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<日中100人 生の声>人間到る処青山有り―高島正人 元『地球の歩き方』プロデューサー

会社がなくなった。 2020年11月16日15時、『地球の歩き方』を制作、発行していたダイヤモンド・ビッグ社は事業譲渡を発表、同年12月をもって社員全員を解雇し、清算することとなった。 第一報は出先の武蔵浦和駅で受けたメールだった。「【重要】社員説明会の開催について」と題されたメールには「15時より大会議室にて、当社の重要事項に関する社員説明会を開催いたします」と簡素な文章が綴られていた。15時まであと4分という間際の時間に送られてきたこのメールを見た瞬間、わたしは「潰れたか、売られたか」と直感した。 思い起こせば、2020年の1月下旬に、『地球の歩き方D08チベット』の打ち合わせを行って取材航空券を押さえたものの、現地観光局がすべての観光事業の停止を決定、都市間の移動制限や施設の閉鎖を発表したことを受けてキャンセル。『D08チベット』改訂版の発行は見送りとなった。続いて、既に制作を始めていた『D01中国』の改訂も延期。数日内には中国関連の歩き方すべての発行を無期延期とする会社の判断が下された。 同年3月にモンゴルとミャンマーの改訂作業を終えたわたしは、担当する中国全土と、ここ10年以上政情不安定で塩漬けになっているパキスタンを含めてすべてのガイドブック改訂業務を失ったため、4月に編集部から編集部付けの管理部門へと異動になった。編集部全体を改組せずわたしだけを外したのは、会社はまだこのときダメなのは中国だけで、それ以外のエリアへの渡航までがすべて不可能になるとは考えていなかったからだろう。しかしその見立ては甘く、先進国と呼ばれる国々が思いのほか感染症に脆いことがはっきりしたときには、もう出版部門全体の売上は激減し、毎年改訂を重ねていくために必要な取材へ出ることもできなくなっていた。 再販制度に守られる出版業界は、本を取次に預ければ、預けた時点で現金が入ってくる仕組みになっている。売れずに戻ってきたら返金するにせよ、本を刷り続けてさえいれば当面の現金は入ってくる。この業界が自転車操業と言われる所以だが、取材に行けず改訂版を出せないとなると、ペダルを漕ごうにも漕ぐ自転車が存在しない。現金がショートすれば即倒産なので、そうなる前に買い手を見つけて売ったのだ。 売られてしまったものは致し方ない。これまでビッグ社を支えてくださっていた外部スタッフのみなさんに対する申し訳ないという思いはあるものの、自分自身はもう隠居でいいと思った。落語に出てくる長屋のご隠居、あれいいじゃないの。根が楽観的で助かった。 ただ、このときのわたしには、簡単に手を離すわけにはいかない請負仕事が残っていた。北海道の人気旅番組をガイドブック風に編み直した小冊子を2冊作る約束で動いていたのだ。1冊目が出たところで会社がなくなり、事業の買い取り先である新会社に2冊目をやる気があるのかないのか判然としないため、不透明になってしまったのだ。コラボ先には迷惑をかけたくない。滞りなく出してから手を離さないと寝覚めが悪い。わたしは新会社の「新入社員」募集の場へ赴き、2冊目の面倒を見させてほしいと依頼した。結果、業務委託として無事に納品を済ませることができた。意を汲んで関わらせてくれた関係者のみなさまには、この場を借りて感謝を申し上げたい。 このように、中国をきっかけとして自らを取り巻く環境が一変したのは、わたしが初めて中国の地を踏んだ1995年からちょうど25年目だった。その当時は25年にわたってなんらかの形で関わるとは思っていなかったたわけで、縁を感じざるを得ない。これからもおそらく関わりは続くだろう。そのとおり今も、以前より親交のあったイベント運営事務局からはポストコロナを睨んだ中国大陸での日中文化交流イベントの、中国からのインバウンド旅行をおもに手がけていた会社の社長からはオンラインによる越境医療サービスやツアー造成の、それぞれお手伝いをするお話しをいただいて関わりが続いている。 