Category: 生の声・コラム

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<日中100人 生の声>コロナ禍が教えてくれたもの―瀬野清水 日中協会理事長

コロナ禍での開催を巡り日本の世論を大きく分けた2020東京オリンピックは予定通り開催された。東京では緊急事態宣言下という異例ずくめの幕開けになったが、開会式には世界205カ国・地域、団体から1万1000人が参加した。史上最多となる33競技339種目にゴールドメダリストが誕生することになる。大多数の会場は無観客競技となったが、それでも開会式の視聴率が56.4%と1964年の東京大会に次ぐ高さを記録したという。大手メディアにはオリンピック開催に強く反対したところもあったようだが、いざ始まってみると興奮と感動が日本列島を覆うようになった。お祭り騒ぎの気のゆるみとデルタ株という変異ウイルスの出現からか、コロナの感染者数も国内で1日1万人を超える最多記録を更新した。2021年7月末現在、世界ではコロナの感染者が2億人を超え、400万人以上が死亡している中でのオリンピック開催だった。 この感染の広がりは14世紀のヨーロッパを襲ったペストの流行やちょうど100年前のスペイン風邪のパンデミックを想起させる。ペストの流行はその後、教会の権威を失墜させ、人間の存在こそが最大の価値と考えるルネサンス運動がイタリアを中心に沸き起こった。スペイン風邪もその収束とともに、人々は個人の生命と自由を守るには国家の安全こそ最重要と考えるようになり、多くの国は軍事力と経済力の強化に取り組むようになった。そして軍事力競争の結果、人類は地球を何百回も破壊し尽くせるほどの核兵器を保有するに至り、恐怖の均衡の上に平和が築かれる世界が出現した。経済力の競争は、世界の上位26人が下位38億人分の富を保有し、富裕層があと0.5%でも多くの税金を払えば貧困問題は解決するとまでいわれるほどの欲望の拡大と富の偏在をもたらしている。武漢応援ブースに掲げられた幕 21世紀に入り、通信技術や人の移動手段が長足の進歩を遂げた結果、新型コロナウイルス感染症の蔓延は、人々に否応なく人類は運命共同体の中で生きているという事実を教えてくれた。仮に一国でゼロコロナを実現させたとしても、周辺の国々にコロナが蔓延していては、到底安心安全とは言えないからだ。人類が運命共同体の中で生きているとして、その構成員は何をなすべきであろうか。私には、新たな時代には新たな形態の競争が始まるべきことを今回のコロナ禍が教えてくれているように思われてならない。新たな競争とは、経済力と軍事力ではなく、欲望をコントロールし自他ともの幸福を築く競争であり、利己ではなく、利他の競争であり、悪意と敵意ではなく、善意と人道の競争である。 今回のコロナ禍は、中国の武漢を中心に急激な感染が広がり、マスクや防護服が不足し始めたと聞きつけた日本人が「武漢頑張れ!」の声援とともにマスクを贈ったり募金を始めたりした。逆に、中国が落ち着きを見せ、日本にマスクが足りなくなると、中国から大量のマスクが贈られて来るようになった。武漢 中国頑張れ」と書かれた募金箱 私は2020年の2月、池袋西口公園の野外劇場グローバルリングにて、多文化共生社会の理解を深めるために太陰暦の最初の満月を共に祝う趣旨で開催された「満月祭」に行った。そこで赤いチャイナドレスの少女が募金活動をしている様子を見かけた。私はてっきり中国の人だろうと思いながら声を掛けると、なんとその子は日本の中学生だった。中国に留学経験のある日本人の母親の後ろ姿を見ながら育った少女は、母親が作ったチャイナドレスを身にまとい、募金をしてくれた人に深々と頭を下げていたのだ。肌寒い北風の中を朝から日が暮れるまで、誰にいわれた訳でもなく、ただ中国のために自分にできる何かをしたいとの思いだけで、道行く人に90度のお辞儀をしている姿は感動的でさえあった。人道の競争というのはこういうことではないだろうか。 