Category: 国際・日中関係

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【観察眼】北京五輪が中日両国に新たな「雪の縁」をもたらすことを願う

日本五輪委員会(JOC)は20日、日本人選手122人を北京冬季オリンピックに出場させると発表した。その中には、多くの中国人にもなじみがある著名な男子フィギュアスケートの羽生結弦選手も含まれている。羽生選手は今回の冬季五輪で、オリンピック三連覇に挑戦する。  今回の冬季五輪に関連しては、多くの人を感動させた中日協力のよいエピソードがある。先ごろ開催されたスノーボードのワールドカップの男子ビッグエアで、蘇翊鳴選手の初優勝に貢献したのは、日本人コーチの佐藤康弘氏だった。佐藤氏は日本のトップ選手を何人も育ててきた。佐藤氏は、「中国人選手のコーチをすることで葛藤を感じたこともあったが、こういうことは国境を越えてよいのだと思うようになった」と語った。蘇選手は日本のナショナルチームのメンバーと共に練習してレベルを向上させ、北京冬季オリンピックではメダル獲得が期待されるようになった。佐藤氏の話は極めて実直であり、感動的だ。佐藤氏の話には、一人の日本人コーチ、一人の日本人が「さらに団結する」という、スポーツ精神への理解と実感がこもっている。  私は1998年に冬季オリンピックが開催された長野県で2年間近く仕事をし、生活したことがある。その時期に、現地の人々が何度も、北京冬季オリンピック組織委員会のメンバーを心を込めてもてなし、冬季五輪の開催に関連した経験と教訓を詳細に説明するのを見た。五輪に出場する中国人選手が現地で緊張して練習する姿と、日本人コーチが献身的にすべて伝授する様子も見た。長野の人々が北京市での冬季オリンピック開催を、情熱を込めて応援していることも感じた。日本の友人の友好と情誼、中国人の感動と感謝は、今も忘れがたい。  日本はウインタースポーツで、一定の強みがある。フィギュアスケート、スピードスケート、スキージャンプなどでは、相当な実力がある。そのことはかなりの程度、日本独特の冬の自然条件から得られた。北海道や長野など、世界でも雪質が一流のスキー場は、選手らによい練習条件を提供している。現地の子は幼いころから雪の上で腕試しをする機会がある。数多い優秀なスキー場やレベルの高い指導陣、完備された各種施設によって、ウインタースポーツの愛好者は取りつかれたように夢中になる。初心者もウインタースポーツが大好きになる。  1980年代の日本では、連続テレビドラマ「私をスキーに連れてって」が一世を風靡した。純白のスキー場で繰り広げられるロマンティックな愛の物語に魅了され、当時の日本では無数の若者が、朝の4時か5時には車を運転してスキー場に向かった。ゲレンデを颯爽と滑る快感と、氷雪に覆われた自然世界と調和して一体となる愉悦感を得るためだった。  北京冬季オリンピックの開催に伴って、当時の日本の全国民的なスキーブームが、中国で再現されている。中国人のウインタースポーツへの情熱が爆発した。関連統計によれば1月1日から3日までの元旦3連休期間中、スキー場周囲の宿泊施設の予約は連休前の2.4倍になり、スキー場入場予約は2.1倍になった。雪や氷を目玉にする観光スポットの入場予約は3.2倍になった。豊富で多彩な雪や氷に関連する活動はこの冬、中国で最も活気あるレジャーと観光のテーマになった。  北京オリンピックが契機となり、さらに中国政府が「3億人を氷と雪の上へ」と提唱したことが実は、得難い発展のチャンスを日本にもたらした。白馬や野沢温泉などのスキー場の条件は、アジアだけでなく世界的に見ても独自の吸引力と魅力を備えている。それらの場所で見かけるのは従来、日本人以外にはほとんど欧米人やオーストラリア人だったが、ここ数年は中国人の姿がしばしば見られるようになった。少子化現象により、日本におけるスキー関連産業の国内市場はどんどん縮小している。欧米やオーストラリアからの客の数はすでにピークに達しており、これ以上の伸びは期待できない。一方で日本のスキー場は中国人客をますますひきつけている。中国の莫大な数のスキー客と日本の数多い天然良質のスキー場の相乗効果で、今回のオリンピックが中日両国に新たな「雪の縁」をもたらすことを願う。(CRI日本語部論説員)

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日中国交正常化50周年を迎える2022年の春節に、東京タワーに「未来」の2文字が点灯! 開催間近の北京冬季五輪へ日本からのエールを送る

