Category: 論説・主張

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【東西文明比較互鑑】戦国時代とギリシャ(3)連合より自治重視の都市国家

アレクサンドロス大王による統一運動 紀元前325年、アレクサンドロス大王はエジプトとペルシャを征服したギリシャの精兵を率い、はるかインド・パンジャーブ地方のビアース河畔にたどり着いた。川を渡ればインド全域、ひいては中国だ。彼は前進を続けるようあふれるような思いで将兵を鼓舞したが、重い戦利品を運んでいた戦士たちはそれ以上東へ進もうとしなかった。アレクサンドロス大王は河畔の夕日に向かって激しく泣き、引き返すほかなかった。彼は2年後に病死した。 アレクサンドロス大王の東征はギリシャから出てきた統一運動だ。ギリシャの統一運動はポリス〔都市国家〕の危機から生まれた。今日、西洋が深く懐かしむギリシャ古代文明とは、実際のところ民主制度の最も偉大な成果を代表するアテネの歴史の短い期間、すなわちペリクレスが政治をおこなった黄金時代のことにすぎない。ごく短い数十年の黄金時代の後、ポリスは絶え間ない内部抗争に陥っていった。 100年続いたこの混乱した局面の中で、次のような声が次第に出てきた。各ポリスは限りある資源を奪い合わず、外部に向かって団結し、ペルシャを征服して植民すべきだ。そうすればギリシャは永遠の平和を獲得できる。 最も高らかに声を上げたのはアテネ最高の雄弁家イソクラテスとギリシャ最高の哲学者アリストテレスだ。 イソクラテスは紀元前380年に発表した「パネギュリコス〔オリンピア大祭演説〕」の中で、「同じ源泉から利益を得て同じ敵と戦うまで、ギリシャ人は仲良く暮らすことができない」「そのため、私たちは必ず全力で速やかに戦争をここからアジア大陸に移さなければならない」と述べた。 現代の歴史学者はこの考え方を「汎ギリシャ主義」あるいは「大ギリシャ主義」と呼ぶ。その根本的な原動力は土地不足や人口過剰の解決だ。ギリシャ文明の伝播は単なる副次的な結果だった。これは後世の西洋における帝国主義思想の原型になった。イソクラテスは帝国主義を打ち出した最初の人物だ。 しかし、彼が40年間呼び掛けても、アテネは終始全く耳を貸さず、むしろ引き続きスパルタやテーベ、マケドニアを攻撃しようとし、団結してペルシャと戦おうとはしなかった。 イソクラテスは最終的に諦め、マケドニア国王ピリッポス2世にギリシャ統一を公然と呼び掛けた。彼は有名な戦略をピリッポス2世に提案した。「ほかのペルシャ総督にペルシャ国王の束縛から抜け出すよう説得する必要があります。その前提は彼らに『自由』を与え、さらにそうした『自由』の恩恵をアジア地域に及ぼすことです。なぜなら、『自由』という言葉がギリシャ世界に入ってくれば、私たち〔アテネ〕の帝国とラケダイモン〔スパルタ〕人の帝国の瓦解を引き起こすからです」 これらの話は、自由と民主というアテネに対する後世の人々の印象とは大いに異なる。20年後、ピリッポス2世の息子アレクサンドロス大王はイソクラテスの戦略と考え方に基づき、エジプトとペルシャを征服し、大ギリシャ植民地帝国を打ち立てた。ただ、アレクサンドロス大王の師はイソクラテスではなく、アリストテレスだった。 帝国主義の起源はアリストテレス アリストテレスはマケドニアの支配下にあったエーゲ海北西の都市スタゲイロスに生まれた。そこはアテネ人から見ると蛮族の地域だった。 アリストテレスは蛮族の身であっても心はアテネにあった。彼はプラトンの最も優秀な弟子だったが、プラトンの死去に際して学園「アカデメイア」の後継者にはなれなかった。一番の理由はアリストテレスが外国人だったことだ。彼には「公民権」がなかったため、アテネで合法的な財産〔土地〕を所有できず、政治に参加できなかった。法律はギリシャの最も偉大な知者をアテネから切り離した。また、アテネ以外で生まれながらも喜んでアテネに忠誠を尽くす全ての有識者をアテネから切り離した。興味深いのは、この法律を発布したのが民主政治の模範であるペリクレスだということだ。 古代ギリシャの有名な思想家で、西洋哲学の開祖の1人アリストテレス(写真提供:潘岳) アリストテレスはアテネを離れてマケドニアに身を寄せ、王子だったアレクサンドロスの教師になった。彼はギリシャ文明の最高の基準でアレクサンドロス大王を育てた。彼の教育によって14歳の少年はギリシャ文学やホメーロスの叙事詩を愛好し、生物学や植物学、動物学などの知識を情熱的に学ぶようになった。それ以上に重要なのはやはり政治思想だ。アリストテレスはアレクサンドロス大王のために特に『王道論』『植民論』を書いた。アレクサンドロス大王の精神と事業の偉大さはアリストテレスの深い形而上学から来ているとヘーゲルは指摘した。 アレクサンドロス大王は容赦なく征服しながらギリシャ文明を広めた。競技場や神殿を備えた大量のギリシャ型都市をアフリカ、西アジア、中央アジア、南アジアに建設し、博物館と図書館で科学、文化、哲学、芸術の殿堂をつくり上げた。西洋の帝国主義の「暴力的征服+文明の伝播」という方式はまさにアリストテレスに起源する。 アリストテレスはアレクサンドロス大王に「アジア人の主人になり、ギリシャ人の指導者になる」よう提案した。イソクラテスもかつてピリッポス2世に「ギリシャ人には説得を用いてよい。蛮族には脅迫を用いてよい」と述べた。これこそ、内部が民主で外部が植民、上部が公民で下部が奴隷という「ギリシャ帝国」の精髄だ。こうしたダブルスタンダードのギリシャ式帝国は後日の欧州帝国の精神的な原型、政治的なひな型だ。 紀元前338年、マケドニアはアテネに大勝し、勝利に乗じてペルシャに進軍した。この知らせを受けたとき、イソクラテスはすでに98歳だった。送り返されてきたアテネ兵の遺体を見た後、彼は絶食による死を選んだ。