日中両国の友好団体がお互いに救済物資を寄贈 他人の痛みを対岸の火事と見て同情するのはたやすいが、今、目の前で起きていることを自分ごととして行動を起こすには、急にハードルが高くなる。大きな勇気を必要とするが故に、それを見る人にも共感と感動を与えるのであろう。 オリンピック選手の活躍に、それまで開催に反対していた人までが感動の渦に巻き込まれているのに似ている。かつて映画俳優の高倉健さんが山田洋次監督に「芸術というものは、どういったものと思われますか」と質問したエピソードが残っている。山田監督は「それに接した人が、自分も自分の世界で頑張らなきゃいけないと、励まされるようなもの」と答えている(『高倉健インタヴューズ』野地秩嘉著、小学館、2016年)。説得でも強制でもない。「それに接した人が、自分も自分の世界で頑張らなきゃいけないと、励まされるようなもの」は芸術・文化の世界に限るまい。オリンピックで活躍する選手の姿も、赤いチャイナドレスの少女も、スポーツや人道の世界には、それに接する人の魂を鼓舞し、感動と共鳴の連鎖反応を生み出す力があるのだと思う。 ポストコロナの時代は、米中両大国の間でも競争と協力が並行する時代といわれている。協力は素晴らしいが、競争は軍事力ではなく善意と人道の競争であってほしい。コロナ禍で肉親にさえも看取られる事なく死んでいった幾百万の感染者の死を無駄にしないためにも。 ※本記事は、『和華』第31号「日中100人 生の声」から転載したものです。また掲載内容は発刊当時のものとなります。 ■筆者プロフィール:瀬野清水(せのきよみ) (一社)日中協会理事長、成渝日本経済文化交流協会顧問。1949年、長崎県生まれ。元在重慶日本国総領事。1975年、外務省に入省。北京、上海、広州等、中国の大使館、総領事館で通算25年在勤。2012年、退職後、(独法)中小機構国際化支援アドバイザー、大阪電気通信大学客員教授、(一財)MarchingJ財団事務局長等を歴任。

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<日中100人 生の声>コロナ禍で変わりゆく環境 新たな日中交流への挑戦―井上正順 青年起業家

2020年1月18日、私用で訪れていた山東省済南市から日本に一時帰国した。スタートアップで立ち上げた会社の事業がようやく動き出すことになって、私は春節前の休暇を日本で過ごそうと考えていた。 日本に戻ってから日にちが経つごとに、新型コロナウイルス感染症のニュースを耳にする機会が増えていく。中国から一時帰国する前にも正体不明のウイルスがあるかもしれないという話を聞いていたが、まさかここまで大きな出来事になるとは、誰が想像しただろうか。 私は中国の大学に進学したことで、人生を大きく変革することができた。だからこそ、教育という手段で日本・中国に恩返しし、貢献したいと強く思い、学業では教育を専攻し、学外では日中民間交流を促進するため日本人留学生会の代表として、学内での日中交流会、北京日本大使館での日中友好成人式などのイベントを企画した。将来教育で事業を起こすため、いかに効率よく経験を積むかを熟考し、2015年に学部を終えた私は東京に戻り「北京語言大学東京校」の職員となった。日本全国の高校・日本語学校に足を運び、多くの学生、教職員たちに中国の魅力や中国語学習による将来のキャリア形成などを説いてきた。北京に留学する友人たちと企画した日中友好成人式 元々2年間働いてから中国政府奨学金を申請して大学院に戻ろうと決めていた私は、予定通り2017年から修士課程に進学し、よりレベルの高い研究とインターンシップという形で中国社会で実践を積んできた。そして2019年の修士修了間近のタイミングで中国人の友人と教育関係の会社を立ち上げることを決意し、新一線都市No.1の成都を訪れた。大学時代から6年以上の時間を過ごした北京から離れるかについて迷ったが、知り合いが誰もいない中で1から仕事を立ち上げる過程に挑戦したいという思いから決断をした。