Category: 論説・主張

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辛育齢 中日友好病院の創始者

2022年6月7日、101歳の辛育齢氏は自らが参画・建設した中日友好病院で病逝した。辛氏は最後の日々、時おり身振り手振りを交えて犠牲になった戦友との思い出を語った。そして大きな声で「ベチューン先生、ベチューン先生」と話す時もあった。

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端午の節句、屈原精神の中核的内包をどのように理解するのか

王杰氏 中国共産党中央党校(国家行政学院)教授兼中国実学研究会会長 仲夏の候、ちまき笹の香る5月5日、端午の節句である。 「節句の端午はだれが言い始めたのか、とこしえの言い伝えでは屈原のためである」屈原は、中国の偉大な愛国詩人であり、ロマン主義文学の基礎を確立した人物であり、中国の詩の魂、国の魂、民族の魂である。1953年、屈原は世界四大文化著名人となり、世界平和評議会と全世界の人々から厳かに祝福をうけた。これほど盛大な詩人の祭りは世界でもまれであり、2000年以上経た今なお国内外で盛大に記念されている。これほど後世の深い精神と文化に影響をあたえ、中華民族を子々孫々育て、仁愛のある正義の人々を励ます詩人は世界でもまれである。だからこそ、数千年続く中国の伝統的な祭りである端午の節句には、極めて深い中国文明な原理と知恵が含まれている。端午の節句に際しては、屈原精神の中核的内包から栄養を得ることが必要だ。 屈原の美しい政治思想 屈原は賓客を応接する左徒大臣として、早くから楚の懐王の深い信任を得て、国を治める戦略である美しい政治思想を提唱し、『離騒』に表している。 一つ目は、仁政で国を治めることだ。屈原は、歴史の盛衰存亡の経験をまとめ、「善」と「義」の国を治める理念を打ち出した。『離騒』には、「前をみて後ろを顧み、民の計極を相観するに、それたれか義に非ずして用うべけん。たれか善に非ずして服すべけん」とある。つまり、過去を振り返り、未来を展望し、成功と失敗を総括し、人々の生活をくわしく観察することが重要な国を治める道だということだ。「賢を挙げて能を授け、縄墨に循いて頗ならず」は政治的に有能な官吏を登用し、法の原則に従い逸脱してはならないという意味だ。「先攻を奉じて以て下を照らし、法度の嫌疑を明らかにす。国は富強にして法は立ち、貞臣に属して日々をたのしむ」が示すのは、先代の業績を民衆にはっきり示し、法を遵守することだ。国が強くなり綱紀が糺され、賢者が政を行うことにより天下泰平になるのだ。一言でいえば、内政において有能な人物を任命し、法を明確にするということです。ここに言及されている「義」と「善」はすべて美しい政治により表されるものだ。 二つ目は、人々を大切にすることである。『尚書』には、「民は惟れ邦の本なり、本固ければ邦寧し」と書かれている。人々を大切にする思想は、中国の三代以来、先賢たちの国を治める共通認識である。屈原もこの先進的な思想を受け入れ、自身の美しい政治の思想の重要な要素とした。「長太息して以て涕を掩い、民生の多艱なるを哀しむ」、「怨むらくは霊脩の浩蕩として、終に夫の民心を察せざるを」、「民生各々楽しむ所有り。余独り脩を好んで以て常と為す」これらはすべて屈原の心の中での「人」の地位を体現している。 屈原の思想は中国の歴史において先進的であり、世界の歴史においても先進的である。国を平和に治めるという強い気持ちを楚王に託したが、それは現実に相反しており、結局揺籃の中で殺されてしまった。 屈原の節操を守る心 美しい政治の思想は、屈原が朝廷に仕えていたときの治政の理念であり、節操を守ることは屈原の生涯の思想の昇華と凝縮であったのである。さらに重要なことは、流刑の困難な経験を経て、天下の世事や自己認識に対してより深い洞察と再認識を行うことで、屈原の精神世界を新たな高みへと導いたことである。 『史記 屈原賈生列伝』の中で、屈原は「博聞彊志にして、治乱に明らかに、辞令に嫺えり。入りては則ち王と国事を図議して、以て号令を出だす。出でては則ち賓客に接遇し、諸侯に応対す」と述べ、祖国の左徒を司る重臣になった。楚の国を強くするために、法律を変え、美しい政治を行おうとした。当時秦が天下を統一しようとしているとき、屈原は斉に同盟を求めた。秦は楚と斉の同盟を懸念し、張儀を楚へ派遣し、上層部の役人に賄賂を渡して屈原を誹謗中傷させました。屈原は、祖国の命運のために、死ぬまで一心不乱に信念を貫いた。 屈原が若い頃書いた有名な詩『橘頌』は、抒情性と擬人法により、ミカンの木が節操を守る美しい姿を描いた。「后皇の嘉樹、橘徠り服す。命を受けて遷らず、南国に生ず。深固にして徏し難く、更に志を壹にす」「独立して遷らず、豈喜ぶ可ざらんや。深固にして徏し難く、廓として其れ求むる無し。世に蘇して独立し、横にして流れず」。ミカンの木の姿は、まさに屈原の自画像であり自身への励ましであり、これが屈原精神の発展である。 『離騒』の「体解すと雖も吾猶未だ変せず」という精神と一致し、屈原は一連の作品の中で愚昧な朝廷の闇と腐敗を鋭く批判し、祖国の人々の対する無限の忠節を表現し、政治の理想が実現できない憂愁と苦悶を表現し、さらに自らの清廉潔白な忠節を表現した。 『漁父』は屈原の崇高な節操と心を体現する典型的な作品である。漁父は世を避けて身を隠し川辺で釣りをする隠遁者で、屈原に世俗と同調して、独り世捨て人となって高潔な行動をする必要はないと忠告したが、詩人は「寧ろ湘流に赴きて、江魚の腹中に葬らるるとも」を強調し、自分の清廉潔白な節操を変えずに、問答の形式を通じて、屈原と漁父の対立する人生観や全く異なる思想と性格を表現した。その中で「物に凝滞せずして、能く世と推移す」という思想は後世に大きな影響を与えた。 屈原の愛国心 「愛国心」は屈原精神の中核であり基盤である。屈原の『九歌』の中の一首『国殤』は、当時国のために命を捧げた戦士たちの崇高な志、英雄的な気概、愛国心への賛辞の挽歌だ。屈原の精神の本質は、国を憂い、志を変えることなく、情が庶民を牽引し、勇敢に探索し、邪悪を恐れないことだ。『離騒』と『九章』にある多くの詩から屈原の祖国に対する深い感情を感じることができて、苦難を経ても、祖国に対する忠誠は変わらず、人々に対する深く愛する誠実な心は変わらない。「亦余が心の善とする所、九死すと雖も其れ猶未だ悔いず」は屈原の高潔な本質を表現し、国の繁栄と強さを追求する初心の夢のために、幾多の困難や危険を恐れず、死んでも後悔しないという忠節な気持ちを表現した。これらの詩は、屈原の祖国や人々への深い愛情を十分に表している。 しかし、屈原の愛国と憂国憂民は、一般的な信念と文章だけでなく、屈原の「九死に悔いなし」の献身的な精神に結びついている。屈原の作品と生涯は、中華民族の繋がりと礎となる愛国主義的な伝統精神を形成している。愛国心は国魂として、国や民族の力の源です。このような国家への気持ちが、中華民族を何度もの苦難を経て生まれ変わらせ、新たな栄光を書き続けさせ、しばしば民族の危急存亡の瀬戸際で知識人たちに追われたのだ。 中華民族の古い歴史の流れの中で、無数の優れた精神文明が育まれ、それらが融合して偉大な民族精神を形成し、国内外の中華民族の子どもたちを励まし結びつけている。屈原精神は民族精神の一部として、崇高な愛国心、遠大な政治的理想と無私無欲の闘争精神を世間の人々に示し、これらはより多くの人々により発揚伝承される価値がある。現在、屈原と端午の節句および「ドラゴンボートレース」「ちまき包み」などの風習が一体化して、すべての中国の子どもたちと海外の中国文化圏を感化し影響を与えている。端午の節句には、屈原精神を大いに発揚し、世界の人々でこの貴重な精神的財産を享受すべきである。(完) 王杰氏略歴 哲学博士、歴史学博士、中国共産党中央党校(国家行政学院)教授、博士課程指導教員、中国実学研究会会長、指導幹部学国学組織委員会主任、尼山世界儒学センター理事、全国儒学団体連合会議秘書長、中国母の日推進会副会長を務める。中国共産党中央委員会宣伝部中核的価値観百の演壇講師、中国中央テレビ百家演壇特別番組『平「語」近人−習近平総書記辞典』のメインゲストコメンテーター。主な著書『中国哲学十八講』、『先秦儒教政治思想論稿』、主な編著『指導幹部国学大講堂』、『指導幹部国学公開講座』、『指導幹部政治倫理公開講座』、『実学文化叢書』等。 【編集 房家梁】