マケドニアとの戦場で死亡した青年らによって、彼は自分の「大ギリシャ」思想に解決しようのない矛盾が存在することを理解した。彼は自由を尊重しただけでなく、統一を渇望した。統一がもたらす暴力は自由を破壊する可能性があった。ただ、自由が生む混乱もまた、統一を破壊する可能性があった。 イソクラテスの死後、ポリスは二度と団結しなかった。ギリシャの大軍の遠征前夜、ピリッポス2世が暗殺され、テーベは知らせを聞いてすぐに離反した。アレクサンドロス大王がバビロンで死ぬと、アテネは反乱を起こした。最後にマケドニアがローマの侵入者と決戦した際、ポリスはあろうことか背後からマケドニアに致命的な一撃を加えた。マケドニアがギリシャの半島文明を広めて世界文明にしたとはいえ、ポリスはむしろ共によそ者に破壊されようともその権威を認めなかった。 米国の歴史学者ファーガソンは次のように総括している。「ポリスは独特の内在的な構造を持つ単細胞の有機体で、再分割を進めない限り発展しようがなく、それらは無制限に同じような都市を複製できた。しかし、新旧を問わずそれらの細胞は全て、連合して一つの強大な民族国家を形成することができなかった」 なぜなら、ポリス政治の基礎は民主ではなく自治だったからだ。ポリス自身はいかなる政治制度も選択できたが、決して外来の権威に服従しなかった。ギリシャはローマに征服されるまで、大小のポリス全てが満足する「連邦制」には変化せず、ポリスの利益は終始一貫して共同体の利益の上にあった。 ※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「戦国時代とギリシャ(3)連合より自治重視の都市国家」から転載したものです。 ■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら

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「異質であっても究極の目的は同じ」―中国の権威的学者が文明観を語る

中国では今、自国文化の特徴や価値、さらに西洋文明と中国文明の違い、西洋文明を受け入れる際の態度などに対する関心が高まっている。清華大学人文学院の張国剛客員教授はこのほど、中国メディアの取材に応じて自らの文明観を語った。張教授の専門は中国史や外交関係史だ。ドイツ・ハンブルグ大学の研究院やトリール大学の教授を務めた経験もあり、中国では専門分野における権威とみなされている。以下は張教授の言葉の抄訳だ。 ■中国と西洋の交流史は3段階に分けることができる 欧州とアジアの東西文明が初めて交流したのは紀元前2000年から同1000年のことだった。欧州人がメソポタミアやインドに侵入し、別の一派は中央アジアを経由して中国北部に達した。さまざまな文明が交流し、他の文明の要素を取り入れ、融合し、戦争と平和を繰り返しつつ成長していった。 中国では時代によって、外国との交流の状況が違っていた。まず15世紀以前だ。この時代、中国は長期にわたり経済や科学で周辺国家よりも先行していた。西洋との交流でも一貫して主動的で強い立場だった。 1500年から1800年は第2の時期だった。新航路が開発され、中国と西洋の交流の内容は宗教、科学技術、思想、政治などの面にも広がった。中国と西洋諸国は政治面で対等であり、西洋文化が東にもたらされ中国文化が西にもたらされる互恵の構図が保たれた。 1840年に勃発したアヘン戦争の前後から、中華人民共和国が成立した1949年まで、中国は受け身で弱い立場になった。 ■中国文明と西洋文明の違いは大きいが究極の目標は同じ 古代ローマ時代には、地中海周辺の海と陸の交通が円滑になった。欧州と西アジア、南アジア、北アフリカの交流も密接だった。しかし中国ははるかに遠く、高山や大砂漠で隔てられていた。西洋文明と密接な交流があったそれぞれの地域の文明にはつながりがあったが、中国は隔絶されていた。西洋にとって中国は「真の他者」であり、中国文明は異質な文明だった。 しかし異質であることは、共通点がないこととは違う。各文明に共通する特徴とは、人と自然、人と社会、人と人の関係などの問題を解決することだ。また、人と人の利益は衝突したり合致したりする。そこで「統治」が必要になる。 西洋は統治について個人の権利、自治、自由を強調する。中国は集団の利益や集団という概念をより重視し、個人の権利を制約する。中国と西洋は人類文明の諸要素からの選択で、優先事項に違いが出た。ただし究極の目標はいずれも、人類が生存し発展していく上での問題を解決し、生活の質を向上させ、人と自然、社会関係をより調和あるものにすることだ。 ■文明の交流には「好結果をもたらす誤解」がつきもの 外来の文明を吸収する際には「好結果をもたらす誤解」が常に存在する。外来文明を吸収した場合には創造的な転化が行われ、自らの文明を発展させる。元になった外来文明とは異なる方向性が生じる場合もある。これが「好結果をもたらす誤解」だ。 中国に伝わった仏教では「孝」の要素が極めて重視されるようになった。インドのジャーナは中国で禅宗になった。元代(1279-1368年)の芝居のある演目は、フランスのボルテールによって「中国の孤児」という戯曲に作りなおされた。この戯曲が主張した道徳的要求は、当時の欧州社会の必要性に合致していた。欧州の啓蒙思想家は、中国の古い歴史記述にカトリックの権威に挑戦するのに有利な証拠を見いだし、それを利用した。 商品も同様だ。明代(1368-1644年)、清代(1644-1912年)には西洋人が中国の磁器を必要とした。磁器と共に製法も西洋に伝わり、西洋では中国よりもさらに高品質の磁器が作られるようになった。方位磁針は中国で発明されたものだが、西洋人は方位磁針を航海用コンパスに改良した。