〜東京タワー レッドライトアップ 2022〜【1月31日 イベントレポート】 民間団体・企業の複合体である東京タワーレッドライトアップ実行委員会は、新型コロナウイルス感染症の早期終息を祈るとともに更なる日中友好関係の促進を目指し、さらに2月4日に開催される北京冬季五輪への日本からのエールとして、中国における旧暦の大晦日にあたる1月31日に「東京タワー レッドライトアップ」を実施いたしました。  日中国交正常化50周年を迎える本年の点灯式は、日中両国向けに生配信を行いました。点灯式のオープニングでは、元卓球選手の福原愛さんによる東京上空からのヘリレポートを行い「今日は中国の大晦日。春節をお祝いして、この後日本のシンボルでもある東京タワーが中国の赤にライトアップされます! その瞬間を空から見られるなんて、とても嬉しく思い、この興奮を皆さんにぜひ伝えたいと思います。」と開会の挨拶をしました。  また、増上寺や「東アジア文化都市」にも選ばれた大分県とも中継を繋ぎ、各地との連携を行って配信を行う例年とは異なる点灯式となりました。カウントダウンの演出はボディアーティストのビックスモールンが鳩時計でカウントダウンを執り行いました。  各界からたくさんの祝辞も寄せられ、小池百合子都知事からは「『東京タワーレッドライトアップ点灯式』の開催、お慶び申し上げます。日中国交正常化50周年、そして北京市は東京都にとって、40年以上にわたる友好都市です。北京市で、間もなく冬季オリンピック・パラリンピック大会が開幕します。昨年夏の東京2020大会では、アスリートの熱戦が繰り広げられ、世界中に勇気と感動を届けることができました。私たちがビジョンに掲げた「多様性と調和」、そのレガシーを持続可能な都市の実現につなげ、国際社会にも貢献していきたいと思います。北京大会の熱戦が、コロナ禍の世界に、未来へのさらなる希望を与えてくれることを期待します。新年が日中両国にとって素晴らしい年となりますことを祈念いたします」とお祝いの言葉で結ばれたお手紙が紹介されました。また、岸田文雄内閣総理大臣の春節を祝う全ての人々へ向けた祝辞が紹介されました。  中国旧暦新年の東京タワーライトアップは2021年に続き4回目の実施となり、今回は展望台メインデッキの窓にLEDで「未来」の2文字が投影されました。「未来」には、より一層の日中友好、新型コロナウイルス感染症の早期終息の意味を込めています。なお、展望台メインデッキの窓に漢字2文字以上が投影されるのは、昨年の東京タワーレッドライトアップで「希望」を投影して以来、東京タワー開業以来2回目の試みとなりました。  ・タイトル:東京タワー レッドライトアップ 2022・主催:東京タワー レッドライトアップ実行委員会・共催:佐賀県、大分県、TOKYO MX TV(東京メトロポリタンテレビジョン)・後援:外務省、東京都、中華人民共和国駐日本国大使館・特別協力:株式会社TOKYO TOWER・協力:中国新闻网、央視頻、CGTN、中国国際文化交流中心、中国康復技術転化及発展促進会、・協力:中華文化交流興合作促進会,黄檗文化促進会、西蔵経済文化交流協会、日本華文教育協会、日中文化教育事業協会、「⼀帶⼀路」⽂化伝播合作中⼼、「人民日報海外版」日本月刊、萬福寺(京都市)・ライトアップ時間:2022年1月31日(月)18:30点灯 〜 24:00消灯・点灯式時間:2022年1月31日(月)18:00 〜 19:00・点灯式会場:東京タワー南側 特設ステージ     (〒105-0011 東京都港区芝公園4-2-8)・企画意図:新型コロナウイルス感染症「終息宣言」への期待とともに、2022年「日中国交正常化」50周年記念の年。この50年を再認識し、より一層の日中友好を築くために企画。・祝辞:楊宇 中華人民共和国駐日本国大使館代理大使潘岳 中国国務院僑務室主任小池百合子 東京都知事藤木卓一郎 佐賀県議長広瀬勝貞 大分県知事・出演者:ビックスモールン、DRUM TAO、Limeism、MeiMei、日本華文教育協会少年少女合唱団、牡丹合唱団、日本華僑華人国際ダンス連盟・大分県中県:ヴァイオリン:朝来桂一、フルート:小野未希、ピアノ:小町美佳・ヘリレポーター:福原愛 (元卓球日本代表)・司会:松田亜有子(日本)・ 奥薩卓瑪(中国) ・点灯式の模様アーカイブ動画:https://youtu.be/pkQmxBuL2a8 <点灯式の様子> 点灯カウントダウンの演出を行ったビックスモールン 点灯の瞬間に子供たちの手から鳩が放たれた

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今年で開催4年目となる「東京タワー レッドライトアップ」開催!1月31日に1夜限りで東京タワーを赤くライトアップ日中国交正常化50周年を迎える2022年の春節に東京タワー展望台に「未来」の2文字が灯る

