<日中100人 生の声>心の窓―李年古 日中ビジネスコンサルタント

広州市内から少し離れたあるホテルでの生活を余儀なくされた僕にとって、外の世界は部屋の窓と同じサイズになった。写真は広州で隔離生活中に窓から見えた光景。

「目が覚めたとき、朝と意外なことのどちらが先に来るのかは分からない」

このややウィットに富んだ言い方が非常に現実味を帯びることになったコロナ時代。1年以上の自粛生活をこなしてきた僕は、人生の生き方から細かい日常生活の営みまで、心理と行動の両面から思いもよらぬ変化を余儀なくされていた。

明日たとえコロナに感染したと告げられても悔いのないように、今日1日をどう生きていくべきか、繰り返し自分に問いかけた。その結果、意外にも心の余裕と迅速な行動が同時に身に付くという変化が生まれた。

かつては仕事に夢中で、燃え尽き症候群の一歩手前までいっていた。一息つくのも無駄だと思っていたのに、コロナのお陰で今では嘘のように暇な日々が続く。そこで書斎の本棚に何年も眠り続けている本を1冊ずつ読み始めた。滅多にない外出時には、体を引っ張るように足が勝手に図書館へ向かう。1年間溜まった図書館の貸出票を重ねると、買い物や外食の伝票よりも分厚かった。

また、ずっと書きたかった本や小説に、あえてパソコンを使わず手書きで取り組み始めた。しかも得意とする純文学系ではなく、ミステリー小説にチャレンジしてみた。と同時に、まったく新しいテーマの『育児と経営』という教育領域の本も書き上げた。

これまで、創作意欲が湧くたびに自分でそれを押し殺した。そんな贅沢なことを考える余裕があるなら、もっとまともに仕事しろと自分に命じてきた。しかし、コロナ禍のお陰で、自分を説得するハードルが一気に下がった――今やりたいことにチャレンジしないと、もう二度とこんな余裕のある日々は来ないぞ、と。また、ウイルスがこの世を狂わせた結果、人生の時間が圧縮され、「今ここで、すぐに始めよう」という考え方しか通用しなくなった。コロナの足音がドアの向こうに近づいてきたからには、「来年からスタートしよう」という甘い考え方は、もはや自分を騙すセリフにしかならない。

一方、デニス・メドウズ博士の言う「成長の限界」(1972年に発表した報告書による)が来たことを、大自然がウイルスを使って人類に警鐘を鳴らしていることに思い至り、僕も立ち止まって心の貧しさを反省する余裕が生まれた。世界が遮断され、人間の行動範囲が狭くなると、視野に入る数少ない物事の価値がかえって貴重な資源と見なされる。それをじっくり観察しながら、想像力を自由奔放に働かせて新しい意味を見つけ、それを自分の心を豊かにする栄養剤にしたいと思い始める。そうすると、日常生活の細やかなことが万華鏡のように光を放つことに初めて気づかされた。

このような体験は特に今年、日本から帰国した際の14日間に及ぶホテルでの「隔離」生活によって記憶に強く刻まれた。広州市内から少し離れたあるホテルでの生活を余儀なくされた僕にとって、外の世界は部屋の窓と同じサイズになった。1日24時間、その窓ガラス越しの日々の風景が僕の最大の楽しみだった。
広州で隔離生活中に窓から見えた光景

繁華街とは無縁の裏道の一角で3棟の無造作に建つ雑居ビルは、いずれも長い歳月にさらされて錆び付いている。人影は少なく、窓際に立つたびに目に入ってくるものといえばせいぜい2、3の人と犬1匹。変化を求めて視点を変え、陽の光に注がれる洗濯物の数々を眺め始める。想像を膨らませると、これまでに気づかなかった色々な発見が僕を楽しませてくれる。

たとえば、朝早く起きて窓の外に洗濯物が万国旗のように高く掲げられた光景を目にすると、今日は1日快晴だと確信する。雨が降っても洗濯物が風に舞ったまま、夜更けまで誰にも相手にされないでいれば、家の主人は独身だろうと推測する。服の色やデザイン、サイズや性別、着古し具合などでそれぞれの家族構成がわかり、さらに目を凝らせば生活の情緒に満ち溢れていることが感じられる。

夕方になると、いつものように窓からスパイスのきいた牛肉の匂いが漂ってくる。僕の目は自然に窓の右下にいく。そこには中年の婦人と10代の子供が、屋台に乗せたかまどで鉄板焼きの牛肉を調理してから、ゆっくりと人力車を押して僕の見えない遠くへ消え去っていく。きっと、どこかのにぎやかな夜市で、幼い子供の呼び声にあわせてお母さんが熱々の串焼きを差し出し、夜市をぶらつく若いカップルに渡すのだろう。そして、僕は寝る前に窓の外のかすかな明かりで母子を乗せた人力車が帰ってきたかどうか確かめてから、安らかな眠りに落ちていく。

隔離生活が終わろうとしたある日、窓の傍に立つ僕の目は、友人が送ってきた記事に釘付けになった。8割を超える日本人が「中国が嫌い」だという調査結果を取り上げたものだった。

読むに耐えず僕は窓から外を眺めた。ある民家のベランダには、この日を境に洗濯物が一変し、突然ベビー服が干されるようになった。きっと新しい生命の誕生が告げられたのだろうと、この小さい発見に僕は抑えきれないほどの感動を覚えた。

一瞬、知識経営の生みの親・野中郁次郎氏の言葉が頭をよぎった。「現象学のキーポイントの一つは、『相互主観性』です。例えば、われわれは同じ絵を見ていても、1人ひとりが主観的に見るので、まったく同じものを捉えているわけではありません…」

ふと、僕は思った。もしも自粛中の日本人の「8割」が今ここで、僕と同じように窓に切り取られたこの風景、庶民の日常の営みを眺めたら、僕への共感が期待できるのではないだろうか。

※本記事は、『和華』第31号「日中100人 生の声」から転載したものです。また掲載内容は発刊当時のものとなります。

■筆者プロフィール:李年古(りねんこ)

日中ナレッジセンター(株)代表取締役。日中ビジネス研修の第一人者。23年間にわたり各大手企業で中国ビジネス研修を実施。著書に『中国人との交渉術』、『中国人の価値観』。『月刊中国ニュース』にて「中国人と信頼関係を構築するためのコミュニケーション技法」を4年間連載。作家として小説等を多数発表。中国の大型文芸雑誌『収穫』に中篇小説「東京時間」、文芸雑誌『作品』に短編小説「星のない夜に、爬行する蝸牛の姿しか見えない」など。

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