中国はいかにして「世界の橋梁大国」になったのか―建設の第一人者が苦労話を交えて紹介
中国はすでに、世界の「橋梁(きょうりょう)大国」だ。橋梁建設の第一人者である徐恭義氏は、苦労話を交えながら、中国における橋づくりの“進化”を語った。
中国はすでに、世界の「橋梁(きょうりょう)大国」だ。橋梁建設の第一人者である徐恭義氏は、苦労話を交えながら、中国における橋づくりの“進化”を語った。
一体多元の「大一統」 中国の前漢王朝と共和政ローマは同時代に存在した。新王朝の初期、文帝・景帝と続いたわずか40年の間に、漢朝は「皇帝が同じ毛色の馬を4頭揃えられない〔皇帝用の四頭立て馬車を用意できないという意味、それほど困窮していたということ〕」(7)状態から食糧があり余っている状態になった。これだけ急速に豊かになったのはなぜか。朝廷が同一の文字、貨幣、度量衡を利用して巨大な市場を創出し、商取引を通じて各地方の経済を全国的に結び付けたからだと司馬遷はいう。分業は商品交換を生み出し、この「交換価値」が社会全体の富を増やし、同時に農業生産性の飛躍的向上を促したのである。このプロセスを通じて土台となり前提となったのが天下の「大一統」だった(8)。 漢朝の体制が最終的に固まるのは武帝〔劉徹〕の時代である。武帝は二つの大事業で中国に貢献した。一つは、地方諸侯の勢力を弱体化させ中央権力を郡県に直通させたこと、そしてこれを土台に「大一統」の儒家政治を確立したことである。もう一つは、国家の版図の基礎を築いたことである。 儒家政治の主な基礎は魯の国の年代記に孔子が筆削した『春秋』である。後世に流布している多くの版のなかで、前漢の儒学者・董仲舒が高く評価した『春秋公羊伝』、すなわち公羊学派が最大の影響力をもっていた。 公羊学の核心は「大一統」である。その最もユニークなところは、皇帝の権力を完成させると同時にそれに制限を加えたことだろう。中国の「天に奉じて運を承る〔天の意に従い天命を受ける〕」は西洋の「王権神授」説とは違う。ローマの「皇帝神格化」は民意と無関係だった。しかし、古代中国では天の意思は民意を通じて体現されねばならなかった。人民にとって良き天子であってはじめて「天」は皇帝を「天子」と認める。人民にとって好ましくなければ天は皇位を別の人間に賦与する。こうして天子、天命、民意の三つは抑制と均衡の関係を形づくる。つまり、天子は天下を司り、その天子は天命に従うが、天命はすなわち民意ということだ。権力には責任がともない、責務を尽くさなければその権力は合法性を失うということがここで強調されている。 漢の武帝は董仲舒の政治理論を受け入れ、手始めに次のことを官衙に命じた。時勢に明るく孝〔父母への孝順〕であり廉〔清廉潔白〕である寒門〔身分の低い貧しい家柄〕の儒者を民間から探すこと、そしてこれを側近として皇帝に推挙することである。このため、武帝の時代には平民出身の名臣が数多く輩出した。また、これ以降、官途に入り栄達するには儒家倫理の修得が不可欠になった。 文官政治の察挙制度〔推薦を主とする官吏登用制度〕もこの時期に始まった。門閥富豪にだけ頼っていては天下を治めることはできず、むしろ道理をわきまえ、道徳心にあふれ、知識と責任感に秀でた下層の人物に権力を分与することではじめて民心を束ね政権基盤を拡充することができる―武帝にとってこれは自明のことだった。武帝は儒者に官吏を兼ねさせることで「統治」と「教化」の抱合を実現した。このときから地方官吏は行政に責任を負うだけでなく、教育にも責任を負わなければならなくなった。 さらに、武帝は文官を統制するために「刺史制度」を設けた。中下級官吏の一定数を刺史とし、不定期に地方行政の督察にあたらせたのである(9)。地方豪族の大土地所有をけん制することと、地方官吏の職業的モラルを維持することが目的だった。これは歴代中央監察制度の端緒である。 劉徹〔武帝〕の「百家を罷黜し、独り儒術のみを尊ぶ〔諸子百家を排斥して儒家思想だけを尊ぶ〕」は実際には間違って理解されている。武帝は董仲舒だけではなく、法家の張湯、商人の桑弘羊、牧畜業主の卜式、ひいては匈奴の太子・金日磾をも登用している(10)。みな『春秋』を読んでいたとはいえ儒者ではない。前漢政治は思想から実践にいたるまですべてが多元的である。多元的だというのなら、なぜ儒家思想で縛りをかける必要があるのか。それは、一体性がなく多元的な勢力均衡論のみに頼っていると最後は必ず分裂するからだ。逆に「大一統」さえあれば、多元的な思想を一つの共同体内に共存させることができる。 多元一体の「大一統」こそ漢の精神なのである。 「天下人心」を映し出す鏡―史官制度 中華文明は「公権力」から「絶対的自由」を保った西洋型の知識人を生み出すことができなかったという説がある。その際、司馬遷が西洋型に近い唯一の例外だともいわれる。曰く、司馬遷は董仲舒を師と仰ぎ儒学を学んだが、むしろ道家の「無為をして治める〔人為によらず天下を治める〕に敬服しており、自由放任の商業社会のほうを好んだ。『史記』では刺客、侠客、商人に王侯将相と同じ「列伝」の待遇が与えられている。勇気をもって武帝を批判し(11)、自ら名乗り出て濡れ衣を着せられた大臣を擁護し、それが原因で刑罰に処せられた、と。 中国最初の紀伝体通史『史記』を書き上げた司馬遷(CNS Photo) しかし、結局のところ司馬遷は世俗を超越したギリシャの学者と同じではない。司馬遷は武帝の政治流儀を好まなかったけれども、地方勢力弱体化には賛辞を惜しまず、国家騒乱をなくす抜本的措置だと考えた(12)。生涯を通じて貧しかったが金持ちに不平不満を抱いたことがなく、商人の富はほとんどが経済法則を把握し懸命に働いたおかげで得たものだと考えた(13)。酷吏〔法に威をかりて人を罪に陥れ、容赦なく処罰した役人〕に痛めつけられても法家に遺恨を抱かず、それどころか法家の政策がうまく実行されれば社会の長期安定を維持できるとさえ考えた(14)。 司馬遷は体制に対して合理的な批判を展開したが、それらはすべて個人的苦痛から出たものではない。「個人の得失」は眼中になく、全体の利益だけを重視したからである。ことさらに自由を追い求めたが故に公権力を批判したのではなく、それが天下にとって有害と考えたから批判したのである。称賛もそうだ。公権力の暴威に屈したからではなく、それが天下にとって有益だと考えたから称賛したのである。個人の自由と集団の責任は司馬遷のなかで弁証法的に統一されていた。これは、中国知識人が西洋知識人と区別される際立った特徴である。 司馬遷は『史記』で武帝を批判しただけではなく、漢朝を開いた皇帝・劉邦の邪推や呂后による政治の乱れ、功臣名将の欠点も書き、漢朝成立を少しも神聖視するところがなかった。にもかかわらず、漢朝は『史記』を公式に集成した国史として後世に伝えていった。すべてを積極的に受け入れる意思と自己批判の精神がなければできないことである。漢朝は皇帝を評価する権限を史官に与えた。歴史は中国人の「宗教」に相当し、歴史の評価は宗教裁判に相当する。この原則は歴代の王朝に引き継がれていった。 華夏の正統は中華の道統〔本来、儒学の道を正統とする考え方を指すが、ここでは広く倫理的、政治的規範の意〕である。大規模政治体が長期にわたって安定するには、社会の各集団、各階層がこの道統を価値観として共有しなければならない。中華の道統の核心は中道、寛容、平和であり、それはある種の原則、境地、法則、価値を体現したものだ。皇帝から臣民にいたるまで、社会階層のすべてが各々の道に従わなければならない。「公」のためか「私」のためか、「大一統」の維持か分裂か、正しい道は高々と掲げられており、だれもその「道」というものから逃れることはできない。 (7)韓兆琦訳注『史記・平準書』中華書局、2010年、P2344。(8)前漢王朝が成立した年、中央が直接統治していたのは15の郡にすぎず、これは全国のわずか3分の1だった。他方、斉、楚、呉のような大諸侯は5~6の郡と数十の都市を擁していた。景帝の時代には呉楚七国の乱が起こり、武帝の時代にも淮南王、衡山王の乱があった。(9)「一条,強宗豪右,田宅踰制,以強凌弱,以衆暴寡。二条,二千石不奉詔書,遵承典制,倍公向私,旁詔守利,侵漁百姓,聚斂為姦。三条,二千石不恤疑獄,風厲殺人,怒則任刑,喜則任賞,煩擾苛暴,剥戮黎元,為百姓所疾,山崩石裂,妖祥訛言。四条,二千石選置不平,苟阿所愛,蔽賢寵頑。五条,二千石子弟恃怙栄勢,請託所監。六条,二千石違公下比,阿附豪強,通行貨賂,割損政令」顔師古注『漢書』中華書局、1999年、P623~P624。〔百官公卿表第七上「武帝元封五年初置部刺史,掌奉詔条察州」につけられた顔師古の注で、「六条問事」といわれる。一条で強宗豪右すなわち豪族の、二条以下は二千石すなわち郡太守の不法行為を列挙しており、これを監察対象とした〕(10)「卜式拔於芻牧,弘羊擢於賈豎,衛青奮於奴僕,日磾出於降虜,漢之得人,於茲為盛。儒雅則公孫弘、董仲舒、兒寬,篤行則石建、石慶。質直則汲黯、卜式。推賢則韓安國、鄭當時。定令則趙禹、張湯,文章則司馬遷、相如,滑稽則東方朔、枚皋,應對則嚴助、朱買臣,曆數則唐都、洛下閎,協律則李延年,運籌則桑弘羊,奉使則張騫、蘇武,將率則衛青、霍去病,受遺則霍光、金日磾,其餘不可勝紀」顔師古注『漢書』中華書局、1999年、P1998~P1999。〔公孫弘卜式兒寬伝第二十八からの引用、傍線は人物名でいずれも武帝が登用した官吏。それぞれの出自や業績が書かれている〕(11)韓兆琦訳注『史記・汲鄭列伝』中華書局、2010年、P7100。(12)韓兆琦訳注『史記・漢興以来諸侯王年表』中華書局、2010年、P1492。(13)韓兆琦訳注『史記・貨殖列伝』中華書局、2010年、P7662。(14)韓兆琦訳注『史記・秦楚之際月表』中華書局、2010年、P1437。 ※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「秦漢とローマ(3)中華道統の礎を築いた前漢王朝」から転載したものです。 ■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら
一神教が思想を支配した西洋やイスラム圏、極度に抽象的な哲学が発達したインドなどと異なり、中国の文化文明には「現実の人と社会」を中心に考える発想が強かったとされる。中国国家イノベーションと発展戦略研究会の下部組織である「中国文明と中国の道研究センター」の謝茂松主任はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、中国文化を理解するキーワードは「民本と天下」などと説明した。以下は、謝主任の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。 【その他の写真】 ■西洋中世とは異なり、中国では社会階層に流動性が存在した 文明史の観点からは、中国は孔子の出現以来、平民の時代に入ったと言える。唐代(618-907年)までは名家一族、すなわち貴族と称することができる家柄があったが、宋代(960-1279年)にはほぼ消滅した。社会は士大夫及び農・工・商で構成されるようになった。士大夫は科挙に合格することで社会の支配層に加われた。そして農・工・商、特に農民が生産を担った。しかし、エリート層だった士大夫も元をたどれば農民の家の出身であることが大多数だった。2020年、遼寧博物館で開催された唐宋八大家文物展 そして中国では「民をもって本位となす」との考えが出現した。この考えかたには二つの意味が込められている。まず士大夫には、国を治め管理し「社会を優先」することが望まれた。そして一般大衆は、「道徳を自覚する」ことが求められた。 「道徳」は本来、士大夫に求められたものだったが、明代(1368-1644年)ごろからは民衆にも強く求められるようになった。例えば、王陽明(1472-1529年)が樹立した心学は、人として「良知に至る」ことを主張した。そしてだれでも「良知に至る」ことは可能であり、それができた人は「聖賢」と説いた。 西洋では中世と呼ばれる時代、国王、領主、騎士といった身分はすべて世襲制だった。そして文化面は全てキリスト教の神職者が担った。庶民である農民や農奴は社会の最下層だった。中国のように、庶民の家から「聖賢」が出現する可能性が残される社会とは、本質的に異なっていた。2020年、遼寧博物館で開催された唐宋八大家文物展 ■「運命共同体」構想は西洋式の「勝者が総取り」を超越する試み 士大夫は順列がある官僚組織に組み込まれたわけだが、その上にはさらに天・君・臣・民という順列があった。君すなわち皇帝は「民を本位」に政治を行わねばならないが、君も臣も民も「天」の制約を受ける。そこで「天命」や「天の理」といった概念が重視されるようになった。「天下」という言葉で分かるように、天という上位の存在があって、全ての存在は天の摂理に従うという考え方だ。 現代中国社会において、かつての「天」と同様なのが、人や自然による「運命共同体」の考えだ。中国が世界に向けて提唱している「人類運命共同体」は、中国の伝統的な天下観と見事に合致している。また、社会主義国家である中国が人民全体の利益を優先することも、儒家などが説いてきた中華文明の特徴に合致する。 現在の「一帯一路」イニシアティブや「人と自然の共同体」は、中華の伝統精神の延長線にある。我々は「共同富裕(皆が共に裕福になる)」を目指し、それを全世界に拡大しようと考えている。これは西洋文化にある「勝者が総取り」の発想を最終的に超越しようとする試みでもある。2020年、遼寧博物館で開催された唐宋八大家文物展。 ■中国の伝統的発想で「国際関係のあるべき姿」が見えてくる 中国では世界で唯一の、「原初の文明」が現在まで連続して発展した国だ。中国文明の普遍性は極めて強い。西洋文明にも普遍性はあるが、中国文明には西洋文明をさらに内包できる普遍性がある。 中国文明の普遍性を知ることができる言葉として、例えば論語の「君子は人の美をなさしむ(君子は他人の美点に着目し、それを達成させる)」という、大きな器量を求めるとする言葉がある。同じ論語には「己の欲せざるところを、人に施すことなかれ」という言葉もある。これは、「他者と平等につき合い、謙虚さを忘れるな」との考え方による主張と理解できる。2020年、遼寧博物館で開催された唐宋八大家文物展 一方で、「君子は自ら強めてやまず」や「己が達せんと欲して人を達す」、つまり「自分自身は努力を怠らない」と同時に「自分が達成したいと願っていることは、他人も達成したいと願っているのだから協力の手を差し伸べよ」という言葉もある。これらの考えかたは、現在の国際関係を認識する上でも、極めて有益であるはずだ。(翻訳/ RecordChina)
米国や米国に近い立場の日本や西欧諸国では、新疆などについて「中国での人権問題は深刻だ」とする声が大きい。しかし中国側は「人権問題が深刻なのはむしろ米国」と主張している。西南政法大学人権研究院の張永和院長はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、人権問題についての中国側の考えを紹介した。
