を詳しく書いた官吏の「メモ」が出てきた。ここから見て取れるのは、山や川に眠る物産品を全力で掘り起こす秦代官吏の使命感だ。彼らは土地開拓、戸籍編纂、地図作成を地道に進め、のちに結果をすべて上級の「郡」に報告した。「郡」は各県の地図をあわせて「輿地図〔全国地図〕」をつくり朝廷に献上、公文書として保管され閲覧に供された。秦の官吏は経済振興だけでなく、煩瑣な行政・司法実務もこなさなければならなかった。秦は完備された法体系を有し、法律や判例にとどまらず上訴制度も有していた。下級官吏は厳格に法に従って仕事をしなければならなかった。例えば、文書はすべて同じタイミングで控えを複数部門に送りチェックを受けねばならなかったし、罪に比して軽い判決またはその逆といった「不正」が発生したとき、あるいは法律が相互に抵触したときもやはり上級部門に順次報告し、仲裁を受けねばならなかった。2000年以上前にここまで綿密に末端行政がおこなわれていた例はまず存在しない。

里耶秦簡の死傷者名簿には在任中に過労や病気で亡くなった下級官吏の名前が多く含まれている(2)。定員103人で長期欠員は49人である。秦朝は、官吏が命を削って働くような「過酷な政治」でわずか14年の間に「車は軌を同じくし、書は文を同じくし、行いは倫を同じくす〔車軌と文字の統一、倫理道徳と行動の一致、『中庸』〕」を実現、国土保全や道路網建設などの大規模建設工事を完遂したのである。

貴族出身の項羽は秦を滅ぼしたあと分封制を復活させ、自身は一地方の諸侯におさまって勝手知ったる生活を送ることを望んだ。他方、項羽と天下を争った劉邦は昔に戻ることを拒否し、項羽に勝ったあと秦の大一統を引き継いだ。劉邦自身もそうだが、その集団〔劉邦集団〕幹部もほとんどが下級官吏出身だったので、帝国の下層基盤と中央の結びつきをよく理解していたし、郡県制の運用にも通じ、庶民のニーズにも敏感で、大一統を維持する極意を熟知していたのである。だからこそ、秦の都・咸陽に攻め入った際も、劉邦集団は金銀財宝には目もくれず、律令、地図、戸籍簿だけを奪った。劉邦が後にこれらの資料を拠り所にして大漢王朝の中央集権郡県制を打ち立てたのは間違いない。

中国の制度は「強大な国家能力」を備えており、中国は世界史上もっとも早い「近代国家」を欧州に先んじること1800年、すでに秦漢の時代から構築していた―『歴史の終わり』の著者フランシス・フクヤマの文章に近年たびたび登場する指摘だ。フクヤマのいう「近代」の基準は、血縁に依らず、法の原理に則り、組織体制が明確で、権限と責任の関係が明瞭な理性的官僚体制を有しているかどうかである。秦漢流にいいかえれば、これは「天下は末端行政から生まれる」ということだ。

ローマの国家統治

秦漢と同時期、ローマは地中海の覇者として勃興した。

中国は黄土平原の農業文明、ギリシャ・ローマは地中海の交易文明、そもそもの出自からして水と油に等しいと考える人は多い。しかし、実際はそうではない。紀元前500年から紀元後1000年までのギリシャ・ローマは農業社会で、商業〔交易〕は些細なオプションに過ぎないというのが1960年代以降、西洋史学会の定説になっている。英国の著名な歴史学者モーゼス・フィンリー(Moses Finley)は著書『Politics in the ancient world〔古代世界の政治〕』で次のように書いている。「土地は最も重要な財産で、家族が社会組織の最上位に位置し、ほとんどの人は自給自足を目指していた。財産の大部分は土地の賃貸料と地租に由来した」。これは秦漢と酷似している。
夕日の下、かつての帝国の輝きを放つ古代ローマの遺跡(写真提供:潘岳)

ギリシャは哲学者を、ローマは「農民+戦士〔農民兼兵士〕」を生み出した。地中海のいたる所で戦ったローマの兵士は、退役後に土地を手にしてオリーブやブドウを栽培できればそれで十分だった。最後は「解甲帰田〔退役して故郷へ帰り農業に従事すること〕」を切望した秦漢の兵卒と同じである。

ローマ市民は商業を軽蔑し、交易や金融は被征服民族の生業だと考えていた。共和国の黄金時代、商人は元老院議員になれなかった。貴族は出征で得た財産をすべて土地の購入と大荘園の経営にあてた。農業は生計の手段ではなく、田園生活の賛歌だったのである。この点、秦漢はさらにその上を行き、ローマ以上に農業が本、商業が末だった。

土木工事、戦争、国家統治に長けていたローマ人は凱旋門、闘技場、浴場を残した。秦漢も同じである。現実への関心が高く、国家を運営し、長城を建設し、火薬を発明したが、論理学や科学を得意としたわけではなかった。

ローマは西洋文明に政治的遺伝子を注入した。憲制官僚体制と私法体系をつくり、西洋市民社会の原型を生み出した。共和政にせよ帝政にせよ、思想でも制度でも法律でもローマは西洋政治体の源流である。イギリス革命時の青写真「オセアナ共和国」には共和政ローマの痕跡がある。フランス革命期のロベスピエールとその盟友にも同じく共和政ローマの英雄の面影がある。米国の上院と大統領制は元老院と執政官制度を想起させる。20世紀になっても、米国の保守的学術界では建国の原則をめぐってローマ式の古典的共和政にあくまで従うのか、それとも啓蒙思想の民主主義と自然権にこだわるのかという議論がおこなわれている。ローマの魅惑的な面影が西洋政治文明から消え去ったことはない。

(1)以下の文献を参照。湖南省文物考古研究所他「湖南龍山里耶戦国―秦代古代一号井発掘簡報」『文物』2003年第1期、P4~P35。同「湘西里耶秦代簡牘選釈」『中国歴史文物』2003年第1期、P8~P25。湖南省文物考古研究所『里耶発掘報告』長沙・岳麓書社、2007年、P179~P217。
(2)『里耶秦簡・吏物故名籍』簡8―809、簡8―1610、簡8―938、簡8―1144。
※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「秦漢とローマ(1)東西政治文明の基礎」から転載したものです。

■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら

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