Category: 論説・主張

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【東西文明比較互鑑】秦漢とローマ(6)宗教と国家

「神の国」と「地の国」 西ローマ帝国最後の150年間、国教はキリスト教だった。 中東パレスチナで生まれた原始キリスト教は「漁夫と農民」の素朴な宗教だった。こうした最下層の貧民は、はじめからローマ各属州の眼中になかった層であり、多くのキリスト教徒にとってもローマは意識の外だった。彼らは「神の国」に属する同胞であって、「俗世の国」に属する公民ではなかった。したがって、兵役も公職に就くことも拒否した。決してローマの神々をまつらず、皇帝像に跪くこともなかった。 ローマ固有の多神教は厳格な道徳律をもっておらず(22)、ローマ社会の堕落に歯止めをかけることができなかった。国家は最下層の貧民をまったく顧みず、孤老の世話にしても、貧困者の苦しみを聞くにしても、疫病で亡くなった人の埋葬にしても、全身全霊で取り組んだのはキリスト教徒だけだった。やがて平民のみならず、追い求める理想が多少なりともあったエリート層もキリストを信じるようになった。 規律が厳格ではっきりしていたキリスト教は、辺境の都市と蛮族の支配地域で定着し、軍隊と宮廷のなかでも大量の信者を獲得していった。こうして日ごとに強大な存在となる「無形の国家」をローマ体内で徐々に形成していったのである。 ローマの執政官は当初、こうした強力な組織力と思想的求心力に恐怖を感じ、300年にわたって信徒を虐殺、迫害し続けた。しかし、コンスタンティヌス帝が懐柔策に転じ、313年にキリスト教を公認した。そして392年、テオドシウス1世が正式にキリスト教を国教にしたのである。 「国教」にした理由について、下層民と兵士の支持を得るためという説がある。一神教は皇帝権力の絶対化に有利だったという説もある。しかし、いずれにしてもローマ皇帝の期待は現実のものにはならなかった。 コンスタンティヌスのキリスト教の公認から40年後(354年)、あるローマ官僚の家庭に1人の子供が生まれた。この子供はローマのエリート養成モデルに沿って教育された(23)。彼は最初に『聖書』を読んだとき、文体の貧弱さを理由に「キケロの優美な筆致と比べると、まったく足元にもおよばない」(24)といって批判した。 30歳になると彼は宮廷スポークスマンとして皇帝を称揚し、政策の宣伝につとめ、周囲からは「ギリシャ・ローマ古典文明の火を受け継ぐ者」とみられた。ところが、主君の覚えめでたい人生も、自由な思想も、そして何不自由ない境遇や放埓な私生活も、心の奥底の空洞を埋めることはできなかった。こうして再び『聖書』を手にしたとき、彼は言葉では言い表せない「神の啓示の瞬間」を経験することになる。このとき「彼」はもっとも偉大なキリスト教神学者アウグスティヌスになった。アウグスティヌスはキリスト教の原始的な教義を壮大な神学体系へと発展させた。原罪論、教会の恩寵論、予定論、自由意志論といった思想はキリスト教哲学を集大成するものである。 410年、西ゴート人がローマを侵攻・陥落させた。これは外来のキリスト教を信仰した「報い」ではないか―そういう声がローマでおこった。アウグスティヌスは激怒にかられて『神の国』を書き、これに反論すると同時にローマ文明を徹底的に否定した。彼はローマを指弾して次のようにいう。ローマは一度も正義を実現したことがなく、「人民のもの」(25)であったこともない、したがって共和国ではなく「大きな盗賊団」(26)に過ぎなかった、と。彼は「愛国とはすなわち栄誉である」という創成期ローマ戦士の精神さえも否定し、あらゆる栄誉は神に帰すべきだと考えた(27)。 アウグスティヌスは最後にこう締めくくっている。ローマの陥落は自業自得であり、キリスト教徒の最後の望みは神の国である。 「国家の悪」と「国家の善」 中国人の考え方からすると次のような疑問が出てくる。いくら駄目だといってもローマは母国である。その腐敗を憎むなら、制度を改革し精神を刷新すべきではないのか。異民族の侵入に際しては率先して祖国を守るべきではないのか。どうして改革の責務を果たす前から母国をあっさりと捨て、踏みにじることができるのか、と。結局のところ、ローマによって国教の地位に押し上げられたとはいえ、キリスト教にとってローマ国家の命運は常に他人事だったのである。 この点もまた、漢とローマとの違いである。一方で漢朝儒家政治の倫理道徳は「鰥寡〔頼る人がいないやもめ〕孤独〔孤独者〕は誰もがその身を養う所がある」を為政者本来の義務とした。もう一方で、漢朝法家の末端統治もまた「国家は正義のない盗賊団」などという認識をもったことがなかった。 一神教がローマのように発展するのは中国では難しい。儒家思想は天理〔客観的道徳規範〕と人倫〔人の行動規範〕をカバーしている。