並行して、かつてガイドブック制作でお世話になった編集プロダクションさんからは新しく立ち上げるウェブ事業、フリーペーパーを作り続けている友人からは誌面の校正、とあるイベント会場で会った広告会社の社長からは自社の営業や進行管理、制作全般となぜかポップコーンの移動販売、さらに今話題のワクチン接種について集団接種会場の運営――とそれぞれのお手伝いをさせていただき、就職活動も合わせてなかなか多岐にわたる日々を送るようになった。 無職になったら長らく積んでいた本でも読んで、久しぶりにギターでも触って、親の実家の片付けでもしながら、昨年秋に颯爽と登場した孫と戯れつつのんびり過ごすものと思っていたのだが、むしろ自分のことに割く時間はほとんどない。 会社がなくなったときには、定年まであと数年を残して急にリタイアが前倒しになった気分だったが、実際にはそうでもなかった。今は、お声掛けをいただける間、それをありがたく受け取って、もう少しこの地での「出稼ぎ」を続けようという気持ちでいる。 環境に言うことはない。何ができるか、何をするか、ただそれだけなのだ。 ※本記事は、『和華』第31号「日中100人 生の声」から転載したものです。また掲載内容は発刊当時のものとなります。 ■筆者プロフィール:高島正人(たかしままさと) 元『地球の歩き方』プロデューサー。1964年、大阪生まれ。1987年株式会社ダイヤモンド・ビッグ社大阪支社に入社、1997年東京本社へ異動、『地球の歩き方』編集部に配属。2020年12月31日をもって離職。2021年7月現在、ワクチン接種の予約が取れないまま人生2回目の東京オリンピック・パラリンピック(初回記憶なし)を傍観中。

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<日中100人 生の声>分断の時代に自分の力で世界を思い描く―竹田武史 写真家

新型コロナウイルス感染症が世界中にまん延して、もうすぐ2年が経とうとしています。その間、私たちの暮らしで大きく変化したことといえば、マスク越しにしか人と会話しなくなった、海外旅行へ行けなくなった、楽しみにしていた盆や正月の里帰りすら億劫になった…。コロナ禍の行動制限によって変わってしまった生活習慣や生活様式を挙げれば、きりがありません。ですが今、私が強く感じているのは、ウイルスと共に世の中にまん延しつつある、すべてを〝分断〟しようとする力そのものについてです。コロナ禍がもたらしたこの奇妙な現象を薄気味悪く感じているのは、きっと私だけではないでしょう。 思えば、この謎のウイルスへの対応を巡っては、火事場の対立が余りに目立ちました。ダイヤモンド・プリンセス号の乗客への対応、PCR検査の拡充、全国小学校の休校措置、緊急事態宣言の発令など、すべての施策に賛否両論、さまざまな意見が飛び交いました。今年に入ってからは、政府と一部の利権者たちが、ごり押しで東京オリンピック・パラリンピック開催に漕ぎつけようとしたために、「緊急事態宣言」と「まん延防止等重点措置」の連発、休業補償、ワクチン接種のあり方を巡っても様々な対立が生じました。政府の場当たり的な対応が、今まで明るみに出なかったいびつな社会構造を浮き彫りにし、異なる境遇、価値観に生きる人々の対立をかえって煽る結果となってしまっているようです。 ところで、私は東京在住の写真家です。ライフワークとして中国への旅を20年以上続けてきました。そんな私が、昨年以来のコロナ禍で最も思い悩んだこと、それは中国との関係を今後どうするか、という問題でした。都市封鎖された武漢市の病院から送られてくる生々しいニュース映像を初めて目にしたのは、昨年1月に中国・杭州市での撮影取材から帰国した1週間後のことでした。その直後には、謎のウイルスの危険性をSNS上で注意喚起しようとした医師・李文亮さんがクローズアップされました。政府当局者たちが李さんを処分し、隠蔽している間にウイルスはどんどん広まり、李さん本人も感染し、亡くなられたとのことでした。中国政府はいつまでたってもWHOの現地査察を受け入れず、ウイルスに関する情報を提供しませんでした。中国の一部の人たちが防疫対策と世界との協調を怠ったために世界中にウイルスがまん延してしまった、というのが一連の報道から私が理解したことでした。 いったい、なんという傲慢な国だろう…。私は、こんな国に、これまで20年以上も魅了され、夢を追い続けてきたのかと思うと、とても悲しく、恥ずかしい気持ちになりました。