土地、内乱、帝政 紀元前206年、ちょうど中国で楚漢が争っていたころ、ローマはカルタゴとの第2次ポエニ戦争のただ中にあった。半世紀を費やしてついにカルタゴを滅ぼしたローマは、マケドニアを解体し、地中海の覇者になった。重要なのは、この間ローマはずっと共和政を維持していたことである。 古代ギリシャの歴史家ポリュビオスは、「混合政体」すなわち王政、貴族政、民主政を融合したことがローマ成功の要因だという。対外軍事権をもつ執政官は王政を、経済大権を握る元老院は貴族政を、採決権をもつ民会は民主政をそれぞれ体現しており、この三つの力が互いにけん制しつつ均衡を保っていた、ということだ。 紀元前1世紀、この権力バランスが崩れ、「内乱の時代」に突入した(3)。そして紀元前27年(4)になってローマはついに共和政から帝政へと転換する(5)。それまで150年間内乱とは無縁だったローマ人を、一転して殺すか殺されるかの状況に追いやったものは何か。土地である。 1世紀半の海外遠征でローマの富豪は大量の奴隷と財宝を故土にもちかえり、「ラティフンディア〔奴隷制大農経営〕」を生み出し、これが自営小農民の大量没落と大土地所有の急発展を招いた。平民はしだいに貧民へと変わり、最後は「パンと見せ物」を求めてローマをさまよう無産市民にまで没落した。 君主〔執政官〕、貴族、平民のなかで最も強い力をもっていたのが貴族である。イタリアの政治思想家マキャベリの言葉を借りれば、ローマ貴族は名誉の点で平民に譲歩するのにやぶさかではなかったが、財産の点では1ミリたりとも譲歩しなかった。したがって、無産市民は最終的に軍閥に頼るしかなかった。戦争で土地を得ることができるのも、それを兵士に分配するよう元老院に強制できるのも軍閥だけだったからである。 こうして国家のために戦った市民は将軍たちの傭兵になった。政治家が支持を失った空白をついて軍閥が登場したのである。 内乱時代のローマに1人の哲学者・雄弁家が誕生した。「古代共和政の父」キケロである。 キケロは紀元前63年、ローマ初の貴族出身ではない執政官になると政界で大暴れし、彼のおかげで死んだ者、失脚した者もいれば、歴史に名を残した者もいる。カエサルの「養子」ブルトゥスはキケロを「精神上の父」とみなした。「暴君を殺害することは真の英雄的行為だ」というキケロの思想に感化されて、ブルトゥスはキケロの名を叫びながらカエサルに剣を振りかざした。 キケロはカエサルの死後、その後継者アントニウスに矛先を転じた。ただ、アントニウスはカエサルと同じ独裁の道を歩むつもりはまったくなく、むしろ元老院と共同でローマを治めたいと考えていた。にもかかわらず、キケロは共和派のリーダーとしてこれを黙殺し、軍隊の招集を共和派に指示すると同時に、オクタヴィアヌスに武装反乱をもちかけた。 このときオクタヴィアヌスは若干19歳、自身もアントニウスに取って代わりたいと思っていたので、すぐさま3000人の古参兵で私兵団を組織しローマに進軍した。このオクタヴィアヌスの反乱は、キケロの「フィリッピカ〔アントニウス弾劾演説〕」の後ろ盾もあって「共和政を防衛するもの」と位置付けられた。 こうしてオクタヴィアヌスは部隊を率い、元老院の大軍も味方につけてアントニウスを打倒、続いてキケロの協力を得て執政官に立候補した。このとき彼は喜んでキケロの露払いになるとも誓っている。 ところが、オクタヴィアヌスは執政官に当選するやいなやキケロを見捨て、一転してアントニウスとの和議に走った。アントニウス側の条件はキケロを殺すことだった。オクタヴィアヌスはなんのためらいもなく同意した。 ギリシャの作家プルタルコスはキケロの最後を次のように書き記している。「やみくもに逃げていたキケロは絶えず馬車の窓から首を出し追っ手をふりかえった。アントニウスの兵はこの首を切り落とし、いつもキケロが見識豊かな弁論をおこなっていた演壇につるした」(6) これは、ローマ史のなかでもとりわけ人々にショックを与えずにはおかない悲劇―帝政のカーテンコールに引きずり出された共和政の挽歌である。キケロの死から11年後、オクタヴィアヌスはローマ帝国の初代皇帝になった。 ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(CNS Photo) 自由の名のもとに 巨富を擁したローマが、その富をいくらかでも貧富の格差解消にまわし、国家の分裂を防ぐことができなかったのはなぜか。歴史書はローマ貴族の贅沢きわまりない生活にその罪をなすりつけるが、これは一面的である。平民は没落しても選挙権があった。執政官の選挙は年に一度、貴族が競って大規模なフェスティバルや格闘技大会、パーティーのスポンサーになったのは、ほかでもなく平民票の獲得のためである。 貴族がいくら裕福だといっても選挙費用をまかなうには十分ではなく、選挙のために破産する者も多かった。ここで財閥の出番となる。表立って資金援助を始めた彼らは貴族ばかりでなく軍閥にも投資した。財閥の金が絶えずローマの軍団に流れると党派闘争は内乱に転化した。50年間に大きな内乱が4回勃発すると、混乱と絶望に陥ったローマ市民は最終的にオクタヴィアヌスの共和制から帝政への移行を支持するようになった。 これはローマ市民が自由を嫌ったということではない。そうではなく、自由は彼らに平等と富と安寧をもたらさなかった、つまり、言葉だけの自由は彼らの切実な関心に報いることができなかった、ということである。貧富の格差問題がそうだ。血を流して戦っても生涯土地を手にすることができなかった兵士たちの不満もそうだ。官と財の構造的癒着と腐敗もそうだ。元老院はこれらの問題に解決策を考えたこともなかった。解決を試みたのはむしろ軍閥である。例えば、オクタヴィアヌスは退役兵士に土地と現金を集中的に支給する財源を設けた。カエサルも万単位の貧民に耕作地を提供するべくローマ近郊のポンティーネ湿原干拓を計画した。コリントス運河をつくってアジアとイタリアの経済を結びつけようとしたのもカエサルである。しかし、ローマ「共和政の父」キケロはこうした工事を批判した。自由を守ることに比べれば雀の涙ほどの価値しかなく専制君主の功名心の最たるものだ、「血と汗を流せ、甘んじて奴隷になれ」と人々に迫っている証拠だと。 「自由」を乱用したのはなにも雄弁家だけではなく、軍閥もそうだった。軍閥にとっての「自由」には、政治の制約を一切受けないという意味が含まれていた。ある派閥が元老院で優勢を占めると、対抗派閥は「自由が圧迫されている」と公言し、当然のように兵を挙げて反乱を起こした。ポンペイウスはマリウス派を暴政といいなし、私兵団を招集した。カエサルは、そのポンペイウス一味が自由を迫害しているとし、ガリア軍団を率いてルビコン川を渡った。オクタヴィアヌスは反乱に勝利すると貨幣を鋳造させ、そこに自身の像とともに「ローマ国民の自由の守護者」の銘を刻んだ。自由、それは利害を異にする集団が内紛を引き起こす口実になったのである。 結局のところ、共和政がコンセンサスを得るには選挙だけでは不十分で、構造的改革を断行する政治家の自己犠牲の精神が必要なのである。 「自由」それのみで自由が守られたことはいままで一度もない。 (3)Nic Fields『The Roman Army:the Civil Wars 88-31 BC』P53。(4)デニス・C・トゥウィチェット、マイケル・レーヴェ編、楊品泉等訳『剣橋中国秦漢史』中国社会科学出版社、1992年、P211。(5)H・F・ヨルヴィチ、バリー・ニコラス著、薛軍訳『羅馬法研究歴史導論』商務印書館、2013年、P4。(6)プルタルコス著、席代岳訳『希臘羅馬名人伝』(下)、吉林出版集団、2009年、P1581。 ※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「秦漢とローマ(2)共和政ローマの挽歌」から転載したものです。...
