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【東西文明比較互鑑】秦漢とローマ(6)宗教と国家

「神の国」と「地の国」 西ローマ帝国最後の150年間、国教はキリスト教だった。 中東パレスチナで生まれた原始キリスト教は「漁夫と農民」の素朴な宗教だった。こうした最下層の貧民は、はじめからローマ各属州の眼中になかった層であり、多くのキリスト教徒にとってもローマは意識の外だった。彼らは「神の国」に属する同胞であって、「俗世の国」に属する公民ではなかった。したがって、兵役も公職に就くことも拒否した。決してローマの神々をまつらず、皇帝像に跪くこともなかった。 ローマ固有の多神教は厳格な道徳律をもっておらず(22)、ローマ社会の堕落に歯止めをかけることができなかった。国家は最下層の貧民をまったく顧みず、孤老の世話にしても、貧困者の苦しみを聞くにしても、疫病で亡くなった人の埋葬にしても、全身全霊で取り組んだのはキリスト教徒だけだった。やがて平民のみならず、追い求める理想が多少なりともあったエリート層もキリストを信じるようになった。 規律が厳格ではっきりしていたキリスト教は、辺境の都市と蛮族の支配地域で定着し、軍隊と宮廷のなかでも大量の信者を獲得していった。こうして日ごとに強大な存在となる「無形の国家」をローマ体内で徐々に形成していったのである。 ローマの執政官は当初、こうした強力な組織力と思想的求心力に恐怖を感じ、300年にわたって信徒を虐殺、迫害し続けた。しかし、コンスタンティヌス帝が懐柔策に転じ、313年にキリスト教を公認した。そして392年、テオドシウス1世が正式にキリスト教を国教にしたのである。 「国教」にした理由について、下層民と兵士の支持を得るためという説がある。一神教は皇帝権力の絶対化に有利だったという説もある。しかし、いずれにしてもローマ皇帝の期待は現実のものにはならなかった。 コンスタンティヌスのキリスト教の公認から40年後(354年)、あるローマ官僚の家庭に1人の子供が生まれた。この子供はローマのエリート養成モデルに沿って教育された(23)。彼は最初に『聖書』を読んだとき、文体の貧弱さを理由に「キケロの優美な筆致と比べると、まったく足元にもおよばない」(24)といって批判した。 30歳になると彼は宮廷スポークスマンとして皇帝を称揚し、政策の宣伝につとめ、周囲からは「ギリシャ・ローマ古典文明の火を受け継ぐ者」とみられた。ところが、主君の覚えめでたい人生も、自由な思想も、そして何不自由ない境遇や放埓な私生活も、心の奥底の空洞を埋めることはできなかった。こうして再び『聖書』を手にしたとき、彼は言葉では言い表せない「神の啓示の瞬間」を経験することになる。このとき「彼」はもっとも偉大なキリスト教神学者アウグスティヌスになった。アウグスティヌスはキリスト教の原始的な教義を壮大な神学体系へと発展させた。原罪論、教会の恩寵論、予定論、自由意志論といった思想はキリスト教哲学を集大成するものである。 410年、西ゴート人がローマを侵攻・陥落させた。これは外来のキリスト教を信仰した「報い」ではないか―そういう声がローマでおこった。アウグスティヌスは激怒にかられて『神の国』を書き、これに反論すると同時にローマ文明を徹底的に否定した。彼はローマを指弾して次のようにいう。ローマは一度も正義を実現したことがなく、「人民のもの」(25)であったこともない、したがって共和国ではなく「大きな盗賊団」(26)に過ぎなかった、と。彼は「愛国とはすなわち栄誉である」という創成期ローマ戦士の精神さえも否定し、あらゆる栄誉は神に帰すべきだと考えた(27)。 アウグスティヌスは最後にこう締めくくっている。ローマの陥落は自業自得であり、キリスト教徒の最後の望みは神の国である。 「国家の悪」と「国家の善」 中国人の考え方からすると次のような疑問が出てくる。いくら駄目だといってもローマは母国である。その腐敗を憎むなら、制度を改革し精神を刷新すべきではないのか。異民族の侵入に際しては率先して祖国を守るべきではないのか。どうして改革の責務を果たす前から母国をあっさりと捨て、踏みにじることができるのか、と。結局のところ、ローマによって国教の地位に押し上げられたとはいえ、キリスト教にとってローマ国家の命運は常に他人事だったのである。 