東西問|朱振藩 台湾料理における中華の「遺伝子」はいかに形成されたのか

台湾の人口は2,300万人を超え、その8割以上が福建省と広東省出身の子孫である。人々の食生活は福建省や広東省に似ている。1949年以降、全国各地の人々が故郷の料理を台湾に持ち込んだ。さまざまな時代を背景に、各地の料理が台湾で発展、融合、革新し、有名な台湾料理が誕生した。台湾の美食家である朱振藩(ジュー・ジェンファン)氏は先ごろ中新社の「東西問」の独占インタビューに応じ、台湾料理における中華の「遺伝子」について語った。

インタビューの概要は以下のとおり

中新社記者:台湾における食の発展はどのようなものでしたか。

朱振藩:昔、大陸から台湾へ渡ったのは主に福建省の人々で、現在、台湾の人口の7割以上が福建省南部からの移民の子孫です。そのため当時の台湾の食生活は福建省と似ていて、泉州、漳州、福州、汀州(現在の福建省長汀県)の客家料理が中心でした。その後、広東省の恵州と潮汕地区からも住民が相次いで台湾にやって来て、広東の料理ももたらされました。

福建省沙県の市民や観光客に人気の牡蠣入りオムレツは、福建省の沿岸部、台湾や広東省潮汕地区の名物屋台料理。台湾海峡を挟んだ両岸で大人気=張斌撮影

日本統治時代、台湾で最も代表的な高級中華料理店「江山楼」「東薈芳」「春風楼」「蓬莱閣」は、「江東春蓬」と呼ばれる四大料理店でした。その中で、蓬莱閣は、激しい競争に打ち勝ってより多くのお客様を魅了するために、広州にあった孫文氏の大元帥邸の料理人だった杜子釗を筆頭に、福建、広東、四川の料理人たちを台湾に招き、「台湾料理」を充実させたのです。

1949年には、大陸から多くの人々が台湾にやって来ました。その中には各省の飲食業界の人々も少なくなく、それぞれの本場の味が伝えられました。それ以前は、台湾のレストランの料理は、地方のスタイルが混在する「折衷地方料理」と言うことができます。台湾に本格的な各地方料理が入ってきてからは、「折衷地方料理」はあまり人気がなくなりました。店主たちは粥や小皿料理など、いわゆる「新台湾料理」の店に衣替えし、発展し続け現在に至っています。また、「折衷地方料理」から発展した有名店もあるので、大陸からのお客さんの多くは「台湾料理」からも親しみやすい味を感じることができるでしょう。

中新社記者:中華料理には山東料理、四川料理、広東料理、江蘇料理、福建料理、浙江料理、湖南料理、安徽料理の八大料理がありますが、台湾ではどこの料理が人気なのでしょうか。

朱振藩:台湾は面積が狭くてシェフやレストラン経営者の移動も多いため、終始変わらず一つの系統の料理にこだわる中華料理店は珍しく、折衷的で総合的な料理が多いのが特徴です。台湾ではさまざまな系統の料理や味が交錯して受け継がれ融合して、時代の変化の痕跡が随所に見られます。

別の見方をすれば、1949年以降の台湾の料理は、「官菜」「軍菜」「商菜」の3つに分けられます。いわゆる「官菜」とは、江蘇・浙江料理のことを指します。蒋介石氏とその息子が寧波出身だったため、寧波料理が台湾で最初に流行りました。その後、当時の党や政府の高官に江蘇省や浙江省の出身者が多いことから、蘇州料理、杭州料理、上海料理の専門店が次々とオープンし、「官菜」として親しまれるようになったのです。当時の国民党軍では、湖南省や四川省の出身者が多かったため、香辛料の効いた四川料理や湖南料理が軍人の間で好まれ、「軍菜」と呼ばれるようになりました。

江蘇・浙江料理専門店がある台北の有名ホテル円山飯店=写真提供 視覚中国

「商菜」については、台湾経済が急速に発展しピークに達した1990年代の初め、株価の高騰により多くの人々が豊かになりました。経済力が向上し、食においても高い消費需要が生まれました。その結果、高価な「海鼠、ふかひれ、鮑、浮き袋」料理を提供する香港式レストランが急増しました。ビジネスマンの宴席で選ばれることが多いので、香港式海鮮料理は「商菜」とも呼ばれています。台湾の経済成長に伴い、世界中の海産物が台湾に集まってきました。食通の間では香港式海鮮料理が広く愛され、「官菜」「軍菜」もそれに引き寄せられるように人気となったのです。

「官菜」「軍菜」「商菜」のほか、人々の毎日の食卓を彩る家庭料理は、主に湖南料理と四川料理を組み合わせたものに北方の炒め物を加えたもので、江蘇・浙江料理や広東料理の要素も取り入れられています。台湾の多くの大衆食堂では、これらの味をバラエティ豊かに揃えています。「南北合」と名づけられたレストランが多く、南部と北部の料理が楽しめると人気を集めています。