北京12月11日発中国新聞社電は「全過程人民民主主義はどのようにして西洋式一元民主主義の神話を超越したか」と題する政協全国委員で中国社会科学院政治学研究所所長の張樹華氏の次のような論文を配信した。 30年余り前、フランシス・フクヤマ氏らの学者が「歴史終焉論」、「西洋式民主主義一元論」などの論調を唱え、「民主主義・自由・人権」などの西側の観念に基づく制度モデルが天下を統一すると考えた。これと同時に、西側の政治屋も「民主主義・自由・人権」などを絶対化・道具化・ロゴ化・外交政策化した。長年にわたり、西側は民主主義の定義権・判定権を独占し、思想・制度と発言権における霸権を守り、他国はこれに従えば友とされ、そうでなければ敵とされた。従わない者には政治的・経済的に封じ込めるか、和平演変(平和的転覆)・カラー革命をたくらみ、その思想の西洋化・制度の同質化・発言権の弱体化をはかった。 だが、30年余りが過ぎて、西洋式民主主義モデルは人類の歴史の終焉をもたらさず、世界の平和と発展ももたらさず、まして公平と正義、民主主義と自由などもたらさなかった。逆に、西側陣営が冷戦後に西洋式民主主義を押し売りして、世界にもたらしたのは動乱、衰退、分裂、離散、血涙だった。西側社会自身も政治の過激化、社会のポピュリズム化、アイデンティティーの分裂化などの苦境に陥っている。「金権政治」、「エリート政治」、「アイデンティティー政治」が横行し、新しい資本と古い寡頭が権力を奪い合い、財閥集団が選挙を操作した。米国の政治学者ラリー・ダイアモンド氏は、米国が歴史的に自負してきた西洋式民主主義は2006年から衰退し始めたと認めている。フクヤマ氏は著書「政治の衰退:フランス革命から民主主義の未来へ」の中で、米国式民主主義が衰退期に入っており、天下を統一するのは難しいことを認めざるを得なかった。 ここ数年、一部の政治学者らは視点を変え、西側の政治的混乱と病的な民主主義の脈をとり始めている。複数の学者は、変質した「民主主義」が社会の分断、人種・民族間の矛盾、貧富の分化をもたらし、ポピュリズムなどの過激な思想を生み出し、民主主義の破綻と人権状況の悪化をひどくしたことに注目している。民主主義の変化と変質は一部の国に内部の意思決定の混乱、相互の掣肘、動員力不足をもたらし、政治を悪循環に陥らせている。以下の視点から西洋式民主主義の神話を打破すべきだ。 第一に、西洋式民主主義はどこにでも当てはまる共通ソフトウェアではない。民主主義の生成と発展には経済的基礎、法治精神など一連の条件が揃っている必要があり、やみくもに他国に移植しても水が合わず、南橘北枳(なんきつほくき)となる。西洋式民主主義も千篇一律ではなく、米国式の大統領共和制、ドイツ式の議会共和制、英国式の立憲君主制などさまざまなモデルがある。世界各国の国情はそれぞれに異なるため、多様な民主政治のモデルがより必要であり、無理に西洋式民主主義が持ち込まれれば、政治的エコシステムの混乱や拒否反応は避けられない。2003年にブッシュ政権がイラクに米国式民主主義を移植したことについてフクヤマ氏は、ブッシュ政権は民主政府と市場経済が複雑な要因(政党・法治・財産権・共通のアイデンティティー)の相互作用に由来し、これらの要因が民主主義の先進国では長い年月をかけて獲得されたことを理解していないと批判している。(中国通信=東京) 第二に、西側の政治屋は安全で適正な民主主義の完成品を無料でプレゼントするのではなく、「民主主義」を西洋化、弱体化、他国の改造、自身の霸権の擁護のための道具と手段にしてきた。西洋式「民主主義生産ライン」の製品には常に地政学的な私利が織り込まれている。まさに中国外務省の「米国の民主主義状況」報告が言うように、米国はいわゆる民主主義を輸出して悪い結果をもたらし、「カラー革命」で地域と国家の安定に危害を与え、いわゆる民主主義の押し売りで人道的な悲劇を引き起こし、制裁を乱用して国際ルールを破壊し、「民主主義の灯台」は全世界から批判されている。 第三に、西洋式民主主義の先天的欠陥と後天的不足が民主主義のゆがみ・疎外・変質をもたらし、「西洋式民主主義老化シンドローム」が現れている。西洋式民主主義は過去にポジティブな歴史的役割を果たしたが、その後現状に甘んじて進歩を求めず、絶え間ない改革と改善を図れなかったため、ネガティブな弊害が日ましに顕在化している。西洋式自由思想は徐々に「絶対自由」へと変化し、西洋式民主主義の価値は徐々に一枚の投票用紙に単純化され、西洋式民主主義の人権理念は徐々に「有名なダブルスタンダード」へと変質した。100年ぶりの変局と歴史的な新型コロナの流行が重なる中、政治的混乱、経済的危機、人種・民族間の衝突、難民問題などが「西洋式民主主義老化シンドローム」の現れとなっている。 ◇全面的政治発展観を堅持する 西洋式民主主義の弊害を克服し、民主化のパラドックスを打破するには、新しい民主主義観を提唱し、全面的な政治発展の理念を打ち立て、政治の協調と全面的発展を推し進める必要がある。 新しい民主主義観と全面的政治発展観では、西洋式民主主義は決して歴史の終点ではなく、民主主義は決して西洋式が最も完璧ではないと考える。民主主義は歴史的、具体的で、発展するものであり、その国の文化と現実の土壌に根差したものでなければならない。全面的政治発展には、民主主義的価値(公平・権利・自由など)、法治の要素(安定・規則・秩序など)、効果の目標(業績・責任・廉潔など)という、相互に依存し合い、弁証法的に統一された三組の要素と価値の追求が含まれる。政治的民主主義と政治的効果は全面的な政治発展の動因であり、法治・安定・政治的秩序は政治的民主主義と政治的効果の条件と保障であって、共同で政治の全面的発展の価値と目標を構成している。政治改革と政治発展の任務はこれら三組の要素の「均衡点」を正しくおさえることにほかならない。 民主主義を発展させることは全面的政治発展の重要な一環であり、適当な道筋、合理的な速度、有效な方法を選んではじめて民主政治をより高効率でより良質なものにすることができる。民主化の「単騎突撃」は政治の発展を後押しするとは限らず、むしろ民主主義が制御不能や政治の衰退を招き、「政治対立と民主主義劣化」の泥沼に陥ることになる。全面的政治発展観では全局的視野、戦略的定力、持続的協同を提唱し、「民主化」のプロセスを穏やかに乗り切り、民主化のプロセスを政治発展の全般的目標に組み込むとともに、経済の建設・社会の建設・文化の建設・法治の建設などのプロセスと調和させる。 中国の政治改革と政治発展のプロセスは全面的政治発展の理念に則り、全面的協調性・動態的発展性・主権の歴史性の弁証法的統一を体現している。