清代になると中国は、西洋から航海用コンパスを導入した。 文明間の交流は流動だ。自らの現実的な必要があって導入し、改造して現地化する。西洋の経験を100%、そのまま受け入れてもだめだ。自分自身が使えるよう改造する必要がある。 ■西洋文明だけでは人類の問題を解決できない、中華文明はバランスを取るのに有効 西洋は世界に先駆けて工業化した。過去数百年、西洋文明は強勢だった。しかし世界の大多数の発展途上国は、今も貧困で遅れている。これは、西洋文明が人類の発展についての問題を完全には解決できないことを示している。 異なる文明は共存しながら相補するものだ。世界を一つの文明で統一することはできない。西洋世界の外に、非対称な状態を打破するための特色ある文明が存在する必要がある。歴史的にも現実的にも、中華文明はバランスを取るのに役立つ。人類文明が前進するためには、より多くの考え方が必要であり、より大きな包容性が必要だ。 一人よがりになってはならない。西側にはイデオロギー紛争やポピュリズムの問題を解決する必要がある。中国には法治化、市場化、国際化、国家統治能力の現代化をさらに改善する必要がある。文明の交流や相互参考の意義とは、相互補完や相互均衡がもたらされることだ。(翻訳・編集/RecordChina)

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【東西文明比較互鑑】戦国時代とギリシャ(2)中華文明の包容力示す荀子

戦国時代最後の50年、志士・謀臣たちは2大流派に分かれていた。函谷関〔河南省北西部の関所〕の内側の秦国では法家と縦横家が活躍していた。函谷関の外側の六国では儒家、道家、兵家、陰陽家、名家が活躍していた。斉国の稷下学宮は六国の知識人が集まった場所で、秦国と対峙したもう一つの精神世界だった。この精神世界の領袖こそ、戦国時代最後の儒家の大家で、稷下学宮の祭酒〔学長職〕を3度務めた荀子(紀元前313~同238年)だ。 秦王に「儒」の必要性説く 紀元前269~同262年、荀子は秦を視察した。彼は伝統的な儒家とは違い、秦の政治が暴政だとののしることはしなかった。逆に法家の統治制度を称賛し、末端の役人が忠実、勤倹で、心を尽くして仕事をしていること、高級官吏が賢明で公徳心を持っていること、朝廷の政務処理が効率的で簡潔なことを褒めたたえた。 しかし、荀子はより重要なことも話した。秦国はそうした優位性を持ってはいるが、依然として「王者」の域には達しておらず、その原因は「儒」の欠如にある。ではどうすれば「儒」を備えているといえるのかを考えた荀子は、「威を節して文に反る〔武力を抑えて礼儀の政治に立ち戻る〕」こと、君子を用いて天下を治めることを提案した。これは後世の「王権、士大夫と天下を共治す」のひな型だ。 荀子の認識では、儒家は統一的な道徳秩序を持っているが、統一的な統治体系を確立していなかった。法家は統一的な統治体系を確立できたが、精神的な道義で欠陥があった。もし秦国の法家制度に儒家の賢能政治と信義、仁愛が加われば、将来の天下の正道になれる。 秦王はこの話に取り合わなかった。 数年後の長平の戦いは荀子の話を証明した。秦国は趙軍の投降後、信義に背いて40万人の趙軍を生き埋めにして殺した。たとえ血の雨を降らす戦国時代であっても、これは道義の基準線を踏み越えている。秦国は終始、現実主義と功利主義を頼りとして天下を取ったのであり、仁義と道徳で自ら手足を縛るはずがなかった。 力のない道義と道義のない力は、共に目の前の現実に答えを出せない。 西洋人学者が理解しない秘密 長平の戦いの後、荀子は政治を放棄し、本を書いて説を立て、学徒に教え始めた。彼の思想体系は孟子の純粋な儒学と異なっていた。孟子の「天」は勧善懲悪の義理の天で、荀子の「天」は「天行、常有り。堯の為に存せず、桀の為に亡びず」であり、そのために「天命を制して之れを用ふ」必要があった。これは中国で最初期の唯物主義だ。孟子は王道を尊重して覇道を軽蔑したが、荀子は王と覇を併用すべきだと考えた。孟子は義だけを語って利を語らなかったが、荀子は義と利を共に顧みようとした。孟子は「先王の道〔古代の君主を理想像とする考え方〕」を尊重したが、荀子は「後王の道〔現在の君主の政策に従うべきだという考え方〕」を尊重した。 荀子は非常に有名な2人の弟子を教えた。1人は韓非で、もう1人は李斯だ。彼らは学業を終えた後、秦に行って遠大な計画を巡らし、荀子はそのことで悲しんで食事も取らなかった。なぜなら、彼らが儒法を融合させなかっただけでなく、かえって法家を極限まで発展させたからだ。韓非の法家理論は法、術、勢の3大流派を包含していた。一方、李斯は法家の全ての政策体系を設計しており、「焚書坑儒」は彼が提案したものだった。師の荀子が法家の手段を肯定しながらも、終始一貫して儒家の価値観を堅持していたことを彼らは忘れていた。その価値観は、例えば忠義と孝悌の倫理であり、例えば「道に従ひて君に従はず、義に従ひて父に従はず」の士大夫精神であり、例えば政治は王道を根本とし、用兵は仁義を優先するという考えだ。法家と儒家は対立して一つになる関係で、どちらが欠けることも許されない。もし法家がなかったら、儒家は構造化と組織化を達成できず、末端社会への働き掛けを実現できず、大戦の世で自らを強化できなかった。しかし、もし儒家がなかったら、法家は制約を受けない勢力になり、ただその権威体系は完全に標準化、垂直化、同質化した執行体系になっていた。 しかも荀学は決して儒法だけではなかった。荀子の思想はまさに儒家、墨家、道家の成功と失敗を集成していると『史記』は記している。 中華文明が巨大な苦境と矛盾に直面したときの包容の精神を荀学は最もよく体現している。なぜなら、それは「中道」に従っているからだ。中道の基準は事の道理に有益だという点だけにあり、特定の教条に従う必要はない。