中新社記者:今年の夏、大陸のネットユーザーが台北の街角にある山西刀削麺の店を地図で見つけてより親近感を覚えたそうですが、この現象についてどのように思われますか。

朱振藩:確かに、台湾の軽食は大陸の各地域と密接に結びついたものが多いです。台湾の街角では刀削麺だけでなく、四川坦々麺、宜賓燃麺、山東大餅、上海包子など大陸の地方名を冠した軽食店を多く見かけます。山西刀削麺は、山西省出身の退役軍人や軍属が暮らす眷村で開いた軽食店から始まり、後に各地に広まりました。

当初、これらの店はそれぞれの地方の出身者が自らの故郷の味を台湾に持ち込んで開いたものでした。その後、台湾では不況時に技術を習得して雇用を増やすために職業訓練所が設立され、調理訓練コースにはさまざまな地方の料理や点心作りも含まれていました。その技術を習得した人がレストランや軽食店を立ち上げ、ますます多様化していったのです。

福建省福清市でパイナップルケーキの作り方を学ぶ台湾系住民。食は台湾海峡を挟んだ両岸の文化をつなぐ重要な要素=張斌撮影

時代の変遷とともに、台湾の軽食はオリジナルをベースに台湾風になって発展していきました。例えば、台湾の夜市で人気の「大腸包小腸」は、広東省潮汕由来のもち米のソーセージに切り込みを入れて台湾風のソーセージをはさんだもので、アメリカンホットドッグに似ています。台湾土産として有名な「鳳梨酥」(パイナップルケーキ)も広東省潮州の伝統的なお菓子に由来します。台湾では四角いお菓子を金色のレンガのように焼き上げ、店主はその縁起の良さから、フィリングや味とは関係のないミンナン語の栄えるという意味の「旺来」と同じ音の「鳳梨」(パイナップル)と名付けたといいます。そのため当初、パイナップルケーキのフィリングはパイナップルではなく、冬瓜のペーストでした。近年になってようやく、製造業者がパイナップルをフィリングとして使用するようになり、名実ともにパイナップルケーキになりました。

台湾の「傻瓜麺」は福建省の福州乾麺が元になっています。調理が簡単で、ゆであがった麺に、店内に貼ってある材料表を参考に醤油、ごま油やラー油などを自分で入れてもらうというものです。このシンプルなセミセルフサービススタイルの麺は、「愚者の麺」と呼ばれるようになりました。このような麺屋では、卵のスープや福州風つみれなど、福州風の軽食も提供されています。同じく福州発祥の線麺(そうめん)は、台湾の軽食店でも人気があります。牡蠣(小粒のカキ)などの地元食材を加えた牡蠣米線(太めのビーフン)はどこでも食べられるようなりました。

台湾名物の軽食「大腸包小腸」=写真提供 視覚中国

最も有名な軽食は、台湾で発展した小籠包です。1948年山西省出身の楊秉彝(ヤン・ビンイー)は単身裸一貫で台湾に渡り、油問屋の配送員をして生計を立てていましたが、その後、油問屋「鼎泰豊」を創業しました。事業拡大を図るため、小籠包を製造し最終的には国際的な名店となり、小籠包の最高の代弁者となりました。

鼎泰豊の台湾名物「小龍包」は、中国大陸でも人気がある=蔣振雄撮影

中新社記者:日本料理や西洋料理は、台湾の食卓にどのような影響を与えましたか。

朱振藩:また、50年にわたる日本の台湾植民地支配は、台湾の食に大きな影響を与えました。私見ですが、これらの多くは日本発祥のものではありません。例えば、日本料理に欠かせない味噌は南北朝時代に現在の江蘇省鎮江市の金山寺から日本に伝わりました。一方、すしは雲南省の魚の熟成方法に由来するもので、刺身とともに唐の長安を経て日本に伝わったとされます。刺身を食べたという中国の記録は周の時代にまで遡り、周の皇帝の献立では、淡水魚が食べられていましたが、日本では場所によって海水魚が刺身の材料として使われています。日本統治時代以前、台湾の高雄や屏東地方ではすでに淡水魚の刺身が普及していましたが、日本の影響を受けて徐々に海水魚に切り替わっていきました。(完)

朱振藩氏プロフィール

1957年台湾生まれ、原籍は江蘇省靖江市、台湾輔仁大学法学部卒業。『饕掏不絶』『味兼南北』『六畜興旺』などグルメに関する書籍を50冊以上出版。ドキュメンタリー『A Bite of China(舌の上で味わう中国)』の総括ディレクターの陳暁卿氏から「真の美食家」と称される。

(2022年12月29日 出典:中国新聞網 中新社記者 路梅)

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