【オンライン配信による点灯式・ライトアップのご案内】 東京タワー レッドライトアップ実行委員会 民間団体・企業の複合体である東京タワーレッドライトアップ実行委員会は、新型コロナウイルス感染症の早期終息を祈るとともに更なる日中友好関係の促進を目指し、さらに2月4日に開催される北京冬季五輪への日本からのエールとして、中国における旧暦の大晦日にあたる1月31日に「東京タワー レッドライトアップ」を実施します。点灯を記念して、点灯式や点灯の模様を下記のアカウントにて生配信を行います。点灯式配信URL:https://youtu.be/pkQmxBuL2a8  中国旧暦新年の東京タワーライトアップ2022は昨年に続き4回目の実施となり、今回は展望台メインデッキの窓にLEDで「未来」の2文字を投影します。「未来」には、より一層の日中友好、新型コロナウイルス感染症の早期終息への祈りを込めています。なお、展望台メインデッキの窓に漢字2文字以上が投影されるのは、昨年の東京タワーレッドライトアップで「希望」を投影して以来、東京タワー開業以来2回目の試みとなります。  また、日本と中国は2022年に日中国交正常化50周年を迎えます。東京タワーを中国の旧正月に使用をされている赤色でライトアップすることによって更なる日中友好関係の促進を図ります。さらに2月4日から開催される北京冬季五輪へのエールでもあります。本年の点灯式は、東京タワー南側の特設ステージにて無観客で実施します。点灯式では、ボディアーティストのビックスモールンによるカウントダウン演出、DRUM TAOによる和太鼓パフォーマンスや、北京冬季五輪へのエール等の演目が予定されており、元卓球選手の福原愛さんによる東京上空からのレポートや六本木ヒルズや増上寺からのライトアップ映像を結び、さらに「東アジア文化都市」に選ばれた大分県からも中継いたします。 <基本情報> ・タイトル    :東京タワー レッドライトアップ 2022・主催      :東京タワー レッドライトアップ実行委員会・共催      :央視頻、CGTN、TOKYO MX TV(東京メトロポリタンテレビジョン)・後援      :外務省、東京都、佐賀県、大分県、中華人民共和国駐日本国大使館・特別協力    :株式会社TOKYO TOWER・協力      :中国国際文化交流中心、中国康復技術転化及発展促進会、中華文化交流興合作促進会、          黄檗文化促進会、西蔵経済文化交流協会、日本華文教育協会、日中文化教育事業協会、          「⼀帶⼀路」⽂化伝播合作中⼼、「人民日報海外版」日本月刊、萬福寺(京都市)・ライトアップ時間:2022年1月31日(月)18:30点灯 〜 24:00消灯・点灯式時間   :2022年1月31日(月)18:00 〜 19:00・点灯式会場   :東京タワー南側 特設ステージ     (〒105-0011 東京都港区芝公園4-2-8)・企画意図    :新型コロナウイルス感染症「終息宣言」への期待とともに、2022年「日中国交正常化」           50周年記念の年。この50年を再認識し、より一層の日中友好を築くために企画。 ・出演者     :ビックスモールン、DRUM TAO、Limeism、MeiMei、          日本華文教育協会少年少女合唱団・大分県中継   :ヴァイオリン:朝来桂⼀、フルート:⼩野未希、ピアノ:⼩町美佳 ・ヘリレポーター :福原愛・司会      :松田亜有子(日本)・ 奥薩卓瑪(中国)・ご参加⽅法   :https://youtu.be/pkQmxBuL2a8

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1971年の決着、中国が国連安保常任理事国になった日(その三)

