Category: 論説・主張

0

ロシア軍がウクライナに侵攻した「地政学上のメカニズム」とは―中国人専門家が読み説く

ロシア軍がウクライナに攻め込んだ。日本及び西側諸国ではロシアのプーチン大統領を非難する声が極めて強い。ただ、ロシアを非難するだけでは解決策も浮かばないし、同様の事態の再発防止にも結び付きにくい。

0

【東西文明比較互鑑】秦漢とローマ(5)ローマ帝国と秦漢王朝、その共通点と相違点

統治の上層と末端 ローマ皇帝オクタヴィアヌスと漢の武帝・劉徹には共通点が多い。 2人とも青年時代から卓越した才能に恵まれていた。劉徹は17歳で即位し、49歳になる前に漢王朝隆盛の時代を切り開いた。一方、オクタヴィアヌスは19歳で挙兵、47歳になる前にローマ帝国の制度建設を終えていた(18)。 また、どちらも一面的には理解できない人物である。儒家でありながらその為業は法家に近く、法家といっても秦制に後退することはなく、道家を敬愛しながら儒家を登用して国を建てた人物、それが劉徹である。オクタヴィアヌスも矛盾に満ちている。時の有力者と手を組んで元老院を形骸化するかと思えば、元老院と協力して有力者を抹殺することもした。形式的には共和政を保ちながら実質的には帝政をしいた。複数の文官職を兼任していたが、軍隊こそが彼の力の源泉だった。 2人がこれだけ複雑な人物だったのは、ローマと秦漢というあまりにもスケールの大きな政治体を統率しようとしたら、いかなる理論、制度、措置であってもどれか一つだけに依拠することはできなかったからである。 国家イデオロギーを重視したという点でも、両者はまさに「英雄は考えることが同じ」である。劉徹がちょうど「百家を罷黜し、独り儒術のみを尊ぶ」の号令一下、民心の統一を図ったのと同じように、オクタヴィアヌスも全力で「ローマ民族」アイデンティティの構築に取り組み、分裂主義を批判して国家への責務を果たすよう社会によびかけた。 しかし、国家統治という点で、両者の採用した道筋、到達点は大きく異なる。 オクタヴィアヌスは財閥が政治に与えるダメージを克服するために財閥を文官体制のなかに取り込んだ。つまり「貴族と財閥が天下を共にする」状態をつくったのである。他方、下層から人材を抜擢・育成し、「平民精神」をもった王朝をつくり出すことが漢朝の文官路線だった(19)。 ローマ帝国の文官は属州の首都に集中しており、末端にまで届いていなかった。属州の下には自治権をもつ王国、都市、部落が存在した。ローマから派遣された総督と財務官は軍事、司法、徴税に責任をもつのみで、公共サービスと文化教育にはノータッチだった。彼らは常に地方の有力者の意向に従って実務的決定を下していた。例えば、ユダヤ属州総督ピラトはイエスの処刑を望んでいなかったにもかかわらず、ユダヤ人有力者たちがそれを強固に主張したため、泣く泣くイエスを十字架に磔にした。地方の都市建設や文化活動もまた、現地の富豪が積極的にスポンサーにならないと始まらなかった。英国の学者ファイナーはローマ帝国を指して「無数の自治都市で構成された巨大な持ち株会社」(20)といっている。 したがって、地中海をとりまく上層エリートの大連合だけがローマ帝国であって、下層大衆がそこに含まれたことはなかったのである。上下の融合や結びつきなどは論外である。西洋の学者がいうように、ローマ文明は豊かで複雑な上部構造を有していながら、経済基盤は貧弱な「ラティフンディア」だったのである(21)。文化基盤もそうだ。ローマでラテン語ができるのは貴族と官僚のみで、下層大衆はラテン語文章を読んでもまずわからなかった。ローマが下層の教育に消極的だったからだ。それ故、オクタヴィアヌスが望んだ「ローマ民族アイデンティティ」は一度も人民の琴線に触れることがなかった。上部構造がひとたび崩壊すると、下層大衆は各々独自の道を突き進み、ローマをはるか彼方に投げ捨てた。他方、秦漢は上層と末端を直接結びつけ、中央から県郷までを貫通する文官体制をつくりあげた。官衙の責任で末端から集められた人材は、厳格な考査をパスしてから地方に派遣され、徴税、民政、司法、教育を全面的に管轄した。漢朝は地方に学校をつくり、経学者に典籍〔経書〕を教えさせた。こうすることで別々の地方の人々を同じ一つの文化共同体にまとめあげたのである。中央政権が崩壊しても人々はどこでも同じ文字を書き、同じモラルに従い、共通の文化をもつ。このような社会的基盤のおかげで大一統の王朝が長く続いたのである。 