「中国の経験」を「理論」に昇華する 中国社会科学院金融研究所長に聞く
北京12日発中国新聞社電は「『シュンペーターの問い』に答える いかにして『中国の経験』を『中国の理論』に昇華するか――中国社会科学院金融研究所張暁晶所長独占インタビュー」と題する次のような記事を配信した。
モラヴィア生まれでオーストリア・ハンガリー帝国の経済学者だったヨーゼフ・シュンペーター〈Joseph Alois Schumpeter〉はその著書「経済分析の歴史」の中で、「中国において、われわれは当時の農業・商業と財政の問題を処理するための高度に発展した公共行政制度があることに気付くだろう……しかし厳密な経済的課題についての理論的な著作は残されておらず、われわれが言うところの『科学』と呼べるような著作は存在していない」と述べている。実践は早熟だが理論は遅れているという現象を、中国社会科学院金融研究所の張暁晶所長はその新著「中国の経験と中国経済学」の中で「シュンペーターの問い」と名付けている。
自主的な経済学の知識体系の創設は、中国の経済発展の経験の自己総括と国際的な理論界における発言権の争奪にかかわるだけでなく、知識によって世界により大きく貢献するための時代の要請でもある。張所長はこのほど中国新聞社の「東西問」コーナーの独占インタビューに答えた際、次のように指摘した。西側の経済学の言説にとらわれていることや、理論として組み立てるのが比較的遅かったことなどの要因により、中国では目下、経済発展の実践は成功しているものの理論の発展が不足しているという問題に直面している。十分に自信を持ち、独自の発展の道筋に基づいて幅広く吸収し、「中国の経験」を「中国の理論」へと昇華させ、近代経済学に貢献し、中国の近代化に貢献するべきだ。
インタビューの要旨は以下の通り。
問:主流経済学の弊害と盲点は、中国の自主的な経済学の創設にとってどのような啓発と教訓を持つのか。
答:第一に、西側の主流経済学は近代経済学を完全に代表することができず、中国(経済のパターン)がこうした西側の主流経済学に合致しないから立ち遅れるとされるが(そうではない)。マルクス主義政治経済学のリードと主導、中国の伝統的な経済思想、西側の非主流の経済学といった栄養はいずれも中国経済学にとってなくてはならない知的な支援である。中国には過去70年余り、特に改革開放からの40年余りで得た成果と経験があり、一部の主流経済学の教条に対し完全に「ノー」と言うことができる。
第二に、中国の発展の経験はちょうど西側の主流経済学の「痛点」を突いている。中国は社会の長期的な安定の中での経済の急速な発展の推進を実現したが、西側の経済学の教条に従った経済体は絶えず危機に見舞われている。これは中国の経験とそれが内包する理論とロジックに代えがたい価値があることを示している。中国の漸進式の改革、改革・発展・安定の統一の強調は、いわゆる「ショック療法」や「ワシントン・コンセンサス」とは完全に別物である。中国は市場が資源配置の中で決定的な役割を果たし、政府の役割をより良く果たすことを強調しており、自由市場経済を盲目的に崇拜する西側の主流経済学とは根本的に異なっている。中国のマクロコントロールは、経済の異質性とアンバランス性に基づいており、産業政策を含む構造的政策を活用しているが、西側の「安定化政策」ではこれまでずっと構造的政策を市場の歪曲であると考えてきた。2008年の国際金融危機後、当時モルガンスタンレーのチーフエコノミストだったステファン・ローチは「中国のマクロコントロールを学ぶべきだ」と提起し、今では産業政策は西側の先進経済体の再工業化において「伝家の宝刀」になっている。
第三に、中国の発展の経験は今なお進化のさなかにある。中国の経済の実践はどこかの国の理論に迎合するためのものではないし、意図的に海外の理論と「張り合う」ためのものでもなく、中国の実際の問題を最終的に解決するためのものである。その中に一部の実践と革新は往々にして特定の発展段階の産物であって、こうしたやり方が「役に立つ」というのは歴史的な限界性があることを認識しなければならない。こうした特殊性を持つ経験と、真に国際社会が参照するに値する普遍性を持つ中国の発展の経験とをしっかりと区別しなければならない。例えば構造政策はその有效性がだいたい、差異性とアンバランスを前提としている。構造政策を過度に強調すれば、人為的に市場を分割してしまうだけでなく、政策に偏りや差別性をもたらし、全体の資源配置效率の向上にとってマイナスをもたらしてしまう。現在は統一された大市場の構築が強調されているため、構造政策の適用範囲に一層注意するべきだ。
問:ある国の経済学の地位とその経済的な実力にはどのような関係があるのか。
答:ある国の経済学の地位は往々にしてその経済的な実力と関連している。例えば主流の経済理論とこうした理論が依拠する経験の多くは先進経済体に由来しており、さらに言ってしまえば主に米国に由来している。また西側の主要な学術誌も「主流の問題」、すなわち先進経済体の問題にしか関心を抱いておらず、後発国の問題に対する関心は往々にして主流の問題のおまけ程度である。例えば過渡期経済学は主流とはなりがたいが、これは先進経済体にとって過渡期の知識が必要ないからであり、時折これに関心が寄せられるのは、「過渡期」が先進経済体に影響を与える場合である。
歴史上、中国の儒家思想が欧州の重農学派に影響を与えたことがあるが、これもまた当時の中国が世界で最も強盛な国家だったからである。こんにち、国際社会で中国問題の研究がますます増えているのも、根本的には、世界の経済成長に対する寄与率が3分の1を超え、貧困扶助による世界の貧困削減事業に対する寄与率が70%を超えるなど、中国の実力が絶えず高まっているからだ。中国経済の国際的な影響力が拡大するのに伴い、その経済問題も徐々に世界が関心を寄せる問題になっている。例えば、中国の貧困脱却の経験は必ずや開発経済学を書き換えるだろうし、インターネットやフィンテックの方面での発展も、新たなテクノロジー革命の条件下において後発国が先行する国を追い抜いた事例として、経済学の教科書に記されるものだ。
問:経済学の理論は現実の経済発展と密接不可分だが、奇跡の成長を成し遂げた中国はなぜ今なお主流の経済理論に肩を並べていないのか。
答:第一に、ある国の経済の成果と学術的な成果、特に経済的な貢献と理論的な貢献は、完全に対等なものではない。経済的な実力は強いが、経済学における発言権は相対的に弱いという状況は確かにあり、例えばかつての日本がそうだった。
第二に、中国の理論は依然として準備不足だ。中国の経済発展はスタートの段階で実用性が強調され、理論の構築にそれほどの精力を傾けなかった。当時の学界はソ連をモデルとした政治経済学に則っており、市場経済に対する認識が不足していた。現代経済学において、当時の中国はまだ小学生であり、学理的な総括をする能力がなかった。社会の現実的な発展の要請に合わせて伝統的な政治経済学を「改造」するためにはある程度のプロセスを経る必要があるため、理論を磨き上げることが偉大な社会的実践に遅れることとなったのだ。
第三に、中国の経験を総括するには依然として自信が足りていない。いわゆる主流とは西側の主流のことであり、西側の言説の影響から脱却するのは容易なことではない。そのため、われわれは中国の経験を総括し、中国のストーリーを語るときに、自信に欠けている。西側の主流の言説にとらわれ、われわれは〈自らの〉革新性と先鋭性を自らそいでしまうことがある。
最後に、中国の多くのやり方は過去に例がないものである。例えば社会主義市場経済は、古典的なマルクス主義の学者が想定していなかったものであり、ソ連の社会主義の実践においても試みられたことがなく、西側の経済学の理論でも説明できない。中国はこうした最初の試みを自ら理論に昇華させ、自主的な経済学の知識体系を構築しなければならない。もちろん、これは長期的で困難な任務である。
問:中国の自主的な経済学知識体系の構築の方向性はどういったものか。またそれにおいて従うべき基本的な方法論はどのようなものか。
答:中国の自主的な経済学知識体系の構築において、カギとなるのは「自主」である。
第一に、「西側中心論」からの脱却が「自主」を実現するための前提となる。「何かといえば古代ギリシャを引き合いに出す」というのは経済学の自主権を他者に明け渡すのに等しい。
第二に、中国の経験の独自の価値は「自主」の自信にある。もしこれまで中国の経験の総括において自信が足りなかったのはそれが主流と不一致であることを恐れるが故だったのだとしたら、今となってはこうした「不一致」こそが中国の経験の価値であると言える。科学の発展モデルから言えば、新しい独自の経験や既存のモデルでは説明できない現象の存在こそ、理論を進歩させる可能性を持つ真のエネルギーと源泉である。
第三に、開放的な体系は「自主」の命脈である。自主とは閉鎖を意味せず、中国の経済学は現代の経済学の発展の潮流から遊離してはならない。中国の発展は独立自主のものだが、世界と切り離されたものではなく、学術の発展も世界の潮流からかけ離れてはならない。中国の経済学の開放的な体系とは、マルクス主義政治経済学、特に習近平経済思想を指導として、中国の発展の経験、革命の伝統、歴史的な遺伝子をベースにするのと同時に、西側の経済学のあらゆる重要でポジティブな成果を取り入れ、中国の自主的な経済学知識体系の構築を加速させ、現代の経済学に新たに貢献することを意味している。
問:あなたは著書の「中国の経験と中国経済学」の中で、中国の歴史的な遺伝子を振り返り、中国の近代化の問題について検討しており、これは中国の経済学の理論的な模索のコンテクストを、古い文明を持つ国が工業文明に出会い、近代化の道を模索する歴史的なプロセスへと大きく広げるものだ。あなたは中国の経済学理論がこうしたプロセスの中でどのような位置を占め、どういった役割を果たすと考えているか。
答:中国が最初に経済学を輸入したのはなぜだったのかと言えば、厳復が「国富論」を翻訳したころから中国人が経済学を輸入するのは近代化を推進するためだった。
この100年余りは中国が近代化を模索した歩みであり、中国の経済学が近代化に向かうプロセスでもあった。中国の経済学の理論の構築は、「シュンペーターの問い」に答えるだけでなく、それ以上に時代の問い、人民の問い、世界の問いに答えることであり、そのテーマとなるのは中国式の近代化である。
中国式の近代化には各国の近代化と共通する特徴もあるが、それ以上に中国の独自性がある。歴史を見渡せば、中国式の近代化が数百年にわたる人類の近代化のプロセスにおける偉大なこころみであり、その発展の理念、発展の道筋、文明の新たな形態は世界に貢献している。これらは経済学が完全にカバーできるものではないが、経済の近代化は近代化の核心ならびに基礎であり、中国式の近代化について理論的な答えを出し、導きを提供することは、中国のエコノミストにとって道義上果たすべき責任であり、わたしが著書の中で述べたように、中国経済学の「歴史的使命」でもある。