宋・遼・夏・金は何ゆえ「桃花石」と呼ばれているのか

――寧夏大学中華民族共同体研究院院長杜建録氏へのインタビュー――

 中国は統一的多民族国家である。宋・遼・夏・金の時代は中国史上の民族大融合の時代であり、農耕区域と農耕牧畜区域にあった契丹、党項、女真は漢民族と長期にわたり往来し、交流と融合を進めていた。「長江学者」特別招聘教授であり寧夏大学中華民族共同体研究院院長である杜建録氏はこのほど、中新社の「東西問」のインタビューを受け、「この(宋・遼・夏・金の)時代においては、漢民族または少数民族いずれの政権であってもみずからを『中国』と自認しており、このような『中国』と中華文化のアイデンティティは、中華民族の結束力の尽きない源泉である」と述べた。
 インタビューの主な内容は以下の通りである。


 中新社記者:宋・遼・夏・金の時代は中国史上においてしばしば起きた民族大融合の時代ですが、この時代の民族融合にはどんな特徴があるとお考えでしょうか。


 杜建録:宋・遼・夏・金の時代の民族大融合は、漢唐時代と比較すれば、同じところもあれば、違うところもあります。その最も際立った特徴は北方の少数民族が相次いで農耕牧畜区域や農耕区域に入り、徐々に伝統的な遊牧生活を放棄し、農業と半農半牧の生活に転換し始めたことです。このこと自体が文化的アイデンティティの形成を示していると言えます。


 それまでの北方民族、例えば秦漢時代の匈奴、唐代の突厥、回鶻などは主に大漠の南北で活動し、家畜が一地域の草木を食み終えれば他所へまた移動するような遊牧生活を送っていました。彼らは農耕牧畜区域に大量に移住することはなかったため、民族間の融合は比較的に緩やかに進んでいました。中原王朝の力が強いか弱いか、それに応じて農業と遊牧の二文化は河套地区において一方が進むと他方が退くという「鋸を引く」ような状態におかれていました。


 宋・遼・夏・金の時代では、北方の少数民族と漢民族は農耕牧畜区域に共に居住、生活していました。西夏に限っていえば、黄河大套から河西回廊まで、党項人と漢人、回鶻人、吐蕃人などがまざりあった形で居住していました。

西夏陵


 中新社記者:この時代では、各民族はどのように交流しあい、融合したのでしょうか。そして、儒教文化は少数民族の作った政権にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。


 杜建録:中国の歴史上、儒教文化は一貫して周辺民族地区に影響を与えつづけていました。匈奴の王と結婚した漢代の王昭君や、チベットに入り吐蕃の王と婚姻を結んだ唐代の文成公主が、儒教文化を伝えていったといった例があります。しかし、影響の深さ、影響が及んだ範囲、いずれも宋・遼・夏・金の時代には遠く及びませんでした。


 党項人、契丹人、女真人が移住した半農半牧区域と農耕区域は、もともとは漢民族の人々が農耕生活を営む場所でした。その先進的な耕作技術、金属製の工具、水利灌漑の設備、文化形態などが、少数民族の経済・社会の発展を促進したのです。したがって、遼・夏・金の政権は部族首長国ではなく、その立国思想も「君君たり臣臣たり」という儒教の三綱五常に則るもので、決して遊牧社会の部族思想ではなかったのです。


 儒教思想が遼・夏・金において占めた主導的な地位は、孔子を尊び崇めるという態度に非常に鮮明な形であらわれています。唐と宋の二時代では、孔子は「文宣王」と尊ばれていました。ところが、西夏では、孔子は「文宣帝」と敬称が変化したのです。これは中国史上で唯一孔子を「帝」と尊んだ政権で、儒教思想が当時の少数民族の政権の主流思想にすでになっていたことを反映しています。

西夏文『論語注解』

 中新社記者:契丹文字、西夏文字、女真文字は、歴史学者や言語学者が遼・夏・金の歴史を解き明かすための材料ですが、これらの文字の構造は漢字と多くの類似点を持っています。文字が類似していることのほかに、遼・夏・金の文化は中原文化とどんな共通点を持っているのでしょうか。


 杜建録:遼・夏・金の政治制度と思想文化はいずれも中華伝統を継承、発展させたものです。契丹文字、党項文字(通称、西夏文)、女真文字は、漢字の持つ方形という形態を参考に作られました。また、その政治、軍事、経済制度も中原王朝を受け継いだものです。例えば、西夏の中書、枢密、三司、御史台などは宋朝における政治機関に由来するもので、「開封府」という地域との結びつきが強い官庁の名称までそのまま借用し、その都の興慶府の府衙としました。


 そのほか、遼・夏・金などの国では宋朝の北方地域と基本的に同じような農業生産の技術と経済制度を使いました。例えば、水利灌漑の技術や鉄製の農具や「二牛擡杠」といった耕作技術や土地租佃制などの例があります。


