【東西文明比較互鑑】戦国時代とギリシャ(2)中華文明の包容力示す荀子
戦国時代最後の50年、志士・謀臣たちは2大流派に分かれていた。函谷関〔河南省北西部の関所〕の内側の秦国では法家と縦横家が活躍していた。函谷関の外側の六国では儒家、道家、兵家、陰陽家、名家が活躍していた。斉国の稷下学宮は六国の知識人が集まった場所で、秦国と対峙したもう一つの精神世界だった。この精神世界の領袖こそ、戦国時代最後の儒家の大家で、稷下学宮の祭酒〔学長職〕を3度務めた荀子(紀元前313~同238年)だ。
秦王に「儒」の必要性説く
紀元前269~同262年、荀子は秦を視察した。彼は伝統的な儒家とは違い、秦の政治が暴政だとののしることはしなかった。逆に法家の統治制度を称賛し、末端の役人が忠実、勤倹で、心を尽くして仕事をしていること、高級官吏が賢明で公徳心を持っていること、朝廷の政務処理が効率的で簡潔なことを褒めたたえた。
しかし、荀子はより重要なことも話した。秦国はそうした優位性を持ってはいるが、依然として「王者」の域には達しておらず、その原因は「儒」の欠如にある。ではどうすれば「儒」を備えているといえるのかを考えた荀子は、「威を節して文に反る〔武力を抑えて礼儀の政治に立ち戻る〕」こと、君子を用いて天下を治めることを提案した。これは後世の「王権、士大夫と天下を共治す」のひな型だ。
荀子の認識では、儒家は統一的な道徳秩序を持っているが、統一的な統治体系を確立していなかった。法家は統一的な統治体系を確立できたが、精神的な道義で欠陥があった。もし秦国の法家制度に儒家の賢能政治と信義、仁愛が加われば、将来の天下の正道になれる。
秦王はこの話に取り合わなかった。
数年後の長平の戦いは荀子の話を証明した。秦国は趙軍の投降後、信義に背いて40万人の趙軍を生き埋めにして殺した。たとえ血の雨を降らす戦国時代であっても、これは道義の基準線を踏み越えている。秦国は終始、現実主義と功利主義を頼りとして天下を取ったのであり、仁義と道徳で自ら手足を縛るはずがなかった。
力のない道義と道義のない力は、共に目の前の現実に答えを出せない。
西洋人学者が理解しない秘密
長平の戦いの後、荀子は政治を放棄し、本を書いて説を立て、学徒に教え始めた。彼の思想体系は孟子の純粋な儒学と異なっていた。孟子の「天」は勧善懲悪の義理の天で、荀子の「天」は「天行、常有り。堯の為に存せず、桀の為に亡びず」であり、そのために「天命を制して之れを用ふ」必要があった。これは中国で最初期の唯物主義だ。孟子は王道を尊重して覇道を軽蔑したが、荀子は王と覇を併用すべきだと考えた。孟子は義だけを語って利を語らなかったが、荀子は義と利を共に顧みようとした。孟子は「先王の道〔古代の君主を理想像とする考え方〕」を尊重したが、荀子は「後王の道〔現在の君主の政策に従うべきだという考え方〕」を尊重した。
荀子は非常に有名な2人の弟子を教えた。1人は韓非で、もう1人は李斯だ。彼らは学業を終えた後、秦に行って遠大な計画を巡らし、荀子はそのことで悲しんで食事も取らなかった。なぜなら、彼らが儒法を融合させなかっただけでなく、かえって法家を極限まで発展させたからだ。韓非の法家理論は法、術、勢の3大流派を包含していた。一方、李斯は法家の全ての政策体系を設計しており、「焚書坑儒」は彼が提案したものだった。師の荀子が法家の手段を肯定しながらも、終始一貫して儒家の価値観を堅持していたことを彼らは忘れていた。その価値観は、例えば忠義と孝悌の倫理であり、例えば「道に従ひて君に従はず、義に従ひて父に従はず」の士大夫精神であり、例えば政治は王道を根本とし、用兵は仁義を優先するという考えだ。法家と儒家は対立して一つになる関係で、どちらが欠けることも許されない。もし法家がなかったら、儒家は構造化と組織化を達成できず、末端社会への働き掛けを実現できず、大戦の世で自らを強化できなかった。しかし、もし儒家がなかったら、法家は制約を受けない勢力になり、ただその権威体系は完全に標準化、垂直化、同質化した執行体系になっていた。