中国は民主観・人権観・自由観を刷新し、全面的政治発展観を提唱・堅持し、西側の発展モデルと論理的枠組みを突き破り、政治の発展力と国家の統治〈ガバナンス〉能力を高め、民主主義の新たな道を踏み出して、中国社会の全面的で調和した発展を思想と価値の面から保証している。 ◇全過程人民民主主義を発展させる まったく新しい民主主義観、まったく新しい全面的な政治発展の道は、一種の真実と広範な人民民主主義を代表している。全過程人民民主主義は中国の人民民主主義の最新の成果と成功した実践であり、社会主義民主政治の鮮明な特徴であり、西側のブルジョア民主主義と区別する顕著な特徴である。全過程人民民主主義は一連の法律と制度手配により、民主的選挙、民主的協議、民主的意思決定、民主的管理、民主的監督の各段階を互いに結び付けた全チェーン・全方位・フルカバーの民主主義である。 全過程人民民主主義は随時オンライン状態を保ち、短期間の投票後に休眠期に入る間歇的民主主義を超越している。全過程人民民主主義には多様化した民衆の利益要求表現のチャンネルと公平な利益調和の仕組みがあり、多数の人々の真実の意思が少数の利益集団によって封じ込められる局部的民主主義を超越している。全過程人民民主主義は民主集中制の原則に従い、最大限の政治的合力を形成し、国家統治の高效率の統一を効果的に保障することができ、徒党を組んで異論を排する、互いに否決し合う、長々と議論する、なかなか決められないといった低效率の民主主義を超越している。 全過程人民民主主義は直接と間接、民主と集中、過程と結果、形式と実質などの段階の優位性を総合し、全過程的、開放的な政治参加と民主主義表現の仕組みを有している。例えば多党協力、政治協商、国是の共同協議などは、政党がたらい回しで国務を独占し、利益集団が国事の意思決定権を握り抑える寡頭式統治を超越している。中国の民族区域自治制度は各民族人民が主人公になることを保障し、民族の平等・団結・互助・調和を促進することによって、排外主義を吹聴し、制度的な人種差別があり、難民と移民を虐げる偽物の民主主義を超越している。全過程人民民主主義を発展させ、的確貧困脱却と郷村振興を推し進め、質の高い発展の中で共同富裕〈共に豊かになる〉を実現し、民生を発展させ、民心を守ることは、貧富の格差を野放しにし、金権政治に依存した寄生的民主主義を超越している。全過程人民民主主義は他国の内政に干渉せず、民主主義を広めるという名目で地政学的な私利をはかる覇権的民主主義を超越している。 全過程人民民主主義を発展させることで国家の安定・人民の団結・社会の進歩が保障され、「中国の治」の制度的優位性が示されて、発展目的の人民性、発展方式の多様性、発展プロセスの持続性、発展結果の有效性が体現されている。 中国の治の実践的価値と概念的含意は幅広く奥深い。新しい民主主義観と全面的発展観を理念とする中国の治は、世界の近代化発展の新しい道を切り開き、人類の政治文明の新しい姿を生み出し、世界の政治文明の花園の中で燦然と輝き、光を放っている。
よく「中国5000年の歴史」などと言う。どうして「5000年」と言えるのか。中国最古の都市遺跡とされる「良渚古城」を発見した浙江大学芸術および考古学院の劉斌教授はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて同遺跡や中国における「国の成り立ち」について解説した。以下の文章は、劉教授の言葉に若干の説明内容を追加して再構成したものだ。 【その他の写真】 ■社会組織と権力構造が確立した国が5000年前に存在した 浙江省杭州市内の良渚を中心とした地域に、古い文化が存在したことは1930年代から判明していた。劉斌教授が率いるチームは2007年の調査で、三重の城壁などが存在する都市を持つ国家が存在したことを確認した。 都市遺跡の王宮は面積が300万平方メートル以上ある。外殻城が囲む面積は631万平方メートルで、北京にある故宮の8倍だ。また良渚古城の周囲には世界最古と考えてよい巨大水利施設が存在し、水利の恩恵を受ける地域は100平方キロに達したと考えられる。良渚古城遺跡は整備されて遺跡公園として公開されている さらに良渚古城は、長期間にわたる成り行きで大きくなったのではなく、計画に基づいて短期間に建設されたことも分かった。つまり、当時の現地社会には都市計画を練る能力や大量の人員の動員力、必要とする資材や機器の調達能力、労働者の衣食住を確保維持する能力、さらには建造物の品質を維持し確認する能力などがあった。 また、ごく少数の墓だけから玉(ぎょく)製の副葬品が発見された。玉原石の産地は特定されていないが、採掘や加工について分業が成立しており、完成品は最高権力者だけが手にすることができた。つまり階級社会が成立し、権力者だけが貴重品を手にすることができた。これらから、5000年前に「国」としての組織がすでに成立していたと考えられる。ごく少数の権力者の墓だけから見つかった玉(ぎょく)の装飾品 ■何をもって「古代文明が成立した」と見なせばよいのか 中国において、考古学により実在が確認された最も古い国は、河南省などを勢力圏とした殷だった。そのため長年にわたって、約3500年前の殷の登場をもって中国文明が成立したと見なされていた。 中国文明の発生を約3500年前と見なすのには、別の理由もあった。西洋の学界では長く、文字・都市・冶金技術の「3点セット」をもって、文明成立の条件とする考え方があった。エジプト文明やメソポタミア文明はたしかに、この条件を満たしている。 一方の「良渚遺跡」では、青銅器など金属器が使われたことは確認されていない。遺跡から「簡単な記号」は発見されたが、文字と認定するには無理がある。そのため、文明の成立と見なせるかどうかについては議論があった。何らかの記号の役割を果たしたと考えられる絵も発見されている。ただし文字が存在したとは言い難い しかし英国人で考古学の権威的存在であるコリン・レンフルー氏は、「文明の評価基準は場所によって違う。必ずしも、青銅器・文字・都市の3要素が必要とは決めつけられない。国の存在こそが、文明の成立を判断する主要部分だ」と論じていた。だとすれば、「良渚遺跡」の存在は、中国で5000年前に文明が成立していた証拠と考えてよい。レンフルー氏はその後、「良渚遺跡」を訪問して「すでに文明の段階に入っていた」と断言した。 5000年前の中国では「良渚文明」だけでなく、それこそ「満天の星」のように各地に文明が存在していたと考えられる。ただし、「良渚文明」のように総合的な遺跡は見つかっていない。従って中国で確認された最古の文明は良渚文明と考えるのが、現状では妥当だ。 ■「良渚文明」では稲作栽培も盛ん、日本という国の成り立ちにも深く関係 中国では地方により主食が異なっていた。