宇宙と儒教はどう共鳴するのか、アメリカの学者に聞く
作者:メアリー・イブリン・タッカー氏
米国イエール大学環境学院、神学院、宗教学系上級講師
人類は、進化とは何か、それが何を意味するのかについて理解しようと努力してきた。進化は、数十年にわたる現代科学の研究において最も驚くべき発見の一つであるが、チャールズ・ダーウィンが著書『種の起源』の中で初めて生物進化論を唱えてからまだ約160年しかたっていない、新しい概念である。同様に、20世紀の科学者たちが発見した「宇宙進化論」も一般的にはすこしずつしか理解が進んでいない。
宇宙の中に起源を見つける前に、わたしたちは進化を受け入れなければならず、進化を創造力で織り成された継続的なプロセスとみなし、自分自身を宇宙、地球および人類というダイナミックな全体の一部とみなされなければならなかった。その中で、儒教思想は、人類そのものをより広大な宇宙と地球という意味の中に位置づけるかけがえのない架け橋である。
1978年、文化史学者で生態学者のトマス・ベリーは著書『新たな物語』の中で、西洋では環境保護主義者を除けば、生命共同体に対する責任についてほとんど言及されていないことを指摘した。自然の潜在的価値は疎外され、自然の道徳的価値はほとんど無視されている。自然の美的価値や娯楽的価値は認められるが、自然そのものの深層的価値は反映されていない。これに対して儒教は、自然の持つ道徳的価値こそが世界観の基盤であると捉えている。
存在の継続性を尊重する宇宙論および倫理学を受け入れ、より完全な倫理学的意味を理解するためには、どのように前進すればいいのだろうか。科学と宗教の融合は、このための新たな機会をもたらしたと思う。
まず、全体を包含し、生態系の中の複雑な相互関係を肯定する体系的な科学を重視すべきである。そこでは、自然の活力およびその他の種の認知に関する研究が次々に行われている。同様に、生物界において、樹木と森に関する理解も急速に進んでいる。
その次に、科学的な理解は、先住民の生活方式や儒教思想というようなほかの伝統的な宇宙観と生態学的な世界観によって補完することもできる。
儒教思想はその歴史を通して、成長し続ける宇宙観および生態学的世界観を高く評価してきた。それは人間と自然のリズムの調和を促す『易経』、天地人の関係に関する漢儒教の解説、宇宙や地球の起源と流れを太極図で表した道教など古来よりあるものである。進化論的宇宙論の議論では、科学と精神的なヒューマニズムの視点を織り交ぜるために、この伝統的で豊かな宇宙論的資源に焦点をあてる必要がある。
儒教の宇宙観は、精神的なヒューマニズムの表現(すなわち、信託社会、自己修養モデル、および礼儀と音楽の実践)のために全体的な背景を提供する。これらの形態の精神的ヒューマニズムは相互に関連しており、それらは人間と拡大し続ける相互に関連する生存環境の間に共鳴を呼び起こす。
現代の新儒教学派を代表する杜維明は、儒教の世界観の宇宙論的方向性は、宇宙、すべての生命体の間に「存在の継続性」を含め、自然および人間界が不可分であると考えていた。天、地、人は有機的、総体的、動態的、連続的な世界観の一部である。人類と宇宙のこのような切り離せないつながりを「天人学」という言葉で表現した。
人間は、コミュニティの複雑な倫理システムを通じて相互につながり、より大きな宇宙の秩序と結びついている。互恵的な「忠恕の道」は儒教倫理のキーポイントであり、儒教社会の共同体基盤を発展させる方法でもある。このようにして人びとは緊密に結びついた「信託社会」となることができる。
この中で、儒教のヒューマニズム的精神の目標は、完璧な人格をもった人間になるための道徳的改造である。また、まさに杜維明が考察したとおり、この精神的な自己変革のプロセスは一種の公の行為である。個人の救済を目的とした精神的な道ではなく、常に修正し、個人の美徳を育成するプロセスである。この修行の究極の目的は自己の宇宙的存在を獲得することだ。
自己の宇宙的存在を実感するというのは、人間が互いに思いやり、社会のニーズに応え、礼儀や音楽を通じて自然界と調和していくことを意味する。儒教文化の中には、孔子廟での「礼」のほか、公式な国の「礼」がある。しかし、儒教の伝統では、日常のコミュニケーションにおける「礼」が最も重んじられ、その「礼」を通じて人間関係を改善し向上させることを目的としている。初期の儒教思想家である荀子は、「礼」は適切な状況下で適切な方法で人間の感情を表現するためのツールであると考えていた。さらに「礼」は人間同士をつなぐだけでなく、政治秩序、自然の季節の循環や宇宙そのものなど、人間と現実のほかの重要な次元とつながっている。
