陳興華 悠久の歴史を持つ霊渠が古代海上シルクロードへの架け橋となった理由
中新社記者 龍土有 楊強 趙琳露
広西省チワン族自治区桂林市には、世界的に有名な漓江のほか、「世界の古代水利建造物の珠玉」と称される人工運河の霊渠がある。この注目を集めている古代の運河は2000年以上の歳月を耐え今なお現役である。その機能は当初の軍事輸送から物流、かんがい、洪水の排水、漓江への導水、観光などの多方面へと拡大し、古代海上シルクロードをつなぐ重要な役割を担った。
内陸部に位置する悠久の歴史を持つ霊渠は、いかにして古代海上シルクロードへの架け橋となったのか。「世界の水運史の驚異」「世界の古代水利建造物の珠玉」と称される運河独自の価値とは何か。「驚異」とは何か。世界の水上交通発展史における意義は何か。広西チワン族自治区桂林市興安県博物館元副館長の陳興華氏が、先ごろ中新社の「東西問」の独占インタビューに応じ、これらの疑問に答えてくれた。
インタビューの概要は以下のとおり
中新社記者:霊渠は紀元前214年に完成しましたが、当時の為政者はどうして運河を開削しようとしたのでしょうか。
陳興華:霊渠が掘られたのは食糧輸送のためというのが一番わかりやすいと思います。古代の文献には「また卒を以て渠を掘りて粮道を通じ、以て越人と戦い」と記されています。つまり、秦の始皇帝が「百越」を攻めたとき、軍隊を使って水路を掘り、食糧を運んだのです。
霊渠のある桂林市興安県は、五嶺のうち都龐嶺と越城嶺の間に位置しています。南東には長江水系の湘江の源を発する都龐嶺を貫く海洋山系、北西部には珠江水系の漓江の源を発する越城嶺があります。都龐嶺と越城嶺に挟まれた谷あいには、湘江と漓江の両岸に沿って、古代の人々が往来する中原と嶺南を結ぶ重要な道が生まれ、のちに「湘桂回廊」と呼ばれるようになりました。
霊渠が完成すると、湘江と漓江が結ばれたことにより長江水系と珠江水系が一つにつながり、中原と嶺南地域を結ぶ水運の要衝となりました。紀元前214年霊渠が開通した年に、秦の始皇帝が嶺南を統一すると、南海郡、桂林郡および象郡を設けました。秦代以降、霊渠は揺るぎない国家統一、南北政治、経済、文化交流の強化、各民族の密接な交流に積極的な役割を担ってきました。同時に中原から海外への扉が開かれました。
中新社記者:「世界の水運史の驚異」「世界の古代水利建造物の珠玉」と称される運河独自の価値とは、「驚異」とは、そして世界の水上交通発展史における意義は何でしょうか。
陳興華:霊渠は、その名のとおり工夫を凝らした運河です。南宋の詩人範成大が「水を治めること巧妙なり、霊渠に如くはなし」と述べています。全長37キロメートルの霊渠は、人類史上初めての山岳越え運河であり、世界的にも優れた運河工事技術の一例で、古代中国の水利技術の高さを示しています。
霊渠は、古代人による知恵の結晶であります。一見単純に見える工事に豊富な科学技術の要素が含まれています。例えば、霊渠の陡門(閘門)は、「世界の閘門の父」と呼ばれています。36か所の陡門が開閉することで水位の上昇と下降を制御し、船が「水に浮かんで山越え」ができるという、古代の一大驚異となりました。例えば、水路を迂回させて流路を延長し、勾配を緩やかにして航行条件を満たすように設計した「等高線に沿いに開削する」技術は、人類史上最初の事例です。例えば、洪水が起こるたびに余分な運河の水を自動的に湘江に流す「泄水天平」は、霊渠による郡内の水害を1000年にわたり防いできました。このようなコンセプトは、現代のまちづくりにもよい教訓となります。
1986年11月、世界ダム委員会は、世界各国から60人以上の専門家や研究者を招いて霊渠を視察しました。「霊渠は世界の古代水利建造物の珠玉であり、陡門は世界の閘門の父である」と称賛されました。
中新社記者:広西チワン族自治区の興安県に位置し、内陸部にある霊渠は、どのようにして古代海上シルクロードと結びついたのでしょうか。中国と東南アジア諸国およびその他の文明との対話において、重要な役割を果たしたと言われるのはなぜでしょうか。
陳興華:内陸部の霊渠がどうして「海」と結びつくことができたのかというと、それは湘江と漓江が結ばれ、長江水系と珠江水系が一つにつながったからです。さらに珠江河口と広西チワン族自治区北海市合浦県は、中国の古代海上シルクロードの重要な玄関口でした。海上シルクロードにおいて、霊渠は中原と海外を結ぶ架け橋であり、中原と嶺南、中国と海外との文化交流や物資の交流に積極的な役割を果たしてきました。