政治権力と軍事権力の関係 ローマと秦漢のもう一つの違いは軍隊と政府の関係である。 両者の関係を処理するためにオクタヴィアヌスがとった方法は軍閥方式だった。当時もっとも潤沢だったエジプトの財政をまず「フィスクス〔帝室財庫〕」に回収し、それを軍隊に払う給料の財源にした。結果的にこれはある種のインタラクティブなルールをもたらすことになった。たしかに軍隊は給料を一番たくさん出せる人物の配下に収まることになった。しかし裏を返せば、皇帝が給料を出せなくなったらすぐに別の給料を出せる皇帝に変えなければならないということでもある。こういうルールのもとでの平和は、オクタヴィアヌス以降たった50年しか続かなかった。オクタヴィアヌスからコンスタンティヌスまでの364年間で、帝位の交代は平均6年に1回生じている。そのうち軍隊に暗殺された皇帝は39人、全体の7割を占めた。 ローマ帝国末期の経済の崩壊は、十分な給料を軍隊に出せない事態を招いた。したがって、ローマ人は誰も軍人になりたがらず、ゲルマン蛮族を護衛に雇うしかなかった。最終的にローマを陥落させたのはこうした傭兵の軍隊である。タキトゥスは「皇帝の運命が事実上、軍隊の手に握られていたところにローマ帝国の秘密がある」といった。まさにその通りである。 ローマが軍の政治介入を制御できなかったのはなぜか。一つの重要な要因は末端行政機構を持たなかったからである。総督は治安維持と徴税を軍隊に頼らざるを得ず、徴収した税も軍隊への手当に変わった。こうして、本来は中央を代表すべき総督が地方の軍閥を代表する存在になってしまった。一方、秦漢の軍隊は徴税もできないし、民政に関わることもできなかった。文官制度下にあって、戦時は兵となる軍隊も戦後は農民となり、ローマ軍のように利益集団に変わることはなかった。 もう一つの重要な要因は、ローマ軍人の「国家意識〔国家の一員としての帰属意識〕」に問題があったことだ。モンテスキューは、ローマからはるか遠く離れてしまったため軍団は故国を忘れてしまったというが、事はそれほど単純ではない。漢朝と西域は、遥か彼方といってもいいぐらい隔たっていた。しかし漢の将軍・班超は、頼れる兵とてわずか1000名余り、自らの傑出した外交手腕と軍事的知略を頼みにしつつ、西域諸国の軍隊数十万に囲まれながら漢朝の西域支配を再建し、シルクロードを切り開いた。モンテスキューの考えに従えば、班超は独立して一国一城の主になることもできた。しかし、彼は漢朝のために30年にわたって西域経営に心をくだき、死んだら故郷に埋葬してほしいということだけを望んだ。班超のような将軍は漢朝に数多くいる。 ローマの軍人が政治に干渉することができたのは、ローマ皇帝の権力が「相対的専制」だったからであり、漢朝の皇帝権力は「絶対的専制」だったので軍人は逆らうことができなかったという人がいる。しかし、事実はそうではない。天下がおおいに乱れた後漢末期、名将・皇甫嵩が軍を率いて乱を平定、戦功をたてた。皇帝は無能軟弱で奸臣が権力を牛耳っていた当時、不測の事態に備えてこのまま兵を維持し自衛すべきだと皇甫嵩に勧める者がいた。しかし、皇甫嵩は躊躇なく軍の指揮権を返上した。 皇帝にそれを強制する力がなかったときでも、皇甫嵩ら軍人が規則を守ることができたのはなぜか。自ら進んで国家の秩序に服従する責任感があったからである。藩鎮の割拠や軍閥の混戦は中国にもあるにはあったが、それが主流になったことはない。中華文明の大一統精神は「儒将」の伝統を生んだ。法家の体制と儒家のイデオロギー、両者の相乗効果で古代中国は文民統制を完成させ、これが中華文明のいま一つの重要な特徴になった。「刀剣〔軍隊〕は長袍〔文官〕の命に従う」というキケロの理想は、ローマではなく中国で実現したのである。 (18)Nic Fields『The Roman Army:the Civil Wars 88-31 BC』P53。(19)銭穆『国史大綱』商務印書館、1991年、P128。(20)ファイナー著、馬百亮、王震訳『統治史』(巻一)華東師範大学出版社、2010年、P362。(21)ペリー・アンダーソン著、郭方・劉健訳『従古代到封建主義的過渡』上海人民出版社、2001年、P137。 ※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「秦漢とローマ(5)ローマ帝国と秦漢王朝、その共通点と相違点」から転載したものです。 ■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら

0

<日中100人 生の声>中国に住む日本人から見た「東京2020」への失望―竹内亮 ドキュメンタリー監督

私は中国に住むドキュメンタリー監督だ。光栄にも中国で多くの作品が認められ、最近、雑誌『NEWSWEEK』の「世界に尊敬される日本人100」に選ばれた。 今回、私は東京オリンピックのドキュメンタリーを制作するため、6月に成田空港に降り立った。実に1年半ぶりの日本である。この作品を撮るためなら約1カ月半(日本で14日間、中国で28日間)に及ぶ隔離生活も厭わないと思えた。 まず驚かされたのは、空港でPCR検査を終えたあと、全くと言ってよいほど管理を受けなかったことだ。出発前にネット上で「公共交通機関には乗らないでください」という規定を見た。行動履歴をチェックするアプリもダウンロードしたが、海外から来た人全員の行動を24時間チェックすることは可能なのだろうか……。私は規定の通り、感染防止対策を施したタクシーで千葉の郷里に帰った。料金は2万円だった。神奈川や埼玉であれば、いったい幾らかかるのだろう。電車やバスなら数千円で済むものを、すべての人が数万円を支払い、規定に従っているのだろうか……。ちなみに中国では全員が専用バスに乗せられ、隔離ホテルに直行する。この時、痛切に感じたのは「日本の感染対策は、完全に個人任せである」という現実だった。 7月中旬に4回目となる「緊急事態宣言」が発令された時にも同じ事を感じた。「緊急事態宣言」という言葉の響きから大変な状況を想像していたが、蓋を開けてみると、言葉遊びとしか思えなかった。例えば8時以降も店を開き、酒を提供している店がたくさんあり、しかも、それらの店は大方繁盛していた。規定に従い8時に閉店する店は倒産の危機に陥り、従わない店は繁盛する。日本社会全体がコロナを巡って分裂しているように思えた。 一方、中国では「社会全体でコロナと戦おう」という意識が徹底している。厳しい隔離政策にも異を唱える人はほとんどいない。皆が医療従事者を応援し、医療従事者も社会のために自ら望んで第一線に立っている。ところが日本のメディアは相変わらず、〝中国政府は高圧的な命令により、個人の自由を奪っている〟という論調である。 6月末から8月上旬まで、私は1カ月半に渡って東京オリンピック関連の物語を撮影した。その現場では日本人が得意とする穏やかで優しい「おもてなしの心」よりも、心に余裕を失ったギスギスとした雰囲気ばかりが伝わってきた。 例えば、ボランティアの制服は、日本人のサイズでしか作られておらず、体型の大きな欧米人にはまったくフィットしない。私が取材したある大柄な中国人ボランティアは2枚支給された制服を半分ずつ切って縫い合わせて使っていた。 さらに酷かったのは、外国人ボランティアの中にはムスリムや菜食主義者もいたが、彼らに支給される弁当にも毎日、肉が入っていたことだ。毎日食べられるものがなく、自分で弁当を持ち込むこともできない(日中ずっと外にいるので、弁当を持参しても、夏の暑さで腐ってしまう)ボランティアたちは、数千人のボランティアと大会関係者が繋がるLINE上で、「ハラール弁当(ムスリムの戒律に沿って作られた食品)やベジタリアン弁当を用意してくれないか」と訴えた。この切実な訴えに、大会関係者と思われる日本人(私が見た会話履歴には各人の身分は書いておらず、責任者かどうかは確定できない)が放った一言は、「ワガママを言うのなら、ボランティアを辞めてください」というものだった。私は外国人ボランティアの友人からこのLINE会話履歴を見せられた時、言葉を失った。オリンピックは世界最大の〝国際交流〟イベントだ。世界中から集まる多様な文化背景を持つ人々の習慣を、「ワガママ」と言って無視する態度にはあきれる他なかった。 世界中のスポーツ記者が集まるメディアセンターは、ネット環境が最悪だった。共有WiFiのIDが一つしかなく、速度も致命的に遅かった。記者たちは仕方なく自分でWiFiカードを購入して使っていた。今回のオリンピックにかかった費用は史上最高額だというが、一体どこにお金が使われているのか不思議でならなかった。オリンピック委員会で働く友人は「上司たちは直ぐに〝コロナだから〟を言い訳にする。この都合の良い印籠がある限り、少々のことで彼らが責任に問われることはない」と話した。外国人記者が集うメディアセンター ある日、私は積もり積もった不満を友人の中国人記者に吐露した。すると、彼女は「愛之深責之切」と切り返して来た。「あなたは日本を愛しているから、怒りが湧いてくるのよ」私は日本人として中国に住み、日本の文化を中国人に伝えて来た。日本人の細かい気遣いやおもてなしの心を誇りに感じてもいた。しかし、今回のオリンピックでそれが全く見られなかったことが残念でならなかったのだ。 後日、日本の友人との会話では「君が言うように〝国際感覚に疎い人〟ばかりかというと、そんな事はない。不幸なのは、〝国際感覚に優れた人〟がオリンピック委員会にほとんどいなかった事だ」と言われ、確かにそうだと思った。一番の問題は、組織上層部が頭の古い高齢者ばかりだという事。それはオリンピック委員会に限らず、政治でも大手企業でも見られる日本全体の問題であり、この現状を変えないと、日本は今後ますます世界の潮流に乗り遅れていくだろう。私は中国に住む日本人として、今後も外から見た日本の現状を「愛之深責之切」の思いで伝えていこうと思う。 ちなみに、文章中のいくつかのシーンは、配信中のオリンピックドキュメンタリー「双面奥運」(日本語名「東京2020・B面日記」)に登場するので、是非ご覧になってください!https://youtu.be/eDGVicG-HeE(オプションで日本語字幕を選択できます) ※本記事は、『和華』第31号「日中100人 生の声」から転載したものです。また掲載内容は発刊当時のものとなります。 ■筆者プロフィール:竹内亮(たけうちりょう) ドキュメンタリー監督。テレビ東京「ガイアの夜明け」や、NHK「長江」等を制作。2013年、中国南京市に移住し映像制作会社「ワノユメ」を設立。『私がここに住む理由』、『お久しぶりです、武漢』、『ファーウェイ100面相』などを制作し、大ヒットとなる。中国SNSウェイボーのフォロワー数は469万人。