 これらのことから、宋・遼・夏・金の時代では、物質面から精神面にかけて、各民族間の共通性がますます多くなってきたことが分かります。これは、中華民族共同体の形成と発展における内的な動力でした。

遼代備茶図(模写)

 中新社記者:宋・遼・夏・金の時代では、西方諸国との交流も密接に行われました。当時の東西の交流形式にどんなものがあったのでしょうか。


 杜建録:多くの人は宋・遼・夏・金の時代は多民族政権が割拠した時代で、シルクロード貿易が大きく制限、遮断されていたと考えていますが、実はそうではありませんでした。この時代でも、中西の交流は依然として盛んだったのです。


 大漠の南北を支配する遼朝は、草原のシルクロードを通じて中央アジア、西アジアと密接なつながりを保ち、東方のシルクなどを西洋に伝えました。西夏は陸上交通の要路である河西回廊を通じて、シルクロード貿易を積極的に展開し、西域、中央アジア、西アジアなどで作られた渡金銀花鞍(金、銀メッキを施した鞍)、彫花馬鞍(彫刻装飾を施した鞍)、渡金銀花香炉(金、銀メッキを施した香炉)、蜜蝋などを貿易使団を通じ内地に転売しました。宋朝は絶えず海上シルクロードを開拓すると同時に、西北地区に青唐路を開きました。青唐路は秦州(現在の甘粛天水)から出発し、青唐(現在の青海西寧)を経て西域の方向に延び、当時の貿易交流の要路となりました。


 この時代では、草原シルクロード、河西回廊経由のシルクロードと青唐道経由のシルクロード、海上シルクロードが同時に存在し、異文化間の交流と融合がこの時代の経済・社会の繁栄を促進したことがわかります。

遼代出行図(模写)

 中新社記者:宋・遼・夏・金の時代の民族融合の中で、中華文化のアイデンティティはどのように徐々に形成されていったのでしょうか。それは、中華民族共同体の形成にどんな役割を果たしたのでしょうか。


 杜建録:伝統的な観念においては、中原地区の漢民族政権が中華の正統的政権であり、周辺民族は夷狄だとされます。しかし、少数民族が内地に入り、さらには中原を支配するようになり、民族間の交流と融和が強化されていくのに伴い、少数民族は次第に中華伝統文化のアイデンティティを持つようになり、みずからを中国だと認ずるようになりました。例えば、西夏は宋朝を南朝と呼び、契丹を北朝と呼び、みずからのことを西朝だとみなしていたのです。宋、遼、夏は中華大地の三兄弟政権であり、いずれも中国であると言えます。であればこそ、古代の中央アジア人は宋・遼・夏・金のいずれをも「桃花石(タウガス、中国及び中国人を指す)」と呼んでいたのです。


 2019年9月27日、習近平総書記は全国民族団結進歩表彰大会の演説で、各民族が中国の歴史を共同で作り上げたことに触れ、「南北朝のように分立しても、どちらも中華正統を誇りにしている。宋・遼・夏・金のように対峙する時代でも、まとめて『桃花石』と呼ばれている」と指摘し、中国古代の各民族の政権がいずれも中国だという特徴に関して優れた概括を行いました。


 中新社記者:遼・夏・金の遺民はどのように中華民族の「大家族」に溶け込んだのでしょうか。


 杜建録:民族の融合は歴史上、長い道のりを歩むものです。遼・夏・金の政権は多民族からなり、遼朝には契丹人のほかに、漢人、党項人、回鶻人、韃靼人もいれば、金朝には女真人のほかに、漢人、契丹人、東北地方に住む他の民族もおり、西夏には党項人のほかに、漢人、吐蕃人、回鶻人、鮮卑人などもいました。そのため、遼・夏・金が国をつくる過程は、民族間の交流と融合の過程でもあります。


 多民族政権内部の交流と同時に、各政権間の交流も密接で、宋・遼・夏・金の間では、政治、経済、文化の交流が途絶えたことはありません。このような多方面、多次元の交流のおかげで、元朝が中国を統一した時、内地に入った契丹、党項、女真などの民族と漢民族との間には「あなたの中に私がいて、私の中にあなたがいる」というような融和状態ができあがっていました。だから、モンゴル人は金朝統治下の漢民族と女真族をまとめて「漢人」と呼んでいたのです。

遼代卓歇図(模写)

民族間の交流と融合により、中華伝統文化は絶えず豊かになり、壮大なものになりました。交流と融合は、中華五千年の文明が脈々と続いてきた源です。開放と寛容は中国民族の交流と融合の基本的な特徴であり、また基本モデルと言えます。中華文化は各民族が共同で創造した文化であり、決して単一の民族の文化のみからなるものではありません。中華文化はまた、時代と共に進みつづける文化であり、長い歴史の中で、各民族の文化の精髄を絶えず汲み取り、無駄を取り除いてきました。だからこそ、輝きを保ち、綿々と生きつづけているのです。
(翻訳:華僑大学外国語学院)

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