今日の言葉でいえば「実事求是」だ。「凡そ事行の理に益有る者は之れを立て、理に益無き者は之れを廃す。夫れ是れを之れ中事と謂ふ。凡そ知説の理に益有る者は之れを為し、理に益無き者は之れを捨つ。夫れ是れを之れ中説と謂ふ。事行中を失ふ、之れを奸事と謂ふ。知説中を失ふ、之れを奸道と謂ふ〔事業と行動に有益なものはおこない、無益なものは廃止する。これを中事という。知識と学説に有益なものは採用し、無益なものは捨てる。これを中説という。事業と行動が中事を失うことを奸事という。知識と学説が中説を失うことを奸道という〕」。実事求是の基礎の上に確立された中道精神により、中華文明は完全に相反する矛盾を最も巧みに受け入れ、見たところ結合不可能な矛盾を最も巧みに結合させ、あらゆる二者択一の事物を最も巧みに調和、共生させる。 中央党学校の校訓になっている「実事求是」。この言葉は荀子の思想を継承・発揚している(写真提供:徐祥臨) 荀子は70歳すぎで亡くなった。彼の思想は非常に矛盾していたため、死後の境遇はいっそう複雑になった。彼は孟子と並び称されたが、儒家が正統になった後の1800年間の中で、儒家各派に尊重されたことはなかった。清の乾隆帝の時代になり、考証学を研究する儒学の大学者たちは、漢代初期の儒学者によって灰じんの中からよみがえった基礎的な重要文献が、意外にも全て荀子の伝えたものだということに気付いた。 もともと、戦火が燃え盛っていた戦国時代最後の30年、彼は一方で法家の奇才である李斯と韓非を育て、もう一方で黙々と儒学について記して伝授していた。焚書坑儒以降、彼が「私学」を通じてひそかに伝えたこれらの古典だけが残り、漢代の儒学者によって語られ、あらためて書き記された。 純粋なことをおこなうのは易しいが、中道をおこなうのは難しい。両極端のものに見捨てられ、挟み撃ちされることに常時備えておかなければならない。それでも歴史は最終的には中道に沿って前進する。漢の武帝と宣帝は荀子の「礼法合一」「儒法合治」の思想を受け入れた。続けて歴代王朝も彼の思想に基づいて進んだ。儒法はここで本当に合流した。法家は中央集権の郡県制と末端官僚組織をつくり出し、儒家は士大夫精神と家国天下の集団主義倫理をつくり出し、魏晋唐宋でまた道家と釈家〔仏教〕を融合し、儒釈道合一の精神世界をつくり出した。 特に安定したこのような大一統の国家構造は東アジア全体に広まり、中華文明が強くても覇を唱えず、弱くても分裂せず、延々と続いてきた秘密になった。これをまだ「秘密」と呼ぶのは、大多数の西洋の研究者が今なお理解していないからだ。 ※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「戦国時代とギリシャ(2)中華文明の包容力示す荀子」から転載したものです。 ■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら

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日中国交正常化50周年記念活動を盛り上げよう!

 ――時宜を得た山口代表の「アジア安保機構創設」提案  昨年10月8日に行われた日中首脳会談で、岸田文雄首相は「日中国交正常化50周年である来年を契機に、建設的かつ安定的な関係をともに構築していかなければならない」と語り、習近平国家主席もそれに賛意を表した。しかしながら、米中関係が対立する中、日本の対中世論は依然として厳しく、大きな進展を見ることなく現在に至っている。それゆえ、50周年記念活動は不発に終わるのではないかと危惧する悲観的空気が漂っている。が、果たしてそうなるであろうか?私は「否」と叫びたい。理由は次の通りである。  先ず日中関係に大きな影響を及ぼす米中対立の行方を見てみよう。米国のなりふり構わぬ対中圧力は行き詰まりを見せている。新疆ウイグル問題での所謂「ジェノサイド」は客観的事実に乏しく今以上の広がりは難しい。北京冬季オリンピック「外交ボイコット」も掛け声はすさまじかったが勇み足のままだ。中国ロシアを対象とした「民主主義サミット」も、混乱と分離を招いただけであった。また、中国の軍事的脅威論を説いても、実体のある対抗策を組むことができず、対中包囲網を目指すクアッドもオーカスも前途は多難だ。1月3日、米国、ロシア、中国、フランス、英国の核保有5か国が核戦争の防止と核軍拡競争の回避に関する共同声明を発表するに至った。今回の声明発表は中国とロシアがイニシアティブをとったようであり、米国がそれに同調したことは、新年早々、緊張緩和を示す朗報と見てよいであろう。  もちろん、米中対立関係はイデオロギー及び構造的要因によるもので、総体的にみて米国がまだ絶対的優位に立つ今後10年は厳しい米中関係が続くことであろう。だが、昨年のような、赤裸々な対中圧力が本年も続くとは思えない。一年間にわたる対中強硬策によって、バイデン政権は結局何も得るものがなく、却って己の基盤の弱化を招いてしまったからである。米国国民の支持を得るには、何よりも先ず国民生活を改善させることであり、中国をはじめ諸外国とよい関係を築くことが求められる。トランプは対中国フェイクニュースで名を揚げたが、バイデンはそれを引き継いで窮地に立たされることとなった。「真実は雄弁に勝る」で、結局、コロナ感染に打ち勝ち、目覚ましい発展を遂げている中国の現実を抹殺することはできなかったのである。  次に日本の厳しい対中世論の行方はどうであろうか。確かに中国の軍事費は増大しているが、それは経済の成長に伴うものであり、決して急膨張しているわけではない。国防費の対GDP比率は1.2%台で、米国の3%台、ロシアの3-4%台、英国の2%前後、フランスの2%台、インドの2%台後半よりもずっと低い。