もちろん、中国という国のあり様が、日本や欧米諸国と大きく異なることは肌身で感じてきましたが、20年以上も付き合っていると、どちらが良い悪いとは、そう簡単には結論できなくなるものです。とりわけ近年、世界を席巻する新自由主義的な政治・経済のあり方に憂鬱を感じていた私は、曲がりなりにも共産主義思想に基づく政策が実施されていて、地方へ行けばアジア的共同体ともいえる営みがまだまだ健在する中国のような国に、学ぶべきこと、一緒に取り組めることは多々あると考えていたほどでした。ところが、今回のコロナ禍を巡る一連の報道は、これまでの中国への憧憬と親しみをいっきに失望へと変えました。日本人として、これ以上、中国に深く関わることはできない。私的な未練は残しても、社会人としてけじめをつけなければならない。当初、私はそこまで思い詰めていました。 夏頃まで仕事は完全にストップしていて、その間はテレビやネットで情報を収集し、親しい友人たちとも情報交換をしながら、自分なりに今後の対応策を真剣に考えている〝つもり〟でいました。ところが、しばらく経つと、テレビやネットに溢れる断片的な情報にはどこかリアリティが欠如していると感じるようになりました。謎のウイルスについても、専門家と呼ばれる人たちは、実は何も確かなことは分かっていないらしく、結局のところ、おしゃべり好きな人たちが、場当たり的に適当なことをしゃべり続けているとしか思えません。そのような情報から何かを判断し、自分の意思を持つことなどできるはずがありません。以来、テレビやネットで情報収集するのをきっぱりと止めることにしました。 では、自分にとってよりリアルな真実の世界とは…。そう考えた時、これまで20年以上、自分の足で歩き、身体で感じてきた中国に思いを馳せました。そして、次の日から、これまで撮り続けてきた中国の旅の写真の整理を始めました。一枚、一枚の写真と静かに向き合っていると、山や川や田畑や市場の匂い、出会った人たちとの会話、食べ物の味、当時考えていたことまでが鮮明に蘇ってきました。そこには、私自身が体験した、ありのままの中国が息づいていました。どうやら私は、謎のウイルスへの恐怖から平常心を失い、情報の洪水に押し流されて、自分の力で世界を思い描くことをすっかり忘れてしまっていたようです。これでは写真家=真実を写し出す者として失格です…。私は自分を深く反省することで、ようやく心の落ち着きを取り戻しました。 そして今冬、初めてのモノクローム写真作品集『長江六千三百公里をゆく』が完成します。目に見えないウイルスへの恐怖と、情報の洪水によって、人と人、国と国との〝分断〟が加速する時代に、一石を投じることができれば幸いです。2021年12月に発売した写真作品集 ※本記事は、『和華』第31号「日中100人 生の声」から転載したものです。また掲載内容は発刊当時のものとなります。 ■筆者プロフィール:竹田武史(たけだたけし) 写真家。1974年、京都生まれ。1996年に初訪中。翌年から5年間、日中共同研究プロジェクト「長江文明の探求」(国際日本文化研究センター主催)の記録カメラマンとして中国各地を取材。以来、20年以上にわたり中国各地の生活文化を記録する。『大長江~アジアの原風景を求めて』『茶馬古道~中国のティーロードを訪ねて』など著書多数。

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<日中100人 生の声>心の窓―李年古 日中ビジネスコンサルタント

「目が覚めたとき、朝と意外なことのどちらが先に来るのかは分からない」 このややウィットに富んだ言い方が非常に現実味を帯びることになったコロナ時代。1年以上の自粛生活をこなしてきた僕は、人生の生き方から細かい日常生活の営みまで、心理と行動の両面から思いもよらぬ変化を余儀なくされていた。 明日たとえコロナに感染したと告げられても悔いのないように、今日1日をどう生きていくべきか、繰り返し自分に問いかけた。その結果、意外にも心の余裕と迅速な行動が同時に身に付くという変化が生まれた。 かつては仕事に夢中で、燃え尽き症候群の一歩手前までいっていた。一息つくのも無駄だと思っていたのに、コロナのお陰で今では嘘のように暇な日々が続く。そこで書斎の本棚に何年も眠り続けている本を1冊ずつ読み始めた。滅多にない外出時には、体を引っ張るように足が勝手に図書館へ向かう。