「中国人の知恵」  1972年初頭、周恩来からの指示が入った。「閉じこもってばかりで、情報不足になってはいけない」。以後、代表団は会議が終わったら即代表部に戻るという習慣を改めた。  黄華は、中国が寄贈した万里の長城の巨大タペストリーが飾られた代表団ラウンジに足を運び、他の国の代表らと大いに雑談を楽しむようになった。アフリカのある代表は「ここは国連の『第三世界』。中国人はやはりすぐにこの場所を摑んだ。当然ながら、ブッシュ氏やマリク氏がここでコーヒーを飲んでいる姿は見たことがない」と語った。  呉建民曰く、当初、国連に対する中国の認識は、中国の声を外部に伝えることのできる「演壇」であり、無意味なありふれた話ばかりを繰り返す「井戸端会議」であり、山のような文書を発布しながら強制力に欠ける「文書製造工場」だった。この頃、代表団は業務の重点を反覇権主義と途上国支援に置いており、他のことにはあまり関わろうとしなかった。当時のこうした姿勢を、代表団は耳当たりのよい言葉で「超脱」〔世俗の外に抜け出る〕と称していた。  国連のラウンジやカフェテリアは、さながら自由市場で、様々な情報が飛び交い、様々な議案が計画される場だった。呉建民は暇さえあればそこを訪れ、周囲の会話に聞き耳を立てたり、時にはさっと一周したりしていたが、得られる情報は少なくなかった。  国連にはもう1つ、格好の情報収集場所がある。それはダイニングルーム。国連のダイニングルームはいくつかのランクに分かれている。大使向けダイニングルームはやや高級で、事前予約制だ。ここは時に様々な交渉のテーブルにもなる。一般職員向けダイニングルームは比較的リーズナブルで、一般来訪者も利用できる。代表団のミドルクラスのメンバーも大体ここで食事をとっていた。職員向けダイニングルームでは、メイン料理、スープ、デザートがついたセットメニューを4ドルほどで食べることができた。中国代表団の食費は1日25ドルと定められていたが、これは当時の事情を鑑みればかなり高額な部類だった。  最初の2年間、中国国連代表団は、中米間の秘密の連絡ルートという特殊任務も担っていた。  1971年7月のキッシンジャー訪中以降、双方は中国駐フランス大使・とアメリカ駐フランス大使ウォルターズが直接連絡を取り合う「パリルート」を開設したが、いかんせんパリは遠すぎた。中国代表団が国連復帰すると、キッシンジャーは黄華との間に秘密連絡のためのニューヨークルートを開設しようともちかけ(黄華が不在の場合は代表団のナンバー2・陳楚が代理)、中国政府はこれに同意した。  当時、キッシンジャーはソ連駐米大使アナトリー・ドブルイニンとの間にも同様の直接連絡ルートを有していた。これは相手の動向を探り、深刻な膠着状態を避けるための手段であるとキッシンジャーは考えており、1回目の訪中時に、アメリカは引き続きソ連と接触を保つが、達する可能のある合意のうち中国の利益にもかかわるものは中国側にも詳細に報告すると周恩来に約束していた。  アメリカとの秘密会談の最初の数回は唐聞生が通訳を担当した。唐聞生が喬冠華と共に帰国してしまうと、施燕華が後を引き継ぎ、連絡員としてウィンストン・ロードと直接やり取りするようにもなった。ウィンストン・ロードはキッシンジャーの特別補佐官であり、腹心にして親友でもあった。  代表団の電話が盗聴されないよう、施燕華はいつも街中や国連の公衆電話を使った。アメリカ側は彼女にKayというコードネームをつけた。その理由は、施燕華が電話してきたとき、まず秘書が名前を聞き取りにくいということ。そして、常に特定の中国人から連絡があることで余計な注目を浴びないようにするためもあった。呉建民は後年、当時のことを振り返り、時々施燕華の姿が見えなくなることがあったが、何をしに行っているのかは聞けなかったし、彼女も話せなかったと語っている。  中国代表団の車はすべて黒のリンカーンのセダンで、CYで始まる外交官ナンバーをつけており、非常に目立った。そのため、密会するときはいつもCIAが普通の自家用車で迎えに来た。  車はひっそり静まりかえったマンハッタンのイースト43番街に滑り込み、2階建ての小さな建物の前で止まる。ここは誰も住んでいない空き家で、2階の小さな応接間には、ソファーとテーブルのほかは何もなかった。時間は毎回かなり正確に手配され、両者の到着時間は1、2分の差しかなかった。  秘密の会談の通訳者はいつも施燕華1人だった。これは彼女にとって初めての政治会談の通訳だった。党中央指導部はこの会談を極めて重視しており、外交部は彼女に対し、通訳するだけでなく、一字一句記録をとって報告するよう命じた。施燕華はプレッシャーのあまり、訳すスピードも知らず知らずのうちにゆっくりになった。  施燕華の記憶の中にあるキッシンジャーは、背は高くなく、大ぶりのメガネをかけ、自信に満ちた様子で、とらえどころのない微笑みを浮かべる人物だった。喉の奥から発する音を多用するドイツ語訛りの英語を話し、哲学博士だけに長文と大概念を好み、時折ラテン語を混ぜ込んだ。しかも、テーブルに置かれたお菓子を食べながら。ビスケット粉末にまみれた口蓋垂音〔口の中の物が実によく飛び出す〕を向けられるのだから、施燕華にとってはある意味災難だ。それでも燕京大学出身の黄華がいたため、心強かった。黄華は英語がよくでき、延安にいたときは毛沢東とエドガー・スノーとの通訳を担当していた。何か問題が起こったら、代わりに何とかしてくれるはずだ。  連絡員である施燕華には、伝言を伝える任務もあった。時にはキッシンジャー自身ではなく、ウィンストン・ロードが伝言を持って来た。中国側も伝えたいことがあるとき、ロードにご足労願うことがあった。  ロードが来るのはいつも遅い時間で、時に深夜になることもあった。ロードが来る前、施燕華は当直の職員に呼び鈴に留意するよう伝えておき、到着したら、上質の茶を出してもてなした。アメリカ人はみなジャスミン茶を好んだ。  1972年4月に入ると、ベトナム情勢が悪化した。この間、中国とアメリカは頻繁に接触し、激しくも複雑な外交ゲームを繰り広げた。  4月3日、キッシンジャーはロードをNYに送り、「各大国はこの問題を緩和させるべく影響力を発揮する責任があり、情勢を悪化させてはならない」と中国側に伝えた。伝言の名目はアメリカ艦船の西沙諸島〔パラセル諸島〕海域侵入に中国側が抗議してきたことに対する回答だったが、真の目的は、中国政府に対し、アメリカにとってのベトナム問題の重要性を伝えることだった。中国側は4月12日これに返答し、ベトナム人民を応援する旨を伝え、また、アメリカが泥沼にはまり込んでいる旨を警告した。ただ、最後に、中国はアメリカと協力して関係正常化の実現を望むと繰り返した。  5月8日の夜9時、ニクソンは全国ネットでテレビ演説をおこない、北ベトナムのすべての港湾に機雷を仕掛けると宣言した。談話発表の1時間前、キッシンジャーはニクソンが周恩来に当てて書いた手紙を黄華に届けるため、ピーター・W・ロッドマンをNYに送った。手紙の様式は毎回同じで、署名も差出機関の名前もなく、便箋には透かしすら入っていなかった。手紙は周恩来に対し「インドシナ半島に長期駐留を望んでいるのはアメリカではない」(ソ連を暗示)と伝え、「過去3年間、中華人民共和国とアメリカは、両国の深い利益の上に立った新たな関係を辛抱強く構築してきた」と振り返り、「一時的な感情の高ぶりが治まれば、長期的利益に精力を集中させることができるだろう」と締めくくった。黄華は沈鬱な表情で手紙を読み終えると、何も言わずロッドマンにジャスミン茶を勧めた。  周恩来はこの手紙と同時に、ソビエト連邦閣僚会議議長〔首相〕のコスイギンからの手紙も受け取っていた。コスイギンはソ連の救援物資を中国の陸路経由で運ばせるよう求めていた。中国側は、ベトナムに共鳴し、アメリカ帝国主義を糾弾する政府声明を発表したが、同時にコスイギンの手紙も「却下」していた。中国はさらにこの間、パリルートを通じ、アメリカ下院で力を持っていたヘイル・ボッグスとジェラルド・R・フォードの訪中に関する段取りについてアメリカ側に問い合わせてもいた。事実、訪中は6月末におこなうことで決定しており、まだ時間はあった。  キッシンジャーは後に、当時を振り返ってこう語っていた。それまで、中国政府は民間レベルの往来を除く両国間の一切の関係を凍結するだろうとの予測が専門家の間で出ており、CIAも、中国は1968年以前に援軍を派遣したとき同様、ベトナムに直接支援をおこない、ソ連からの救援物資も中国の陸路経由で輸送することに同意する可能性が高いと分析していた。アメリカ側はここにきてようやく、米中関係正常化のプロセスがなおも継続中であることを理解したのだった。「中国人のすることに偶然はない。事ここに至り、我々はそのことをようやく痛感した」  「勢力均衡」により、アメリカが長年求めて止まなかった「名誉ある平和」、つまり1973年1月23日に締結された「ベトナムにおける戦争終結と平和回復に関する協定〔パリ和平協定〕」がようやく現実のものとなった。それより重要なのは、戦後の二極化世界がようやく終わりを迎えたことだ。  ベトナム問題が解決した1973年2月、キッシンジャーは再び中国を訪問した。その際に双方が発表した共同コミュニケでは、いまこそが関係正常化を加速させる絶好のチャンスであるとし、「双方は、アメリカと中華人民共和国との関係正常化は、アジアひいては世界全体の緊張緩和に貢献し得るとの認識で一致した」と述べられている。  1973年5月、双方は互いの首都に連絡事務所を開設した。中国側の内部通達には次のように記されている。「双方が開設予定の連絡事務所は在外公館ではないが、暗黙の了解として互いに外交特権を与える」  キッシンジャーは後にこう語っている。米中間には、何年もかけて丹精込めて育まれた「助け合い」の関係が存在する。それは、地政学的利益の上に成立した極めて稀なパートナーシップであり、正式に明文化された規定がないからこそ、より有効に働く。  こうして、中国国連代表団は秘密連絡ルートとしての使命を終えた。しかし、国連における中国代表団の使命や、中国の国際社会への仲間入り、それに中国に対する国際社会の理解は、まだ始まったばかりだった。(翻訳編集/月刊中国ニュース)