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中国のシャングリラ会合参加にはどのような意義か-趙小卓軍事科学院研究員インタビュー

 (中国通信=東京)北京15日発中国新聞社電は「中国のシャングリラ会合参加にはどのような意義があるのか 軍事科学院の趙小卓研究員インタビュー」と題する次のような記事を配信した。  新型コロナにより2年間にわたって「開催中止」となっていたシャングリラ対話会合(アジア安全保障会議 以下シャングリラ会合)が新たにオフラインで開催された。今年のシャングリラ会合は米国が「インド太平洋戦略」を強力に推進し、ロシア・ウクライナ紛争が続く中で開催されており、人々の注目が集まっている。中国はなぜ今年のシャングリラ会合に参加したのか。中米の国防相が会談を行ったのにはどのような影響と意義があるのか。米国は今後どのようにして「インド太平洋戦略」を推進するのか。中国新聞社の「東西問」コーナーはこれらについて、9回連続でシャングリラ会合に参加している軍事科学院の趙小卓研究員に独占インタビューを行った。 以下はインタビューの要旨である。  中新社記者:シャングリラ会合は西側がつくったプラットフォームであり、中国がこれに参加すれば、米国やその同盟国の攻撃の対象となるのは避けられない。それなのになぜ中国はシャングリラ会合に参加したのか。  趙氏:シャングリラ会合は主に国際・地域の安全保障問題について話し合う場であり、多くの問題が国の安全保障上の利益にかかわり、さまざまな国がそれぞれの観点から異なる側面を見ているため、しばしばデリケートな状態になり、対立に満ちたものにもなる。そのため、それぞれの利益を求める国が共同で会合に参加すれば、「ケンカ」になりやすい。中国は日ましに国際舞台の中央に向かっている大国であり、世界はより多く中国を理解しなければならないし、中国もまたより良く世界を理解しなければならない。各国防高官と専門家・学者が顔を突き合わせて意思疎通と交流を行うことは最良の相互理解の方法だ。軍隊の基本的な職能は国家の主権と安全保障上の利益を守ることであり、各国の軍隊の意思疎通と交流が不足している状況下では最悪の状況を想定して問題をとらえるようになりやすい。双方の戦略的相互信頼が欠けている場合は特にそうであり、最終的に自己実現のように、予言通りに対立と衝突に向かってしまう可能性がある。このたび中国は新型コロナの影響を乗り越え、ハイレベル代表団を派遣して会合に参加した。これは中国の声を届け、中国のストーリーを語り、信頼を醸成して疑念を解消するためだ。  12日午前、中国国務委員兼国防相の魏鳳和氏は「中国の地域秩序に対するビジョン」をテーマに会合で講演を行った。会場は空席無しの満員で、ホールの両側の通路も立ち見する人でいっぱいになった。魏国防相の講演は三つの部分に分かれており、最初に中国の「多国間主義の擁護と実践、人類運命共同体構築後押し」の理念について説明し、次に国連平和維持活動への参加、アデン湾の護衛航行、人道主義的災害支援など中国の政府と軍隊による世界の平和と発展に対する大きな貢献について述べ、最後に台湾問題・南中国海問題・中米関係・ウクライナ危機など国内外が高度に注目するいくつかの問題について中国の立場を説明した。  質疑応答では魏国防相は2ラウンドに分けて、計11の質問に答えた。第1ラウンドで五つの質問に答えた後、司会者が、手持ちのリストによるとさらに44人が質問を待っているが、時間の制限があるため5、6人を選ぶしかないと話した。11の質問は基本的にどれも挑戦的なもので、台湾問題・中国の軍事力近代化・中国の核戦力の発展・中米関係・ウクライナ危機などにおよんだ。質問者の多くは率直な言葉でするどい視点から質問をしており、質問の中には「落とし穴やわな」があった。一連のするどい質問に対し、魏国防相は速やかに対応し、回答が非常に素晴らしく、誠実な姿勢で答えられる質問にはすべて答え、簡潔で筋が通っていた。講演の際も質疑応答の際も、終了後には会場から熱烈な拍手が響いた。これは中国が「他人の舞台を借りて自己アピール」し、大国の自信を示したということだ。  中新社記者:米国は絶えず「インド太平洋戦略」を推進する一方で、新冷戦またはアジア版NATO〈北大西洋条約機構〉を求めていないと述べている。米国のこうした矛盾をどう考えているか。  趙氏:昨年米国のバイデン大統領はホワイトハウス入りした後に、インド太平洋地域戦略を改めて評価・策定すると伝わってきたが、しかし、しばらくの間その声は聞こえるが、姿は見えないという状態だった。今年2月になってようやくホワイトハウスは「米国インド太平洋戦略」リポートを発表したが、その内容は比較的おおざっぱなものだった。それによると、政治面では主に同盟体系を強化し、イデオロギーと価値観によって線引きをして、「民主陣営」を拡大するとしている。経済面では、5月24日にバイデン大統領が日本を訪問した際に「インド太平洋経済枠組み」を始動させる。このたびのシャングリラ会合では米国のオースティン国防長官が比較的系統的に「インド太平洋戦略」の軍事面について説明し、これにより「インド太平洋戦略」の全貌が大まかに見えてきたと言っていいだろう。  米国の「インド太平洋戦略」の軍事構想は、「一つの目標、二つの要点」に要約できる。「一つの目標」とは中国に対する抑圧・包囲・封じ込めである。「二つの要点」とは、第一に、米国のインド太平洋地域における軍事配備を強化し、米国の軍事力を強化して、地域の緊急事態に対応するための十分な能力を備えること。第二に、米国の同盟体系を拡大し、日本・韓国・オーストラリア・フィリピン・タイとの5組の軍事同盟を基礎として、インド・ベトナム・シンガポール・マレーシアなどとのパートナー関係を発展させ、米日印豪(QUAD)戦略対話、AUKUS〈米英豪安全保障協力〉を重点的に発展させることだ。