この点もまた、漢とローマとの違いである。一方で漢朝儒家政治の倫理道徳は「鰥寡〔頼る人がいないやもめ〕孤独〔孤独者〕は誰もがその身を養う所がある」を為政者本来の義務とした。もう一方で、漢朝法家の末端統治もまた「国家は正義のない盗賊団」などという認識をもったことがなかった。 一神教がローマのように発展するのは中国では難しい。儒家思想は天理〔客観的道徳規範〕と人倫〔人の行動規範〕をカバーしている。したがって、儒家は「鬼神を敬してこれを遠ざく〔神霊を決して蔑ろにはしないが遠ざける。『論語』〕」態度をとり、人文と理性を立国の基本とし、中華文明を「宗教を基盤としない古代文明」にしたのである。あらゆる外来宗教は、中国伝来後に狂信性と排他性を脱ぎ捨て、国家の秩序と協調し共存しなければならなかった。ローマにキリスト教が入ってきたのと同じ時期、仏教が中国に伝来した。しかし、中国は仏教に対して、ローマがキリスト教に対してとったような軽はずみな態度―虐殺と弾圧で応えるかと思えば一転して全面的に受け入れる―をとらず、逆に「禅宗」を生み出したのである。 キリスト教の神の国は現世を離れても存在することができる。しかし、中国の天道〔天地自然の道理〕は現世において実現しなければ存在しないに等しい。儒家思想と国家意識は早くから一つに融合していたのである。儒家思想の浸透がベースにあって、中国化した宗教は例外なく「国家の価値」に深い共感を抱いた。道教には「天下太平に致る」という理想があった。仏教もまた、国家統治に優れた為政者の業績は高僧の功徳に勝るとも劣らないと考えた。哲学の分野ではどうだろうか。キリスト教以前のギリシャ哲学には個体の概念と同時に全体〔個体を超越して存在する普遍的な真〕の概念もあった。しかし、神の権威が一切を抑え込んだ中世の1000年間を経て、西洋哲学は「個人主義」と「反全体主義」に固執するようになった。中華文明はこのような「神の権威の抑圧」を経験したことがない。したがって、中国哲学には個への執着がなく、それよりも全体の秩序に多くの関心を注いだ。 西洋近代の政治思想に「国家を悪とみなす消極的自由」というものがある。遡れば、これは「神の国」と「地の国」を分離するキリスト教の考えに端を発する。キリスト教は「ローマ国家」を悪とみなした。しかし、宗教改革ではカトリック教会もまた悪とみなされ攻撃された。神以外は「衆生みな罪人」の俗世にあって、どんな組織であれそれが「人」の手によってつくられた以上、他者を導く資格をもたない。ロックは私有財産保護のための「小さな政府」を、ルソーは公共意識に基づく「社会契約政府」を、そしてアダム・スミスは「夜警」政府〔夜警国家〕を主張した。これらはすべて「国家の悪」に対する警戒から出たものだ。 他方、中華文明は「国家の善」を信用した。儒家は人間の本質は善でもあり悪でもあると信じたが、「賢を見ては斉しからんことを思い〔優れた人をみれば同じようになろうと思う。『論語』〕」さえすれば、いつでも自己変革を通じてよりよい国家をつくりあげることができると考えた。儒法並立を確立して以降の漢朝の隆盛は、当時の人々の記憶と憧憬を通じて「すばらしい国」をつくるという信念に変わり、歴代王朝によって後世へと引き継がれていったのである。 (脇屋克仁訳) (22)アウグスティヌス著、王暁朝訳『上帝之城』人民出版社、2006年、P53。 (23)アウグスティヌス著、周士良訳『懺悔録』商務印書館、1996年、P40。 (24)アウグスティヌス著、周士良訳『懺悔録』商務印書館、1996年、P41。 (25)アウグスティヌス著、王暁朝訳『上帝之城』人民出版社、2006年、P76~P77。 (26)アウグスティヌス著、王暁朝訳『上帝之城』人民出版社、2006年、P144。 (27)アウグスティヌス著、王暁朝訳『上帝之城』人民出版社、2006年、P201。 ※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「秦漢とローマ(6)宗教と国家」から転載したものです。 ■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら

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【東西文明比較互鑑】秦漢とローマ(5)ローマ帝国と秦漢王朝、その共通点と相違点

統治の上層と末端 ローマ皇帝オクタヴィアヌスと漢の武帝・劉徹には共通点が多い。 2人とも青年時代から卓越した才能に恵まれていた。劉徹は17歳で即位し、49歳になる前に漢王朝隆盛の時代を切り開いた。一方、オクタヴィアヌスは19歳で挙兵、47歳になる前にローマ帝国の制度建設を終えていた(18)。 また、どちらも一面的には理解できない人物である。儒家でありながらその為業は法家に近く、法家といっても秦制に後退することはなく、道家を敬愛しながら儒家を登用して国を建てた人物、それが劉徹である。オクタヴィアヌスも矛盾に満ちている。時の有力者と手を組んで元老院を形骸化するかと思えば、元老院と協力して有力者を抹殺することもした。形式的には共和政を保ちながら実質的には帝政をしいた。複数の文官職を兼任していたが、軍隊こそが彼の力の源泉だった。 2人がこれだけ複雑な人物だったのは、ローマと秦漢というあまりにもスケールの大きな政治体を統率しようとしたら、いかなる理論、制度、措置であってもどれか一つだけに依拠することはできなかったからである。 国家イデオロギーを重視したという点でも、両者はまさに「英雄は考えることが同じ」である。劉徹がちょうど「百家を罷黜し、独り儒術のみを尊ぶ」の号令一下、民心の統一を図ったのと同じように、オクタヴィアヌスも全力で「ローマ民族」アイデンティティの構築に取り組み、分裂主義を批判して国家への責務を果たすよう社会によびかけた。 しかし、国家統治という点で、両者の採用した道筋、到達点は大きく異なる。 オクタヴィアヌスは財閥が政治に与えるダメージを克服するために財閥を文官体制のなかに取り込んだ。つまり「貴族と財閥が天下を共にする」状態をつくったのである。他方、下層から人材を抜擢・育成し、「平民精神」をもった王朝をつくり出すことが漢朝の文官路線だった(19)。 ローマ帝国の文官は属州の首都に集中しており、末端にまで届いていなかった。属州の下には自治権をもつ王国、都市、部落が存在した。ローマから派遣された総督と財務官は軍事、司法、徴税に責任をもつのみで、公共サービスと文化教育にはノータッチだった。彼らは常に地方の有力者の意向に従って実務的決定を下していた。例えば、ユダヤ属州総督ピラトはイエスの処刑を望んでいなかったにもかかわらず、ユダヤ人有力者たちがそれを強固に主張したため、泣く泣くイエスを十字架に磔にした。地方の都市建設や文化活動もまた、現地の富豪が積極的にスポンサーにならないと始まらなかった。英国の学者ファイナーはローマ帝国を指して「無数の自治都市で構成された巨大な持ち株会社」(20)といっている。 したがって、地中海をとりまく上層エリートの大連合だけがローマ帝国であって、下層大衆がそこに含まれたことはなかったのである。上下の融合や結びつきなどは論外である。西洋の学者がいうように、ローマ文明は豊かで複雑な上部構造を有していながら、経済基盤は貧弱な「ラティフンディア」だったのである(21)。文化基盤もそうだ。ローマでラテン語ができるのは貴族と官僚のみで、下層大衆はラテン語文章を読んでもまずわからなかった。ローマが下層の教育に消極的だったからだ。それ故、オクタヴィアヌスが望んだ「ローマ民族アイデンティティ」は一度も人民の琴線に触れることがなかった。上部構造がひとたび崩壊すると、下層大衆は各々独自の道を突き進み、ローマをはるか彼方に投げ捨てた。他方、秦漢は上層と末端を直接結びつけ、中央から県郷までを貫通する文官体制をつくりあげた。官衙の責任で末端から集められた人材は、厳格な考査をパスしてから地方に派遣され、徴税、民政、司法、教育を全面的に管轄した。漢朝は地方に学校をつくり、経学者に典籍〔経書〕を教えさせた。こうすることで別々の地方の人々を同じ一つの文化共同体にまとめあげたのである。中央政権が崩壊しても人々はどこでも同じ文字を書き、同じモラルに従い、共通の文化をもつ。このような社会的基盤のおかげで大一統の王朝が長く続いたのである。 政治権力と軍事権力の関係 ローマと秦漢のもう一つの違いは軍隊と政府の関係である。 両者の関係を処理するためにオクタヴィアヌスがとった方法は軍閥方式だった。