1971年の決着、中国が国連安保常任理事国になった日(その二)
謀殺事件
年に一度のクリスマス。国連総会が閉幕を迎える時期だ。
12月22日、第26回国連総会は〔オーストリアのクルト・〕ワルトハイムを新事務総長に選出し、閉幕した。国連は「シーズンオフ」に入り、各国の大使らは国に帰り、クリスマスや休假を過ごす。
NYでの42日間の任務を終え、喬冠華率いる中国代表団の一部は帰国した。残った40人あまりで、中国国連常駐代表団の結団と日常業務を進めた。黄華が中国国連大使に、陳楚が国連次席大使に任命された。
代表団が借り切っているルーズベルトホテル14階(実際の階は13階)には70を超える部屋があるが、いまは空き部屋が多くがらんとしている。中国代表団のメンバーは皆、大部分の時間をホテルの部屋で過ごしていた。街へ出てもショーウインドウを眺めることしかできず、日々の生活は無味乾燥で寂しいものだった。
だが、そんな慎ましやかな日々が打ち破られる出来事が起こった。
施燕華の仕事の1つは、代表団内の英語の分からない幹部数人に、毎朝新聞を読んで聞かせることだった。1972年初頭、NYのあるタブロイド紙の片隅に「ニクソン訪中阻止を目論み、中国代表団に手を下そうという計画がある」との記事が掲載された。代表団の幹部はこれに敏感に反応し、安全対策として、中国代表団は国連会議に出席するとき以外は外出禁止とした。しかし、それでも悲劇は起こってしまった。
それは春節前の日曜日の朝のことだった。二等書記官・がいつものように英語学習会を開くため代表団に招集をかけたところ、事務員のが現れない。部屋に電話をかけても誰も出ない。ドアをノックしても反応なし。ホテルのマスターキーを借りてドアを開け、ドアチェーンを蹴破って部屋に入ってみると、王錫昌はベッドに横たわったまま、既に息絶えていた。
前の日の夜、皆で映画鑑賞をするため奔走していた若者の突然の死に皆が動揺した。医師は、若い人の突然死には様々な原因があり、今回は何らかの急性疾患で亡くなったと考えられると繰り返し説明したが、中国側はまったく信じなかった。
周恩来は代表団幹部に対し、ニクソン大統領の訪中を間近に控え、米中関係が改善の兆しを見せる中、アメリカ側には事件の解明に当然の責任があることを指摘してアメリカ側と交渉するよう指示し、併せて事実が明らかになるまでは遺体を火葬してはならないと指示した。黄華はすぐさまアメリカ国連代表団に手紙を書き、アメリカ当局による徹底的な捜査を要求した。
NY市警は詳細に鑑識をおこない、病院では検死も実施されたが、死因は判明しなかった。王錫昌の遺体は当面、冷凍庫に保管されることになった。代表団はアメリカ側に、事件の早期解決を求め続けた。
事件から2カ月あまり過ぎたころ、NY市病院からようやく連絡があった。王錫昌の胃を調べたところ、濃縮されたニコチンが含まれた水を飲んだことが原因で神経中枢の麻痺を引き起こし、死に至ったことが判明したという。代表団は王錫昌の胃液を少量引き取り、彼の部屋に置かれていたポットの中の水と一緒に中国に送った。中国での検査結果も、アメリカ側の検査結果と一致した。
アメリカにはお湯を入れた魔法瓶を部屋に置いておく習慣はなく、彼の部屋にあったのは、代表団が香港で買ってきたコーヒーポットだった。当時、NY市警は14階のエレベーターホールに少人数の警備隊を24時間体制で常駐させていた。だが、王錫昌の部屋は貨物用エレベーターのすぐ近くで、警備隊からは死角になっていた。
この事件以降、代表団メンバーは、外出したあとは必ずポットのお湯をすべて捨てるようにした。施燕華は水道水を飲むようになった。事件は何年経っても解決の知らせはなく、結局迷宮入りしてしまった。
事件を受け、代表団は拠点購入計画を前倒しした。
物件探しの任務はに任された。代表団は弁護士を雇い、一緒に物件を見に行かせた。NYのウエストサイドは、かつては治安が悪いと敬遠されていたが、この時はかなり治安が改善していて、リンカーン・センターでは年中オペラなどの催し物を開催しており、客層もよく、周辺は開発の余地がかなりある。それゆえ弁護士は、このエリアで物件を探すことを提案してきた。しかし、小さすぎたり、設備が整っていなかったりとなかなか納得できる物件が見つからなかった。そんなとき、あるイタリア人留学生がリンカーンスクエア・モーテルを紹介してきた。
リンカーンスクエア・モーテルはブロードウェイと66番街が交差する場所にあり、すぐ向かいにはリンカーン・センターやジュリアード音楽院があった。モーテルの敷地は2000㎡以上あり、建物は10階建て、部屋数270で、300人以上が一度に食事できる大ホールや巨大冷蔵庫も完備され、さらに巨大な地下駐車場には、170台の車を停めることができた。
本国に報告を入れると、周恩来はすぐさま485万ドルの現金を用意した。4月のことだった。代表団は現金一括払いでモーテルを土地ごと購入した。物件を紹介してくれたイタリア人留学生には1・5%のマージンを支払った。留学生は天にも昇るほど舞い上がり、さっそくそのお金で中国旅行に旅立っていった。
物件の引き渡しは二度延期された。引き渡し前、NY市警は警察犬を導入して1部屋ずつ不審物の検査をしたが、一部の部屋のベッドのマットレスの下から『プレイボーイ』『プレイガール』『ペントハウス』といった雑誌が出てきた他は、危険物や爆発物は特に発見されなかった。
無事物件の引き渡しが終わり、改修工事が完了すると、代表団は喜び勇んで引っ越した。中国国内で丹精込めて作られた銅製の表札も到着し、「中華人民共和国国連常駐代表団」が正式に発足した。
その後すぐ中国国内から派遣されてきた技術者らが新拠点を徹底的に調査し、部屋の暖房器具の中などから盗聴器をいくつも取り除いた。
このホテルを買い上げる決め手となったのは、広い地下駐車場だった。部屋で話をすると、声の微振動がガラス窓に伝わり、外に設置されているであろう専用設備に会話が傍受される恐れがあったため、重要な会議は駐車場でおこなった。後に、窓も通風設備もない機密室を増設した。重要な書類を書く際などはこの中で作業をするのだが、1、2時間ほどいると全身汗びっしょりになるほどだった。