米国は自身の力だけでは中国を包囲するには不十分であることをよく分かっているため、必ずより多くの国を引っ張り込まなければならない。特に注意すべきなのは、米国が欧州のNATO勢力をアジア太平洋地域に呼び込もうとしていることだ。このたびのシャングリラ会合に例年よりも多く欧州の国が参加していることがその明らかなシグナルである。結局のところ米国の「インド太平洋戦略」の目標とは、中国の周辺の安全保障環境を変えることで、中国の台頭の足を引っ張り、ひいては中国の台頭のプロセスを中断させることである。  しかしながら、米国の「インド太平洋戦略」は発表の日からすでに構造的なジレンマに直面している。米国が同盟体系を強化するには必然的に「敵」を作らなければならない。同盟の特性は外部の脅威によって内部の団結を維持することにあるからであり、敵が明確であればあるほど、強大であればあるほど、内部の結束力は高まる。一方で「中国の脅威」を誇張し、中国に対し抑圧・封じ込めを行った場合、その結果は中国を真に米国の対立側に追いやり、中米が対立と衝突に向かい、冷戦どころか熱い戦争が起こる可能性すら現実のものとなる。そのため、米国は一方で台湾海峡・南中国海・東中国海など地域の安全保障のホットスポットを絶えず刺激し、中国に対し戦略的消耗戦を仕掛けるのと同時に、一方では中米関係がコントロール不能になることでもたらされる深刻な結果を気に掛けている。こうした状況を背景として、オースティン国防長官は、米国は中国との対立を求めておらず、中国との冷戦を求めておらず、「アジア版NATO」をつくることを求めていないと述べた。しかし米国は言うこととやることがバラバラで、発言に信用がなく、繰り返し約束を破るため、これは米国の大国としての戦略的な信用を消耗することを代価としている。  中新社記者:中米国防相会談の影響と意義をどう理解すべきか。  趙氏:このたびのシャングリラ会合が正式に始まる前、中国国務委員兼国防相の魏鳳和氏は米国のオースティン国防長官と初の対面会談を行った。中国国防省の呉謙・報道官はこれについて次のように説明した。これは率直で、前向きで、建設的な戦略的意思疎通であり、両国の国防相は中米両国・両軍関係、台湾、南中国海、ウクライナなどの問題について意見を交換した。いくつかの問題は中米間での古くからの議題であり、双方の立場が一回の会談で実質的に変化することはありえないが、情勢は絶えず変化しており、古い問題も段階が変われば異なる内容を持つようになるため、意思疎通は依然としてきわめて重要である。中米関係がかくのごとく緊張している状況下では、両国の国防相が直接顔を突き合わせて問題解決への意欲を示すこと自体に前向きな意義がある。  中米国防相会談では一つのコンセンサスが得られた。すなわち、双方は共に、引き続き意思疎通と交流、特に危機の管理・コントロール方面の意思疎通と交流を強化することに同意するということであり、これは前向きなシグナルである。軍事の交流は各レベルにかかわり、ハイレベルの意思疎通は特に重要である。ハイレベルが基本的なコンセンサスを得てから、下に向かってこれを延伸させることができるからだ。実際のところ、中米両軍には中米防衛政策調整協議〈DPCT〉、国防省業務会合、統合参謀部対話メカニズムなど、若干の意思疎通のチャンネルがあるが、これらのメカニズムは新型コロナ期間中にその多くが中断状態になってしまった。中米国防相会談後にこれらのメカニズムを再始動させられるかどうかは一つの重要な観察の指標となるだろう。  中新社記者:このたびのシャングリラ会合で、アジア太平洋諸国は地域の今後の見通しについてどのような観点を持っていたか。  趙氏:このたびのシャングリラ会合では重要な動向が示された。すなわち、多くのアジア太平洋の国々が、中米の対立と衝突を見たくないし、中米のどちらかにも肩入れしたくはないと明確に表明したのだ。インドネシアのプラボウォ・スビアント国防相は、インドネシアの立場は非常に明確であり、あらゆる大国を尊重し、いかなる軍事同盟にも参加しないと明確に述べ、「アジア方式」で地域の課題に対応すると特に呼びかけた。マレーシアのヒシャムディン国防相も、東南アジア諸国連合〈ASEAN〉は独自の道を進み、どちらにも肩入れすることはないと強調し、取材に答えた際に「米国の要求がどんなものであろうと、われわれは必ずそれが米国の利益だけでなくASEANの利益にも合致するものでなければならないことを彼らに確信させた」と述べた。カンボジアのティア・バニュ副首相兼国防相も、カンボジアは主権独立国家であり、自らの運命を決定する権利を完全に有していると述べた。  世界を見渡してみれば、アジア太平洋地域は現在の世界でも数少ない長期にわたって平和と安定が保たれてきた地域である。アジア太平洋地域には多種多様な安全保障問題があり、多くの不確実・不安定要因があるが、この数十年にわたり、全体として平和と安定を保ってきた。その中でも、中国の貢献は埋もれさせることができないものである。中国は周辺国と領土・島嶼の係争を抱えているが、一貫して外交による解決・交渉による解決・平和的な解決を呼び掛けており、アジア太平洋の平和と安定の擁護において重要な役割を発揮してきた。多くのアジア太平洋の国々が、中米のどちらにも肩入れするのを拒んだということは、中国の理念とやり方に賛同しているということであり、中国と共にアジア太平洋運命共同体を構築し、普遍的安全保障・共同発展・協力ウィンウィンに力を注ぎ、アジア太平洋地域の平和・繁栄の勢いを長く保っていきたいということである。                      (完)