したがって、儒家は「鬼神を敬してこれを遠ざく〔神霊を決して蔑ろにはしないが遠ざける。『論語』〕」態度をとり、人文と理性を立国の基本とし、中華文明を「宗教を基盤としない古代文明」にしたのである。あらゆる外来宗教は、中国伝来後に狂信性と排他性を脱ぎ捨て、国家の秩序と協調し共存しなければならなかった。ローマにキリスト教が入ってきたのと同じ時期、仏教が中国に伝来した。しかし、中国は仏教に対して、ローマがキリスト教に対してとったような軽はずみな態度―虐殺と弾圧で応えるかと思えば一転して全面的に受け入れる―をとらず、逆に「禅宗」を生み出したのである。 キリスト教の神の国は現世を離れても存在することができる。しかし、中国の天道〔天地自然の道理〕は現世において実現しなければ存在しないに等しい。儒家思想と国家意識は早くから一つに融合していたのである。儒家思想の浸透がベースにあって、中国化した宗教は例外なく「国家の価値」に深い共感を抱いた。道教には「天下太平に致る」という理想があった。仏教もまた、国家統治に優れた為政者の業績は高僧の功徳に勝るとも劣らないと考えた。哲学の分野ではどうだろうか。キリスト教以前のギリシャ哲学には個体の概念と同時に全体〔個体を超越して存在する普遍的な真〕の概念もあった。しかし、神の権威が一切を抑え込んだ中世の1000年間を経て、西洋哲学は「個人主義」と「反全体主義」に固執するようになった。中華文明はこのような「神の権威の抑圧」を経験したことがない。したがって、中国哲学には個への執着がなく、それよりも全体の秩序に多くの関心を注いだ。 西洋近代の政治思想に「国家を悪とみなす消極的自由」というものがある。遡れば、これは「神の国」と「地の国」を分離するキリスト教の考えに端を発する。キリスト教は「ローマ国家」を悪とみなした。しかし、宗教改革ではカトリック教会もまた悪とみなされ攻撃された。神以外は「衆生みな罪人」の俗世にあって、どんな組織であれそれが「人」の手によってつくられた以上、他者を導く資格をもたない。ロックは私有財産保護のための「小さな政府」を、ルソーは公共意識に基づく「社会契約政府」を、そしてアダム・スミスは「夜警」政府〔夜警国家〕を主張した。これらはすべて「国家の悪」に対する警戒から出たものだ。 他方、中華文明は「国家の善」を信用した。儒家は人間の本質は善でもあり悪でもあると信じたが、「賢を見ては斉しからんことを思い〔優れた人をみれば同じようになろうと思う。『論語』〕」さえすれば、いつでも自己変革を通じてよりよい国家をつくりあげることができると考えた。儒法並立を確立して以降の漢朝の隆盛は、当時の人々の記憶と憧憬を通じて「すばらしい国」をつくるという信念に変わり、歴代王朝によって後世へと引き継がれていったのである。 (脇屋克仁訳) (22)アウグスティヌス著、王暁朝訳『上帝之城』人民出版社、2006年、P53。 (23)アウグスティヌス著、周士良訳『懺悔録』商務印書館、1996年、P40。 (24)アウグスティヌス著、周士良訳『懺悔録』商務印書館、1996年、P41。 (25)アウグスティヌス著、王暁朝訳『上帝之城』人民出版社、2006年、P76~P77。 (26)アウグスティヌス著、王暁朝訳『上帝之城』人民出版社、2006年、P144。 (27)アウグスティヌス著、王暁朝訳『上帝之城』人民出版社、2006年、P201。 ※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「秦漢とローマ(6)宗教と国家」から転載したものです。 ■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら

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<日中100人 生の声>心の窓―李年古 日中ビジネスコンサルタント

「目が覚めたとき、朝と意外なことのどちらが先に来るのかは分からない」 このややウィットに富んだ言い方が非常に現実味を帯びることになったコロナ時代。1年以上の自粛生活をこなしてきた僕は、人生の生き方から細かい日常生活の営みまで、心理と行動の両面から思いもよらぬ変化を余儀なくされていた。 明日たとえコロナに感染したと告げられても悔いのないように、今日1日をどう生きていくべきか、繰り返し自分に問いかけた。その結果、意外にも心の余裕と迅速な行動が同時に身に付くという変化が生まれた。 かつては仕事に夢中で、燃え尽き症候群の一歩手前までいっていた。一息つくのも無駄だと思っていたのに、コロナのお陰で今では嘘のように暇な日々が続く。そこで書斎の本棚に何年も眠り続けている本を1冊ずつ読み始めた。滅多にない外出時には、体を引っ張るように足が勝手に図書館へ向かう。1年間溜まった図書館の貸出票を重ねると、買い物や外食の伝票よりも分厚かった。 