歴代帝王廟になぜ過去の王朝の皇帝も祭ったのか―専門家が「中華観の完成」を説明
北京市内にある歴代帝王廟は明代(1368-1644年)に造られ、次の清朝が1912年に辛亥革命で倒されるまで、歴代王朝の帝王を祭る施設として機能した。易姓革命が繰り返し発生した中国で、過去の王朝は否定されるべき存在だったはずだ。歴代帝王廟の運営にはどのような意図が込められていたのか。考古学の専門家で北京市内の文化財保護などの仕事にも長く従事した許偉氏はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、歴代帝王廟が歩んだ歴史を解説した。以下は許氏の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。
■明太祖は前代の元・フビライ帝の功績を称えた
歴代帝王廟を最初に造ったのは明朝を樹立した朱元璋(明太祖)だった。明朝の当初の首都は現在の南京にあった。朱元璋は新王朝を創設する事業は容易ではないと痛感し、南京の地に三皇五帝と天下を統一した開国の帝王の計16人を祭る歴代帝王廟を造った。
重要だったのは、朱元璋が祭祀の対象に元朝のフビライも含めたことだ。明は漢族の王朝であり、そもそもモンゴル民族を駆逐して「中華」を回復することを目標にしていた。しかし朱元璋はフビライが元世祖として中国を繁栄させた功績を評価して、中華の正統帝王と認めた。
一方で、秦の始皇帝や晋の武帝は「功績が劣る」として、歴代帝王廟に祭られなかった。
明の第3代皇帝だった永楽帝(在位:1402-1424年)が北京に遷都すると、過去の帝王を祭ることはやや下火になったが、第12代の嘉靖帝(在位:1521-1567年)は礼法を改めて整えた。
明代になるとモンゴル勢力は分裂傾向を強めていったが、それでも中国の北方にあって強大な勢力を維持した。明朝はモンゴルの主力グループを韃靼(タタール)と呼んだ。明朝はこのタタールとの戦いを繰り返した。明朝宮廷内では歴代帝王廟でフビライを祭ることに反対する意見が強まった。嘉靖帝はとうとう、フビライを祭ることをやめた。
これは大失敗だったと思う。歴史を見れば、中華世界とはさまざまな民族が入り混じって構築されてきたことが分かる。歴代帝王廟から非漢族の帝王を排除すれば、民族対立の構図が強調されることになるだけだ。
■清朝時代に歴代帝王廟の意義が最終確定
清朝の開祖はヌルハチ(在位1616-1626年)とされる。ただし、ヌルハチが統治した時代には、まだ清の国号は用いておらず、支配地域は現在の中国東北地方一帯に限られていた。明朝が滅亡して清が都を北京に移し、中国の統一を本格的に始めたのは、順治帝(在位:1643-1661年)の時代だった。
順治帝は6歳で即位したので、当初は叔父のドルゴンが摂政を務めた。ドルゴンは政治において歴代帝王廟が果たす役割りを理解していた。歴代帝王廟では満州族の帝王を祭り、明太祖の朱元璋も祭った。その上で、明朝の命運はすでに尽き、清朝が統治の統治が始まったことを宣言した。つなり清朝の正統性を打ち建てたわけだ。
そして歴代帝王廟で祭礼を行う過去の帝王として、元世祖のフビライを復活させ、さらに遼太祖の耶律阿保機(やりつ・あぼぎ)、金太祖の完顔阿骨打(わんやん・あくだ)、金世祖の完顔雍(わんやん・よう)も、祭礼の対象にした。順治帝は成長して親政を行うようになると、祭礼の対象として遼や金、元の皇帝をさらに追加した。
順治帝の後を継いだ康熙帝(在位:1661-1722年)は極めて優秀な皇帝だった。康熙帝は歴代帝王廟で過去の王朝の帝王を祭ることについて「前代の帝王はすでに末裔なし。後の世に天下の君主たる継承者は、まさに祭礼をもって崇(あが)めるべし」と宣言した。
また、歴代帝王廟で祭礼の対象になった帝王は、それまで「開国の祖」だったが、康熙帝は「無道だった者、反逆され殺された者、亡国の帝王」以外は祭ることにした。
このことは、天下を勝ち取ったことだけでなく、天下をしっかりと治めたことも評価すると同時に、問題が大きかった帝王は祭らないという基準を定めたことでもあった。
康熙帝は明朝の最後の皇帝だった崇禎帝(在位:1627-1644年)については「国を立て直そうと懸命だったが、ついに国を救えなかった」と評し、明朝滅亡は崇禎帝の責任ではないとして、歴代帝王廟での祭礼の対象に加えた。一方で、亡国の禍根をつくったのは万暦帝、泰昌帝、天啓帝だったとして、この3人は祭礼の対象にしなかった。
■歴代帝王廟は多様的かつ統一的であり続けた中華世界を示す
清朝第6代の乾隆帝(在位:1735-1796年)は、祭礼の対象として中央王朝では以外では遼と金の帝王しか含まれていなかったことを、「欠落あり」と考えた。特に鮮卑族に属した北魏の帝王については「戦乱を終息させ、黄河以北に君臨し、政治に励み、学問と農業を盛んした。確かに英主であった」と重視しして祭礼の対象にした。乾隆帝はそれ以外の地方政権の帝王も対象にしたので、歴代帝王廟では188人もの帝王が祭られるようになった。
乾隆帝はまた、明太祖の朱元璋が元世祖のフビライを祭ったことを称賛し、嘉靖帝がフビライを祭ることをやめたことを非難している。
乾隆帝は中華の統治が連綿と続いてきたことを強く感じた。「絶えざること糸のごとし」とも表現している。中華世界では歴代の帝王を象徴とする主権と統治が一貫して続いてきたのであり、中華世界は多元的でありかつ統一的であり続けた。歴代帝王廟は世界の古い文明国の中でも、極めてユニークな存在になったと言える。(翻訳:record china)