北部では小麦が主食になっていった。南部では米が主食だった。「良渚」という国で生きた当時の人は米を主食にしていた。まず、「良渚古城」では米の貯蔵庫跡が見つかっている。大量の炭化米があったので、この貯蔵庫は火災で焼失したと考えられるが、使用当時は200トンのコメを貯蔵できたと見積もられている。このような倉庫は、国としての食糧備蓄施設の「氷山の一角」と考えるのが自然だ。食糧貯蔵庫跡から見つかった炭化米 また、浙江省寧波余姚市では良渚文明期に使われていた5000平方メートル以上の規模の水田が見つかっている。これらから、「良渚古城」における食糧事情は良好だったと考えられる。良渚古城で発見された木造船。良渚古城周辺には現在も大小さまざまの川や湖がある なお最近の研究によると、日本では縄文時代後期(4400~3200年前)には稲作が始まっていた可能性が高い。そして日本の稲作技術は「良渚文明」などが存在した長江下流域から伝えられたとされている。日本でその後、稲作が産業の中心となり米文化が日本を特徴づけるようになったことを考えれば、「良渚文明」を考えることは、日本という国の成り立ちを考えることにもつながってくる。(翻訳/RecoedChina)
秦漢とローマはともに農業社会を土台に築かれた大規模な政治体であり、同じ時代にあって人口規模や領土の広さもほとんど変わらない。しかし、大土地所有と小農民没落の関係、中央と地方の関係、政権と軍閥の関係、上層と末端の関係、固有文化と外来宗教の関係―これらを処理していくうちに両者はまったく異なる結果にたどりついた。ローマ後の欧州では、キリスト教を信仰する封建国家が全域で生まれたが、他方、秦漢後の中国では引き続き大一統の隋唐王朝が興ったのである。 秦漢の末端統治 2002年、湖南省西部の里耶鎮〔湘西トゥチャ族ミャオ族自治州龍山県〕で秦代の小都城遺跡「里耶古城」が発掘された。城内の古井戸からは「里耶秦簡」とよばれる秦代行政文書の簡牘〔文字を記した竹や木の札〕が数万枚出土し、いまから2000年以上前の秦代末端統治の様相が現代人の目に明らかになった。 考証によると、当時の里耶古城の人口はせいぜい3000人から4000人、険しい山間地で農地に恵まれず、租税徴収高は全国平均をはるかに下回っていた。それでも秦朝は総勢103人(1)で構成される十全な官僚機構をここに設置した。経済的観点からみれば、これだけの官吏を置くに値しない土地である。しかし、秦帝国にとって田賦は二の次だった。 簡牘を丹念に整理していくと、「枝枸」とよばれる植物の性状、分布、産出量を詳しく書いた官吏の「メモ」が出てきた。ここから見て取れるのは、山や川に眠る物産品を全力で掘り起こす秦代官吏の使命感だ。彼らは土地開拓、戸籍編纂、地図作成を地道に進め、のちに結果をすべて上級の「郡」に報告した。「郡」は各県の地図をあわせて「輿地図〔全国地図〕」をつくり朝廷に献上、公文書として保管され閲覧に供された。秦の官吏は経済振興だけでなく、煩瑣な行政・司法実務もこなさなければならなかった。秦は完備された法体系を有し、法律や判例にとどまらず上訴制度も有していた。下級官吏は厳格に法に従って仕事をしなければならなかった。例えば、文書はすべて同じタイミングで控えを複数部門に送りチェックを受けねばならなかったし、罪に比して軽い判決またはその逆といった「不正」が発生したとき、あるいは法律が相互に抵触したときもやはり上級部門に順次報告し、仲裁を受けねばならなかった。2000年以上前にここまで綿密に末端行政がおこなわれていた例はまず存在しない。 里耶秦簡の死傷者名簿には在任中に過労や病気で亡くなった下級官吏の名前が多く含まれている(2)。定員103人で長期欠員は49人である。秦朝は、官吏が命を削って働くような「過酷な政治」でわずか14年の間に「車は軌を同じくし、書は文を同じくし、行いは倫を同じくす〔車軌と文字の統一、倫理道徳と行動の一致、『中庸』〕」を実現、国土保全や道路網建設などの大規模建設工事を完遂したのである。 貴族出身の項羽は秦を滅ぼしたあと分封制を復活させ、自身は一地方の諸侯におさまって勝手知ったる生活を送ることを望んだ。他方、項羽と天下を争った劉邦は昔に戻ることを拒否し、項羽に勝ったあと秦の大一統を引き継いだ。劉邦自身もそうだが、その集団〔劉邦集団〕幹部もほとんどが下級官吏出身だったので、帝国の下層基盤と中央の結びつきをよく理解していたし、郡県制の運用にも通じ、庶民のニーズにも敏感で、大一統を維持する極意を熟知していたのである。だからこそ、秦の都・咸陽に攻め入った際も、劉邦集団は金銀財宝には目もくれず、律令、地図、戸籍簿だけを奪った。劉邦が後にこれらの資料を拠り所にして大漢王朝の中央集権郡県制を打ち立てたのは間違いない。 中国の制度は「強大な国家能力」を備えており、中国は世界史上もっとも早い「近代国家」を欧州に先んじること1800年、すでに秦漢の時代から構築していた―『歴史の終わり』の著者フランシス・フクヤマの文章に近年たびたび登場する指摘だ。フクヤマのいう「近代」の基準は、血縁に依らず、法の原理に則り、組織体制が明確で、権限と責任の関係が明瞭な理性的官僚体制を有しているかどうかである。秦漢流にいいかえれば、これは「天下は末端行政から生まれる」ということだ。 ローマの国家統治 秦漢と同時期、ローマは地中海の覇者として勃興した。 中国は黄土平原の農業文明、ギリシャ・ローマは地中海の交易文明、そもそもの出自からして水と油に等しいと考える人は多い。しかし、実際はそうではない。紀元前500年から紀元後1000年までのギリシャ・ローマは農業社会で、商業〔交易〕は些細なオプションに過ぎないというのが1960年代以降、西洋史学会の定説になっている。英国の著名な歴史学者モーゼス・フィンリー(Moses Finley)は著書『Politics in the ancient world〔古代世界の政治〕』で次のように書いている。「土地は最も重要な財産で、家族が社会組織の最上位に位置し、ほとんどの人は自給自足を目指していた。財産の大部分は土地の賃貸料と地租に由来した」。これは秦漢と酷似している。 夕日の下、かつての帝国の輝きを放つ古代ローマの遺跡(写真提供:潘岳) ギリシャは哲学者を、ローマは「農民+戦士〔農民兼兵士〕」を生み出した。地中海のいたる所で戦ったローマの兵士は、退役後に土地を手にしてオリーブやブドウを栽培できればそれで十分だった。最後は「解甲帰田〔退役して故郷へ帰り農業に従事すること〕」を切望した秦漢の兵卒と同じである。 ローマ市民は商業を軽蔑し、交易や金融は被征服民族の生業だと考えていた。共和国の黄金時代、商人は元老院議員になれなかった。