当時もっとも潤沢だったエジプトの財政をまず「フィスクス〔帝室財庫〕」に回収し、それを軍隊に払う給料の財源にした。結果的にこれはある種のインタラクティブなルールをもたらすことになった。たしかに軍隊は給料を一番たくさん出せる人物の配下に収まることになった。しかし裏を返せば、皇帝が給料を出せなくなったらすぐに別の給料を出せる皇帝に変えなければならないということでもある。こういうルールのもとでの平和は、オクタヴィアヌス以降たった50年しか続かなかった。オクタヴィアヌスからコンスタンティヌスまでの364年間で、帝位の交代は平均6年に1回生じている。そのうち軍隊に暗殺された皇帝は39人、全体の7割を占めた。 ローマ帝国末期の経済の崩壊は、十分な給料を軍隊に出せない事態を招いた。したがって、ローマ人は誰も軍人になりたがらず、ゲルマン蛮族を護衛に雇うしかなかった。最終的にローマを陥落させたのはこうした傭兵の軍隊である。タキトゥスは「皇帝の運命が事実上、軍隊の手に握られていたところにローマ帝国の秘密がある」といった。まさにその通りである。 ローマが軍の政治介入を制御できなかったのはなぜか。一つの重要な要因は末端行政機構を持たなかったからである。総督は治安維持と徴税を軍隊に頼らざるを得ず、徴収した税も軍隊への手当に変わった。こうして、本来は中央を代表すべき総督が地方の軍閥を代表する存在になってしまった。一方、秦漢の軍隊は徴税もできないし、民政に関わることもできなかった。文官制度下にあって、戦時は兵となる軍隊も戦後は農民となり、ローマ軍のように利益集団に変わることはなかった。 もう一つの重要な要因は、ローマ軍人の「国家意識〔国家の一員としての帰属意識〕」に問題があったことだ。モンテスキューは、ローマからはるか遠く離れてしまったため軍団は故国を忘れてしまったというが、事はそれほど単純ではない。漢朝と西域は、遥か彼方といってもいいぐらい隔たっていた。しかし漢の将軍・班超は、頼れる兵とてわずか1000名余り、自らの傑出した外交手腕と軍事的知略を頼みにしつつ、西域諸国の軍隊数十万に囲まれながら漢朝の西域支配を再建し、シルクロードを切り開いた。モンテスキューの考えに従えば、班超は独立して一国一城の主になることもできた。しかし、彼は漢朝のために30年にわたって西域経営に心をくだき、死んだら故郷に埋葬してほしいということだけを望んだ。班超のような将軍は漢朝に数多くいる。 ローマの軍人が政治に干渉することができたのは、ローマ皇帝の権力が「相対的専制」だったからであり、漢朝の皇帝権力は「絶対的専制」だったので軍人は逆らうことができなかったという人がいる。しかし、事実はそうではない。天下がおおいに乱れた後漢末期、名将・皇甫嵩が軍を率いて乱を平定、戦功をたてた。皇帝は無能軟弱で奸臣が権力を牛耳っていた当時、不測の事態に備えてこのまま兵を維持し自衛すべきだと皇甫嵩に勧める者がいた。しかし、皇甫嵩は躊躇なく軍の指揮権を返上した。 皇帝にそれを強制する力がなかったときでも、皇甫嵩ら軍人が規則を守ることができたのはなぜか。自ら進んで国家の秩序に服従する責任感があったからである。藩鎮の割拠や軍閥の混戦は中国にもあるにはあったが、それが主流になったことはない。中華文明の大一統精神は「儒将」の伝統を生んだ。法家の体制と儒家のイデオロギー、両者の相乗効果で古代中国は文民統制を完成させ、これが中華文明のいま一つの重要な特徴になった。「刀剣〔軍隊〕は長袍〔文官〕の命に従う」というキケロの理想は、ローマではなく中国で実現したのである。 (18)Nic Fields『The Roman Army:the Civil Wars 88-31 BC』P53。(19)銭穆『国史大綱』商務印書館、1991年、P128。(20)ファイナー著、馬百亮、王震訳『統治史』(巻一)華東師範大学出版社、2010年、P362。(21)ペリー・アンダーソン著、郭方・劉健訳『従古代到封建主義的過渡』上海人民出版社、2001年、P137。 ※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時代編」の「秦漢とローマ(5)ローマ帝国と秦漢王朝、その共通点と相違点」から転載したものです。 ■筆者プロフィール:潘 岳 1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。国務院僑務弁公室主任(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時代編 購入はこちら

