シルクロード形成前にも東西交流が存在した―専門家が紀元前の世界を解き明かす

古代におけるユーラシア東西の交流と言えば、シルクロード交易を連想しがちだ。しかし、東西の交流はそれよりずっと古い時代に始まっており、その実態は商取引ではなかったという。中国人民大学歴史学院の韓建業教授はこのほど、中国メディアである中国新聞社の取材に応じて、極めて早い時期の東西交流について説明した。以下は韓教授の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

有名なシルクロードが形成する前からユーラシア大陸の東西の交流は存在していた。交流は各地の文化文明の発達を促進したという。写真は四川博物院で2022年に開催された長江流域青銅文明特別展。

■人類初の文明、中東にやって来た東洋人が興した可能性

古代文明は、初期東方文明、初期西方文明、そして米大陸の中米文明の三つに大別できる。西方で「文明の火」を最初に灯したのはシュメール人だった。シュメール人が使ったくさび文字を解読すると、彼らは自らを「東から来た黒頭人」と称していた。「黒頭」とは黒い髪の毛のことと理解できる。

シュメール文明が発生したのは現在のイラクだ。今、現地で主に使われているアラビア語は、アフロ・アジア語族に分類される。隣国のイランで使われるペルシャ語はインド・ヨーロッパ語族に分類される。しかし言語学者によればシュメール語はどちらの語族にも属さず、東洋の漢チベット語族やアルタイ語族と密接な関係がある。最初の西方文明が東方からもたらされたかどうかは非常に興味深い話題であり、研究を進める価値がある。

人類の発祥の地はアフリカ大陸であり、そこから全世界に広がったわけだが、この大移動が一段落した後の新石器時代にユーラシアなどの東西交流が存在したかどうか、現時点で十分な証拠はない。

中国と西アジアでは新石器時代の紀元前6000年には彩陶が出現していた。両地域の彩陶は紀元前4000年ごろまでは驚くほど似ていた。しかし、遠く離れた両地域に交流があった証拠は見つかっていない。

ユーラシア東西の交流は、紀元前3500年ごろの青銅と石器の併用時代には始まっていたことが明らかになっている。

現在から1万1700年ごろから紀元前2世紀にかけてのユーラシアでは大きく三つの文化圏が成立していた。中国の黄河と長江を中心とする初期東方文化圏と、チグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミアを中心とする初期西方文化圏、そしてユーラシアの東西にまたがる草原地帯を主たる領域とする初期北方文化圏だ。

なお、文明が成立する要件には一定以上の規模の社会を運営する能力などが含まれる。文化とはその社会や集団に属する人々に共通する行動様式や発想の様式だ。つまり文化は文明に先行して登場することになる。

■初期北方文化圏は特異な存在、後に東西交流の主たるルートに

初期東方文化圏と初期西方文化圏はいずれも中緯度地帯にあり、降水量が比較的多かったなどで、穀物栽培を基礎とする文明が発達した。両者が東西に分かれたことには、ヒマラヤ山脈が障害になったことが大きく影響した。

初期北方文化圏は高緯度で気温が低く、草原や森林が広がるために狩猟採集や牧畜に適していた。東西の移動に大きな障害はないので時代が下ると、東西交流の主要な通路になった。

中国まで到達するシルクロードの利用が本格化したきっかけは、漢武帝の命を受けて張騫(生年不明、紀元前114年没)が西域の戦略的探査を行ったことだった。しかし紀元前3500年ごろには、東西の文化交流は始まっていた。ルートは草原を通る北道、オアシスをつたって砂漠を進む中道、高原地帯を進む南道だった。

北道を通って東欧や南ロシアの草原文化が中国の新疆の北西部まで到達したが、中国の内部にそれ以上浸透することはなかった。中央アジアの南部の彩陶は中道を通って散発的に甘粛省や青海省にまで至った。中道を通って赤牛や綿羊も中国北西部にもたらされた。

人類が青銅器を主に使うようになると、東西交流はさらに盛んになった。これが東西交流の第2段階だ。まずは西から東に青銅の冶金技術が伝わり、次に東で工夫された技術が西にもたらされた。また中国で発生した「青銅器革命」は、成熟した王国の出現を促す一定の作用があった。

人類が鉄器を使うようになると東西交流も一つの成熟期を迎えた。ユーラシア草原の芸術や宗教概念が黄河流域、さらには長江流域にも浸透した。逆に中国の典型的な文化要素が南シベリアなどにも伝わった。このような交流が、秦が戦国時代を終結させ全国を統一する大帝国に成長したことに影響したかもしれない。

最も早い時期の東西文化交流は、人々が生活空間を徐々に広げ、移動することでもたらされた。「交易品が運ばれる」のではなく、人の移動に伴って技術や思想が伝わった。そして各地の文化は、他地域からの文化がもたらされることで発達が促された。

■定住と農耕により形成された東アジア人の性格

文明の進化と文化交流は互いに補完しあう。早い時期の東西文化交流によって各地に根付いていた文化の基礎が根底から覆ることはなかったが、東西それぞれの文明の形成と発展を促す作用があった。

初期東方文化圏の中心は中国の黄河や長江の流域だ。そして南東部分は東南アジアや太平洋諸島を含み、東は朝鮮半島と日本列島に及び、北はユーラシア草原、西は中央アジアに達した。

中国の長江流域南縁では1万5000年前に稲が栽培されていた。華北地方のキビの栽培は1万年以上の歴史がある。また、中国では少なくとも9000年前には豚が飼育されていた。東方文化圏の共通点であり基盤でもある要素は定住と農業だ。中国の黄河、長江、遼河流域の大部分は、紀元前4000年には農業主体の社会が形成されていた。色とりどりの彩陶はさらに早い時代から作られていた。漆器や絹も出現した。人々の日常生活は豊かになった。多く存在した集落の中で、広い社会の中核となる集落が出現した。社会の階層も分化し続けた。

中国で発生した大規模で階層のある社会、定住、農業経済は東アジアの人々の考え方に影響を与えた。発想が安定しており内省的であることや、天や祖先を敬う概念などだ。紀元前3000年ごろには人々の衝突がかつてなかったほど激烈になり、社会が急速に複雑化した。これが初期中国文明を完成させた。

中国文明は、外来のものを含めて、数千年をかけて蓄積した文化の遺伝子と豊富な歴史記憶がある。その点は、現在の世界の他の文明と異なっている。(翻訳:Record China)

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