聞き取りづらい四川訛りの中国語、北京で食べるのとは比較にならない本場の四川料理の激辛、常に湿気が強い南国気候、慣れないことが多い中でも忙しく仕事をしたことを覚えている。 このように、自分で語るのもおこがましいが、学部時代に掲げた目標に向けて順調に歩んでくることができたと思っていた、その時までは…。 新型コロナウイルス感染症が蔓延し始め、中国への入国が出来なくなり、会社の状況も日に日に悪化、最終的には登記人だった中国の友人とも音信不通になり、事実上の倒産という最悪の状態。東京に戻ってきても何ができるか分からず、また外出自粛ムードで仕事もできない、そんな逆境の中でも私が信念を曲げずにやり続けてきたのは日中交流活動だった。 連日のように取り沙汰される新型コロナウイルスのニュースから、中国に対する国民感情が悪下していく姿は、2012年尖閣諸島国有化問題が起こった時のことを思い出させた。当時の私は北京で学生をしており、現地での時代の変革や中国人との対話を経験したことがきっかけとなり、日本と中国の友好に携わっていきたいと夢を描くようになった。それから9年の時が経ち、今新型コロナウイルスという未曾有の問題が立ちはだかる中、自分なら何ができるのかはもちろん、一番大変な時だからこそ、どうしたら中国との「草の根交流」を絶やさずに継続できるかを考えた私は、2020年4月11日に東京都日中友好協会青年委員会で初めて中国現地とのオンライン交流会を企画、そこから毎月1回以上のペースで言語や文化、旅行など多分野に渡るイベントを企画し、また日本各地で日中民間交流に寄与する多くの人材や中国駐日本国大使館や北京市人民対外友好協会などと交流を重ねることができた。 その結果、2021年4月から東京都日中友好協会青年委員会の委員長に就任することになり、日中草の根交流の最前線で活動することになった。 今でこそ当たり前になったオンラインイベントだが、当時は使い方が分からない人への対応、ネット速度、交流方法など、さまざまな問題を工夫しながらひとつひとつ解決していった。その中で特に工夫したのは交流方法だ。 イベントに参加し、交流するという点では大きな違いはないが、顔は見えていても同じ空間にいないので、相手の表情や動作がわかりづらく、円滑に交流するのが難しくてその場限りになりやすい。そんな中で、どうしたら交流の内容を深め、イベントの価値を高め、その場限りで終わらず次回の交流に繋げることが出来るかを熟考し、ワークショップ形式のイベントを企画することにした。約1カ月間、見ず知らずの日中青少年12名がグループを組み、オンライン上で日々発表の準備に取り組むことにより、直接会わずとも親交を深め、12名の日中青少年同士で友好を深めることができた。 このように、オンラインになって以降、試行錯誤の中でも問題意識や実現したい明確な目標を持って動くことにより、新しい発見や気づきを得ることができた。同じように、コロナ禍だから諦めるのではなく、今しかできないことを明確にしていくことが大事だと考える。例えば私は今まで中国に滞在していた時間が長かったが、この1年半は1度も中国に戻れていない。こんなことは初めての経験だが、だからこそ日本で多くの人と交流を持つことができたのだ。 まさしく人生は、環境の変化との戦いである。東京に戻ってから活動してきたこの経験が、将来中国に帰った際にどれだけ活かせるのか、自分が日本と中国の青少年交流促進にどれだけ寄与できるのか、常に自問自答しながら、これからも日々挑戦していこうと思う。 ※本記事は、『和華』第31号「日中100人 生の声」から転載したものです。また掲載内容は発刊当時のものとなります。 ■筆者プロフィール:井上正順(いのうえまさゆき) 東京都日中友好協会・青年委員会委員長、日中友好青年大使。1992年生まれ。北京語言大学漢語国際教育専攻学士・修士号取得。留学中は北京語言大学日本人留学生会代表、日本希望工程国際交流協会顧問等を歴任。2019年に中国でスタートアップを経験。2020年9月に学友と日本で起業。