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歌で日中友好の架け橋を

 日本人が中国語の歌を歌い、中国人が日本語の歌を歌う「第24回日中カラオケコンクール決勝大会」が11月7日、東京で開催された。  新型コロナウイルスの感染症対策により、昨年に引き続き会場とオンラインを組み合わせた形で開かれ、観客は出場者のパフォーマンスをライブ配信で楽しんだ。  同コンクールの総合プロデューサーによると、2021年、日本では新型コロナの感染再拡大がみられたが、予選には中日両国の約100人が参加。最年少は8歳、最年長は75歳だった。2日間の予選を勝ち抜いた34組(38人)が決勝大会に出場した。参加者は東京や首都圏だけでなく、大阪府や三重県、広島県、岐阜県、長野県、新潟県などからも集まった。  熱戦の末、日本人部門では間島穂奈美さん、安永富裕美さん、堀由理さんの女性3人グループが、名曲「至少還有你」で最優秀賞を獲得。中国人部門ではさんが、おなじみの演歌「きよしのズンドコ節」で会場を湧かせ、最優秀賞を受賞した。  主催した日中通信社の会長は、コンクールの開催を続けることで、人々の心に安らぎを届けたいと述べ、中国と日本の友人たちが歌で友情を伝え、友好の橋を懸けてほしいと期待を寄せた。  日中カラオケコンクールは1998年に始まり、年1回開催されている。今年も在日本中国大使館文化部と日中友好協会、日本の外務省が後援した。 文・写真/日中通信社

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1971年の決着、中国が国連安保常任理事国になった日(その二)