貴族は出征で得た財産をすべて土地の購入と大荘園の経営にあてた。農業は生計の手段ではなく、田園生活の賛歌だったのである。この点、秦漢はさらにその上を行き、ローマ以上に農業が本、商業が末だった。 土木工事、戦争、国家統治に長けていたローマ人は凱旋門、闘技場、浴場を残した。秦漢も同じである。現実への関心が高く、国家を運営し、長城を建設し、火薬を発明したが、論理学や科学を得意としたわけではなかった。 ローマは西洋文明に政治的遺伝子を注入した。憲制官僚体制と私法体系をつくり、西洋市民社会の原型を生み出した。共和政にせよ帝政にせよ、思想でも制度でも法律でもローマは西洋政治体の源流である。イギリス革命時の青写真「オセアナ共和国」には共和政ローマの痕跡がある。フランス革命期のロベスピエールとその盟友にも同じく共和政ローマの英雄の面影がある。米国の上院と大統領制は元老院と執政官制度を想起させる。20世紀になっても、米国の保守的学術界では建国の原則をめぐってローマ式の古典的共和政にあくまで従うのか、それとも啓蒙思想の民主主義と自然権にこだわるのかという議論がおこなわれている。ローマの魅惑的な面影が西洋政治文明から消え去ったことはない。 (1)以下の文献を参照。湖南省文物考古研究所他「湖南龍山里耶戦国―秦代古代一号井発掘簡報」『文物』2003年第1期、P4~P35。同「湘西里耶秦代簡牘選釈」『中国歴史文物』2003年第1期、P8~P25。湖南省文物考古研究所『里耶発掘報告』長沙・岳麓書社、2007年、P179~P217。(2)『里耶秦簡・吏物故名籍』簡8―809、簡8―1610、簡8―938、簡8―1144。※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「秦漢とローマ(1)東西政治文明の基礎」から転載したものです。 ■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら
中国で今、盛んに議論されている問題がある。それは、孔子などに始まり歴代の先賢が説き続けてきた理念が、現代にも通用するかということだ。さらには「中国式の理念」と「西洋の発想」に共通点があるのかも議論の対象だ。浙江大学人文高等研究院の講座教授などを務める劉東氏はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、自らの考えを披露した。以下は、劉教授の言葉に若干の説明内容を追加して再構成したものだ。 ■孔子が強調した「理性的認識」は、今も世界に通用する 孔子は、「之(これ)を知るを之を知ると為(な)し、知らざるを知らざると為す。これ、知るなり」と述べている。論語には「子、怪力乱神を語らず」とも書かれている。つまり、孔子は「認識すること」とは何かを、深く考えていた。孔子の肖像 この「認識本位」という原点を持つのが、中華文明の最大の特徴だ。一方で西洋ではキリスト教を「信じる」伝統が長いた。しかし、例えば北欧のいくつかの国では「神なき社会」が事実上、出現している。代表的な啓蒙思想家の一人であるボルテール(1694-1778年)も、中国思想の影響を受けて、理性を呼び覚ます必要があると説いた。つまり「宗教なき道徳」を構築できることは、人類共通だ。 孔子の考え方では、我々の「理性」や「人生観」は虚妄の上に構築されたものでない。また、中国では近代になってから、両者を切り離す主張が発生したが、それは間違っている。「理性」と「人生観」はつながっているものだ。 一方で、孔子以降の多くの儒家の思想は、改めて点検する必要がある。その後の歴史の過程で儒学の「ピーク」が何度も発生し、歴史に貢献したのは事実だが、「理性の自覚」の点ではいずれも、孔子に遠く及ばない。時代が下ると、孔子とは大きく異なる主張も発生した。それらは道教や仏教、さらにキリスト教の影響を受けており、しかも完全に時代遅れの形而上学だ。今の時代に世界に向けてそんな思想を説いたら、馬鹿にされるだけだ。 ■孔子の「寛容な精神」に始まり「天下大同」を目指す 中国の儒家は「天下大同」に情熱を傾けた。つまり、完全に平等で、争いや悪行が存在しない理想社会だ。そして「天下為公(天下は公のもの)」という考え方も強まった。孫文の書。孫文も「天下為公」の言葉を重視した 儒家が「天下大同」重視したのは、民を救うことが目的だった。そして彼らは、社会は徐々に変えていけると期待した。「最後の審判」のような終末論は受け入れず、「物事は一挙に解決できる」といった非理性的な考えも採用しなかった。 孔子本人は「天下大同」を性急に求めることをしなかった。孔子自身が強調したのは「和して同ぜず」だ。つまり「他者と争うことはしないが、理念については妥協しない」だ。言い方を変えれば、自分とは異なる考え方の人がいても、寛容に共存することだ。 ■「民族主義」は必要だが、その上にある「人類全体」を見失ってはならない しかし中国は近代になると西洋による、続いて日本による強烈な打撃を受け、「民族国家」の概念を受け入れざるを得なくなった。この「民族主義」は、古代から受け継がれて来た「天下大同」とは対立する概念だ。中国近代の思想家や社会活動家、政治家は、この矛盾の解決を迫られた。 清朝末期から政治改革を目指した梁啓超(1873-1929年)は、国という存在は必要と論じた上で、「国の保護の下で、各人が天に与えられた能力を発揮することに尽力して、人類全体の文明に大きな貢献をする」と説いた。 民族主義とはしょせん、視野に限界のある立場だ。理性を持っているはずの人も、互いが互いを「邪推」することになる。現在は、全世界的な危機が山積している。互いに邪推すれば、核戦争の危機から脱却することは難しくなる。環境や気候変動などの危機も、克服できなくなる。 そのような状況にあるからこそ、我々は改めて紀元前の孔子の思想に戻るべきではないだろうか。まず「理性の共有」を実現させ、次に改めて「天下大同」を目指す。あらゆる国の上に、人類と言う存在があることを意識せねばならない。個別の人物だけが視野に入り、人類という考え方がないようでは、このホモサピエンスという種は、もちろん中国人を含めて、奈落の底に落ち込んでしまうのではないだろうか。(翻訳/RecordChina)