0

【東西文明比較互鑑】秦漢とローマ(4)商業道徳の東西比較

仁政の負担 2017年の夏、モンゴル・ハンガイ山脈。中国とモンゴルの合同考古学チームはある赤褐色の石壁で摩崖石刻〔懸崖に彫刻した文字や仏像〕を発見した。専門家の考証を通じて、これが数多くの古い書物に登場する「燕然山の銘」―漢が匈奴に大勝したあと〔班固の言葉が〕刻まれた碑文―だと確認された。 この碑文はローマ帝国にとっても重要である。燕然山の役が200年におよぶ漢と匈奴の一進一退の戦いに終止符を打ち、その結果、北匈奴は西に逃れ、これが中央アジア草原民族西進の連鎖反応を引き起こしたからにほかならない。 匈奴が西に向かったのはなぜか。2013年、米国の古気候学専門家エドワード・クックが気候変動との直接的関係を指摘している(15)。2世紀から3世紀、モンゴル高原と中央アジア草原は100年におよぶ深刻な干害を経験し、生きていけない遊牧民族は中国に南下するか、欧州に西進するかしかなかった。そして、漢との戦争でついぞ勝利を手にすることができなかった匈奴には西進以外の選択肢がなかった。匈奴は中央アジア草原の遊牧民族とともに農業文明の中心―ローマを目指し、最終的に西ローマ帝国を瓦解させることになる。 漢朝が匈奴の南下に抵抗し続けなかったら、東アジアと世界の歴史は書き換えられていただろう。漢の武帝は即位から7年後(133年)、いつまでも続く匈奴の侵犯に我慢がならず、以降12年続く匈奴との戦争にふみきった。霍去病が遠征し、最後は河西地方〔今の甘粛省〕に諸郡が置かれる契機となった決戦のさなか、匈奴の渾邪王が4万の部衆を率いて投降した。そして、投降した彼らを武帝は辺境の地に安住させることにしたのである。悪事の限りをつくした匈奴を今は官費で養わなければならない、漢の民がその面倒をみなければならない、これは中国の根幹を傷つけることになる、家臣たちはそう諫めた(16)。武帝は熟慮の後、皇室で費用を負担して匈奴部衆の平穏な暮らしを保証することにした。 戦争で負けた者たちを奴隷にするどころか自腹を切ってまで扶養するのは何のためか、疑問をもつ人もいるだろう。答えはこうである。儒家「仁政」思想が支配的だった当時、漢朝が必要としたのは人心の帰順だったからである。匈奴部衆の帰順に嘘がなければ、それだけで十分彼らは中国の民であり、仁義と財貨をもって遇する必要があるということだ。 しかし、仁政の負担は非常に重かった。中原と草原が同時に天災にみまわれると大量の小農民が困窮し、土地と家屋を豪商に売らなければ生きていけないところにまで追い詰められた。その一方で、これに乗じて利益を手にした投機的商人や大地主は一貫して国家の利益に無関心だった。朝廷が動乱平定資金の援助を要求しても、あろうことか「勝算が見込めない」のを口実に断ることもあった(17)。 こういう状況に対して官も民も、農業と商業の矛盾を解決する方法を探し続けた。法家思想を前面に出す人々は「重農抑商」を提起した。しかし、商業は漢朝繁栄の礎だった。一方、儒家は農業税の減税を主張した。しかし、税収が減ったら中央はどこから災害対策費、戦費を調達するのか。 武帝の時代になってようやく、桑弘羊という商人がこの問題に有効な解決を与えることになった。 国家に尽くす儒家商人 商人出身の桑弘羊は13歳のときに宮廷に仕え、当時16歳だった劉徹〔武帝〕の伴読〔勉強のお供〕を務めた。20年後、商人がまたもや資金援助を拒否したとき、業を煮やした劉徹は桑弘羊の立案で全国の製塩業と鋳鉄業を全面的に政府管理下におく〔専売制〕命令を出した。紀元前120年のことである。塩と鉄は古代社会最大の消費物資であり、政府はこの最大の財源を独占したのである。 桑弘羊はほかにも「均輸法」と「平準法」をあみ出した。 各地方は余剰産品を朝廷に献上し、朝廷は官のネットワーク経由でこれを不足地域に配分するというのが均輸法である。このおかげで政府は農業税を増税しなくても巨大な財力を得ることができた。一方、平準法は同じく官のネットワークを通じて価格変動を解消するものである。ある商品の価格が高騰した場合、国家は市場に該当商品を廉価で放出し、逆に暴落した場合は買い入れる。こうすることで物価が安定するというものだ。 桑弘羊はさらに貨幣も統一し、分散していた鋳造権を朝廷に一元化した。まさにこうした一連のマクロコントロール政策と、中央財政が体制的に確立したおかげで、漢朝は天災による農業被害と匈奴の侵犯を克服する力を得ることができた。そればかりか、この経済力のおかげで漢朝は数々の業績を残すことができたのである。 桑弘羊は商人の気質をそなえていたが、同時に儒家の考え方もしっかり身につけていた。個人で蓄えた富を屯田〔辺境の兵士が耕す土地〕の開拓や水害対策に投じ、国家のために「天下を切り盛りした」。商人たるもの、いかなる規制にも縛られない「個人商業帝国」の建設を追求するべきなのか、それとも「独り其の身を善くする」にとどまらず「天下を兼く済う〔世の民の幸福のために尽くす〕」のか、商道の使命はいかに―この永遠のテーマを桑弘羊は後世の中国商人に残したのである。 西洋の商業観 桑弘羊と同時期のローマ帝国で、最大の豪商といえば「ローマ一の金持ち」クラッススである。クラッススはローマに消防隊がないのをいいことに、以下の方法で富を築いた。まず500人の私有奴隷で自前の消防隊をつくる。そして、火事がおこるとその家に向かい、家を安価で自分に売るよう要求する。家主が承諾すれば消火をはじめるが、拒否すればそのまま焼けるにまかせる。家主は仕方なく廉価で売らざるを得ないわけだが、そのあとクラッススは修築して当の「家主」を住まわせ、高額の家賃を搾り取る。このようにして彼は「火事場泥棒」よろしくローマ市内の大半の家屋を買い占めた。また、クラッススはローマ最大の奴隷斡旋業も営んでいた。彼の遺産はローマの国庫収入1年分に相当したという。 クラッススはパルティア遠征中に亡くなったが、彼が従軍したのは国家のためではなく自分のためだった。新たな属州を征服した者はその地の富を優先的に収奪する権利があるという暗黙のルールがローマにはあったからだ。クラッススのような商人兼政治家がもし中国にいればどうなるか。身代を築いたそのやり方は商業界全体から軽蔑されただろう。政治のリーダーになるなど論外である。しかし、ローマでは違う。その人物の財力が強力な軍隊を賄うのに十分であれば、あるいは大量の票と交換するのに十分であれば、それだけで政界トップの座に居座ることができたのである。 中国の商業精神は儒家農業文明から枝分かれした傍系である―これは近代以降にみられる考えだが事実ではない。商業精神はまぎれもなく儒家農業文明に内在する重要な構成要素だった。儒家思想を受動的に受け入れたのではなく、それに実質的な修正を加えたのである。 すでに戦国時代には、斉の宰相・管仲が市場による富の調整、貨幣による価格形成、利益システムによる社会的行為の誘発を提起し、行政権力の強制的な規制に反対していた。これは非常に近代的な考え方である。資本主義経済の成長発展はなくとも商工業文明の種は当時からすでに中国にあったということがわかる。 中国の商工業文明は生まれてすぐに儒家のモラルに、後には「家国責任〔国のために尽くすことを責務とする〕」にも縛られたが、これこそまさに二重の束縛であり、その結果、西洋タイプの企業家が中国では遅々として生まれなかったという人がいる。しかし、モラルと「家国責任」の問題に答えなければならないのはむしろ今日の西洋企業家のほうである。自己の利益を純粋に追い求めていけば自ずと社会共通の利益に到達するのか。国家の利益と個人の利益をどうやって明確に線引きするのか。国家主権から離れたところに自由経済は存立し得るのか。中国は2000年の昔からすでにこれらの問題を考え始めていたのである。 (15)エドワード・クックは気候システムに関するある仮説を提起、4世紀に中央アジアで干害が発生したのとほとんど同時にフン族(the Huns)がはじめて西に移動しローマ帝国に侵入したとした。Nicola Di Cosmo、Neil Pederson、 Edward R. Cook「Environmental Stress and Steppe Nomads:Rethinking the...

0

「成長」した中国は外部の圧力にどう対応すべきか 中国中央銀行調査統計司元司長盛松成氏に聞く

 北京23日発中国新聞社電は、「『成長』した中国は外部の圧力にどう対応すべきか」と題する次のような記事を配信した。  2021年の中国のマクロ経済は穏健に幕を閉じ、2022年の全国両会」〈全国人民代表大会と中国人民政治協商会議〉で新しい発展目標が定められる見込みだ。中国経済の総量が100兆元〈1元=約18円〉から前進し、経済の変革も十字路に差し掛かる中、中国の経済的奇跡を支えた「中国モデル」は今後も持続可能なのだろうか。「中国モデル」はどのようにして改革を調整し、どのようにして「成長」プロセスの中で外部の打撃と試練に対応するべきなのだろうか。  中欧国際工商学院教授・中国中央銀行調査統計司〈局〉元司長の盛松成氏はこのほど中国新聞社の「東西問」コーナーのインタビューに答え、外部からの一部の圧力による中国経済に対する影響は短期的で限定的で、今後の発展のカギは依然として自分のことをしっかりやることであり、現在の中国の発展段階の特徴と海外の環境と情勢の変化を結び付けると、長期的に有效な仕組みを構築し、革新を奨励し、消費を促進することが当面の急務であるというべきだと述べた。  インタビューの要旨以下の通り。  問:外界では中国のGDP〈国内総生産〉がいつ米国を超えるのかが注目の的になっている。このプロセスの中で、中国の経済発展はどのようにして自身の道をしっかり進むべきか。また絶え間ない「成長」のプロセスにおいて外部からの一部の圧力にどう対応するべきか。  答:中国経済はすでに40年余りの高速成長を経てきた。中国のGDPはあと10年ぐらい前後で米国を超え、世界最大の経済体になると一般に予想されている。現在、米国は経済・科学技術・軍事などの方面でトップの地位に変わりはないが、その他の国との間の相対的な差は縮小しており、特に中国の急速な発展は米国から一種の脅威であると認識されている。  外部からの一部の圧力の中国経済に対する影響は短期的で限定的であり、長期的に見て、中国の将来の発展を決定する要因は依然として国内にあり、今後の発展のカギは依然として自身のことをしっかりやることである。われわれは現段階における世界経済の中での中国の地位、弱い部分、発展の方向を冷静に見極めなければならない。また、まだ差があることをしっかり認識し、改革開放を堅持し、構造調整を推進し、革新能力を引き上げ、中国の経済発展により多くの制度的ボーナスをもたらされなければならない。中国の改革革新と産業高度化が実現するのに伴い、経済成長率も新しい段階に入ると信じている。  現在、世界経済は低迷し、アンチグローバル化思想が台頭しているが、これはグローバル化がボトルネック期に陥ったことを意味しているわけではない。中国の着実な台頭に伴い、多元的な国際秩序も着実に構築されている。中国と西側は情報化・インテリジェント化した世界の中で新しい協力体制を形成し、双方のさらなるウィンウィンを実現するだろう。  問:1970年代末から中国は近代化の歩みを開始し、人類史上まれに見る経済成長の奇跡を達成した。中国は何が正しかったのか。  答:タイミング良く、なおかつ深いレベルの体制改革が中国の経済発展のコアとなる原動力であり、一般的に言われるような投資けん引型の経済成長だけではない。改革開放以降、中国は一連の制度改革と対外開放措置を実施し、これが長期的な生産率に深遠な影響をもたらした。  これらの制度改革は供給サイド改革と需要サイド改革に大きく分けられ、前者には要素サイドと生産サイドの改革、後者には消費・投資・輸出体制改革などが含まれる。制度改革は中国に対し必然的に大きな影響をもたらすとともに経済成長を促進・後押しする。  改革開放以降、中国の対外貿易規模は顕著に拡大し、資本勘定が徐々に開放された。対外開放の進捗は2001年の世界貿易機関〈WTO〉加盟後に明らかに加速し、これが中国に新たな高速成長段階をもたらした。対外開放により中国は世界経済の分業と協力に参加し、これは中国経済の比較優位性を発揮するのに有益だった。  この他に、「後発優位性」を利用することで、われわれは比較的低いコストと比較的小さなリスクで技術の進步と産業の高度化を実現し、先進国よりも速い経済成長を成し遂げた。これは改革開放後の中国経済の高速成長の最も重要な理由の一でもある。  制度改革と対外開放のほかに、中国は情勢の変化に基づいて短期的なマクロコントロール政策を調整してきた。最近では経済の下振れ圧力に対応するため、積極的な財政政策の実施が加速し、稳健な金融政策が安定の中で緩和に向かっている。これらはいずれも中国経済が成長安定とリスク予防、短期的目標と長期的目標の間のバランスの中で発展してきたことを示している。  歴史的に見て、大型の経済体がこれほど急速に成長するのはまれであり、政策によるリードと体制改革はずっと中国経済の案内役・護衛となり、市場の絶え間ない試行錯誤のプロセスを短縮してきた。経済発展が比較的「成熟」するのに伴い、中国は先進国と対等に付き合うことができるようになり、資源配置における市場の役割がますます大きくなっている。  問:こうしたプロセスの中で世界のその他の国とは異なる「中国モデル」が形成されたのだろうか。こうしたモデルと西側などのその他の国の発展モデルとの違いは主にどのような面があるのか。  答:われわれの歴史と文化ならびに直面している国際環境はいずれも西側諸国とまるっきり異なっており、初期条件が異なれば選択する道も変わってくる。いわゆる「中国モデル」とは実際には、われわれが猿真似をせず、西側のモデルを完全に手本にするのではなく、自身の歩みにそって進化、発展させてきたものだ。  私が良く知る金融政策を例に挙げると、中国はこれまでずっと金融の実体経済に対する資金支援、経済の弱い部分に対する資金支援を強調し、金融の根本的任務が実体経済に奉仕することであると強調してきた。社会融資規模指標から、中国の金融体系の実体経済支援の状况、資金の緩和と引き締めの程度、多チャンネルの融資構造を見ることができる。社会融資規模指標の創設・作成・統計・整備は私にとって人民銀行調査統計司長在任期間中、最も重要で、最も時間がかかり、最も印象的だった仕事の一つだ。社会融資規模指標の理論的基礎は西側諸国が提起したものだが、海外に根を下ろしたことはなく、中国が初めて創設した唯一無二の指標となった。  中国と西側などのその他の国の発展モデルの異なる点は、主に三つの方面に体現されている。  第一に、政府による後押し。中国の各レベルの政府は経済活動に対する関与の範囲が広く、その程度が深いため、経済活動全体の中で極めて重要な指揮・管理と監督の職能を果たしている。これは欧米諸国がかねてから尊んできた「大きな経済」と「小さな政府」、いわゆる「見えざる手」といった伝統とははっきりと対照的である。  中国の社会主義市場経済は絶えず進化するアクティブなシステムであり、制度の変遷、経済の転換、財政・金融政策の方向性と強度の変化、金融仲介の発展などはいずれも伝統的な経済モデルでは簡単に推し量れない経済效率の変化をもたらしてきた。  第二に、非公有制と公有制経済の共生。私有企業は利潤の追求とその最大化を目標としており、過度の市場化と自由化は多くの低利潤の基礎製造業を押し出し、産業の空洞化をもたらす。  中国には短期的な利益を優先しない国有企業が大量に存在しており、インフラ・物流・通信などの分野に強力に投資している。われわれはみな消費の限界効用が逓減することを知っているが、こうした基礎が薄弱な地域に対する見返りを求めない投資は将来的により多くの消費と富をもたらし、創造する。  第三に、特殊な歴史・文化などの要因。例えば、中国の貯蓄率は一般的に35%から40%に達し、平均20%足らずの欧米諸国のレベルを大きく上回っている。改革開放後の30年近くの間、中国は基本的に「高い貯蓄率―さらに高い投資率―高い経済成長率―高い貯蓄率」という循環の中にあった。  他にも、例えば中国は相対的に豊富な労働力と低廉な価格という比較優位性を利用して、輸出を奨励し、積極的に国際市場の競争に参加してきた。このたびの新型コロナの流行は世界経済に深刻な打撃を与えたが、中国の輸出は逆に強じんな成長を遂げた。これは中国政府が新型コロナを抑制できたことのボーナスであるとみなすことができる。  問:「中国モデル」は世界のその他の国にどのような参照をもたらすのか。  答:ある国が発展するにはやはりそれぞれの国情から出発しなければならない。中国政府は諸々の方針と政策を統一し、全国の財力・物力を集中し、産業、地域、さらには国家の経済を短期内に急速に発展させた。これは相対的に経済が遅れている発展途上国にとって、時間を節約できる有效な発展手段だ。  政府後押し型の経済発展においては、政府と経済にさまざまなつながりがあるため、腐敗が発生しやすいが、中国は適時問題を発見するとともに改善を進めてきた。しかし同時に、経済発展に伴い、政府の経済に対する関与の度合いも下がっている。言い方を変えれば市場化の度合いが高まっている。政府が過度に企業に関与すれば、企業は過度に政府に依存するようになり、ミクロ主体が活力、主体性、競争力を失い、永遠に成長できない「子ども」になってしまう。  そのため、政府の後押しは経済の法則にも合致している必要があり、特に投資パフォーマンスを重視するとともに監督と制約の仕組みを整えなければならない。「中国モデル」は過激な道を行くのではなく、多元化・多様化・混合化を実行し、改革・発展・安定の関係を正しく処理してきた。  問:将来を見据え、「中国モデル」はどのようにさらなる改革を進めるべきか。当面の急務は何か。  答:近年、中国は経済成長率が明らかに減速し、労働年齢人口がピークアウトし、資本産出效率が弱まると同時に、国際環境の不確実性が高まっている。これらはいずれも長期的に有效な仕組みを構築して革新を奨励し、消費を促進することが当面の急務であることを意味している。  中国は市場化改革を一段と深化させ、資源配置を最適化する必要がある。財産権制度は重要なインセンティブ手段の一つだが、同時に知的財産権がもたらす反独占問題にも注意し、後から来る者の革新を妨害しないようにしなければならない。  制度構築と改革はある程度の先見性が必要であり、短期と長期の利益をバランシングし、持続可能な革新を実現しなければならない。このほかに、市場化の革新では消費者の選好と傾向を理解し、供給によって消費の新たな成長点を創造し、これをレベルアップさせる必要があると同時に、消費高度化をけん引役として供給を革新し、ハイレベルなプラスの循環と需給のバランシングを実現しなければならない。  目下国内外情勢は变化が比較的大きく、中国経済は下振れ圧力に直面しており、改革と発展の関係、短期と長期の関係、成長安定と構造調整・リスク予防の関係をうまく処理しなければならない。単純に長期的改革措置によって短期的な経済下振れ圧力に対応してはならない。短期的な経済の安定と発展がなければ、長期的な構造改革を行うことができないからだ。...

0

北京冬季五輪の「意義」とは何だったのか―専門家がその「歴史上の位置」を語る

北京冬季五輪は新型コロナウイルス感染症、地政学上の対立、気候変動の深刻化などに世界が苦しんでいる時期に開催された。そんな時期にスポーツの祭典を開催する意義は何だったのだろうか。中国政府・発展研究センターの張来明副主任はこのほど中国メディアである中国新聞社の取材に応じて、北京冬季五輪の開催の意義などを説明した。以下は張副主任の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。 ■暗い世界にあって、人々は五輪のために「団結」した 2008年の北京夏季五輪開催の時も、世界は金融危機により大混乱していた。それから14年後、人類はさらに厳しい試練に直面していた。 新型コロナウイルスは全世界に広がっていた。4億人以上が感染し、600万人近くが命を落とした。国によるワクチンの接種の格差を解消することはてきておらず、対策についての国々の歩調はそろっていない。ポピュリズムが横行し、世界経済は後退している。深刻な気候変動問題では、責任のなすり合いが行われている。緊張が高まる地域は増えこそすれ減りはせず、平和が続く見通しは暗澹(あんたん)たる状態だ。 しかし各方面が努力したことにより、北京冬季五輪は予定通りに開幕した。世界91の国と地域からの選手2892人、さらに多くの監督・コーチや技術要員、また医療チームやメディア関係者らが、この大会に共に参加した。北京冬季五輪は8カ月前の東京夏季五輪と同様に、スポーツを通じて人類が立場を乗り越えて団結し、共に困難を乗り越える可能性を示す、歴史的に特に価値ある大会になった。 ■求められるのは「勝利は謙虚に受け止め、敗北は優雅に受け入れる」姿勢 米紙ニューヨーク・タイムズは北京冬季五輪の開催について「どのような背景があっても、五輪は常に共通する人間性とスポーツの盛大な祝祭だ。分極化した世界にあって、世界中からこれほど多くの人が集まる機会はめったにない」と論評した。 もしかしたら、世界が現在のような苦境にあるからこそなおさら、人々に希望を取り戻させ、人類が共に目指す理想を示すために、五輪を成功させねばならなかったのかもしれない。 そして北京冬季五輪はデジタル技術に支えられ、五輪史の中でも「目撃者」が最も多い大会になった。世界の人々がテレビやネットを通じて、世界のどこにいても、「同じ時」を共有することになった。国連のグレーテス事務総長は、「われわれは実に多くのポピュリズム、人種差別主義、外国人を憎悪する精神、反ユダヤ主義、反イスラム教の状況を目にしている。しかしここに来て、文化や国、人種、宗教が異なる選手が共にいる(中略)これは寛容と相互尊重の情報発信だ」と述べた。 五輪では、人の謙虚さも発揮される。例えば「勝利を謙虚に受け止め、敗北を優雅に受け入れる」といった精神だ。スキー・フリースタイルの女子エアリアルに出場した米国のコールドウェル選手は最後の跳躍で失敗してメダルを逃した。しかし彼女は五輪出場4回目で初めて優勝した中国の徐夢桃選手を抱きしめて、「私はあなたを誇りに思う」と言った。 ■スポーツは「銃を取り除いた戦争」にすぎないのか スノーボード男子の蘇翊鳴選手は、男子スロープスタイル決勝での演技に与えられた得点が不公平で、それが優勝を逸した原因になったとする、判定に対する批判が出た。しかし蘇翊鳴選手と日本人の佐藤康弘コーチは不服申し立てを取りやめて、批判を続ける人々に向けて、「限られた時間内に限られた情報で点数を決定することは極めて困難」であり、得点のばらつきも「試合の一部」と説明し、金メダルを獲得したカナダのパロット・マックス選手を祝福するよう呼び掛けた。 「スポーツは銃を取り除いた戦争だ」という人もいるが、それは違う。五輪の表彰台に立った選手は、互いに抱き合い祝福しあう。憎しみや貧困などによってもたらされ、憎しみや貧困を後まで残す戦争とは本質的に違う。北京冬季五輪に際して、従来からの五輪モットーの「より速く、より高く、より強く」に「より団結」が追加された。さまざまな厄災に見舞われている世界において、五輪を通じて団結を呼び掛けることは、実に意義あることだ。 現在の世界は大きな試練のさなかにある。しかし人類は過去に何度も、危機的状況に直面してきた。世界大戦が勃発したこともある。われわれは災難に満ちた過去の歴史を学ぶ際、「なぜ、回避できなかったのか」と先人に問い掛けざるをえない。 ならば今日、われわれは先入観や打算を捨てて、人類共通の未来のために奮闘するのか。それとも己れの一時の損得だけを求めて振る舞うのか。われわれの子孫は彼らの言葉をもって、現在のわれわれがどのような選択をしたのか語ることになる。(構成 レコードチャイナ/ 如月隼人)