絶対値で見ると、2020年における軍事費は米国が7000億ドル超に対し中国は約2500億ドル、米国の約3分の一である。中国のGDPは米国の約70%であり、軍事費の割合が米国よりもずっと低いことが分かる。一人あたりについてみれば、中国軍事費は米国の十数分の一である。米国の膨大な軍事費を問題にせず、中国の正常な増加を殊更に問題視するのは偏見そのものである。中国軍事力膨張論は、事実に合わない虚構論議であり、そのうちに収束していこう。  ここ数カ月、「台湾有事即日本有事」論が言われるようになり、日中関係は一気に緊張度を増してきた。50年前の国交正常化の際、最も大きな難題は台湾問題であった。国際法的には台湾は中国の一部であることは明白であり、日本が台湾を防衛する論調などは、日中共同声明と日中平和条約を根本から覆すものだ。当然、中国の世論を刺激し、日本軍国主義復活論が盛り上がっている。また、日本でのこのような論調は、対中世論を一層悪化させ、岸田政権の対中対話姿勢をけん制する結果を招いている。とは言え、このような論調はバイデン政権の台湾カード政策に便乗したものであり、米国の対中強硬姿勢後退と共に萎んでいく運命にある。安全保障重視の論客が対中抑止力強化を謳い、日米同盟強化と防衛力強化を強調するが、台湾問題は中国の内政問題であり、何ら影響を受けることはなく、机上の空論でしかないのである。  第三に中国側の対応と行方を見てみよう。新型コロナ対策、順調な経済発展、目覚ましい科学技術の発展、更なる対外経済開放政策、統合作戦軍事改革など、すべての分野で安定的な発展を遂げている。このような実態は日本のマスコミには殆ど報道されず、米国や英国から発せられるフェイクニュースが溢れ、対中世論形成の糧となっている。それは日本の一部政治勢力の反中姿勢とマスコミの偏見によるところ大だが、中国側の対応の仕方にも問題がある。昨年5月、習主席は国際的な発信の取り組みを強化・改善する必要性を語っており、今後は徐々に改善されていこう。肝心なのは、新聞報道をより開放し、「実事求是」の精神で外国人記者に良きことも悪しきことも自由に報道させることだ。マイナス面が報道されたら、それを糧にして改善すればよいし、虚偽報道であったら、事実で以ってそれを正せばよい。  米国や欧米の対中強硬姿勢に対して、目下のところ中国は柔軟な姿勢は見せず、真っ向から対決するため、「戦狼外交」と揶揄されるが、その実、中国外交は国際条約や規則を守り、相手国の状況を配慮する柔軟な姿勢をとるのが常である。しかしながら、米国の国際条約や国際慣例を無視した理不尽な強圧的態度に対しては、断固とした対抗措置をとっている。一昨年と昨年は正にこのような状態が続いた。ここにきて、米国が態度を改め、平等互恵、相互尊重の姿勢を見せれば、中国も柔軟な態度をとるようになろう。日中関係についても、もし日本が四つの政治文書を守り、台湾問題について誤解を招くような言動を改めれば、中国の対応はより融和的な姿勢に変わっていくであろう。昨今の日本は、対中抑止力強化論(対話時期尚早論)と対中対話重視論の二派に分かれているように見える。後者こそが日本がとるべき対応策であると考える。  以上に見るが如く、米国、日本、中国の実態を分析すると、米中関係と日中関係の現実が厳しい悪循環状態に陥っているように見えるが、それは表層的現象に過ぎず、何等かを契機として好循環に向かう必然性があることも認識すべきだ。ここで特に強調したいのは、新年早々公明党の山口那津男代表が、アジア地域での軍事衝突などの不測の事態を防ぐために、米国や中国、アジア各国が参加する常設の対話の枠組み(全欧安保協力機構のようなアジア安保機構)を、日本が主導して創設すべきだとの提案をしたことである。これは仮想敵国を持たない真の安全保障構築につながるものである。  また山口代表は、1月4日、米露英仏中の核保有5大国が核戦争の回避に関する共同声明を出したことを高く評価し、日本は「核保有国、非保有国の橋渡しをする」役割を果たすべきだと述べた。この共同声明は、五カ国の相互信頼を醸成するものであり、山口代表のアジア安保機構創設に通ずるものだ。従って、山口代表の安保機構提案と核問題での態度表明は、当面の緊張緩和を促す重要な発言であり、日本の世論と雰囲気を変えるきっかけになる可能性がある。広くPRして日中対話の世論を促し、50周年記念イベントの準備加速化の環境づくりに資することを目指したい。  私が山口代表の提案をかくも重視するのは、日中間の相互不信を招いた三つの政治的難題を解消出来る、或いは少なくとも緩和し得ると思うからである。  一つは尖閣領土問題。事の発端は「係争棚上げ、共同開発」の口約束が否定され、日中双方が固有領土論に拘るようになったことにある。領土主権を争うのは19世紀20世紀型の取り組みであり、21世紀においてはよりグローバルな視点に立って知恵を出すべきである。新安保機構はこのような知恵を出し合う場となるであろう。  二つ目は台湾問題。中国は台湾の平和統一を目指してきた。ところが、台湾の独立志向勢力と外部の干渉勢力が結びつき妨害されていると中国は反発する。「台湾有事即日本有事」論は、地政学的な台湾の戦略的価値を出発点としているが、相互信頼が醸成されていけば自然に消えていく。時間はかかるであろうが、平和的統一は間違いなく実現される。  三つ目は南シナ海問題。南シナ海の主権を巡る問題について、尖閣問題と同じく、中国は「係争棚上げ、共同開発」で解決しようとした。ところが外部勢力が関与することによって問題が複雑化したと見る。もし新安保機構が発足すれば、所謂人工島の問題についても、その国際的公共財としての役割が議論されるようになろう。  もちろん、新安保機構ができたとしても、すぐに効果的な機能を発揮するとは限らない。