1年間溜まった図書館の貸出票を重ねると、買い物や外食の伝票よりも分厚かった。 また、ずっと書きたかった本や小説に、あえてパソコンを使わず手書きで取り組み始めた。しかも得意とする純文学系ではなく、ミステリー小説にチャレンジしてみた。と同時に、まったく新しいテーマの『育児と経営』という教育領域の本も書き上げた。 これまで、創作意欲が湧くたびに自分でそれを押し殺した。そんな贅沢なことを考える余裕があるなら、もっとまともに仕事しろと自分に命じてきた。しかし、コロナ禍のお陰で、自分を説得するハードルが一気に下がった――今やりたいことにチャレンジしないと、もう二度とこんな余裕のある日々は来ないぞ、と。また、ウイルスがこの世を狂わせた結果、人生の時間が圧縮され、「今ここで、すぐに始めよう」という考え方しか通用しなくなった。コロナの足音がドアの向こうに近づいてきたからには、「来年からスタートしよう」という甘い考え方は、もはや自分を騙すセリフにしかならない。 一方、デニス・メドウズ博士の言う「成長の限界」(1972年に発表した報告書による)が来たことを、大自然がウイルスを使って人類に警鐘を鳴らしていることに思い至り、僕も立ち止まって心の貧しさを反省する余裕が生まれた。世界が遮断され、人間の行動範囲が狭くなると、視野に入る数少ない物事の価値がかえって貴重な資源と見なされる。それをじっくり観察しながら、想像力を自由奔放に働かせて新しい意味を見つけ、それを自分の心を豊かにする栄養剤にしたいと思い始める。そうすると、日常生活の細やかなことが万華鏡のように光を放つことに初めて気づかされた。 このような体験は特に今年、日本から帰国した際の14日間に及ぶホテルでの「隔離」生活によって記憶に強く刻まれた。広州市内から少し離れたあるホテルでの生活を余儀なくされた僕にとって、外の世界は部屋の窓と同じサイズになった。1日24時間、その窓ガラス越しの日々の風景が僕の最大の楽しみだった。広州で隔離生活中に窓から見えた光景 繁華街とは無縁の裏道の一角で3棟の無造作に建つ雑居ビルは、いずれも長い歳月にさらされて錆び付いている。人影は少なく、窓際に立つたびに目に入ってくるものといえばせいぜい2、3の人と犬1匹。変化を求めて視点を変え、陽の光に注がれる洗濯物の数々を眺め始める。想像を膨らませると、これまでに気づかなかった色々な発見が僕を楽しませてくれる。 たとえば、朝早く起きて窓の外に洗濯物が万国旗のように高く掲げられた光景を目にすると、今日は1日快晴だと確信する。雨が降っても洗濯物が風に舞ったまま、夜更けまで誰にも相手にされないでいれば、家の主人は独身だろうと推測する。服の色やデザイン、サイズや性別、着古し具合などでそれぞれの家族構成がわかり、さらに目を凝らせば生活の情緒に満ち溢れていることが感じられる。 夕方になると、いつものように窓からスパイスのきいた牛肉の匂いが漂ってくる。僕の目は自然に窓の右下にいく。そこには中年の婦人と10代の子供が、屋台に乗せたかまどで鉄板焼きの牛肉を調理してから、ゆっくりと人力車を押して僕の見えない遠くへ消え去っていく。きっと、どこかのにぎやかな夜市で、幼い子供の呼び声にあわせてお母さんが熱々の串焼きを差し出し、夜市をぶらつく若いカップルに渡すのだろう。そして、僕は寝る前に窓の外のかすかな明かりで母子を乗せた人力車が帰ってきたかどうか確かめてから、安らかな眠りに落ちていく。 隔離生活が終わろうとしたある日、窓の傍に立つ僕の目は、友人が送ってきた記事に釘付けになった。8割を超える日本人が「中国が嫌い」だという調査結果を取り上げたものだった。 読むに耐えず僕は窓から外を眺めた。ある民家のベランダには、この日を境に洗濯物が一変し、突然ベビー服が干されるようになった。きっと新しい生命の誕生が告げられたのだろうと、この小さい発見に僕は抑えきれないほどの感動を覚えた。 一瞬、知識経営の生みの親・野中郁次郎氏の言葉が頭をよぎった。「現象学のキーポイントの一つは、『相互主観性』です。例えば、われわれは同じ絵を見ていても、1人ひとりが主観的に見るので、まったく同じものを捉えているわけではありません…」 ふと、僕は思った。もしも自粛中の日本人の「8割」が今ここで、僕と同じように窓に切り取られたこの風景、庶民の日常の営みを眺めたら、僕への共感が期待できるのではないだろうか。 ※本記事は、『和華』第31号「日中100人 生の声」から転載したものです。また掲載内容は発刊当時のものとなります。 ■筆者プロフィール:李年古(りねんこ) 日中ナレッジセンター(株)代表取締役。日中ビジネス研修の第一人者。23年間にわたり各大手企業で中国ビジネス研修を実施。著書に『中国人との交渉術』、『中国人の価値観』。『月刊中国ニュース』にて「中国人と信頼関係を構築するためのコミュニケーション技法」を4年間連載。作家として小説等を多数発表。中国の大型文芸雑誌『収穫』に中篇小説「東京時間」、文芸雑誌『作品』に短編小説「星のない夜に、爬行する蝸牛の姿しか見えない」など。

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<日中100人 生の声>中国に住む日本人から見た「東京2020」への失望―竹内亮 ドキュメンタリー監督

私は中国に住むドキュメンタリー監督だ。光栄にも中国で多くの作品が認められ、最近、雑誌『NEWSWEEK』の「世界に尊敬される日本人100」に選ばれた。 今回、私は東京オリンピックのドキュメンタリーを制作するため、6月に成田空港に降り立った。実に1年半ぶりの日本である。この作品を撮るためなら約1カ月半(日本で14日間、中国で28日間)に及ぶ隔離生活も厭わないと思えた。 まず驚かされたのは、空港でPCR検査を終えたあと、全くと言ってよいほど管理を受けなかったことだ。出発前にネット上で「公共交通機関には乗らないでください」という規定を見た。行動履歴をチェックするアプリもダウンロードしたが、海外から来た人全員の行動を24時間チェックすることは可能なのだろうか……。私は規定の通り、感染防止対策を施したタクシーで千葉の郷里に帰った。料金は2万円だった。神奈川や埼玉であれば、いったい幾らかかるのだろう。電車やバスなら数千円で済むものを、すべての人が数万円を支払い、規定に従っているのだろうか……。ちなみに中国では全員が専用バスに乗せられ、隔離ホテルに直行する。この時、痛切に感じたのは「日本の感染対策は、完全に個人任せである」という現実だった。 7月中旬に4回目となる「緊急事態宣言」が発令された時にも同じ事を感じた。「緊急事態宣言」という言葉の響きから大変な状況を想像していたが、蓋を開けてみると、言葉遊びとしか思えなかった。例えば8時以降も店を開き、酒を提供している店がたくさんあり、しかも、それらの店は大方繁盛していた。規定に従い8時に閉店する店は倒産の危機に陥り、従わない店は繁盛する。日本社会全体がコロナを巡って分裂しているように思えた。 一方、中国では「社会全体でコロナと戦おう」という意識が徹底している。厳しい隔離政策にも異を唱える人はほとんどいない。皆が医療従事者を応援し、医療従事者も社会のために自ら望んで第一線に立っている。ところが日本のメディアは相変わらず、〝中国政府は高圧的な命令により、個人の自由を奪っている〟という論調である。 6月末から8月上旬まで、私は1カ月半に渡って東京オリンピック関連の物語を撮影した。その現場では日本人が得意とする穏やかで優しい「おもてなしの心」よりも、心に余裕を失ったギスギスとした雰囲気ばかりが伝わってきた。 例えば、ボランティアの制服は、日本人のサイズでしか作られておらず、体型の大きな欧米人にはまったくフィットしない。私が取材したある大柄な中国人ボランティアは2枚支給された制服を半分ずつ切って縫い合わせて使っていた。 さらに酷かったのは、外国人ボランティアの中にはムスリムや菜食主義者もいたが、彼らに支給される弁当にも毎日、肉が入っていたことだ。毎日食べられるものがなく、自分で弁当を持ち込むこともできない(日中ずっと外にいるので、弁当を持参しても、夏の暑さで腐ってしまう)ボランティアたちは、数千人のボランティアと大会関係者が繋がるLINE上で、「ハラール弁当(ムスリムの戒律に沿って作られた食品)やベジタリアン弁当を用意してくれないか」と訴えた。この切実な訴えに、大会関係者と思われる日本人(私が見た会話履歴には各人の身分は書いておらず、責任者かどうかは確定できない)が放った一言は、「ワガママを言うのなら、ボランティアを辞めてください」というものだった。