しかも荀学は決して儒法だけではなかった。荀子の思想はまさに儒家、墨家、道家の成功と失敗を集成していると『史記』は記している。
中華文明が巨大な苦境と矛盾に直面したときの包容の精神を荀学は最もよく体現している。なぜなら、それは「中道」に従っているからだ。中道の基準は事の道理に有益だという点だけにあり、特定の教条に従う必要はない。今日の言葉でいえば「実事求是」だ。「凡そ事行の理に益有る者は之れを立て、理に益無き者は之れを廃す。夫れ是れを之れ中事と謂ふ。凡そ知説の理に益有る者は之れを為し、理に益無き者は之れを捨つ。夫れ是れを之れ中説と謂ふ。事行中を失ふ、之れを奸事と謂ふ。知説中を失ふ、之れを奸道と謂ふ〔事業と行動に有益なものはおこない、無益なものは廃止する。これを中事という。知識と学説に有益なものは採用し、無益なものは捨てる。これを中説という。事業と行動が中事を失うことを奸事という。知識と学説が中説を失うことを奸道という〕」。実事求是の基礎の上に確立された中道精神により、中華文明は完全に相反する矛盾を最も巧みに受け入れ、見たところ結合不可能な矛盾を最も巧みに結合させ、あらゆる二者択一の事物を最も巧みに調和、共生させる。
中央党学校の校訓になっている「実事求是」。この言葉は荀子の思想を継承・発揚している(写真提供:徐祥臨)
荀子は70歳すぎで亡くなった。彼の思想は非常に矛盾していたため、死後の境遇はいっそう複雑になった。彼は孟子と並び称されたが、儒家が正統になった後の1800年間の中で、儒家各派に尊重されたことはなかった。清の乾隆帝の時代になり、考証学を研究する儒学の大学者たちは、漢代初期の儒学者によって灰じんの中からよみがえった基礎的な重要文献が、意外にも全て荀子の伝えたものだということに気付いた。
もともと、戦火が燃え盛っていた戦国時代最後の30年、彼は一方で法家の奇才である李斯と韓非を育て、もう一方で黙々と儒学について記して伝授していた。焚書坑儒以降、彼が「私学」を通じてひそかに伝えたこれらの古典だけが残り、漢代の儒学者によって語られ、あらためて書き記された。
純粋なことをおこなうのは易しいが、中道をおこなうのは難しい。両極端のものに見捨てられ、挟み撃ちされることに常時備えておかなければならない。それでも歴史は最終的には中道に沿って前進する。漢の武帝と宣帝は荀子の「礼法合一」「儒法合治」の思想を受け入れた。続けて歴代王朝も彼の思想に基づいて進んだ。儒法はここで本当に合流した。法家は中央集権の郡県制と末端官僚組織をつくり出し、儒家は士大夫精神と家国天下の集団主義倫理をつくり出し、魏晋唐宋でまた道家と釈家〔仏教〕を融合し、儒釈道合一の精神世界をつくり出した。
特に安定したこのような大一統の国家構造は東アジア全体に広まり、中華文明が強くても覇を唱えず、弱くても分裂せず、延々と続いてきた秘密になった。これをまだ「秘密」と呼ぶのは、大多数の西洋の研究者が今なお理解していないからだ。
※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「戦国時代とギリシャ(2)中華文明の包容力示す荀子」から転載したものです。
■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら