日本に対しても世界に対しても仏教が伝えることは仏教だけでない―中国人高僧が紹介

仏教の発祥地はインドだ。だが、ごく最近の事例を除けば、日本に伝わった仏教は中国、それも漢族に広まった仏教だった。いわゆる漢伝仏教だ。浙江省杭州の霊隠寺方丈(「方丈」は寺の責任者)であり、中国仏教協会副秘書長を務める光和法師はこのほど、中国メディアである中国新聞社の取材に応じて、漢伝仏教が日本などに伝わった状況や現在の海外布教を紹介した。以下は光和法師の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

「日本人僧侶が仏教を学ぶために渡海」と言えば、まず遣唐使を思い出すが、その後の宋代にも多くの日本人僧侶が中国に渡って仏教を学んだ。写真は浙江省杭州市にある「霊隠寺(れいいんじ)」。

■宋代にも多くの日本人僧侶が海を渡って仏教を学んだ

古代インドで誕生した仏教はは中国に伝わり、隋唐の時代(589-907年)には天台宗や華厳宗などさまざまな宗派が発生した。唐末になると禅宗が栄え、他の宗派は衰退した。その重要な原因は、禅宗が儒教や道教など、中国の古来からの重要な思想を吸収して中国化したからだ。

禅宗は、議論は避けて直感的な悟りを得ることを目指す。さらに、無念無想になることや、常に平常心を保つことを尊ぶ。これらは中国の伝統的な人生哲学と同じだ。

中国では王朝が何度も交代した。しかし支配者は基本的に仏教を奨励し続けた。人々の心の問題を解決し、社会の安定に役立つと考えたからだった。そして中国の仏教は日本や朝鮮にも深い影響を与え続けた。

多くの日本人僧侶などが中国に来て学んだ時代としては唐代がよく知られるが、その後の宋代にも国外から多くの僧侶が中国に来て仏法を学んだ。

浙江省宋代には寺院の公的な格付けが行われた。格式が最も高い寺は「五山十刹」と呼ばれた。「五山」のうち霊隠寺、径山寺、浄慈の3寺院が杭州にある。そして朝鮮や日本からの多くの留学僧が杭州で仏法を学んだ。なお日本でもその後、宋の制度を模して「五山十刹」が指定された。

もちろん、留学僧が学びの地として選んだのは杭州だけではなった。しかし日本人僧は朝鮮からの僧侶と比べて、杭州で学ぶことが多かった。日本人僧の円爾弁円や南浦紹明は、杭州にある径山寺で禅を学んだ。彼らは帰国後に臨済宗として禅を広めた。径山は日本で最も普及した禅宗である臨済宗の「道場の原点」ということになる。

径山では仏に供えるために茶が栽培されていた。日本人僧侶は径山の茶を持ち帰った。日本では後に茶道が発達したが、径山は日本の茶道の原点でもある。

南宋時代(1127-1279年)に中国に来た日本人学僧は、とにかく小まめに「ノート」を取り、名刹の配置から家具の配置まで細かく記録した。帰国後に、理想とする寺を建立するためだった。こうして、南宋の五山文化を凝縮した「五山十刹図」が完成した。日本ではその後、歴代の僧侶が「五山十刹図」を模写した。現在までに原本は失われてしまったが、日本の寺院には合わせて三十数種の「五山十刹図」が保管されている。

■現代において仏教を海外に広がる意義はどこにあるのか

仏教は世界にもっと広げる価値がある。仏教で重要なのは慈悲、寛容、感謝の精神だ。西洋では歴史上、宗教が大きな原因になった戦争が繰り返された。中国では、儒教と仏教の対立はあったが、信仰が原因になった大規模な殺りくは発生しなかった。これには仏教だけの特色ではなく、東洋文化の特色である寛容の精神が関係したと考える。

東洋と西洋では感謝の理念も違う。西洋でも親や先輩に感謝することはある。しかし東洋では感謝の対象が、個人を超越している。儒教もそうだが、感謝の念をもって天下に奉仕することが理想とされた。「先憂後楽」という言葉がある。「天下の憂(うれ)いに先(さき)んじて憂い、天下の楽(たのしみ)に後(おく)れて楽しむ」の文句を略したものだ。歴史を通じての、中国の知識階級の心意気を示す言葉だ。

東洋と西洋では慈悲の概念も異なる。西洋の慈悲はあくまでも、同じ宗教を信じる者に向けられたものだった。相手の信仰が異なれば、話は別になる。東洋の慈悲は、すべての者に向けられる。相手に対して恨みがあっても、その心は捨てるべきと考える。そしてどんな相手であっても、相手が苦悩から解き放されることを手助けすべきと考える。

だから仏教を海外に広める際には、東洋式の慈悲、寛容、感謝の理念を伝えねばならない。この3点が西側のいわゆる民主的自由に組み込まれれば、国際的な紛争を減らすことができるかもしれない。

■相手が受け入れやすいことから伝えることが肝要

現在のところ、漢伝仏教の国際的な影響力はそれほど大きくない。国際社会において本当の影響力を持つ僧侶も、極めて少ない。

しかし、われわれは4年前に、僧侶向けの外国語研修を始めた。杭州霊隠寺でも、多くの僧侶が英語や日本語で説法できるようになった。

中国仏教の「海外進出」では、仏教文化を伝えることが突破口になると考える。仏教の聖歌は「梵唄(ぼんばい)」と呼ばれる。2019年には中国仏教梵唄芸術団と米国中華仏教会がニューヨークのリンカーンセンターで「祈福」と題したコンサートを共催した。2度の公演だったが、定員2700人の会場に入るためのチケットは入手困難になった。来場者は中国系住人だけでなく、白人も多かった。

このコンサートが成功した一因は、米国人になじんでもらえる方法を工夫したことだった。司会を務めたのは白人の僧侶だった。雰囲気づくりが上手な僧侶で、聴衆と交流して、一緒に中国語を唱えたりもした。彼のおかげで、雰囲気がとても盛り上がった。

過去にも似たような試みはあったが、ステージの上から一方的に伝えるだけで、聴衆は襟を正して拝聴しているしかなかった。19年のコンサート後には聴衆に「とても素晴らしく、幸せな気分なった。感動した」と言ってもらえた。

霊隠寺では囲碁や茶道の国際交流も行っている。日本から仏教囲碁代表団がやってきて、試合を行ったこともある。霊隠寺はその後、囲碁をたしなむ僧侶を日本やシンガポール、タイなどに派遣するようになった。まずは文化を通して交流するわけだ。

茶についても、米国やカナダ、欧州、さらにはユネスコ本部で茶会を開催した。考えてみれば、世界の宗教の伝播において、文化芸術はよい「運び手」であり続けた。われわれも仏教を広めるためには、相手が喜ぶ文明的な方法を選ばねばならない。(翻訳:Record China)

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