興安県の霊渠の流域では、漢・唐代の胡人俑が次々と発見されました。これは東西の文化交流の産物です。今日の古代海上シルクロードの研究において、霊渠の両岸から出土した胡人俑は、霊渠の古代海上シルクロードにおける架け橋としての役割を語り、中原と沿海部および海外とを結ぶ水路の役割を明らかにしました。
霊渠周辺での胡人俑の出土は、少なくとも3つのことを示唆しています。第一に、胡人俑の出土場所が霊渠周辺であることから、当時海外との交流が水路により霊渠周辺に及んだことを示しています。第二に、漢・唐代の霊渠周辺で胡人俑が出土されていることから、古くから海外文化との交流や融合があったことを示しています。第三に、かつて沿海部の合浦や広州、中原でも胡人俑の出土がありましたが、外国人がどのルートを通って中国の内陸部へ入ってきたかは明らかではありません。胡人俑の出土は少なくとも霊渠が漢代以降、海外の文化を中原へ伝えるルートの一つだったことを物語っています。
海上シルクロードへの架け橋としての霊渠は、物資の流通だけにとどまりません。現代風に言えば、物流センター、情報センター、文化交流や科学技術の普及など、さまざまな面で重要な役割を担っていたのです。ベトナムの使節が数十回にわたり中国に入国したという歴史的な記録から、ほとんどの場合、興安県の地域内を水路で移動し、霊渠を使っていたことがわかります。
霊渠周辺は、石器時代の洞窟遺跡、科学的な考古学的発掘により炭化米の重要な発見があった暁錦遺跡、戦国時代から漢代にかけての大量の農耕出土品、唐代以降の大量の文献、農耕に由来する食文化や祭礼など古代農耕文化が豊かな地域だったのです。これらの古くからの優れた農耕文化は、霊渠周辺の人々に恩恵をもたらし、運河を通じて世界にも広がっていきました。
元代には、ベトナムの使節が霊渠を通って中国の農作物の種をベトナムに持ち帰ったことがありました。清代の光緒二年(1876年)ベトナムの使節ファン・フィ・チュが中国に派遣されたとき、見聞きしたことを『輶軒叢書』という書物にまとめました。その中には、霊渠の両岸に「多くの水槽が作られ水車により田畑に水が運ばれ、岩を焼いて田畑に撒いて穀物の収穫を倍増させた」と記されています。このように水を動力として水車で田畑にかんがいし、岩を焼いて灰にして田畑に撒いて穀物の収穫を倍増させるという科学的な方法は、ベトナムの使節が記録して持ち帰りました。それにより中国の優れた農耕文化が、霊渠から海外へと伝播することになったのです。
中新社記者:二千年以上の歳月を耐えた霊渠の現状はどうでしょうか。専門家から「生きている遺産」と呼ばれる理由は何でしょうか。
陳興華:生きている遺産とは、「本来の姿を今なおとどめ、歴史的にその用途が現在まで保存されている遺産」のことです。1990年代、ユネスコの世界遺産委員会が世界遺産の保全を対象として提起したものです。文化遺産が地域社会において動的に利用され継承されていることを重視することを旨としています。
いわゆる「生きている」とは、遺産本来の機能が現在も役割を果たしているということです。例えば、運河の分水塘にある「人」字形の堤防、泄水天平、陡門等は、いずれも古代人の知恵の結晶であり今なお機能する霊渠の生きている姿をよく表しています。現在、世界で最も古く、最も保存状態の良い人工運河の一つです。
2000年以上の時を経ても、霊渠は今なお通航機能を備えた世界で最も長く使われている人工運河の一つであると同時に、かんがい、洪水の排水、漓江への導水、観光などの役割を果たし、その機能価値は今も継続、拡大し続けているのです。
2018年、霊渠は、世界かんがい施設遺産リストに登録され、広西チワン族自治区で初の「世界かんがい施設遺産」となりました。現在、霊渠は、流域の6万5000ムー(約4300ヘクタール)以上の農地を潤し、興安県の5つの郷鎮および189の自然村、5万9千人以上の人々に恩恵をもたらしています。(完)
陳興華氏略歴
40年以上にわたり霊渠の研究に従事。中国上海復旦大学歴史系文化財・博物館学専攻卒業。広西チワン族自治区桂林市興安県博物館元副館長、現在興安県霊渠世界文化遺産申請準備室の価値研究グループ副グループ長を務めている。
【編集 蘇亦瑜】