現に全欧安保協力機構がうまく機能しているとは言えないし、ASEAN地域フォーラム(ARF)も20数年の歴史を有するが、期待されるような役割を発揮してはいない。しかし、新しい歴史的条件の下で、もし日本が米国と中国及び関連諸国の意見をよく聞き入れ、公正な立場でリーダーシップを発揮するのであれば、成功する可能性があり、少なくとも緊張緩和に大きく貢献するであろう。  米国は「世界の憲兵にならない」と宣言し、もはや覇権的地位を維持できないと自覚しつつある。そして中国は覇権を求めないし、永遠に(世界一になっても)変わらないと宣言している。今後10年は、中国が米国を追い越そうとし、米国は欧日と共に中国を押さえ込もうとする、という危険な過渡期にあるとされ、トゥキディデスの罠に陥ることが懸念されている。が、国家間の相互依存関係は深まっており、五大核保有国が人類を破滅させる核戦争を起こしてはならないと宣言した今こそ、国連の安全保障体制を真に実現するチャンスであると見ることもできる。日本がアジア安保機構創設にリーダーシップを発揮する可能性と価値は十分にあると考える。  米国も中国も、日本のこのような提案にすぐには乗ってこないであろう。しかし、岸田政権が本気になって取り組めば、まずアジア諸国から賛同を得ることができ、米中両国も動かざるを得なくなるであろう。アジア安保機構創設運動を展開しつつ、日中国交正常化50周年記念活動を盛り上げていこう!(作者:日中科学技術文化センター顧問、福井県立大学名誉教授 凌星光。本稿は日中科学技術文化センター機関誌「きずな」冬季号に掲載されるが、許可を得て転載している。2022年1月5日。)

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【東西文明比較互鑑】戦国時代とギリシャ(1)東西文明の起源と相違

今日、東洋と西洋は再び相互理解の岐路に立っている。 似通った歴史的状況で異なる結果 今日、東洋と西洋は再び相互理解の岐路に立っている。 現代文明の中には古代文明の精神的な遺伝子が含まれている。欧米と古代ギリシャ・ローマ文明、イスラム世界とアラブ文明、イランとペルシャ文明、ロシアと東方正教会文明、イスラエルとユダヤ文明、東アジア国家と中華文明のように、さまざまな関係がさまざまな遺伝子をつなぎ合わせ、さまざまな道に変化してきた。 現代の欧米文明は自分たちの政治秩序について、古代ギリシャ・ローマ文明、キリスト教文明、工業文明のエッセンスを一体化させたものだと考えている。このうち最大の源は古代ギリシャ文明だ。一方、中日韓を代表とする東アジア文明は中華文明の遺産の上に打ち立てられている。中華文明の強固な形態は秦・漢で確立し、変化の鍵は戦国時代にあった。 紀元前5~前3世紀、中国の戦国時代と古代ギリシャは似通った歴史的状況に直面していた。共に内部で甚だしい戦乱に陥り、戦乱の中で統一の動きが現れた。また、統一運動の積極的な勢力は共に中心的国家ではなく、軍事的に強大な周辺国だった。多くの知識人が統一運動のために奔走し、大量の哲学、政治、道徳の命題を提起した。 しかし、統一運動の結果は異なっていた。ギリシャではアレクサンドロス大王の帝国が成立し、わずか7年で分裂した。その後、3大後継者が王国内で100年間争い、一つずつローマにのみ込まれた。一方、中国の戦国時代は「大一統」の秦王朝を形成した。14年後に崩壊したが、すぐにまた大一統の漢王朝が興った。秦漢の制度は歴代王朝に受け継がれ、2000年余り続いた。 似通った歴史的条件の下で異なる結果が現れたのは、文明の本質的な性質が異なっていたからだ。 「天下」全体にこだわる中国 湖北省雲夢県で1975年12月、秦代の法律を記した竹簡群「睡虎地秦簡」が出土した。法家の竹簡の山からは意外にも儒家精神のあふれた官吏養成教材「為吏之道」が見つかった。「寛俗にして忠信、悔過して重ぬることなく、和平にして怨みなく、下を慈みて陵すことなかれ。上を敬して犯すことなく、諌を聴きて塞ぐことなかれ」。これは決して特別な例ではない。王家台秦簡、岳麓書院蔵秦簡、北京大学蔵秦簡にも似通った文言があり、秦朝後期にはもう完全に儒家を排斥していなかったことを示している。 睡虎地秦簡など古代の文献に記載されている内容には、東アジア文明の遺伝子が含まれている(写真提供:潘岳) 秦国だけでなく、ほかの六国も同様だった。秦国に限られていたと一般的に考えられている法家制度と丁寧な農業は、実際には魏国の発明だった。自由でまとまりがなかったと一般的に考えられている楚国は、秦国より早く「県制度」を実行していた。商業が発達していたと一般的に考えられている斉国は、その宰相・管仲の著書と伝えられる『管子』の中に秦と似通った「保甲〔行政の末端組織〕の連座」の要素も含んでいた。 儒家と法家を織り交ぜ、刑罰と徳化を共に用いることが戦国時代末期の全体的な潮流だったことが分かる。各国の政治観念の基準線は「一つの天下」だった。誰も小さな地域を分けて統治することに甘んじず、完全な天下を奪取しようとした。統一が必要なのかどうかを争ったのではなく、誰が統一するかを争った。「天下」全体に対する執着は、中国の歴代政治家集団の最も独特な部分だ。 思想家たちもそうだった。人々は百家争鳴の「争」だけを重視し、往々にしてその「融」を軽視する。数十年にわたって次々と出土してきた戦国時代の竹簡と帛書〔絹に書かれた文書〕は、「諸家雑糅〔入り交じる〕」だった史実を証明している。郭店楚墓竹簡からは儒家と道家を同列に扱っていたことが見て取れる。上海博物館蔵戦国楚竹書からは儒家と墨家を同列に扱っていたことが見て取れる。馬王堆帛書からは道家と法家を同列に扱っていたことが見て取れる。「徳」は孔子と孟子の独占ではなく、「道」は老子と荘子の専有ではなく、「法」は商鞅と韓非の独り占めではなかった。諸子百家の思想的融合の根本理念とは「統一的な秩序」の確立だ。