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端午の節句の発展と世界への広がり-中国屈原学会副会長インタビュー  

中国の伝統的な四大節句の中で、旧暦五月五日の端午の節句は、現在ユネスコの世界無形文化遺産に登録されている唯一の節句である。唐の時代に発展し、1000年余りにわたって受け継がれてきた端午の節句の風習は、中国各地で異なるが、偉大な詩人屈原を記念することをテーマとし、粽を食べることと竜船競漕が主な内容となっている。 端午の節句がどのようにして屈原を記念する節句に発展したのか。屈原文化はどのように海外に広がり、東西文明交流の中でその価値を示したのか。先ごろ、中国華中師範大学教授で、中国屈原学会副会長、湖北省屈原研究会会長の蔡靖泉氏が中新社「東西問」の独占インタビューに応じ、このことについて語ってくれた。 インタビューの概要は以下のとおり 中新社記者:端午の節句はどのように始まったのですか。 蔡靖泉:端午の節句の起源には、屈原を記念する、伍子胥を記念する、勾践を記念する、夏至祭、竜を祭るなど10種類以上の言い伝えがあります。しかし、より合理的で信憑性があるのは、先秦に由来する夏至祭です。 夏至は、古代先秦の人々が最も早く確定した四大節気(春分、夏至、秋分、冬至)の一つです。古代に人々は、季節を分け、生物季節をはっきり表し、これに合わせて農作業を行うことが重要であると考え、大切にしました。古代の人々は、夏至の日に五穀豊穣や無病息災を願い、災害や疫病の厄を払う行事を行いました。その過程で、夏至は、ますます豊かな民俗行事を伴う夏祭りとなりました。   夏祭りの期日は、通常農作業に適合する旧暦の5月、つまり仲夏の5日とその前後です。陰陽五行説の流行に伴い、戦国時代の人々は、陰陽の消長により季節の変化を説明し、五行を四季と五つの方角に組み合わせて「五」を尊びました。特に陰陽の消長が最も急激な夏至を重視し、また「五」を尊んだことから節句を五月五日に定めました。 五月五日は、「端五」あるいは「端午」とも呼ばれます。「端」は始めの意味で、「五」と「午」は同音異字です。漢の時代には、朝廷は五月五日に行う祈祷を国の儀式と定めました。夏至と端午の節句が重なった場合、夏至と端午の節句の祈祷を合わせて行いました。祈祷を行う夏至と端午の節句は、朝廷が儀式と定めたため全国的な大きな祭りになりました。 中新社記者:端午の節句の起源は、もともと屈原とは無関係ですが、のちになぜ屈原を記念することをテーマにした祭りになったのでしょうか。 蔡靖泉:おそらく、漢の人々は、五月五日を陰気が出て、人が亡くなりやすい厄日とみなし、この日を故人の命日とも考え、尊敬すべき人物を記念する日としたのでしょう。たとえば、飢えた君主に腿を食べさせ栄華を求めなかった介子推、忠節賢能であったが見捨てられ死に追いやられた伍子胥、川沿いに父親の遺体を探して見つからず川に身を投げて溺れた孝行娘の曹娥、勤勉で民を愛し業績も優れた曹悟太守の陳臨、忠君愛国で恨みを抱いて川に身を投げた屈原などです。 文献によると、東漢の時代には端午の節句に5人の人物を記念しました。記念の時期が最も早かったのは介子推で、次が伍子胥、その次が屈原、曹娥と陳臨は共に遅く、地域については、屈原が最も広範で、次が介子推、その次が伍子胥、曹娥と陳臨は共に狭かったそうです。 つまり、東漢の時代には、屈原が端午の節句に最も広い地域で記念された歴史的な人物だったのです。その理由は、主に3つです。一つ目は、忠誠を尽くしたが故に疎まれ、諌めたが故に追放された経験をもつ屈原は、漢北に左遷され、江南に追放された生活の中で、人々に知られるようになり、その人生が長く語り継がれました。 二つ目は、屈原が愛国思想や不遇な人生を描写し、その美しい政治の理想と潔癖な人格が表れている『離騒』などの楚辞の作品は、その大きな精神性、人徳および芸術的魅力で戦国時代末期から漢の時代の文人たちを魅了しました。楚辞が流行し、文人たちは競って研究し楚辞を模作しました。屈原は道徳的人格の模範として崇められ、楚辞は文学芸術の手本として崇められました。 三つ目は、東漢の後期、王権の弱体化、政治的混乱、社会不安、国の危機的な局面により、社会のあらゆる階層の人々は、州土の平楽、顕著な君王の徳の恩沢、人々の幸福な生活という「美しい政治」の理想を求め奮闘した屈原の生涯により一層思いをはせるようになり、「屈原のためにも」端午の節句の行事に意識的に参加するようになりました。 中新社記者:数千年にわたる歴史の中で、端午の節句の風習はどのような発展を遂げたのでしょうか。その意義は何でしょうか。 蔡靖泉:おおまかに言えば、端午の節句は、漢の時代からいくつかの重要な時期を経て発展してきました。 まず、漢の時代です。漢王朝は端午の節句を国の儀式と定めたため、全国的に重要な行事となりました。東漢の後期には、社会不安が続き、人々は屈原が追求し描いた「州土の平楽」が実現することを待ち望みました。公明正大な知識人たちは屈原を哀悼するという気持ちに託して、志をあらわしました。端午の節句に屈原を祀る風習が広まり社会のあらゆる階層の人々が参加するようになりました。人々は「屈原のためにも」端午の節句を祝ったのです。次は、魏晋南北朝時代です。屈原を記念することは次第に中国南部での端午の節句の主要なテーマになりました。粽を食べ、5色の絹を結んで祈祷をしたことも屈原を記念したことに由来しており、屈原と端午の節句に関連する民間伝説が増えていきました。そればかりでなく、屈原が川に身を投じたのを人々が競って救出のために舟を出したという伝説により、端午の節句の最も盛大で最も重要な活動である竜船競漕がうまれました。五月五日の風習は、もはや「屈原のためにも」ではなく「屈原が中心」になったのです。 その次は、社会が統一された隋唐の時代です。南北の文化が融合し、中国南部で盛んに行われた屈原を記念し、粽を食べ、竜船競漕を行うという端午の節句の風習が次第に中国北部に伝わり全国的な風習になったのです。晩唐の詩人で僧侶の文秀は、「節句の端午はだれが言い始めたのか、とこしえの言い伝えでは屈原のためである」と朗詠しました。唐の時代に端午の節句の風習はほぼ確立され、今日まで受け継がれ、衰えることはありません。 端午の節句が屈原の祭りへと発展したのは、歴史的な創造であり、人々が選択したものです。その発展と定型化の意義は、主に、風習の内容と関連施設を充実させたことで祭りの行事が精彩を放ち、社会のあらゆる人々を惹きつけ伝承発展させたこと、端午の節句の主旨を昇華させ、その風習に永遠の生命力を与えたこと、文化のアイデンティティと民族団結を促進し、それにより国が一丸となって強国となり、世界平和に寄与することなどです。 中新社記者:「屈原文化」をどのように理解しますか。屈原文化はどのように世界に広がっていったのでしょうか。 蔡靖泉:屈原の崇高な歴史的地位と奥深い歴史的影響力は、中国史における文化的現象や文化的伝統を形成しました。つまり、これが屈原文化です。 屈原文化は、屈原自身、屈原の詩、そこから派生した文化的創造の成果や文化表現形式なのです。すなわち、屈原および楚辞を中核とし、屈原と楚辞の研究を礎とし、屈原に関連する建築、文学、民俗学等を表現とする文化体系なのです。 屈原文化は、近くから遠くへ、狭いところから広域へという歴史的プロセスを経て海外へ広がっていきました。 楚辞は、最初漢字文化圏の東アジアや東南アジアの近隣諸国に伝わり、特に朝鮮半島、日本に大きな影響を及ぼしました。 古代朝鮮の文人はみんな屈原を敬慕し、恭しく楚辞を朗読し、屈原を記念する詩や楚辞体の詩を大量に生み出しました。李氏朝鮮時代には、楚辞に秀でた妙手も競って現れました。屈原の精神と楚辞の芸術は、朝鮮の歴史文化の発展に深い影響を及ぼしました。 日本の研究者によると、屈原と楚辞は7世紀はじめにすでに日本人に知られていたと思われます。漢の時代に編纂された詩集『楚辞』は、奈良時代(710年〜794年)にすでに日本に伝わっていました。20世紀には、日本の楚辞研究は新たな段階に入り、数多く現れた屈原と楚辞の研究者たちは、多くの研究論文を発表し、さまざまな楚辞の解説本や研究書が出版されました。 地域的、言語的隔たりにより、欧米諸国の人々は屈原や楚辞への理解が遅れました。楚辞は、17世紀に中国を訪れた宣教師によってヨーロッパに伝えられたと思われます。近年、研究者の調査研究により、ヨーロッパの研究者が翻訳し紹介した楚辞の文献が200点あまり発見され、英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語等の十数種類の言語が含まれています。20世紀に入ると、楚辞は欧米の大学において中国文学の教育、研究の対象となり、多言語の楚辞の翻訳本がヨーロッパ諸国で大量に出版され、楚辞研究も欧米諸国に広がりました。20世紀以降、楚辞はヨーロッパの文学創作に顕著な影響を及ぼしました。 中新社記者:屈原文化を海外へ広めることは、楚辞を広めるだけでなく、端午の節句を広めることでもあります。端午の節句は中国と海外ではどのような共通点と相違点がありますか。 蔡靖泉:端午の節句は、民衆が行う祭の風習で、海外での普及は、多方面にわたり影響を及ぼしています。今日まで、世界各地に住む華人が端午の節句を迎えるために集まり、ユネスコの世界無形文化遺産に登録されたことにより世界中に広まっています。現在でも旧暦の五月五日かその前後に行われ、その主旨は中国の端午の節句を受け継いで幸福を祈り災いを避けるという文化的意味を含んでいます。 国により文化的伝統や社会習慣が異なり、海外に伝播した端午の節句は内容や形式を変えていきました。  日本に伝わった端午の節句は、男の子の健やかな成長を祈る「男の子の節句」へと発展しましたが、菖蒲を吊るし、よもぎを挿し、菖蒲酒を飲み、菖蒲湯に入り、粽や餅を食べ、竜船競漕を行う風習は受け継がれています。 ベトナムの端午の節句では、百草(主に菖蒲やよもぎの等の薬草)を摘み、粽を食べ、雄黄酒を飲み、雄黄酒を子どもの体に塗り、虫除けや毒よけの香袋をぶら下げるなどの風習が受け継がれてきました。 華人が主体であるシンガポールと華人が比較的多いマレーシア、タイ、ミヤンマー、カンボジアなどの東南アジアの諸国では、端午の節句に粽を食べる習慣があります。現地の華人が竜船競漕を開催しています。 ここ数十年、伝統的な竜船競漕は国際的なスポーツイベントのドラゴンボートレースへと発展しました。 端午の節句は、世界中でますます広がっていて、世界中の人々が屈原文化を受け入れたことを反映しています。それには、人々が強く安定した国、社会の調和と公正、幸福ですばらしい生活、健やかで高潔などの理想を求めることが含まれており、全人類が求める理想と同じなのです。(完)   蔡靖泉氏略歴...