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【東西文明比較互鑑】秦漢とローマ(4)商業道徳の東西比較

仁政の負担 2017年の夏、モンゴル・ハンガイ山脈。中国とモンゴルの合同考古学チームはある赤褐色の石壁で摩崖石刻〔懸崖に彫刻した文字や仏像〕を発見した。専門家の考証を通じて、これが数多くの古い書物に登場する「燕然山の銘」―漢が匈奴に大勝したあと〔班固の言葉が〕刻まれた碑文―だと確認された。 この碑文はローマ帝国にとっても重要である。燕然山の役が200年におよぶ漢と匈奴の一進一退の戦いに終止符を打ち、その結果、北匈奴は西に逃れ、これが中央アジア草原民族西進の連鎖反応を引き起こしたからにほかならない。 匈奴が西に向かったのはなぜか。2013年、米国の古気候学専門家エドワード・クックが気候変動との直接的関係を指摘している(15)。2世紀から3世紀、モンゴル高原と中央アジア草原は100年におよぶ深刻な干害を経験し、生きていけない遊牧民族は中国に南下するか、欧州に西進するかしかなかった。そして、漢との戦争でついぞ勝利を手にすることができなかった匈奴には西進以外の選択肢がなかった。匈奴は中央アジア草原の遊牧民族とともに農業文明の中心―ローマを目指し、最終的に西ローマ帝国を瓦解させることになる。 漢朝が匈奴の南下に抵抗し続けなかったら、東アジアと世界の歴史は書き換えられていただろう。漢の武帝は即位から7年後(133年)、いつまでも続く匈奴の侵犯に我慢がならず、以降12年続く匈奴との戦争にふみきった。霍去病が遠征し、最後は河西地方〔今の甘粛省〕に諸郡が置かれる契機となった決戦のさなか、匈奴の渾邪王が4万の部衆を率いて投降した。そして、投降した彼らを武帝は辺境の地に安住させることにしたのである。悪事の限りをつくした匈奴を今は官費で養わなければならない、漢の民がその面倒をみなければならない、これは中国の根幹を傷つけることになる、家臣たちはそう諫めた(16)。武帝は熟慮の後、皇室で費用を負担して匈奴部衆の平穏な暮らしを保証することにした。 戦争で負けた者たちを奴隷にするどころか自腹を切ってまで扶養するのは何のためか、疑問をもつ人もいるだろう。答えはこうである。儒家「仁政」思想が支配的だった当時、漢朝が必要としたのは人心の帰順だったからである。匈奴部衆の帰順に嘘がなければ、それだけで十分彼らは中国の民であり、仁義と財貨をもって遇する必要があるということだ。 しかし、仁政の負担は非常に重かった。中原と草原が同時に天災にみまわれると大量の小農民が困窮し、土地と家屋を豪商に売らなければ生きていけないところにまで追い詰められた。その一方で、これに乗じて利益を手にした投機的商人や大地主は一貫して国家の利益に無関心だった。朝廷が動乱平定資金の援助を要求しても、あろうことか「勝算が見込めない」のを口実に断ることもあった(17)。 こういう状況に対して官も民も、農業と商業の矛盾を解決する方法を探し続けた。法家思想を前面に出す人々は「重農抑商」を提起した。しかし、商業は漢朝繁栄の礎だった。一方、儒家は農業税の減税を主張した。しかし、税収が減ったら中央はどこから災害対策費、戦費を調達するのか。 武帝の時代になってようやく、桑弘羊という商人がこの問題に有効な解決を与えることになった。 国家に尽くす儒家商人 商人出身の桑弘羊は13歳のときに宮廷に仕え、当時16歳だった劉徹〔武帝〕の伴読〔勉強のお供〕を務めた。20年後、商人がまたもや資金援助を拒否したとき、業を煮やした劉徹は桑弘羊の立案で全国の製塩業と鋳鉄業を全面的に政府管理下におく〔専売制〕命令を出した。紀元前120年のことである。塩と鉄は古代社会最大の消費物資であり、政府はこの最大の財源を独占したのである。 桑弘羊はほかにも「均輸法」と「平準法」をあみ出した。 各地方は余剰産品を朝廷に献上し、朝廷は官のネットワーク経由でこれを不足地域に配分するというのが均輸法である。このおかげで政府は農業税を増税しなくても巨大な財力を得ることができた。