私は外国人ボランティアの友人からこのLINE会話履歴を見せられた時、言葉を失った。オリンピックは世界最大の〝国際交流〟イベントだ。世界中から集まる多様な文化背景を持つ人々の習慣を、「ワガママ」と言って無視する態度にはあきれる他なかった。 世界中のスポーツ記者が集まるメディアセンターは、ネット環境が最悪だった。共有WiFiのIDが一つしかなく、速度も致命的に遅かった。記者たちは仕方なく自分でWiFiカードを購入して使っていた。今回のオリンピックにかかった費用は史上最高額だというが、一体どこにお金が使われているのか不思議でならなかった。オリンピック委員会で働く友人は「上司たちは直ぐに〝コロナだから〟を言い訳にする。この都合の良い印籠がある限り、少々のことで彼らが責任に問われることはない」と話した。外国人記者が集うメディアセンター ある日、私は積もり積もった不満を友人の中国人記者に吐露した。すると、彼女は「愛之深責之切」と切り返して来た。「あなたは日本を愛しているから、怒りが湧いてくるのよ」私は日本人として中国に住み、日本の文化を中国人に伝えて来た。日本人の細かい気遣いやおもてなしの心を誇りに感じてもいた。しかし、今回のオリンピックでそれが全く見られなかったことが残念でならなかったのだ。 後日、日本の友人との会話では「君が言うように〝国際感覚に疎い人〟ばかりかというと、そんな事はない。不幸なのは、〝国際感覚に優れた人〟がオリンピック委員会にほとんどいなかった事だ」と言われ、確かにそうだと思った。一番の問題は、組織上層部が頭の古い高齢者ばかりだという事。それはオリンピック委員会に限らず、政治でも大手企業でも見られる日本全体の問題であり、この現状を変えないと、日本は今後ますます世界の潮流に乗り遅れていくだろう。私は中国に住む日本人として、今後も外から見た日本の現状を「愛之深責之切」の思いで伝えていこうと思う。 ちなみに、文章中のいくつかのシーンは、配信中のオリンピックドキュメンタリー「双面奥運」(日本語名「東京2020・B面日記」)に登場するので、是非ご覧になってください!https://youtu.be/eDGVicG-HeE(オプションで日本語字幕を選択できます) ※本記事は、『和華』第31号「日中100人 生の声」から転載したものです。また掲載内容は発刊当時のものとなります。 ■筆者プロフィール:竹内亮(たけうちりょう) ドキュメンタリー監督。テレビ東京「ガイアの夜明け」や、NHK「長江」等を制作。2013年、中国南京市に移住し映像制作会社「ワノユメ」を設立。『私がここに住む理由』、『お久しぶりです、武漢』、『ファーウェイ100面相』などを制作し、大ヒットとなる。中国SNSウェイボーのフォロワー数は469万人。

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<日中100人 生の声>コロナ禍が教えてくれたもの―瀬野清水 日中協会理事長

コロナ禍での開催を巡り日本の世論を大きく分けた2020東京オリンピックは予定通り開催された。東京では緊急事態宣言下という異例ずくめの幕開けになったが、開会式には世界205カ国・地域、団体から1万1000人が参加した。史上最多となる33競技339種目にゴールドメダリストが誕生することになる。大多数の会場は無観客競技となったが、それでも開会式の視聴率が56.4%と1964年の東京大会に次ぐ高さを記録したという。大手メディアにはオリンピック開催に強く反対したところもあったようだが、いざ始まってみると興奮と感動が日本列島を覆うようになった。お祭り騒ぎの気のゆるみとデルタ株という変異ウイルスの出現からか、コロナの感染者数も国内で1日1万人を超える最多記録を更新した。2021年7月末現在、世界ではコロナの感染者が2億人を超え、400万人以上が死亡している中でのオリンピック開催だった。 この感染の広がりは14世紀のヨーロッパを襲ったペストの流行やちょうど100年前のスペイン風邪のパンデミックを想起させる。ペストの流行はその後、教会の権威を失墜させ、人間の存在こそが最大の価値と考えるルネサンス運動がイタリアを中心に沸き起こった。スペイン風邪もその収束とともに、人々は個人の生命と自由を守るには国家の安全こそ最重要と考えるようになり、多くの国は軍事力と経済力の強化に取り組むようになった。