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コロナが緩和されれば、反グローバリゼーションの傾向は変わるのか?ー清華大学・汪暉教授

COVID-19の影響による反グローバリゼーションの傾向をどのようにお考えですか?清華大学中国語学科、歴史学科の汪暉教授がハイエンド対話プログラム「文化相対論」に出演した際にこのように回答されました。

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68歳ジャッキー・チェンがライブ配信に初挑戦、新人時代の悲しい思い出を語る

アクションスターのジャッキーチェン(成龍)が25日、初めてのライブ配信を行ってファンと交流し、新人俳優時代に監督に罵倒された思い出などを語った。 中国のモバイル向けショートビデオアプリ「快手(Kuaishou)」で昨年10月にアカウントを開設したジャッキー・チェンが、デビュー以来初めてのライブ配信に挑戦。瞬間最高で約300万人が視聴し、「いいね」の数が3億2000万回に達するなど記録的な人気を集めた。 現在68歳のジャッキー・チェンは、戯劇学校の子役時代を経て、16歳で本格的に映画界へ飛び込んだが、このライブ配信では新人時代の思い出を紹介。ある映画の撮影で、無意識に頭を振って長めの髪の毛を払った時、それを目撃した監督に痛罵されたことを語った。主演女優の背後で髪をなびかせて目立とうとしたと誤解されたもので、大勢の前で屈辱的な言葉で批判を浴びたため、悔しさのあまりその場で涙を流したことを明かしている。 ジャッキー・チェンによると、それが忘れられない記憶となり、俳優として飛躍してからは撮影現場で人をののしることは決してしなかったといい、周囲にも注意してきたと語っている。 この日のライブ配信には、韓国の人気グループEXOの元メンバーで、歌手で俳優のタオ(黄子韜/ホアン・ズータオ)も出演。さらに俳優ニコラス・ツェー(謝霆鋒)、歌手ジョイ・ヨン(容祖兒)とオンラインで交流するなど、豪華な顔ぶれが盛り上げている。Mathilda

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斉白石がダ・ヴィンチに出会ったとしたら、中国の写意彫刻はどのように輝くのか

――中国・美術館館長、著名彫刻家の呉為山氏にインタビュー 2017年、「孔子」のブロンズ像は正式にブラジルのクリチバ市の「中国広場」に「設置」された。2019年には彫刻『時空を超えた対話-――ダ・ヴィンチと斉白石』がイタリア芸術研究院で除幕、2021年、彫刻「神遇――孔子とソクラテスの対話」はギリシャ・アテネの古市跡に、彫刻「隠元禅師像」は日本の長崎・興福寺に永久安置された…  現在、中国美術館の館長、中国美術家協会の副主席を務める著名な彫刻家の呉為山氏は、この30年間で600以上の彫像を制作し、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ギリシャ、シンガポール、日本、韓国、デンマーク、ベルギーなどの国々で彼の作品が建てられている。いかに彫刻芸術と中華の美学精神を融合させ、世界に中華の「美」を伝えるか。呉為山氏はこのほど、中国新聞社の「東西問」の独占インタビューに応じた。 ここにインタビューの実録の要約を以下に示す: 中国新聞社記者:世界各地にあなたの彫刻作品があります。東西文化交流の観点から言えば、「ダ・ヴィンチと斉白石」、「孔子とソクラテス」が最も代表的です。この2組の彫刻作品はどのようなもので、何を伝えようとしているのでしょうか。 呉為山:彫刻『時空を超えた対話――ダ・ヴィンチと斉白石』のインスピレーションは、10数年前にイタリアのベネチアを訪れ、霧雨の中で船に乗っていた時、時空を超えた東西文化の代表者が人類文明の長い河の中で一緒に船に乗っているというアイデアが浮かんだとがきっかけで生まれました。この作品は、ヨーロッパ・ルネサンスの巨匠ダ・ヴィンチと近現代中国画の巨匠斉白石の「出会い」を表現している。ダ・ヴィンチの写実と斉白石の写意は、それぞれ西洋と東洋の美的追求を表しており、中伊両国の時空を超えた文化芸術交流を意味しています。  彫刻ダ・ヴィンチの長い髪は滝のようで、指は空のようで、科学と理性への敬意を表現しています。斉白石は顔がやつれ、手が節杖をつき、控え目で自然体ですが、その杖は9万里を揺れ動く勢いがある。私の目には、杖は天と地を結ぶ1本の線であり、中国文化の宇宙観や芸術観を象徴し、東と西を結ぶシルクロードのように映る。ダ・ヴィンチと斉白石が生きた年代は数百年離れており、彼らの「対話」は時空を超えた交流です。  彫刻『神遇――孔子とソクラテスの対話』がギリシャ・アテネの古市に建てられた。ソクラテスは孔子と肩を並べて、堂々と意気軒昂と雄弁に語っている様子である。一方、孔子は温厚で、春の光を浴び、交手磬折の礼(古代中国の礼儀作法の一つ、へりくだって尊敬の意を表す。――訳者注)をしています。  ギリシャの文学巨匠・カザンツァキスの名言に、「ソクラテスと孔子は人間の二つの仮面であり、その下には人間の理性という同じ顔がある」という言葉がある。2体の彫像は東西文明発祥の地である古い国、中国とギリシャ間の偉大な思想の対話が春の風雨に似ていることを示しており、東西文化の交流・融合が新たな段階、新たなモデルに入ったことを象徴しています。 中国新聞社記者:秦の兵馬俑や敦煌・莫高窟などを代表とする中国の彫刻と、ダビデやビーナスを代表とする西洋の彫刻との類似点と相違点をどのように考えていますか。また、どのような文化的、芸術的差異を現わしているのでしょうか。 呉為山:原始期、中国の紅山、磁山文化などはすべて高度な写意性を体現して、この写意は生命の自然状態に対する直感的な表現;先秦三代期、商周の青銅器と四川広漢の三星堆青銅雕刻を代表とする写意は、東方式神秘主義の色彩の魅惑と抽象性に満ちあふれています;漢代の雕刻イメージは中国古代雕刻の中で最も強烈で鮮明な芸術言語を代表し、西洋の写実的な雕刻体系と呼応するもう一つの審美体系、創作体系と価値体系です。  漢代に仏教が中国に伝わり、石像を彫ることが重要な芸術となりました。当時の仏教芸術はインドのガンダーラ芸術の影響を受け、ガンダーラ芸術はギリシャ芸術の影響を受けていました。仏教と中国文化の融合の過程で、中国の仏教芸術は次第に中国らしい様相を呈してきました。例えば、敦煌の壁画の中の飛天、龍門、雲岡石窟の中の菩薩、天王、力士の造像などは、形式、イメージ、題材、表現手法を問わず、文明の交わりを十分に現わしています。  全体的に言えば、東洋芸術はイメージ性、写意性を持っており、それは「意」を出発点として芸術イメージを形成する。西洋芸術、特に西洋古典芸術は明らかな理性的特質と科学的態度を持っている。例えば、ダビデの彫刻は、ミケランジェロがダビデを石から解放しようとしているような感じで、人文主義的な意識の強さが作品によく表れています。  中国の彫刻の発展を振り返ると、その精神的な内包は政治、宗教、哲学の影響を受け、その造形は絵画の影響を受け、そして、イメージ、抽象、写意、写実の諸方面で道、慧、美を示し、西洋の伝統と全く異なる独特な価値を持っています。私たちは中国の雕刻が博物館、石窟、墓道だけに存在していることに満足することはできません。現在と未来に影響を与える絶倫の極意、超越の意志、高尚な領域として抽出しなければなりません。これは中華独特の趣を保ち、民族の伝統を発揚するだけでなく、人類の文化生態の多様な発展を促進するためでもあります。 中国新聞社記者:写意は中国人の伝統的な美的感覚であり、彫刻はこれまで写実的で有名だったが、両者はどうすればこの二つが融合して素晴らしい芸術を生み出すことができるのだろうか。中西文化の精神を、どのように作品づくりに取り入れ、活かしていますか。 呉為山:私の家族は文化的な雰囲気が強くて、目で見て、耳で聞いて、影響を受けてきました。わたしの祖先に詩文、書道を研究する優れた学者がいて、私は小さい時から書道と縁があり、大人になってからも書道と雕刻を類推して、共通点を見つけて互いにも融和させてきました。書道は文字をもとにして、それ自体が抽象的な絵画であり、彫刻が外にイメージを持ち、内に構造を持つように、文字が具象から抽象へと発展していくものです。  グローバル化の時代背景の下で、中国の美術家は支点を見つけてこそ、世界の芸術史の図の中で文化的座標を立てることができます。私は中華の美学精神、中国の伝統的な彫刻芸術を研究した上で、写意彫刻の概念を提唱し、長年にわたり写意彫刻を創作、伝播、提唱してきました。写意雕刻の「意」は、中華文化の「意」であり、形によって「神」を書き、形と神を兼ね備えています。写意彫刻も西洋写実主義の精華を吸収し、20世紀以来の西洋視覚芸術革命の中で確立された芸術の新しい様式を参考にしています。古今東西を融和し、芸術ジャンルの壁を打ち破ることを意図しており、世界に進出するだけでなく、世界と対話する開放的かつ内包的な文化概念です。 中国新聞社記者:孔子、老子、李白から費孝通、季羨林、楊振寧などまで、「中華歴史文化有名人」シリーズの彫刻の探求に力を注いでいる。中国の歴史的文化的著名人を彫刻刀で生み出すことは、中国文化の「海外進出」をどのように後押ししているのでしょうか。 呉為山:1995年に私は費孝通先生のために1体の頭像を作りました。費先生は私に一幅の題字を書いてくださいました。「その精神を得ることはその容貌を得ることに勝る」と。「彫刻というものはね、精神を捕まえるんだ」と教えてくださり、これは私に大きな啓示を与え、目に見えない、本に書かれ、口承で伝えられてきた民族の歴史を目に見えるイメージで示し、一つ一つの彫刻が時代の精神を反映できるようにするという理想を確固たるものにしてくださいました。  実際、孔子や老子がどのような顔をしているかについては、これまで実際の画像や文献資料は発見されておらず、伝えられている画像も後世の人々の想像にすぎません。これらの聖哲像制作のための最良の方法は「精神」から手をつけることです。「精神」とは、世代の精神的な姿を指す。孔子、蘇東坡、魯迅はすべて私たちのこの時代の知識人と異なる特徴があって、これは時代の精神が具体的な個人の上に反映されたものです。文化的伝統の中から彼らの「神」を見つけることは、近道であると同時に必要な道でもあります。しかし、中国の精神は単純に長袍や馬褂(長袍や馬褂は清末・民国初期によく着用された男性の私服である。――訳者注)のような彫刻を作るのではなく、彫刻者自身が伝統文化の教養を身につけなければならない。心の奥底からの文化的な自信こそが、より民族的で個性的で風采のある芸術を創造することができます。  中国文化の「海外進出」には、芸術の具体的な形式と文化の媒体を通じて伝播し、世界に中国文化を伝播する効果的なルートを模索しなければなりません。2018年、中国美術館はBRICS諸国美術館連盟、シルクロード国際美術館連盟を相次いで設立し、メカニズムの面から文化交流の確保に努めています。  同時に、中国文化の「海外進出」は伝統文化だけに限られてはならず、時代との同期を堅持し、文化上の革新がなければなりません。古典の評定作業をしっかりと行い、中国の5千年以上の歴史を真に代表する古典を選出しなければなりません。「中国の精神、中国の気風、時代の風格、国際的視野」という文字は、今の芸術関係者が創作上求めていることに合致しています。 中国新聞社:「美」を伝えるという観点から、東洋文明と西洋文明の交流をどのように見ていますか。 呉為山:感情の融和、思想の相互作用、価値の共感、すべて文化交流が必要で、文化交流の本質は心と心の交流です。「美」で世界に中国の声を伝え、相互尊重の中で対話方式で中国文化の「海外進出」を中国文化に「来てもらう」ようにし、その独特な価値を世界に共有し、運命共同体を構築する過程で中国文化の影響力を生成しなければなりません。  新型コロナウイルスによる肺炎の流行期間中、中国美術館は世界の多くの博物館や美術館にお見舞いのメッセージを送ったが、返ってきた返事も同様に温かったです。この世界的な感染症の中で、すべての人が一葉の小舟に身を寄せ、互いに理解し、協力し合う義務があることを、皆は申し合わせたように認識しています。  文明間の対話は、さまざまな視聴者の文化的伝統、価値観の方向性、異なる聴衆の受容心理を深く研究し、地域に応じて適切に対応し、他力本願で適切に対応しなければなりません。これは双方向の価値観の交流であり、人類文明の進歩と世界の平和的発展を推進する重要な原動力でもあります。私は文化交流の本質は、1つの顔、1つの心、1つの魂にあると思います。1つの顔とは、民族、国家の文化的特徴をいう;一つの心は、お互いに素直で真摯で温厚な心;一つの魂は、共に世界平和を大切にし、守る魂です。私たちが顔を突き合わせ、心を一つにすれば、魂が寄り添い、脈がつながり、人類運命共同体を構築する過程の中で互いに助け合い、手を携えて前進することができます。(完) プロフィール  呉為山は、全国政治協商会議常務委員、中国美術館館長、国際的に有名な彫刻家、フランス芸術院通信院士。文系二級教授、清華大学、南京大学、中国芸術研究院博士課程指導教官、北京大学-中国美術館ポストドクター科学研究ワークステーション主任指導教官であり、国務院(日本の内閣に相当。――訳者注)の政府特殊手当を受けている。「写意彫刻論」の生みの親で、10冊以上の専門書を出版し、多くの言語に翻訳されている。600点近くの作品を創作し、世界の多くの国々の博物館や広場に展示されている。彫刻の個展は中国国家博物館、国連本部、イタリア国立博物館、英国王立美術院、フランス、日本、韓国など国内外の重要な博物館、美術館を巡回・展示されてきた。南京博物院に「呉為山彫刻館」、韓国に「呉為山彫刻公園」が設置されている。 (翻訳:華僑大学外国語学院 胡連成)