一方、平準法は同じく官のネットワークを通じて価格変動を解消するものである。ある商品の価格が高騰した場合、国家は市場に該当商品を廉価で放出し、逆に暴落した場合は買い入れる。こうすることで物価が安定するというものだ。 桑弘羊はさらに貨幣も統一し、分散していた鋳造権を朝廷に一元化した。まさにこうした一連のマクロコントロール政策と、中央財政が体制的に確立したおかげで、漢朝は天災による農業被害と匈奴の侵犯を克服する力を得ることができた。そればかりか、この経済力のおかげで漢朝は数々の業績を残すことができたのである。 桑弘羊は商人の気質をそなえていたが、同時に儒家の考え方もしっかり身につけていた。個人で蓄えた富を屯田〔辺境の兵士が耕す土地〕の開拓や水害対策に投じ、国家のために「天下を切り盛りした」。商人たるもの、いかなる規制にも縛られない「個人商業帝国」の建設を追求するべきなのか、それとも「独り其の身を善くする」にとどまらず「天下を兼く済う〔世の民の幸福のために尽くす〕」のか、商道の使命はいかに―この永遠のテーマを桑弘羊は後世の中国商人に残したのである。 西洋の商業観 桑弘羊と同時期のローマ帝国で、最大の豪商といえば「ローマ一の金持ち」クラッススである。クラッススはローマに消防隊がないのをいいことに、以下の方法で富を築いた。まず500人の私有奴隷で自前の消防隊をつくる。そして、火事がおこるとその家に向かい、家を安価で自分に売るよう要求する。家主が承諾すれば消火をはじめるが、拒否すればそのまま焼けるにまかせる。家主は仕方なく廉価で売らざるを得ないわけだが、そのあとクラッススは修築して当の「家主」を住まわせ、高額の家賃を搾り取る。このようにして彼は「火事場泥棒」よろしくローマ市内の大半の家屋を買い占めた。また、クラッススはローマ最大の奴隷斡旋業も営んでいた。彼の遺産はローマの国庫収入1年分に相当したという。 クラッススはパルティア遠征中に亡くなったが、彼が従軍したのは国家のためではなく自分のためだった。新たな属州を征服した者はその地の富を優先的に収奪する権利があるという暗黙のルールがローマにはあったからだ。クラッススのような商人兼政治家がもし中国にいればどうなるか。身代を築いたそのやり方は商業界全体から軽蔑されただろう。政治のリーダーになるなど論外である。しかし、ローマでは違う。その人物の財力が強力な軍隊を賄うのに十分であれば、あるいは大量の票と交換するのに十分であれば、それだけで政界トップの座に居座ることができたのである。 中国の商業精神は儒家農業文明から枝分かれした傍系である―これは近代以降にみられる考えだが事実ではない。商業精神はまぎれもなく儒家農業文明に内在する重要な構成要素だった。儒家思想を受動的に受け入れたのではなく、それに実質的な修正を加えたのである。 すでに戦国時代には、斉の宰相・管仲が市場による富の調整、貨幣による価格形成、利益システムによる社会的行為の誘発を提起し、行政権力の強制的な規制に反対していた。これは非常に近代的な考え方である。資本主義経済の成長発展はなくとも商工業文明の種は当時からすでに中国にあったということがわかる。 中国の商工業文明は生まれてすぐに儒家のモラルに、後には「家国責任〔国のために尽くすことを責務とする〕」にも縛られたが、これこそまさに二重の束縛であり、その結果、西洋タイプの企業家が中国では遅々として生まれなかったという人がいる。しかし、モラルと「家国責任」の問題に答えなければならないのはむしろ今日の西洋企業家のほうである。自己の利益を純粋に追い求めていけば自ずと社会共通の利益に到達するのか。国家の利益と個人の利益をどうやって明確に線引きするのか。国家主権から離れたところに自由経済は存立し得るのか。中国は2000年の昔からすでにこれらの問題を考え始めていたのである。 (15)エドワード・クックは気候システムに関するある仮説を提起、4世紀に中央アジアで干害が発生したのとほとんど同時にフン族(the Huns)がはじめて西に移動しローマ帝国に侵入したとした。Nicola Di Cosmo、Neil Pederson、 Edward R. Cook「Environmental Stress and Steppe Nomads:Rethinking the...