そして軍事力競争の結果、人類は地球を何百回も破壊し尽くせるほどの核兵器を保有するに至り、恐怖の均衡の上に平和が築かれる世界が出現した。経済力の競争は、世界の上位26人が下位38億人分の富を保有し、富裕層があと0.5%でも多くの税金を払えば貧困問題は解決するとまでいわれるほどの欲望の拡大と富の偏在をもたらしている。武漢応援ブースに掲げられた幕 21世紀に入り、通信技術や人の移動手段が長足の進歩を遂げた結果、新型コロナウイルス感染症の蔓延は、人々に否応なく人類は運命共同体の中で生きているという事実を教えてくれた。仮に一国でゼロコロナを実現させたとしても、周辺の国々にコロナが蔓延していては、到底安心安全とは言えないからだ。人類が運命共同体の中で生きているとして、その構成員は何をなすべきであろうか。私には、新たな時代には新たな形態の競争が始まるべきことを今回のコロナ禍が教えてくれているように思われてならない。新たな競争とは、経済力と軍事力ではなく、欲望をコントロールし自他ともの幸福を築く競争であり、利己ではなく、利他の競争であり、悪意と敵意ではなく、善意と人道の競争である。 今回のコロナ禍は、中国の武漢を中心に急激な感染が広がり、マスクや防護服が不足し始めたと聞きつけた日本人が「武漢頑張れ!」の声援とともにマスクを贈ったり募金を始めたりした。逆に、中国が落ち着きを見せ、日本にマスクが足りなくなると、中国から大量のマスクが贈られて来るようになった。武漢 中国頑張れ」と書かれた募金箱 私は2020年の2月、池袋西口公園の野外劇場グローバルリングにて、多文化共生社会の理解を深めるために太陰暦の最初の満月を共に祝う趣旨で開催された「満月祭」に行った。そこで赤いチャイナドレスの少女が募金活動をしている様子を見かけた。私はてっきり中国の人だろうと思いながら声を掛けると、なんとその子は日本の中学生だった。中国に留学経験のある日本人の母親の後ろ姿を見ながら育った少女は、母親が作ったチャイナドレスを身にまとい、募金をしてくれた人に深々と頭を下げていたのだ。肌寒い北風の中を朝から日が暮れるまで、誰にいわれた訳でもなく、ただ中国のために自分にできる何かをしたいとの思いだけで、道行く人に90度のお辞儀をしている姿は感動的でさえあった。人道の競争というのはこういうことではないだろうか。 日中両国の友好団体がお互いに救済物資を寄贈 他人の痛みを対岸の火事と見て同情するのはたやすいが、今、目の前で起きていることを自分ごととして行動を起こすには、急にハードルが高くなる。大きな勇気を必要とするが故に、それを見る人にも共感と感動を与えるのであろう。 オリンピック選手の活躍に、それまで開催に反対していた人までが感動の渦に巻き込まれているのに似ている。かつて映画俳優の高倉健さんが山田洋次監督に「芸術というものは、どういったものと思われますか」と質問したエピソードが残っている。山田監督は「それに接した人が、自分も自分の世界で頑張らなきゃいけないと、励まされるようなもの」と答えている(『高倉健インタヴューズ』野地秩嘉著、小学館、2016年)。説得でも強制でもない。「それに接した人が、自分も自分の世界で頑張らなきゃいけないと、励まされるようなもの」は芸術・文化の世界に限るまい。オリンピックで活躍する選手の姿も、赤いチャイナドレスの少女も、スポーツや人道の世界には、それに接する人の魂を鼓舞し、感動と共鳴の連鎖反応を生み出す力があるのだと思う。 ポストコロナの時代は、米中両大国の間でも競争と協力が並行する時代といわれている。協力は素晴らしいが、競争は軍事力ではなく善意と人道の競争であってほしい。コロナ禍で肉親にさえも看取られる事なく死んでいった幾百万の感染者の死を無駄にしないためにも。 ※本記事は、『和華』第31号「日中100人 生の声」から転載したものです。また掲載内容は発刊当時のものとなります。 ■筆者プロフィール:瀬野清水(せのきよみ) (一社)日中協会理事長、成渝日本経済文化交流協会顧問。1949年、長崎県生まれ。元在重慶日本国総領事。1975年、外務省に入省。北京、上海、広州等、中国の大使館、総領事館で通算25年在勤。2012年、退職後、(独法)中小機構国際化支援アドバイザー、大阪電気通信大学客員教授、(一財)MarchingJ財団事務局長等を歴任。