儒家は「一に定まる」という礼楽〔社会秩序を保つ礼と人心を感化する楽〕の道徳秩序を強調し、法家は「同文同軌〔文字と車輪の幅の統一〕」の権力・法律秩序を強調し、墨家は「尚同〔人々が一つの価値基準に従うことで社会を繁栄させる〕」「一を執る」という社会階層秩序を強調した。極端に自由を強調する道家も同じで、老子の「小国寡民」の上には「天下」と「天下王」もある。荘子も「万物多しと雖も其の治は一なり」と強調した。 戦国時代は思想・制度の鍛錬の場になっていた。秦国の法家は大一統の基礎となる政権で貢献した。魯国の儒家は大一統の道徳秩序で貢献した。楚国の道家は自由な精神で貢献した。斉国は道家と法家を結び付け、無為にして治まる「黄老の術」と、市場によって富を調節する「管子の学」を生み出した。魏・韓は合従連衡外交の戦略学で貢献した。趙・燕は騎兵と歩兵を合わせた軍事制度で貢献した。最終的な結果こそが漢朝だ。 大一統は秦が天下を併呑したのではなく、天下が秦を吸収したのだ。 ※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」購入はこちらの「戦国時代とギリシャ(1)東西文明の起源と相違」から転載したものです。 ■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。

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華字メディアが文春掲載の「戦狼批判」に反論、「頼まれてもないのに米国の代弁」

日本情報に特化した華字メディアの「日本頭条」は17日、文芸春秋に掲載された中国の「戦狼外交官」を批判する記事に反論する論説を発表した。論説中に筆者名は挙げなかったが、文芸春秋1月号に掲載された、ジャーナリストの安田峰俊氏による中国の薛剣大阪総領事のツイッターへの投稿を批判する記事を対象にしたものだ。 安田氏は、薛総領事による「『ハエがウンコに飛びつこうとする西側子分政治家』〔11・21〕(五輪ボイコットに言及した国民民主党の玉木雄一郎代表を指して)」など過激なツイートを複数紹介し、日本の外交関係者から「『接受国(=日本)の国民に嫌われないこと』は、職務上の最も基本的な常識」、「はっきり言って不快ですよ」などと批判の見方が出ていると紹介した。以下は「日本頭条」による反論の抄訳だ。 ■利害対立はあるが、食い違いを「憎しみの原動力」にしてはならない 中国は日本の隣人であり、中国が自ら発展することで日本に競争という圧力がもたらされたのは事実だが、国と国の地理的関係や政治環境の違いをもって、競争の圧力を憎しみに転化する「原動力」にしては、絶対にならない。 (文芸春秋記事の)筆者は薛総領事に、「中国に好感を持つ日本人はわずか10%。これをどう思いますか」と質問した。このような記者は多い。これは「自分の子は隣のXさんが大嫌いだ」という問題と似ている。実際には親(の考えや姿勢)から出た悪印象だ。なぜ日本人が中国を好まないのかという問題は、日本のメディアや世論に影響する機関に投げかけるべきかもしれない。 別の問いかけもできる。今年年頭に中国の民衆の日本に対する好感度が45%だったのはなぜか。同じメディア関係者として私は、自分側の悪い結果について他人に質問する記者をとうてい理解できないことがある。この筆者による悪意に満ちた記事は、日本国民の中国に対する否定的な見方を促進する。 ■中国におけるウイグル族の立場知らずに中国を批判 日本と中国の距離は航空機でわずか3、4時間だが、中国を理解している、あるいは中国に行ったことのある人は少ない。この文章の作者は大学生時代に中国の深セン大学との交換留学生になった経験という、中国とのわずかなつながりだけを、日本で書いた中国を中傷する多くの書籍の取材源にしているようだ。 日本は米国という強大かつあいまいなパートナーに従うしかないようだ。米国やそのアングロ・サクソンの同胞が中国の新疆、香港、チベットについての問題でいささか面白くないと考える時、日本の一部の人は楽しそうに記事を繰り返し書きつづける。米国が言い方を変えようと考え始めた時にも、その言い方を維持しつづける。 新疆に行ったりウイグル人と会ったことのある日本人はどれだけいるのだろう。少なくとも日本には大量のイスラム教徒がいるのに、イスラム教徒のために特設された飲食店は見たことがない。それに対して中国では、イスラム教徒用飲食店で、さまざまな民族の人が一緒に食事をしている光景を見ることができる。 米国など一部の国に「民族虐殺」の地とされる新疆で、2010年の人口調査では1017万1500人だった(ウイグル族の)人口は、2018年には1271万8400人になった。さらに古い時代の清朝期だった1908年の「新疆図志」によれば、当時のウイグル族人口はわずか157万人だった。 ■日本でもアイヌの人々の「差別反対」の声聞こえる 中国人は昔から「自分の目で見たことを事実とする」ことで問題を解決する。最近になり日本からの中国新疆を訪問したいとの申請が700人分を超えた。中国政府は「行きたいところに行きなさい」との意見だ。さらに、自分の旅費が足りないなら助成を申請することもできる。 バイデン政権下の米国では、人種間の対立が深まっている。一方で、56の民族を抱える中国は、人種対立をほぼ完ぺきに解決した。中国に住むどの民族の人も、「自分は社会において他の民族より低い地位に立つのではないか」と心配した経験は、全くない。 このような状況は、日本のようなほぼ単一民族の国の人にとっては理解が難しいかもしれない。しかし、北海道のアイヌ民族の人々からは時おり、人種差別反対の声が聞こえてくる。 ■「戦狼外交」是か非か、偽りの非難されても「優雅」必要なのか 中国からの反論を受けるたびに、日本の一部メディアは「戦狼外交」の言葉で反発する。