個人レベルでは、儒教の精神的ヒューマニズムにおける修養の全プロセスは、真剣な学び、批判的な自己反省、持続的な努力および自己変革の意思を通じて「至誠」(『中庸』)を達成することを目的としている。杜維明はこれを「体知」(体認)と呼んでいる。無批判に他人の考え方を吸収したり、他人に感銘を与えようとしたりするのではなく、自分自身のために学ぶことが必要不可欠である。従って人間は常に変化することによってのみ、天地の創造力と生成力を調和させることによってのみ、自分の本質を悟ることができるのだ。このように宇宙の変化と同調するプロセスが、儒教の精神的ヒューマニズムの源と考えられ、さまざまな形で自己修養に表現される。
中国宋代の大儒である朱子やそれに続く新儒者は、変化は宇宙と人間の変容の源であり、すべての道徳や美徳は宇宙論的要素を持つと考えた。例えば、人間性の核となる美徳(誠)は、個人と宇宙の増殖と成長の源であるとみなされた。人間として最善を尽くすことで、自分自身や社会、宇宙の事物の変化に影響をおよぼすことができる。「慈悲深い人は万物と一体である」という現実への深い共感により、自己の宇宙的存在を実感するのである。
朱子は、これらすべてが人間の「気」と宇宙の「気」の相互作用のプロセスの一部と考える。生命とエネルギーの流れは、「気」(物質的な力と生命エネルギー)であり、それは植物界、動物界、人間界を統合し、宇宙のすべての元素にも浸透している。ひとたび人の心が動かされると、それは必ずや「気」となり、「気」を閉じたり、行き来したりしながら、相互に刺激しあい作用しあう。
到達し、閉じたり、行き来したりしながら、相互に刺激しあわなければならない。このように儒教の宇宙観では、人は孤立した個体ではなく、宇宙と地球の創造のプロセスに深く根差した人間である。
11世紀の新儒教の哲学者張載(1020-1077)は、著書の『西銘』で次のように考えを明らかにしている。「乾(天)は父といわれ、坤(地)は母といわれる。わたしはちっぽけなものであり、すべての真っ只中にいる」隠喩にすぎない言葉であるが、科学の真相が現れている。生命は恒星のダイナミックな生成および複雑に交錯する生態系のマトリックスから生まれる。したがって、中国の伝統的な文脈における「家」とは、人間が生まれ帰属する宇宙や地球が有する創造的な力のことである。親孝行が宇宙や地球全体に敷衍されることは単に隠喩のイメージを喚起するだけでなく、生命の延長としての宇宙論的、生物的な条件でもある。
私たちの使命は、社会だけでなく宇宙や生態系に全体感や帰属感を持つことである。同様に、2000年に発表された世界的な倫理文書『地球憲章』の前文では「人類は常に進化している広大な宇宙の一部である。地球は私たちのすみかであり、類まれな生命共同体で満ちあふれている」と指摘している。
儒教思想は、進化論と生態学を両立する非常に豊かな宇宙観をはっきりと提示している。儒教に述べられているように、宇宙と地球は私たちの故郷であり、絶大な創造力を持った子宮である。地球のすべての生命体は数十億年という宇宙の進化により生まれたことが、現在科学的に解明されている。地球の薄い大気層が生命を育むための条件となったのである。
儒教思想の「存在の継続性」の理解はより強固な宇宙倫理や宇宙政治の基盤を築くに違いない。このような倫理や政治の根底にあるのは、生命の要素を育む宇宙への畏敬や尊敬であり、生命を維持し進化させる地球共同体としての責任と互恵である。これらすべては互いに補強する共同創造者として広大な宇宙の変化に関与するために不可欠である。この宇宙はまさに私たちの家なのだ。(完)
著者略歴
メアリー・イブリン・タッカー氏
エミー賞とピューリツァー賞を受賞した米国イエール大学環境学学院、神学院、宗教学系上級講師兼上級研究員。オリオンマガジン、ガリソン研究所および米国グリーンベルト運動の諮問委員会に参加。専門研究領域はアジアの宗教。1997年からハーバード大学ライシャワー日本研究所研究員。儒教関連の著作『日本新儒教の道徳と精神修養』『気の哲学』、杜維明との共同編著『儒教の精神』全2巻。(翻訳:李年古)