謀殺事件  年に一度のクリスマス。国連総会が閉幕を迎える時期だ。  12月22日、第26回国連総会は〔オーストリアのクルト・〕ワルトハイムを新事務総長に選出し、閉幕した。国連は「シーズンオフ」に入り、各国の大使らは国に帰り、クリスマスや休假を過ごす。  NYでの42日間の任務を終え、喬冠華率いる中国代表団の一部は帰国した。残った40人あまりで、中国国連常駐代表団の結団と日常業務を進めた。黄華が中国国連大使に、陳楚が国連次席大使に任命された。  代表団が借り切っているルーズベルトホテル14階(実際の階は13階)には70を超える部屋があるが、いまは空き部屋が多くがらんとしている。中国代表団のメンバーは皆、大部分の時間をホテルの部屋で過ごしていた。街へ出てもショーウインドウを眺めることしかできず、日々の生活は無味乾燥で寂しいものだった。  だが、そんな慎ましやかな日々が打ち破られる出来事が起こった。  施燕華の仕事の1つは、代表団内の英語の分からない幹部数人に、毎朝新聞を読んで聞かせることだった。1972年初頭、NYのあるタブロイド紙の片隅に「ニクソン訪中阻止を目論み、中国代表団に手を下そうという計画がある」との記事が掲載された。代表団の幹部はこれに敏感に反応し、安全対策として、中国代表団は国連会議に出席するとき以外は外出禁止とした。しかし、それでも悲劇は起こってしまった。  それは春節前の日曜日の朝のことだった。二等書記官・がいつものように英語学習会を開くため代表団に招集をかけたところ、事務員のが現れない。部屋に電話をかけても誰も出ない。ドアをノックしても反応なし。ホテルのマスターキーを借りてドアを開け、ドアチェーンを蹴破って部屋に入ってみると、王錫昌はベッドに横たわったまま、既に息絶えていた。  前の日の夜、皆で映画鑑賞をするため奔走していた若者の突然の死に皆が動揺した。医師は、若い人の突然死には様々な原因があり、今回は何らかの急性疾患で亡くなったと考えられると繰り返し説明したが、中国側はまったく信じなかった。  周恩来は代表団幹部に対し、ニクソン大統領の訪中を間近に控え、米中関係が改善の兆しを見せる中、アメリカ側には事件の解明に当然の責任があることを指摘してアメリカ側と交渉するよう指示し、併せて事実が明らかになるまでは遺体を火葬してはならないと指示した。黄華はすぐさまアメリカ国連代表団に手紙を書き、アメリカ当局による徹底的な捜査を要求した。  NY市警は詳細に鑑識をおこない、病院では検死も実施されたが、死因は判明しなかった。王錫昌の遺体は当面、冷凍庫に保管されることになった。代表団はアメリカ側に、事件の早期解決を求め続けた。  事件から2カ月あまり過ぎたころ、NY市病院からようやく連絡があった。王錫昌の胃を調べたところ、濃縮されたニコチンが含まれた水を飲んだことが原因で神経中枢の麻痺を引き起こし、死に至ったことが判明したという。代表団は王錫昌の胃液を少量引き取り、彼の部屋に置かれていたポットの中の水と一緒に中国に送った。中国での検査結果も、アメリカ側の検査結果と一致した。  アメリカにはお湯を入れた魔法瓶を部屋に置いておく習慣はなく、彼の部屋にあったのは、代表団が香港で買ってきたコーヒーポットだった。当時、NY市警は14階のエレベーターホールに少人数の警備隊を24時間体制で常駐させていた。だが、王錫昌の部屋は貨物用エレベーターのすぐ近くで、警備隊からは死角になっていた。  この事件以降、代表団メンバーは、外出したあとは必ずポットのお湯をすべて捨てるようにした。施燕華は水道水を飲むようになった。事件は何年経っても解決の知らせはなく、結局迷宮入りしてしまった。  事件を受け、代表団は拠点購入計画を前倒しした。  物件探しの任務はに任された。代表団は弁護士を雇い、一緒に物件を見に行かせた。NYのウエストサイドは、かつては治安が悪いと敬遠されていたが、この時はかなり治安が改善していて、リンカーン・センターでは年中オペラなどの催し物を開催しており、客層もよく、周辺は開発の余地がかなりある。それゆえ弁護士は、このエリアで物件を探すことを提案してきた。しかし、小さすぎたり、設備が整っていなかったりとなかなか納得できる物件が見つからなかった。そんなとき、あるイタリア人留学生がリンカーンスクエア・モーテルを紹介してきた。  リンカーンスクエア・モーテルはブロードウェイと66番街が交差する場所にあり、すぐ向かいにはリンカーン・センターやジュリアード音楽院があった。モーテルの敷地は2000㎡以上あり、建物は10階建て、部屋数270で、300人以上が一度に食事できる大ホールや巨大冷蔵庫も完備され、さらに巨大な地下駐車場には、170台の車を停めることができた。  本国に報告を入れると、周恩来はすぐさま485万ドルの現金を用意した。4月のことだった。代表団は現金一括払いでモーテルを土地ごと購入した。物件を紹介してくれたイタリア人留学生には1・5%のマージンを支払った。留学生は天にも昇るほど舞い上がり、さっそくそのお金で中国旅行に旅立っていった。  物件の引き渡しは二度延期された。引き渡し前、NY市警は警察犬を導入して1部屋ずつ不審物の検査をしたが、一部の部屋のベッドのマットレスの下から『プレイボーイ』『プレイガール』『ペントハウス』といった雑誌が出てきた他は、危険物や爆発物は特に発見されなかった。  無事物件の引き渡しが終わり、改修工事が完了すると、代表団は喜び勇んで引っ越した。中国国内で丹精込めて作られた銅製の表札も到着し、「中華人民共和国国連常駐代表団」が正式に発足した。  その後すぐ中国国内から派遣されてきた技術者らが新拠点を徹底的に調査し、部屋の暖房器具の中などから盗聴器をいくつも取り除いた。  このホテルを買い上げる決め手となったのは、広い地下駐車場だった。部屋で話をすると、声の微振動がガラス窓に伝わり、外に設置されているであろう専用設備に会話が傍受される恐れがあったため、重要な会議は駐車場でおこなった。後に、窓も通風設備もない機密室を増設した。重要な書類を書く際などはこの中で作業をするのだが、1、2時間ほどいると全身汗びっしょりになるほどだった。