「戦狼外交」の言い方で、中国の覇道の邪悪さを見せつけているようでもある。 しかし「新型コロナウイルスは中国が作った」、「虐殺をしている」、「台湾の独立を阻止した」などと吐き気がするほどの偽りで中国を非難する人がいた場合、優雅さこそが最善の反撃の武器なのだろうか。 欧米国家はかつての侵略成功の喜びに浸っていて、弱かった東洋の古国が真に台頭することを受け入れられないだけなのかもしれない。しかし悲しいことに、東洋の国の一員である日本が、何百年も何千年も付き合ってきた隣人に悪口を浴びせ、欧米国家よりさらに過激になることもいとわない。 日本が中国と同様の問題に直面したら、どうなるだろう。沖縄の人が琉球王国に戻りたいと主張したら、(反中国を叫ぶ)日本人はそのような人を「香港人権団体」と同じように論じるのだろうか。 ■政府の官員が自国政府を擁護するのは当然 薛総領事は個人のツイッターのアカウントでいつも、中国文化や旅行、米国の反中政策に対する中国の態度を書き込んでいる。日本の一部の人やメディアが薛総領事の書き込みを「不快な発言」と思うならば、彼らは米国の動きをさらにしっかりと見る必要があるのではないか。特に在日米軍のために日本に2100億円の負担を求めている。彼らがツイッターでどんなことをつぶやいているのか、真剣に見なければならないのではないか。 薛総領事は中国政府が大阪に派遣した官員であり、自らのツイッターで自国を擁護することは誤ったことではない。またソーシャルメディアのプラットフォームなのだから、さまざまな発言の中で好まないものがあれば、見ないという選択をすることもできる。ただし識者には、薛総領事の「フォロワー」になることをお勧めする。 ■日本に欠けているのは独立と自信、まるで米国に綱を引かれているよう さらによい提案がある。日本の一部の人はもっと自分の意見を持つべきだ。米国が要求もしていないのに、米国の「口」になるべきではない。第二次世界大戦後、日本は経済発展では欠ける部分がなくなった。真に欠けているのは独立と自信だ。中国の外交戦略を適切に学ぶことで、日本人はより多くの民族的自信を得られるかもしれない。 ということで、本稿の冒頭で振れた文芸春秋記事の筆者に提案しよう。彼に言いたいことは「米国に縄を引かれているのではない。あなたは実際のところ、付き従う必要はないのだよ」だ。(翻訳・編集/如月隼人) レコードチャイナより 2021年12月18日

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東西問・「外交ボイコット」は3つのマイナス効果をもたらす

 いわゆる「外交ボイコット」は、北京冬季オリンピックに実質的なダメージを与えることなく、かえって、少なくとも3つのマイナス効果をもたらすだろう。 第一に、「外交ボイコット」はオリンピックを政治化させることであり、国際オリンピック精神を損ねる。 国際オリンピック委員会が策定したオリンピック運動に関する最高文書である「オリンピック憲章」は何度も改正されたが、オリンピックが政治化されるべきではないという重要な精神は維持され、平和かつよりよい世界をつくるという呼びかけを繰り返して行ってきた。今年7月、国際オリンピック委員会は、100年間続いたオリンピックのモットーを「より速く、より高く、より強く、共に」に更新することを承認した。パンデミックが世界規模の大変化と重なる時代背景において、「共に」の重要性は前例のないものだった。  アメリカはスポーツ大国であり、国際オリンピックファミリーの一員であり、もともと「共に」の擁護者であり、オリンピック憲章の実践者であるべきである。今のところ、発言はオリンピックのモットーにそぐわず、その行動は憲章の規定に反しており、オリンピック精神に与える損害ははかり知れない。 第二に、いわゆる「外交ボイコット」は、北京冬季オリンピックの国際的影響力を損なわないが、米国の国際的イメージを弱めるだろう。 国際オリンピック委員会(IOC)の元副会長であるディック・パウンド氏は、いわゆる「外交ボイコット」に反応し、「これが中国に影響を与えるかどうかは、臆測するしかないが、私は、基本的にないと思う」と述べた。「現在、北京冬季オリンピックの準備は秒読み段階に入り、IOCを含む国際社会は準備作業を高く評価しており、多くの外国人選手が中国に来て参加することを熱望しており、このスポーツイベントの実質的な価値は、特定の国の「ボイコット」によって実質的に影響を受けない。 中国の著名なオリンピック研究専門家の易剣東氏が言うとおりで、オリンピックスポーツを受け入れ、尊重する国であれば、世界はいかなる状況においても、オリンピックをボイコットすべきではない。  第三に、「外交的ボイコット」は、目的が達成されないだけでなく、副作用が生じやすい。 1980年のモスクワ・オリンピックでは、ソ連がアフガニスタンに侵攻したという理由だが、1984年には、ソ連及び東欧諸国がロサンゼルス・オリンピックをボイコットした。ボイコットと報復が目的を果たさなかっただけでなく、新たな憎悪をかき立てたことは歴史が証明している。 冬季オリンピックは、政治ショーや政治運動の舞台ではない。アメリカの政治家が何の招待も受けていない状況において、繰り返し北京冬季オリンピックの「外交ボイコット」を大々的に宣伝することは、中国人民への無礼であり、国際的なスポーツと平和を愛する人々を失望させる。    中国は、アメリカに対する強い不満と断固たる反対を表明し、既にアメリカには厳正に抗議し、断固たる対抗措置をとると明言している。中国外務省の趙立堅報道官が言うとおり、「米国の政治的陰謀は、大衆の支持を得られず、失敗に終わる運命にある」のだ。 〔中新網/東西問 2021年12月8日〕