中国の高校生の数学力は世界超一流なのに、なぜ大数学者が出ないのか―先輩学者が解説 
数学分野で最高の権威を持つ賞の一つがフィールズ賞だ。「数学のノーベル賞」と言われることもあるが、フィールズ賞は授与が4年に1度だけで、40歳という年齢制限があるために「授賞はノーベル賞より困難」との声もある。日本人では小平邦彦(1954年)、広中平祐(1970年)、森重文(1990年)の3氏が受賞した。過去30年以上にわたり受賞者がいないことは気になるが、国籍別では世界第5位の実績という。しかし中国本土で生まれ育った数学者がフィールズ賞を受賞したことはない。
中国は数学教育の水準が世界で最も高い国の一つだ。高校生を対象とする国際数学オリンピックで、中国は1980年末から優勝チームの「常連」だ。日本チームが優勝したことはない。与えられた問題を解くことでは世界最高の実力を発揮する中国人がフィールズ賞を受賞できないのはなぜか。香港出身で1990年からは米国籍の数学者で、フィールズ賞受賞者であるシン=トゥン・ヤウ(丘成桐)氏はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、中国の数学教育が抱える問題点と、解決の方向性を説明した。以下はヤウ氏の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。
■「功利心」があったのでは大数学者になれない
中国の多くの子は、数学の最も素晴らしい部分を理解していない。与えられた問題に正解を出し、試験に合格すればとても喜ぶ。だが、数学の真骨頂は問題を解くこと、特に他人に与えられた問題を解くことではない。自分で「これがよい」と思える研究の方向性や問題を見つけ出して、自分の道を進むことが数学を学び研究する上での最大の喜びのはずだ。
中国で「大数学者が出ない」ことが問題と言うなら、まずは「功利心」を断ち切ることだ。数学で出世して金持ちになるとか、学界で地位を得ることを目指してはならない。私は米国で、自分が手掛ける研究が極めて面白いと感じて満足している若者が多い状況を見てきた。彼らはアカデミー会員になれるかどうか、高い給料をもらえるかどうかを考えていない。
学問を志す者にとって、真の奨励は学問における達成そのものだ。難問を解决することそのものに大きな喜びを見いだす。玄奘がインドを目指した時に祈念したのは中国に貴重な仏典を持ち帰ることだけだったはずだ。「成功すれば高僧の地位を得られる」といった動機はなかっただろう。そういった精神が、現代の学問研究でも必要なのだ。
数学をしっかり学ぶために、ある程度の天分は必要だ。しかしその上に、長年にわたり熱心に努力せねばならない。大変な努力が必要だ。瞬間的に脳裏に浮かんだ一つのひらめきだけで有史以来の難問が解けてしまうといったことはありえない。数学に強い興味を持ち続けねば、苦しい努力を続けねばならない日々に、とても耐えられない。
■古代ギリシャで確立された論理思考を現代の数学者も厳守
数学は昔から今まで、科学全体の基礎であり続けた。自然の仕組みを表現するための、唯一の言語は数学だ。あらゆる科学や工学は、数学がなければ成果をだせない。急発展しつづけているインターネットの世界では特にそうだ。例えば5Gなどの卓越した方法が開発されたが、その結果として扱う情報量は飛躍的に増える。数学の力を用いて創出した新たな計算方法を用いて効率を飛躍的に向上させねば、5Gは本来の能力を発揮できず、宝の持ち腐れになってしまう。また、新型コロナウイルス感染症のような感染症についても、数学モデルにより将来の感染者を予測でき、感染拡大の防止と社会の機能維持を両立させやすい効率的な対策を打ち出すことができる。
数学の歴史を振り返れば、例えば古代中国でも数学は発展した。古代メソポタミア、古代インドなど世界各地で数学が大いに発展した。しかしギリシャが紀元前500年ごろから紀元200年ごろまでに成し遂げた数学上の成果に比肩できる文明は存在しない。古代ギリシャの数学者は、数学を扱う上での完璧な方法を確立した。
ギリシャ人はできるだけ少ない数の仮定(前提条件)から、定められた論理の規則だけを使って結論を導き出す方法を完成させた。最初の仮定になかった言明を用いたり、論理の規則と少しでも合致しない推論は、「数学で得られた解答」とは見なされない。数学における、いわゆる「証明」の技法だ。現代数学が扱う対象は極めて抽象的になったが、ギリシャ人が確立した証明の技法、言い方を変えれば論理思考は、今も厳格に守られている。
中国では20世紀初頭になり、現代数学の本格的研究がようやく始まった。現在までの成果はまずまずと言ったところだ。しかし世界とはまだ距離がある。例えばトップクラスの数学者の人数でも、西洋の方がずっと多い。中国の「数学チーム」は数学先進国に比べれば貧弱な状態が続いた。
中国の問題としては、応用数学を偏重してきたこともある。数学研究の土台となる純粋数学の発展を強化する必要がある。純粋数学の研究は、より大きな苦しみを伴う。だからこそ、数学の研究そのものに喜びを見いだす人材を育成せねばならない。
■中国の数学界は改善された、今後は世界的業績が期待できる
数学は論理という基本的な考え方に従う。つまり数学は世界の共通言語だ。私はロシア人の友人とも、なんの問題もなく交流している。ただし数学の研究の道筋が単一であるのではない。数学者にとって「論理性」は絶対に外せない要素だが、それぞれの民族には独自の特徴があり、時代ごとに環境は異なる。それらは数学の発展に影響を与える。それぞれの数学者が問題を解く道筋は違う。数学者は自分とは異なる手法を鑑賞することができる。また他者の手法を自分の手法と融合させることもできる。
私は1998年に第1回を開催した世界華人数学者大会の発起人の一人だ。当時の中国の数学研究のレベルは今と比べても低かった。私は世界各国の中国系数学者の力を結集して中国の数学レベルを高め、また中国国内外の数学者の交流に利便性をもたらそうと考えた。目的は達成できたと思う。
1998年当時は、中国本土の数学者は海外における研究の最前線をあまり知らなかった。海外で研究する中国系数学者が中国本土で紹介することで、中国の数学者も海外の状況をよく知るようになった。二十数年の時を経て、中国の数学レベルは大きく向上した。
私は今後10年以内に、中国本土で世界でもトップクラスの数学の成果が出てほしいと願っている。中国の人口は他国より多く、中国には知識を重視する伝統がある。2022年には大学の年間卒業者が1000万人を突破した。その中から、例えば1万人に一人、数学者として「よい芽」を選抜すれば、1000人だ。10年間では累計1万人に達する。この人数は米国におけるトップクラスの科学人材プール全体の規模に匹敵する。
こういった状況を実現するためには、人材選抜の仕組みを適切に刷新することが大切だ。全員が大学入試によって選別される必要はない。私が院長を務める清華大学求真書院は、すぐれた数学研究者を育成すること目的にしており、毎年100人の学生を自主的に集めている。中国全国で大学入試によって選ばれる1000万人に比べればごくわずかな人数だが、これらの学生は中国数学界をリードする人材になると期待できる。中国の数学研究の方向性を変えることは、この少数の若者にかかっているかもしれない。
(構成 / 如月隼人)