「分」と「合」に分かれた政治観念 中国の古代にも多くの国が乱立し、一つの都市が一つの国になる局面がかつてあったが、最終的にはこれらの都市国家は長期にわたっては分立せず、地域的な王国を形成し、さらに一歩進んで統一王朝に発展した。 どのように争うかにかかわりなく、戦国七雄は一つの秩序しか持てず、分割した統治は長期的ではないはずだと考えていた。同時代のギリシャ都市国家の世界には宗主国は存在せず、異なる連盟による闘争があるだけで、「共通の秩序」が存在するとは考えられていなかった。 国家間の関係から見ると、周代の礼式では、一国で疫病や凶作が起こったら、他国は食料を提供し、被災者を救済しなければならないと定めていた。また、一国に冠婚葬祭があれば、各国は祝賀と哀悼に出向かなければならないとも定めていた。これらの責務は強制的なもので、天子によって擁護されていた。諸侯の覇者もこれらのしきたりを擁護することでようやく覇を唱えられた。これにより、国家間で「華夏〔中国の古称〕世界」に共に属しているという一体感が強化された。一方、ギリシャの都市国家間には責任関係が確立されなかった。母市からの植民でできた新しい都市国家であっても、母市に対して責務はなく、しばしば矛先を向けて攻撃さえした。ギリシャ・ペルシャ戦争の際にも、ギリシャ人という共通の立場はわずかな効果しか発揮しなかった。 二つの文明の本質的な性質は二つの異なる道をつくった。 西洋は絶えず「分」に向かった。地域で分割され、民族で分割され、言語で分割された。ローマとキリスト教の努力のように、その中にも統一の努力はあったが、分割のすう勢が主流を占め、最終的に個人主義と自由主義に帰結した。 中国は絶えず「合」に向かった。地域で統一され、民族で統一され、言語で統一された。王朝交代や遊牧民族の衝撃のように、その中にも離散の時期はあったが、統一のすう勢が主流を占め、それによって中華文明の集団主義が育まれた。 決して中華文明に「分」の概念がないわけではない。しかし、それは決して「分割した統治」ではなく、「分担」だった。人がひ弱なのに鳥獣を超えて生き延びられるのは、集団を組織できるからだと荀子は言った。集団をつくる鍵は異なる社会的役割を確定し、かつ相応の社会的責任を引き受けることにある。分担が「礼儀・道義」に合致しさえすれば、社会を統合できる。このため「分」は「和」のためのものであり、「和」は統一のためのものだ。統一すれば強大になり、強大になれば自然を改造できる。 アリストテレスにも「合」の思想があった。彼は「絶対王政」の概念を打ち出した。つまり「君主1人が氏族全体や都市全体を代表し、家庭に対する家長の管理のように、全ての人々の事柄を全権的に支配する」ということだ。彼は「全体は常に一部を超越するが、このようにずば抜けて優秀な人物はそれ自身が一つの全体であり、ほかの人々は彼の一部のようなものだ。唯一の可能なやり方は皆が彼の支配に服従し、他人と交代させずに無期限で支配権を握らせることだ」と考えた。アリストテレスを批判する人はこれに対し、アレクサンドロス大王のためにつくられた政治理論で、彼が真理よりも権力を愛していることを示していると述べた。 アレクサンドロス大王の死後、アリストテレスはすぐ反撃に遭い、アテネ公民大会の裁判に直面した。前回こうして裁判にかけられて毒を飲んだのは、彼の大師匠ソクラテスだった。アリストテレスは二の舞いを演じないようマケドニアのエヴィア島に隠れた。彼の逃亡はアテネ人にあざ笑われた。1年後、アリストテレスはわだかまりを抱えて死去し、アレクサンドロス大王の帝国もすぐに分裂した。 マケドニア王国の拡張方式は、到達地におけるギリシャ式自治都市の建設だ。こうした「自治」はその都市に居留するギリシャの植民者に対するものであって、征服された土着の社会を含まない。アレクサンドロス大王は新たに征服した一つ一つのアジアの都市に自らの側近を派遣し、総督を務めさせた。彼らは軍事と税収だけを管理し、民政には構わなかった。こうしたやり方は中央が強大な時には許されたが、いったん中央の権力が衰えると、逸脱した行動が生まれ、都市は次々と支配から抜け出した。アレクサンドロス大王の帝国の瓦解は必然だった。 中国の戦国時代における末端政権の組織方式は完全に異なる。出土した秦代の竹簡によると、秦国は併合のたびに県から郷までの末端政権組織を確立するようにしていた。県と郷の官吏は全ての民政を処理しなければならなかった。開墾を組織し、戸籍の統計を取り、税金を徴収し、物産を記録し、それらの情報を都の咸陽に伝えて保存していた。秦の官吏は一つの土地に長くとどまらず、数年で交代していた。 自由と秩序の相互参考を 人類社会の歩みの中には、全てを説明できる理論は存在せず、普遍的な絶対的原則は存在しない。現今の東西文明の観念で最大のもつれは、「自由優先」なのか「秩序優先」なのかということだ。これはそれぞれギリシャ文明と中華文明の中心的な価値観だ。 「ギリシャ人」という言葉は自由に対するギリシャ人の強い愛情により、人種の名前から「知恵」の代名詞に変わった。中華文明は秩序に対する中国人の強い愛により、同源で一つの文字を使い、かつ国家の形態によって現在まで持続している唯一の文明になった。 秩序優先のもたらす安定と自由優先のもたらす革新では、どちらがより追求する価値を持つのか?これは哲学、政治学、宗教学、倫理学の限りない論争を含んでおり、私たちは定説を必要としない。これら異なるものを残すこと自体が、ちょうど将来の文明の相互参考と融合に可能性を残す。多元と矛盾の併存は人類文明の遺伝子バンクにより多くの種を残すだろう。自由優先と秩序優先という相違は東西文明の交流の障害になるべきではなく、むしろ東西文明の交流と対話の基礎になるべきだ。一方では、技術の発展が爆発的な革新の前夜に進んだことで、私たちは自由のもたらす創造力を深く認識した。もう一方では、非伝統的安全保障の危機が頻繁に勃発したことで、私たちはあらためて秩序の大切さも認識した。自由についていえば、どのように秩序を強化し、それによって崩壊を防ぐかを検討しなければならない。秩序についていえば、どのように自由を強化し、それによって革新を呼び起こすかを検討しなければならない。問題は自由と秩序の二者択一ではなく、どの部分で自由を強化し、どの部分で秩序を強化するかということだ。 過去、一つの理念の検証には、数百年をかけて何代もの人々が繰り返し試行錯誤することが必要だった。今日においては技術革新の下、数年間で原因と結果がはっきりと理解できる。省察、絶え間ない包容、調和と共生、相互参考と融合を理解できる文明だけが、真に持続的に発展できる文明なのだ。そのために東洋と西洋はしっかりと語り合うべきだ。(魏巍・田潔・四谷寛訳) ※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「戦国時代とギリシャ(4)東西の相違こそ対話の基礎」から転載したものです。 ■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら
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