「チャイナドレス」の特徴とは、その意義とは―服飾史の専門家が紹介

中国の民族衣装として国際的にも最も有名なチャイナドレス。当時の資料として最も重要なのは上海大学博物館が所蔵するコレクション

中国の民族衣装として国際的にも最も有名な服は、いわゆる「チャイナドレス」だろう。しかしこの服は中国固有の服ではなく、中国の服と洋服が融合したものだ。しかしその「異質の文化を融通無碍に習得する」発想こそが、中華文化の大きな特徴だという。服飾史を専門とする上海大学博物館の苗薈萃学芸員はこのほど、中国メディアである中国新聞社の取材に応じて、チャイナドレスにまつわるさまざまな事情を説明した。以下は苗学芸員の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

直接の起原は満州族の服だが、中国全体の服飾文化と無関係ではない

チャイナドレスを意味する中国語の「旗袍(チーパオ)」は、旗人と呼ばれる清朝時代の支配階層が着ていた服に由来することで発生した。しかしチャイナドレスの大きな特徴が長衣であることなどを考えれば、中国ではさまざまな民族が長衣を着用してきた。その歴史は漢代(紀元前202年-紀元220年)などのはるかに古い時代にさかのぼることができる。チャイナドレスは古くからの長衣の歴史に関係して、それがさらに西洋の衣装の特徴を取り入れたものだ。


上海大学博物館が所蔵するコレクション

チャイナドレスは中華民国期に登場した。特に重要な発祥の地は外国との交流が多かった上海で、上海での作り方が現在のチャイナドレスの基本になった。従って、上海流のチャイナドレスということで、「海派旗袍」という言い方もある。

チャイナドレスは徐々に改良され、スタンドカラーやスリットを主な特徴とするようになった。初期にはゆったりした服だったが、1920年代の上海で西洋の要素を取り入れられてスリム化した。ジッパーなどの便利な付属品も追加された。上海では1930年代から40年代に、チャイナドレスの黄金期を迎えた。映画スターをはじめとして学生や主婦まで、あらゆる女性がチャイナドレスで身を包んだ。上海はチャイナドレスの流行の発信地であり、多くのメーカーが育った。その一部は後になり香港に渡った。香港は上海流チャイナドレスの後継者になった。1960年代に再びチャイナドレスのブームが起こったのも、上海起源の「遺産」があったからだ。

上海大学博物館(海北文化博物館)の「栄氏チャイナドレスコレクション」は最良の上海流チャイナドレスのコレクションだ。スカート部分は膝丈のものもあれば、足首まで達するものもある。ジャケットを組み合わせたスーツ式の衣装もある。これは西洋のスーツファッションを参考にしたものだ。装飾では中国服でよく使われる刺繍以外に、当時になって一般化したビーズの使用がある。中国の職人の技と相まって、ビーズはチャイナドレスに大きな視覚効果を与えた。

「栄氏コレクション」には所有者が明らかという特徴がある。家宝となるようなチャイナドレスの多くは、誰がいつ着用したのか分からない場合が多い。しかし上海大学博物館のコレクションは、栄氏という一族が着用したものだ。さらに、栄氏一族の中でも誰のものだったか記録が残っている。そのことでチャイナドレスの歴史的変化もはっきりと示されている。


上海大学博物館が所蔵するコレクション

西洋の特徴を取り入れても、伝統文化の価値感は保持した

上海流チャイナドレスの変化の歴史は、中国のさまざまな伝統文化の価値観も反映している。特に顕著なのは、「変化を求める」「中道」「中華としての一体」だ。

チャイナドレスの歴史は東洋と西洋の融合の歴史だ。上海流チャイナドレスは「足りなければ変化を求める」「時代に合わせて変化する」の中国の伝統的発想で、新しい社会の求めに応じて変化していった。異文化の美学や技法を素直に受け入れて自らを変革させたのだ。

中国の伝統的な「中道」を体現しているというのは、例えば体にフィットしたシルエットで女性の体の曲線を強調する一方で、肌の大部分は布地で覆っていることなどだ。西洋の技法を遠慮せずに使うが、伝統の要素は十分に保持している。特定の要素を取り入れて大いに活用するが「一辺倒」にはならない。

チャイナドレスの歴史には「中華としての一体」も反映されている。チャイナドレスが勃興した時期から上海は東アジアのファッションの中心地になった。この時期にはすでに、中国からの移住者が東南アジアをはじめとして世界の多くの土地にいた。中国国外に住む華人も、チャイナドレスのファッションを受け入れた。20世紀後半になると、国籍や居住地域を問わず世界中の華人がチャイナドレスを特別な日の正装にして民族のアイデンティティを示すようになった。このことは、「中華としての一体」という概念の深い影響力を示している。


上海大学博物館が所蔵するコレクション

チャイナドレスは近代中国服飾の変化の発端だった

衣服の発展の初期には東洋も西洋も、布を最大限に節約し、裁断を最小限にする方向で衣服を作った。しかし、中国と西洋が遠く離れていることなどで、中国に代表される東洋の服と欧州に代表される西洋の服は、長い歴史の中で分岐した。

衣服に使われる生地を重視して、中国は服飾について「絹文明」、欧州を「羊毛文明」と呼ぶ研究者もいる。西洋ではより複雑で立体的な構造の服飾が発達し、中国の服飾は平面構造の志向を保ったことにも素材の違いが大きく関係している。

そのような状況において、チャイナドレスは近代中国服飾の出発点であり、変化の発端だった。チャイナドレスは次第に立体的になっていった。しかしその一方で、中国の伝統的な襟元や裾部分の大きな折り返し、スリットなどの要素は意図的に残された。

このように東洋と西洋が融合したチャイナドレスは、中国の現代ファッションにとって重要な参考事例だ。伝統服の継承とは、古い衣装を復元するのではなく、時代に合わせてより高度な技術やより良質な素材を使って、洗練され最適化された伝統的な要素を革新的に表現するものだ。

衣服は異文化間のコミュニケーションに非常に便利なツールだ。言語が通じなくても視覚的な美意識は地理や文化を超越するからだ。中国文化の知識がない外国人でも、中国の伝統衣装の美しさに感動することができる。これこそが、文化シンボルとしての服飾の大きな特長だ。服飾には、文明を超えた相互交流の媒介になれる力がある。(構成/如月隼人


上海大学博物館が所蔵するコレクション

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