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1971年の決着、中国が国連安保常任理事国になった日(その一)

50年前、中華人民共和国代表団は初めて世界にその姿をあらわした。 当時の先見の明がある人々はイデオロギーの大きな違いを脇に置き、長期的な利益に目を向け、中国の国際社会への復帰を促進し、その後の長きにわたる変化と発展をもたらした。 中国の国際社会の仲間入り、中国に対する国際社会の理解はまだ始まったばかりだった。 中国の国連安保理常任理事国入り イースト川のほとりの序盤戦。 1971年11月15日午前。横に長い国連会議場ビルはニューヨーク〔以下、NY〕のイースト川に面しており、通称「マッチ箱」と呼ばれる薄型で背の高い事務局ビルの隣に鎮座している。 この日は、中華人民共和国代表団が初めてその姿を世界にお披露目する特別な日だった。 これより前、「五大国」という言葉は国連で使われていなかったが、今や四大国は五大国へと回帰した。 インド元国防相メノンの名言「アメリカとソ連の意見が一致するなら、国連は必要ない。しかし一旦意見が割れれば、国連は何もできない」。 そしてこれからは、米・ソ・中の「三極化」の時代だ。 新しい勢力図が、イースト川のほとりで誕生しようとしていた。 『中国新聞週刊』記者/黄衛 鮑安琪 翻訳/江瑞 初お目見え  「早くこうなるべきだった。今日は実に愉快だ」。11月15日午前10時32分、中国代表団団長、副団長、事務局長、代表、、通訳が胸を張って総会議場に入場してきた。揃いの濃色の人民服(海外メディアは「マオカラースーツ」と呼んだ)は、スーツが優勢の国際社会ではすこぶる人目を引いた。記者に「『CHINA』と書かれた座席に座った感想は?」と聞かれた喬冠華は、冒頭の回答を放ち、高笑いをした。  この日は、日程上は国連軍縮会議の通常開催日となっていた。しかし実際には、中国代表団の到着を待つため、軍縮会議は何日も休止になっていた。いまや中国抜きの議論や交渉は意味がないというのが、全会一致の意見だった。  この日再開された軍縮会議では、中国に対する歓迎の意を示すため、まず半日ほどの時間を、各地域グループ(西ヨーロッパグループや東南アジアグループなど)代表あいさつに当てていた。だが、その場で発言を求める代表が相次いだため、予定時間はすぐにオーバーしてしまった。  中国代表団は、時折手にした代表名簿を眺めながら、各国代表の発言をただ静かに聞いていた。ドイツ通信社は「中国人はどこにいても真面目で冷静な姿勢を崩さない。彼らはいま、ゆっくりと慎重に国連で歩むべき道を模索しているのだ」と報じた。  会議は午後まで続き、55カ国の代表が登壇して歓迎の辞を述べた。しかし、あっという間に日没がやってきてしまい、発言の順番が回ってこなかった代表のあいさつは後ほど事務局がプリントして配布するより他はなかった。  午後6時40分、ダークグレーの人民服に身を包み、眼鏡をかけた喬冠華は、嵐のような拍手の中、演壇に向かった。  喬冠華のスピーチは45分にも及んだ。この発言のために毛沢東が定めていた基本路線は次のようなものだった。第一に雪辱を果たす。これほど長期にわたり中国を国連から締め出していたことに対する雪辱を果たすため、アメリカと日本を名指しで批判する。第二に世界情勢を語る。国家は独立し、民族は解放され、人民は革命を起こさなければならないというのは、すでに抗えない時代の流れになっていることを指摘する。第三に国際問題に対する中国の基本姿勢を語る。霸権主義に反対し、平和五原則をアピールする。とにかく、「旗幟を鮮明に、上手をとり、破竹の勢いで」語ることが重要だった。  スピーチ原稿は前日の夜にやっと最終チェックを経て、中国国内で審議の上ゴーサインが出されたものだった。通訳チームは中国語の原文を何度も英語とフランス語に訳す作業に追われた。と夫のは共に通訳チーム所属で、施燕華が英語の通訳、呉建民はフランス語の通訳だった。外交部翻訳室責任者のはかつて「英仏連合軍がNYに侵攻する」と冗談めかして語ったことがある。スピーチ原稿には、途中「アルバニア決議」〔用語解説P62〕を提案した23カ国に感謝を述べるくだりがあり、1つとして落とさないように、また順序(アルファベット順)も間違えないように、念入りに校正が重ねられた。深夜を回り、英語原稿300部とフランス語原稿100部をダンボールに詰め終え、皆やっと安心して部屋に戻って寝ることができた。  131の加盟国に記者の分を加えても、本来なら300部あれば十分余裕があるはずだった。しかし、喬冠華が登壇して数分も経たないうちに原稿はきれいになくなってしまった。事務員は慌ててホテルに電話をし、大至急追加で100部を持ってこさせた。  総会議場の中は終始静まり返っていた。両側の通路に立っている人は同時通訳のイヤホンがないため、手元の翻訳原稿を見ながらスピーチに耳を傾けていた。  喬冠華のスピーチは、インドシナ3国の対米戦争、朝鮮半島の平和的統一、アラブ諸国の反シオニズム、アフリカ諸国の反植民地主義、南米諸国の200海里制の主張〔用語解説P62、後に「200海里経済水域」と呼ばれる〕、搾取に対するOPECの戦いのいずれにも明確な声援を送るものだった。「他人より上だと思い上がり、他人の頭上で霸を唱える」超大国を痛烈に批判した。最後は高ぶりを抑えきれないように「いかなる国も、自国のことはその国の国民が決定すべし。世界のことは世界各国で決定すべし。国連のことは、国連に加盟するすべての国が共同で決定し、超大国によるコントロールと独占を許してはならない」と断じた。  喬冠華がスピーチを終えると、数十の友好国家の代表は祝福の言葉をかけ握手を求めるために押し寄せ、通路には長い行列ができた。通訳チームのリーダー・は祝賀にやってきた国の名前を記録しておくよう命じられ、群衆にもみくちゃにされながら、なんとか踏ん張っていた。施燕華はこの任務を命じられたのが自分でなくてほっとしていた。さもなくば、きっと「歴史の舞台」からはじき出されていたことだろう。  ロイター通信社やUPI通信社などのメディアは、「中国がこの夜、国連の舞台に初登場し、激しい言葉で語った政策演説は、国連総会に衝撃を与え、多くの外交評論家の予想を裏切った。なぜなら評論家らは、中国代表団が最初に発する言葉は、国連で彼らを迎えてくれた各国に対する謝意を手短にまとめたものだろうと予測していたからだ」と述べた。ドイツ通信社は、喬冠華のスピーチについて、中国が自らを「中小国家の代弁者にして支持者」となっていくことを表明したものだと指摘した。  喬冠華のスピーチが終わった後、米国連大使ジョージ・〔H・W・〕ブッシュ、ソ連国連大使ヤコフ・マリク、イスラエル国連大使ヨセフ・テコアは拍手をしていなかったことに触れた記事もあった。

