山西省の特異な遺跡「晋陽古城」が示す文化の歴史とは―専門家が解説 

山西省省都の太原市の近郊にあった「晋陽」はかつて1500年にわたって黄河流域における重要な都市として機能し続けた。考古学調査によって「晋陽」が文化面で特異な存在だったことが分かってきた。

 中国が事実上の分裂状態だった春秋時代(紀元前771年-同453年)に、現在の山西省などを領土とする「晋」という国があった。晋は春秋時代の晩期に趙、魏、韓に分裂したが、この3国はいずれも勢力を維持した。春秋時代から戦国時代にかけては弱小国が大国に次々に併呑(へいどん)されたが、趙、魏、韓は最後まで残った「戦国の七雄」のうちの3国として、秦によって滅ぼされるまで存続した。

 晋の都は現在の山西省の省都である太原市の郊外にあった晋陽だった。晋が分裂した後も、晋陽は重要な都市であり続けた。晋陽は長安、洛陽に次ぐ黄河流域の第3の都市だった。唐朝(618-907年)を樹立した李淵は晋陽で挙兵して隋(589-618年)を滅ぼした。晋陽は北宋時代(960-1127年)に廃棄され、都市機能は太原に移った。かつての晋陽は、現在では晋陽古城と呼ばれている。都市考古学などを専門とする山西省湖建築彩色壁画保護研究院の韓炳華副院長はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、晋陽古城にまつわるさまざまな状況を紹介した。以下は韓副院長の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

 ■長期にわたり都市として機能、周辺地域の変遷を知る「ものさし」の役割も

 著名な考古学者の宿白氏は1960年代に晋陽古城を調査し、都市構成について考察した。考古学者の謝元璐氏と古文字学者の張顎氏が率いるチームも現地で初歩的な調査をした。ただ2010年ごろまで、研究者の晋陽古城についての知識は城壁内の20平方キロの範囲に限定されていた。現在は、城壁外にあった多くの寺院や墓など、調査の範囲は格段に広がった。

 調査の主力となったのは2011年に結成された晋陽古城考古作業隊で、10年以上にわたる作業により、城壁の存在と年代を確認し、都市の核心エリアを明らかにしたほか、3カ所の大型建築物の基礎跡、龍山童子寺遺跡、蒙山大仏閣遺跡などを発掘した。また、多くの窯跡の調査も行った。得られた情報は、青磁から白磁への転化過程における多くの問題を解決する上で重要な意義がある。研究成果は城跡の範囲、位置の機能と城内の遺構の配置規則などについての認識を大いに豊かにした。

 晋陽は長安や洛陽などの都よりやや小規模だが、普通の州城や県城よりはるかに大きい。さらに保存が比較的良好である上に、都市として使われた期間が長いため、長期にわたる都市構造などの変遷を考察するために特に役立つ。また晋陽古城の調査で得られた知識は、周辺地域の遺跡の歴史や文化の変遷を考える上での「ものさし」になる。

 ■アジアだけでなく欧州の文化も融合、当時の「国際通貨」も出土

 晋陽古城からの出土品としては、例えば三彩陶器の獅子、漢字がみられる白磁、ガラスや象牙の装飾品、鉄製の道具や武器などがある。出土品に備わる文化的要素は複雑で多元的だ。周囲の同時期の遺跡からの出土品と共通性を持つもの、つまり中国的な特徴が目立つ品もあれば、中央アジアや西アジア、さらには欧州の文化の特徴を持つ出土品がある。また複数の文化が融合した「晋陽古城での創造物」と解釈できる出土品もある。

 遺物群の複雑さからも、多様な文化的要素が融合し共存する構図が見て取れる。歴史上の背景としては、魏晋南北朝時代(3世紀後半-6世紀後半)の大規模な民族融合や、隋唐時代の繁栄によりもたらされた開放と包容の「時代の空気」がある。

 また晋陽には、北朝末期から唐五代(6世紀末-10世紀後半)の時期に、周辺地域の中核となる特別な政治的地位があった。地理的位置も特殊だ。北魏時代(364-534年)の晋陽は重要都市だった平城から洛陽に至る道の中継点だった。唐代には、東西南北の4方向に進むための「ハブ都市」だった。

 晋陽古城からの多くの出土品が、この地が東西交流にとって重要な地だったことを示している。晋陽古城近くの金勝村5号唐墓では、ササン朝ペルシャ(226-651年)の銀貨が見つかった。この銀貨は、中央アジアから東欧にかけて流通していた「国際通貨」だった。シルクロードの住人、いわゆる胡人によるラクダ隊商を描いた墓の壁画も多く見つかっている。胡人については笛を吹いたり踊りに興じる姿を描いた絵もある。つまり、かつての晋陽古城では、西から来た文化芸術が花開いていた。

 晋陽古城の磁器窯跡で発見された精巧な白磁の高足杯は、デザインとしては西方の様式だ。つまり外国風の磁器を作るために、中国の先進的な製造技術が投入されたわけだ。これらからは、当時の東西文化の融合の深さを知ることができる。

 ■融合と革新を続けた文化が日本にも影響

 晋陽の地が、仏教の伝播で果たした役割りも極めて大きい。山西省にある五台山は仏教の聖地だ。敦煌莫高窟には「五台山図」が残っていた。それだけでなく「五台山図」は西はチベット、東は日本にも伝わった。「五台山図」が伝えたのは仏教思想だけでない。図には山西の建物が描かれている。つまり山西の文化が「五台山図」などによって遠隔地に伝わっていった。

 「五台山図」が各地に伝わっていった主要な時期は唐代だ。記録によれば、「五台山図」は晋陽で制作されていた。また、多くの高僧が晋陽を訪れている。中にはブッダパーラ(仏陀波利)やアモーガバジュラ(釈不空、または不空金剛)などのインド人僧もいた。

 以上により、晋陽古城は文化の「中継点」であり「受け入れ地」だっただけでなく、融合と刷新により新たに作ら得た文化を送り出し、東西文明の交流や相互参考、発展に重要な貢献をしたことが分かる。

 多くの人が、晋陽古城に刺激を受けている。まず、晋陽古城の存在により、古い時代の中国文化は多彩であり、周辺と盛んに交流をしていたと分かる。そして、中国の文化は脈々と受け継がれながら、絶えず融合と革新を行ってきたとの認識を新たにすることができる。

 晋陽古城が都市として機能していた期間は、1500年近くに達する。その期間中に文化の断絶はなかった。そこに住む人々は、開放的な精神で受け入れた外来文化を自らが納得できるように改良して、「これがわれわれの文化だ」という自覚を維持した。それらが総合して、高い文化と文明を成立させた。そのことは、中国における文化と文明の発展の常態だった。(構成 / 如月隼人)

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