開通1400年の中国大運河は「生きている」―芸術家が独自の美学も交え魅力と価値を語る
北京と浙江省杭州市を結ぶ総延長2500キロの京杭大運河が完成したのは西暦610年だった。日本では聖徳太子が活躍していたとされる時代だ。京杭大運河は2014年、世界遺産リストに登録された。朱炳仁氏はリスト登録を目指す運動の立ち上げに、他の二人とともに奔走したことでに「運河三老」の一人と呼ばれるようになった人物だ。朱氏はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、京杭大運河の魅力や価値を説明した。朱氏は中国政府にも重視される伝統美術工芸の銅彫の代表的な伝承者だ。それだけに運河の美についても芸術家ならではの見方があるようだ。以下は、朱氏の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成した文章だ。
■素人の私も大運河保護の運動で貢献ができた
中国の大運河は中華民族の血脈であり文化の命脈でもある。1400年余りにわたり、華北を流れる海河、中国北部を流れる黄河、中国の南北に分けるとも言われる淮河、中国で流域面積が最大の長江、浙江省を流れる銭塘江の五大水系を結び、国家や民族の統一、経済社会の発展に重要な役割りを果たしてきた。
私は、運河や水利の専門家ではない。2005年に鄭孝燮先生と羅哲文先生と共に、京杭大運河が流れる18市の市長に公開書簡を送り、ユネスコの世界遺産登録の運動に加わるよう呼びかけたという立場だ。その後、全国政治協商会議の委員58人に賛同していただくなどで、運河の世界遺産登録という夢がかなった。
今考えればあの運動は、中国における文化遺産保護を指し示す役割を果たした。それ以前の中国で、社会は文化遺産を十分に重視していなかった。多くの人は、文化遺産を自分とはかけ離れた存在と考えていた。
しかし運動を起こしたことで、京杭大運河のほとりに住む3億人が、身近に接してきた運河が、どれほどの文化的価値を持つのか知った。そして、文化遺産は後世に残さねばならないと、熱い思いが全国に広まった。長期的に見れば、中国でこのような認識が確定したことは、全世界の文化遺産を保護する仕事にとっても大きな意義がある。
京杭大運河
■運河とは人々の生活と奮闘努力の記録
私は浙江省杭州の出身で、子どものころから大運河のほとりで暮らしてきた。だから、大運河については美しい記憶と深い愛着がる。2006年に大運河の調査をしたのだが、河道すら消失していたり、汚いどぶ川になってしまった場所もあるなど、悲惨な状態だった。
現在は状況が一変した。沿岸都市はいずれも、保護についての責任感を持ち、制度や計画を定めて必要な措置を取っている。
大運河は現在でも利用されている。中華の地を流れる大運河は、人と人、人と大自然、人と歴史、人と文化など緊密な関わりのなかで、沿岸住民の生活に溶け込んでいる。また、中国以外にも大規模な運河がある国もあるが、いずれの場合も運河は人々の生活と奮闘努力を記録してきた。
■使われ続けてこそ運河の「景観美」は完全なものになる
西洋が造った運河と比べれば、中国の大運河には中華の伝統文化と強く結びついている特徴がある。例えばスエズ運河もパナマ運河も、水運に利用という機能性に特化している。中国の運河が、経済産業への貢献という比重を減らしていった時期に、外国の運河は機能性を強化していった。
「運河」にとって「運」の機能は重要だ。大運河の保護については、船が歴史的な石造アーチ橋に衝突して破損するリスクを恐れて、迂回水路を造って新たな航道を設けて、船が橋に近づくことを禁止した事例もある。しかし、橋が保護されたと言っても、その部分では「運河」の「運」が死んでしまうことになる。船が全く通らず橋だけが残された景観は、あまりにも寂しい。航行する船の大きさと通行量をきちんと制限すれば、橋の保護と両立するはずだ。
私は大運河の周辺に「空白」を残すことを主張している。必要に応じて「開発ゼロ」、「使用ゼロ」、「介入ゼロ」を適用するのだ。街全体に手をつけるなというのではない。例えば大運河に沿った民家は、リフォームする場合でも前からの外観を残すようにするなどだ。大運河の周囲を、できるだけ「手つかず」に近い状態にして、次の世代に残す。そこに、古い時代を想像できる空間を残しておく。これはちょうど、水墨画が余白の部分を重視するのと、同じことだ。(翻訳:Record China)