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第7回中日企業家及び元政府高官対話 コロナ後の交流と協力の積極的推進で一致

 中国国際経済交流センター(CCIEE)と日本経済団体連合会(経団連)の共同主催による、第7回中日企業家及び元政府高官対話が21日、オンラインで開かれました。両国の企業家や元政府高官、学者ら40人余りが、新型コロナウイルスが中日経済への影響、地域経済協力の推進などの議題をめぐって交流しました。双方は、コロナ後の二国間交流と協力を積極的に推進し、両国関係の発展に新たな原動力を絶えず注ぎ込むべきだとの認識で一致しました。  CCIEEの曾培炎理事長はあいさつで、感染症の影響を受けたにもかかわらず、中日両国の経済貿易交流は逆境の中でも拡大する勢いを見せたのは、両国の経済貿易交流の強じん性と活力を示しているとしたうえで、今後の更なる深まりと広がりに期待を示しました。さらに、「中日両国の経済は相互補完性が極めて高く、共通の利益が多く、貿易・投資、先端製造、デジタル経済、グリーン・低炭素、医療・介護、第三国市場などの面において協力の潜在力は大きい」と述べました。  日本の岸田文雄首相はあいさつで、日中両国間の互恵協力の構図は変わっておらず、両国の経済には依然として強い相互補完性があるとして、「ポストコロナ時代」に日中双方は気候変動を含む各種課題に共に立ち向かうべきだとの考えを示しました。  対話後、CCIEEと経団連は共同声明を発表し、「来年迎える中日国交正常化50周年に際し、次の50年に向け、新たな時代にふさわしい建設的かつ安定的な中日関係の構築に然るべき貢献をしていくこと」を呼びかけました。(CRI ヒガシ、浅野)