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中国民間説唱芸術の「生きた文化」に心動かされて―大阪音楽大学教授・井口淳子氏インタビュー

中国と諸外国との交流のなかでは、経済・社会の全面的な発展が人々の幅広い関心を呼ぶのみならず、豊かで多元的な中華の伝統文化もますます注目を集めている。日本の民族音楽学者・大阪音楽大学教授の井口淳子氏は、中国の民間説唱芸術に長期にわたって関心を注いでいる外国人研究者である。 記者:中国の民間説唱〔語り物〕芸術という「ニッチ」な分野に、どんなきっかけで興味を持ったのですか? 井口:1987年、大阪大学の民族音楽学専攻の大学院生だったとき、中国には300種以上の地方大衆演芸のジャンルがあるのに、日本ではたった数種類の古典説唱芸術しかないことを知りました。こうした多くのジャンルはどのように発展してきたのか? それぞれどんな特徴と共通点があるのか? 私はたちまち多くの疑問を持ちました。  中国の民間説唱芸術の研究のため、1988~95年の間に中国で通算5回のフィールドワークをおこないました。河北省の楽亭県・灤南県に伝わる「楽亭大鼓」〔「大鼓」は演者がカスタネットと小太鼓を打ち、三弦の演奏に合わせて歌う演芸〕という説唱ジャンルを研究対象とし、説唱を含む農村の口承文化を探求しました。1993~94年にかけては、北京を本拠地として9カ月の文献資料調査をおこないました。  私は『中国北方農村の口承文化 ―― 語り物の書・テキスト・パフォーマンス』〔日本語版は1999年、風響社〕のなかで、楽亭大鼓の長篇歌詞「淌水」に詳細な分析をおこないました。「生きた芸術」という点でいえば、この「淌水」とよばれる、演唱者の自由なアレンジを取り入れたテキストには、固定的な部分と流動的な部分の区別が明確にあります。 記者:中国の民間説唱文化の「生きた」面とはどういったことを指すのでしょうか? 井口:上演の場は都会的な雰囲気のある演芸場か農村の広場か、公演は1日限りか何日も続くのか、聴衆はどのような人々か、現場の反応はどうか。こういった様々な要素に応じて、語り手の最終的な表現が大きく変わる、という部分です。 記者:長年の中国でのフィールドワークを通して、もっとも心に残ったのはどんなことですか? 井口:中国の農村には、生活経験が豊富で極めて才能や情感が豊かな「作家」が数多くいて、それぞれの人の経歴が力強い表現をもたらします。たとえば私がフィールドワークの期間に出会った張建国(ジャン・ジエングオ)さん(1939~2018年)は、楽亭県の影絵芝居・大鼓・評劇〔華北や東北地方で行われる地方劇〕という3つの民間芸術に精通するのみならず、自ら脚本を創作していました。  また、中国農村で調査研究をはじめた当初は修士課程の大学院生だったため、手元にあまり資金がなく、取材先の人々に対して何か具体的な謝礼をするというまでには至りませんでした。ところが現地の農民の皆さんは、私たちのために一切を整えて下さったのです。日本に戻ってから、自分が当時調査をした河北省東部地域は、戦争中に日本からの深刻な被害を受けたことを知りました。 記者:中国と日本の民間口承文化には、どんな違いがありますか。 井口:日本の口承文化と比べて、中国各地には方言によって様々な大衆演芸のジャンルがあり、言葉と音楽が強く結びついています。中国の民間説唱の題目も常に新しく創作されています。日本では古典作品を尊重しすぎる雰囲気が社会にあるため、新たな脚本が生まれにくいのです。 記者:歴史上の中日両国の音楽交流と、それが文化の往来に与えた影響をどう評価されますか。 井口:中日間の文化交流は、まず中華文化が日本に伝わり、日本では影響を受けると同時に本土化が進みました。古琴の楽譜を例に取ると、日本はまるで中国文物の保管倉庫のようなものです。古い楽譜や正倉院の楽器などをいまでも見ることができ、伝統音楽の交流は両国の往来の重要な一部となっています。今後、より多くの中国人が日本の音楽を、より多くの日本人が中国の音楽を研究することを心から期待しています。 記者:2022年は、中日国交正常化50周年です。 ご自身の研究を出発点として、両国の民間文化交流について感じておられることをお話いただけますか? 井口:民間交流レベルで、「等身大」の相手を知ることがとても重要だと思います。私の新刊『送別の餃子――中国・都市と農村の肖像画』(2021年、京都・灯光舎)では、中国での30年にわたる フィールドワークで出会った忘れがたい人々のことを書き、河北・寧波・厦門・湖南など各地の人々との出会いと別れについて綴りました。 民間交流の強化、相互理解の深化を続けていくことは、両国が人と人との友情を深め、より良い未来に向かう助けになると考えています。 【プロフィール】 井口淳子(いぐちじゅんこ)大阪音楽大学音楽学部教授(音楽学・民族音楽学 )、文学博士、大阪大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学。主な研究テーマに「中国音楽・芸能研究」「近代アジア洋楽史」がある。主要著作:『中国北方農村の口承文化――語り物の書・テキスト・パフォーマン ス 』(1999年 、 風響社)、『上海租界与蘭心大戯院――東西芸術融合交匯的劇場空間』(2015年、上海人民出版社)『亡命者たちの上海楽 団――租界の音楽とバレエ』(2019年、音楽之友社)、『送別の餃子――中国・都市と農村の肖像画』(2021年、京都・灯光舎)。 中国新聞社・記者/高凱 翻訳/舩山明音