また、ずっと書きたかった本や小説に、あえてパソコンを使わず手書きで取り組み始めた。しかも得意とする純文学系ではなく、ミステリー小説にチャレンジしてみた。と同時に、まったく新しいテーマの『育児と経営』という教育領域の本も書き上げた。 これまで、創作意欲が湧くたびに自分でそれを押し殺した。そんな贅沢なことを考える余裕があるなら、もっとまともに仕事しろと自分に命じてきた。しかし、コロナ禍のお陰で、自分を説得するハードルが一気に下がった――今やりたいことにチャレンジしないと、もう二度とこんな余裕のある日々は来ないぞ、と。また、ウイルスがこの世を狂わせた結果、人生の時間が圧縮され、「今ここで、すぐに始めよう」という考え方しか通用しなくなった。コロナの足音がドアの向こうに近づいてきたからには、「来年からスタートしよう」という甘い考え方は、もはや自分を騙すセリフにしかならない。 一方、デニス・メドウズ博士の言う「成長の限界」(1972年に発表した報告書による)が来たことを、大自然がウイルスを使って人類に警鐘を鳴らしていることに思い至り、僕も立ち止まって心の貧しさを反省する余裕が生まれた。世界が遮断され、人間の行動範囲が狭くなると、視野に入る数少ない物事の価値がかえって貴重な資源と見なされる。それをじっくり観察しながら、想像力を自由奔放に働かせて新しい意味を見つけ、それを自分の心を豊かにする栄養剤にしたいと思い始める。そうすると、日常生活の細やかなことが万華鏡のように光を放つことに初めて気づかされた。 このような体験は特に今年、日本から帰国した際の14日間に及ぶホテルでの「隔離」生活によって記憶に強く刻まれた。広州市内から少し離れたあるホテルでの生活を余儀なくされた僕にとって、外の世界は部屋の窓と同じサイズになった。1日24時間、その窓ガラス越しの日々の風景が僕の最大の楽しみだった。広州で隔離生活中に窓から見えた光景 繁華街とは無縁の裏道の一角で3棟の無造作に建つ雑居ビルは、いずれも長い歳月にさらされて錆び付いている。人影は少なく、窓際に立つたびに目に入ってくるものといえばせいぜい2、3の人と犬1匹。変化を求めて視点を変え、陽の光に注がれる洗濯物の数々を眺め始める。想像を膨らませると、これまでに気づかなかった色々な発見が僕を楽しませてくれる。 たとえば、朝早く起きて窓の外に洗濯物が万国旗のように高く掲げられた光景を目にすると、今日は1日快晴だと確信する。雨が降っても洗濯物が風に舞ったまま、夜更けまで誰にも相手にされないでいれば、家の主人は独身だろうと推測する。服の色やデザイン、サイズや性別、着古し具合などでそれぞれの家族構成がわかり、さらに目を凝らせば生活の情緒に満ち溢れていることが感じられる。 夕方になると、いつものように窓からスパイスのきいた牛肉の匂いが漂ってくる。僕の目は自然に窓の右下にいく。そこには中年の婦人と10代の子供が、屋台に乗せたかまどで鉄板焼きの牛肉を調理してから、ゆっくりと人力車を押して僕の見えない遠くへ消え去っていく。きっと、どこかのにぎやかな夜市で、幼い子供の呼び声にあわせてお母さんが熱々の串焼きを差し出し、夜市をぶらつく若いカップルに渡すのだろう。そして、僕は寝る前に窓の外のかすかな明かりで母子を乗せた人力車が帰ってきたかどうか確かめてから、安らかな眠りに落ちていく。 隔離生活が終わろうとしたある日、窓の傍に立つ僕の目は、友人が送ってきた記事に釘付けになった。8割を超える日本人が「中国が嫌い」だという調査結果を取り上げたものだった。 読むに耐えず僕は窓から外を眺めた。ある民家のベランダには、この日を境に洗濯物が一変し、突然ベビー服が干されるようになった。きっと新しい生命の誕生が告げられたのだろうと、この小さい発見に僕は抑えきれないほどの感動を覚えた。 一瞬、知識経営の生みの親・野中郁次郎氏の言葉が頭をよぎった。「現象学のキーポイントの一つは、『相互主観性』です。例えば、われわれは同じ絵を見ていても、1人ひとりが主観的に見るので、まったく同じものを捉えているわけではありません…」 ふと、僕は思った。もしも自粛中の日本人の「8割」が今ここで、僕と同じように窓に切り取られたこの風景、庶民の日常の営みを眺めたら、僕への共感が期待できるのではないだろうか。 ※本記事は、『和華』第31号「日中100人 生の声」から転載したものです。また掲載内容は発刊当時のものとなります。 ■筆者プロフィール:李年古(りねんこ) 日中ナレッジセンター(株)代表取締役。日中ビジネス研修の第一人者。23年間にわたり各大手企業で中国ビジネス研修を実施。著書に『中国人との交渉術』、『中国人の価値観』。『月刊中国ニュース』にて「中国人と信頼関係を構築するためのコミュニケーション技法」を4年間連載。作家として小説等を多数発表。中国の大型文芸雑誌『収穫』に中篇小説「東京時間」、文芸雑誌『作品』に短編小説「星のない夜に、爬行する蝸牛の姿しか見えない」など。